それ、問題です!

引退した大学教員(広島・森田信義)のつぶやきの記録

「私は悪くない」症候群

2018-05-27 00:25:09 | 教育

 (一つだけ実ったサクランボ・高砂)

 「私は悪くない」という人間がいる。私の周りにもたくさんいるから、社会全体で見れば至る所に居るということになるのだろう。
 このような態度をとる人間の問題性とは、自分を守るために他の人間を「悪い人間」に仕立てるということである。品格に欠けるというよりも犯罪的で、いやらしい。
 自分を悪くないというために一つ無理をする(嘘をつく)と、次々に嘘を重ねていかなくてはならなくなり、ついに切羽詰まることになるはずであるが、当の本人は、鉄面皮であることが多く、危険性などものともしない。幼児性の強い人間の性行なのであろうか。
 今回の日大アメフト問題など、「私は悪くない」と言い募る「悪いやつ」と、「すべては私の弱さが原因」「アメフトをする権利がない」と告白する正直者との対比が際立っている。一つの救いは、「悪くない」と主張する大学や監督、コーチの側の対応が拙劣で、本当は悪いことが透けて見えているということである。他大学が日大チームとの対戦を拒否し、関東学生連盟の規律委員会が、監督、コーチに永久追放に等しい処分をする方針であるのは、本当は誰が、どこが悪いのかを見抜いていたからであろう。
 昔、柳亭痴楽という落語家が、「空がこんなに青いのも、電信柱が高いのも、郵便ポストが赤いのもみんなわたしが悪いのさ」と言って笑わせたが、ここまで自虐的にならなくても、物事に不具合が生じたら、自分にも幾ばくかの責任があるのではないかと真摯に反省してみるのは、結果はともかくとして、悪いことではない。本能的に、とっさに他人に責任を押しつける人間の品の悪さからは距離を取ることができよう。自分に責任の有無を問われるのは、無関係のことがらが問題になっている状況における場合ではなかろう。自分がいささかでも関係していることがらについてであれば、万一、「知らなかった 」という場合でさえ、その無関心や迂闊さには責任があるかもしれない。反省的思考の末に、自らの過ちを認めることが、その後の展開において自らを救うことになる(少なくとも悪化への道を進まないで済む)ということに気づくべきである。組織という存在、権力というものは、「自分は悪くない」という姿勢を取りがちであることも理解しておきたい。


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