(古寺の山門)
世の中には、顔を背けたくなるような無神経で高慢、傲岸な人間が少なからず存在する。いろいろな人間がいること自体は、それはそれとして認めざるを得ないが、他者を毀損するような存在であり、行為者である場合には追及し、処罰の対象にせざるを得ないであろう。
このところ問題になっている日大アメフト部の監督、コーチの人となり、さらには日大という組織の本質は、多くの人の見るように、醜悪そのものである。直接の加害者とも言うべき監督、コーチと、自ら日本記者クラブで会見を開いた部員の発言内容を比較してみて、監督、コーチ側の言い分を受け入れる人間が、日大関係者以外には、存在しないであろうことは、いかに鈍感な人間の多い社会にあっても明らかである。録音が流行しているが、音源記録がなくても、想起し、発言する言葉があり、それを分析、比較すれば、どちらが真実であるのかは自ずと判明する。最近は、録音があってさえ、「記憶にない」などと記憶の有無に責任を転嫁し、「呆け状態」であるという恥をものともせず逃げ回る人間もいないではないが、私たちは、録音のあるなしに拘わらず、発言の真実性をとらえる訓練をしておく必要がある。そのためには、論理的思考力が必要である。
日大側の言い分の胡散臭さは、言葉と事実との乖離にある。「乖離」という言葉は、この度の問題回避に向けて日大が飛びついたものであるが、同じ言葉をお返ししておくのがよい。
「そういうつもりでいったのではない」「誤解している」「覚えていない」「見ていなかった」等は、「すべて私の責任」という監督の言葉に対応するものでなく、言い訳の根拠としても拙劣であり、卑怯である。
部員の会見では、周りにいた部員も耳にしたコーチの言葉もあり、部員の発言の信憑性を支えている。会見をした学生以外の部員の反応も、報道機関により伝えられている。かれら部員たちは、相当の覚悟の上の発言であったろう。そのことが言葉の重みと真実性を支えている。
今回の問題発生時の報道に使われた監督の映像を見て、てっきりレスリング協会の幹部の報道の続編かと思った。それほど人物の全体的印象が酷似していたのである。そう言えば、運動部の指導者像には、どこか似た印象がある。甲子園で観客の見ているところで部員を殴打した監督が問題になったこともある。どうしてこんな人物像ができあがるのであろうか。
監督、コーチの部員の関係は、容赦のない上意下達の権力構造下にある。よく似ているのは日本陸軍の二等兵と古兵、反社会的勢力の組織構造である。こういう人間関係にあっては、当初は疑問に思っていた不合理な言動も、いつか当然のことに転換する。その問題にいち早く気づく人間が、名監督、温情のある指導者として評価されるのである。「勝つことが目的ではない」などの言葉が指導者によって発せられるとき、当たり前なのにあ感動するのは、私たち自身が古い上下関係に馴らされてきているからであろう。
韓国の財閥で、航空会社の役員をしている母・子3人が反社会的言動で逮捕されたのは、つい先日のことであるが、無法な言動を容認され続けてきた結果、ついに当たり前になってしまったという経緯を読み取ることができる。「いじめ」も、その構造は同じである。国会に問題になっている低次元のことどもも同じである。無法な行為が集団、社会の中で横行するようになるには、それなりの理由がある。その理由の一端に参加することのないように、私たち自身が用心しなくてはならない。
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