(広島城の堀とビル)
教育の世界には客観的な「評価」の難しいものがある。「学力」のうちでも、「興味・、意欲、関心・態度」等は数値による評価は不可能であるし、記述式にしたところで、評価者の主観や偏向という問題を排除できるものでない以上、評価に対する信頼性は疑わしい。近年話題の「道徳」に至っては、更に困難である。教育である以上、教科という区分内で指導したことがどれほど定着し、効果があったのかを確認する必要があるが、その方法に適切なものがない以上、評価はあきらめるしかないように思う。つまり、道徳の教科化など土台無茶な行為なのである。所詮は、道徳的ならざる指導者によって、これまた多くの問題を持つに違いない未完成な児童という人間を評価するのである。無理なことへの無茶な挑戦というしかない。道徳は、学校生活全般における教師、児童、生徒、保護者、社会等による「願い」「希望」「祈り」のようなものであるに違いない。 野球の世界では、「リクエスト」(MLBではチャレンジというらしい)なる審判の判断への異議申し立てができるようになっている。いわゆるビデオ判定である。時に審判の判定が覆ることがあって、客観性が増した。ダブルプレー時の二塁手の脚は、明らかに投球時にベースを離れているが、タイミングを優先して問題にならない(リクエストしない)ところが、人間の行為としては面白い。
ビデオ判定に信頼性があるのなら、ストライク、ボールの主審判定をどうにかならないかとイライラしつつ、無理らしいと諦めていたのであるが、今日のテレビ中継では、ストライク・ゾーンを占める白い「枠」(フレーム)が表示されているではないか。私の夢想していたことの実現である。「この主審は、敵チームの回し者ではなかろうか?」と憤りながら贔屓チームの負け試合を観戦することがなくなるであろうから、判定は「AI」に任せよう。ボールの回転数まで測定できる時代だから、ストライク・ゾーン内か外かを電子的に判定することなど、さして難しくなかったのかもしれない。
が、人間の思想、思考、行為のすべてにゾーンを決めることはお断りしたい。人間の場合は、主審を自分のうちに育成するようであって欲しい
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