サッカー・ワールドカップ・ロシア大会も、終了してみれば静かなものだが、コロンビア戦の直後は、渋谷交差点は、無政府状態で、見ていて背筋が寒くなるようであった。騒ぎが収まった後の交差点には、バッグ、靴等の忘れ物が散乱し、忘れ物を探す人達が交番に押しかけて、大変な混乱を来したこともテレビで放映していた。2年後のオリンピックについて、マラソンコースが決まり、入場券の価格や、聖火コースが決まる、マスコットが発表されるなど、一気に加熱し始めているのが不気味である。サッカー・ワールドカップで日本が好成績を収めることや、東京オリンピックが成功裏に終わることを期待するという点では、日本人として、私も人後に落ちない。が、しかし、狂乱状態に陥ることと、応援し、期待することと同義ではない。
ロシア大会の中継放送の視聴率は50%近くなり、これは驚くべき数字のようであるが、翌日の新聞に、老婦人の投書があった。
「視聴者のうちの半数近くが視聴するというのはすごいことだが、半分は見ていないと いうことでもある。」という趣旨であった。
言われてみればその通りであり、大狂乱状態をこういう冷静な態度で受け止めることも必要であろう。
かく言う私も、贔屓の野球チームを我を忘れて応援し、負けた時には冷静さを欠く言動に走り、後で大いに反省することが少なくない。皆で大騒ぎして、気持ちを一つにすることは言うまでもなく楽しいことではある。が、それはたいていの場合、「情緒」の世界のうちのことである。
スポーツ、音楽、ダンス等には、多くの人間をトランス状態にする力がある。それを助長するのが、テレビ、新聞等のメディアである。民衆が集合して同じ動きをすることは、政治や宗教に利用されると看過できない結果を生み出す。かつての大戦や数々の戦争も、民衆は単なる被害者であったとのみは言えない面がある。被害者であると同時に、被害を生み出す側にもいたことを自覚しないと、また、同じようなことが生じるのではなかろうか。
私たちは、いつの場合でも、「私」を見失ってしまってはならない.見失ってしまったあげくに生じた結果について、責任転嫁をすることなど、ますますあってはならない。
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