午前中・半日で終わる運動会が話題になっている。そのことを巡る保護者の反応がおもしろい。弁当を食べる楽しみが失われるのが寂しいという反対論があるようだ。給食をなくしようという動きには、弁当を作るのが面倒くさいという意見があるのに……。もっとも、運動会半日化に反対する人と、毎日弁当を作るのが面倒という人はおなじ人ではなかろうから、世の中には様々な意見が共存し、収拾がつかないものだというのが妥当であろう。
学校、特に小学校は、「ブラック」職場化している。夜まで学校に居残って、業務に必須の仕事をすることなど普通のようである。全教科担当システムの空き時間もない状況下でで、成績処理を始め、児童指導の様々な仕事をこなすためには、8時間労働で足りるはずもない。運動会を半日にするという不徹底とも言える動きは、保護者対する配慮の表れとも言える。運動会を実行するために、どれほどの練習、訓練の時間を必要とするであろう。何を犠牲にしたのでああろう。そうまでして運動会には実施する意味や意義があるのだろうか。そもそも運動会は、神社や商店街、自治会等のお祭りではなく、教育活動の一環である。保護者が弁当を楽しむことを第一義にした行事ではない。これを思い切って止めてしまったら、教員は、どれほど助かり、教科指導等の通常業務遂行を助けることになるであろうか。学校のブラック職場化が進めば、そのうちに、優秀な人材が、教育現場に魅力を感じなくなり、教育の質が低下することになるに違いない。近頃は、非常勤講師の確保さえも難しく、授業ができない学校が出始めているというではないか。
修学旅行という、少なからぬ家庭の経済的負担になり、教員の負担を増す行事の必要性も検討すべきである。今時、集団で名所や娯楽施設(時に負の遺産である戦争の遺跡もあるようだが)を巡る意味とはなんであろう。家族の旅行など思いもよらない時代の遺物であろう。集団生活、集団行動が好きな文科省や教育委員会の意向に沿うものであろうが、彼らの好きな「合理性」「コスト・パフォーマンス」の観点からは、廃止したほうがよい。
コストの点からは、小規模校の廃止、統合化が進んでいる。ある程度の人数がいる方が児童の社会性が育つというもっともらしい理屈があるが、要は合理化であろう。管理職数の削減には貢献できる。私の専門分野である教育、教育学の優れた実践者、研究者のうち、少なからぬ数の人達は、小規模校出身者であったり、小規模校での教育実践者である。児童が少ないことには無視できないメリットもある。
小中一貫校化も似たようなものである。小学校一年生から中学校三年生まで、年齢差9歳の児童、生徒が同じ学びの場に集まることにどんな意味があろうか。一貫カリキュラムによる教育とは、従来の教育課程とどこがどのように違うのか、その質の向上が科学的に実証されているのか。アメリカでは、小中が8-4制であることが多いのに、戦後アメリカの教育政策の基に導入されたわが国の学校制度が、6-3制になったのはなぜか.アメリカの実験的政策であったというのなら、その根拠は何か.失敗したというのなら、納得できる説明が欲しい。組織は大きければ大きいほど好い、見栄えがするというなら時代錯誤である。管理職の数は相当に減少するはずだから、この辺に本音があるのかもしれない。教育の経費を削減する道を探る前に、国の諸政策や国会議員の数や給与、政治活動費等の見直し削減から始めるべきであろう.昨今の国会の混乱ぶりを目にすると、国会議員など本当に必要なのかどうか疑問に思えてならない。今日のニュースでは、国会議員数を増やす案があるという。いやはやなんと言ってよいか言葉を失う。
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