大阪(府・市)のトップには、どうして、教育をいじくり回して平気な人間が、次から次に現れるのだろうか。(静岡にも、こういう事例があったことを思い出した。
かつて、文科省の学力テストの結果が劣悪であるとして、成績の悪い学校に対する予算を削減するという意味不明の方針を打ち出して、認識の誤りを露呈したことがある。
今回は、学力テストの成績を、教員の給与に反映させようというのである。
前者について言えば、学力テストの成績が悪いことを、すべて学校、教員の責任としてよいのかという問題がある。経済的に恵まれない地域社会では、児童・生徒の学習環境も十分でないことが多い。その責任を学校に押しつけるだけでなく、予算面で不利な扱いをするということは、問題の正確な把握に失敗しているだけでなく、事態をさらに悪化させることになる。学力不振の地域、学校には、その原因を冷静に判断し、場合によっては、教員の配置、増加、予算面での手厚い配慮をするのが正しい対応である。
今回の問題では、学力というものの複雑さを、営業成績のそれと同一視するかのような安直な姿勢を指摘しなくてはならない。教員は、児童、生徒の学力育成を最重要任務とするのは当然であるが、児童、生徒の学力のありようが、すべて、担任の手柄ないし責任と言えるかどうかは判断が難しい。児童の学力の育成、実態は、一人の教員の指導を正確に反映しているかどうか分からない。多くの児童、生徒が、学習塾に通ったり、家庭教師の指導を受けているかもしれない。教育に対する保護者の意識・認識のレベルも多様であろうし、学級編成の偏りさえも反映しているかもしれないのである。無論、学校、教員の介入できないような教育的でない環境下にある児童がいるかもしれない。
成果主義は、教育の世界にはなじまない。大阪では、民間出身の校長を多数採用し、多くの場合、成功とは言えない結果を残した.教育の成果は、顧客獲得数、販売実績のようにグラフ化できるようなものではない。ブラック職場化している学校でもがいている教員に、安易に学力テストの数字を、成果の指数として評価に適用するのはあまりに、無知であり乱暴である。教育学による訓練を受けていない者は、安易に教育の本質的な問題に口を挟むべきではない
確かに、教育の現場には、問題を抱える人物も存在する。社会には、一定の割合で存在する人物であり、特に教育の現場のみの問題ではない。こういう存在は、別の観点と尺度で評価すればよい
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