(わが家の庭のつくばい)
テレビで投稿俳句の評価、添削をしている。このところ俳句は大ブームである。主人が内輪で楽しんでいる分には勝手にしてもらっていいが、あたかも法規による取締官、裁判感のごとき振る舞いを目にし、耳にするに付けて不快感がますばかりである。あ
今日も録画の再生音が食事中の私に聞こえてくる。句会をはしごしている家内による録画である。
老齢の、いかにも「俳人」風の講師が講評している。
その作品は、
「囀(さえずり)や 今日一日が 軽くなり」
だったと記憶している。官僚同様に、このところ記憶力が減衰しているので下の句の確かさに自信がないが、ここで問題にするのは、中の句であるからご容赦願いたい。
「今日一日などと言わなくても、今日と言えば一日を指す」のだそうである。
なんと人間の理解度の浅い講師かと驚く。
私は、長い間、国語教育の研究に携わり、児童、生徒、学生の表現の添削の経験があり、表現教育に関する著作もあるので、ひとこともの申す義務があると考えた。
苦しい(悲しいのか不快なのかいずれにしても重い負担の)時間を生き抜いて夕方か夜を迎えたのであろう。虚構かもしれないが、そのような世界を詠ったものである.作品としては、たいしたものとも思えないが、「今日一日」=「一日」の解釈には同意できない。苦しい一日は長く、重い時間の連続である。楽しい時間は矢のように過ぎるが、苦しい時間の進み方は、遅々とした足取りである。単に一日ではなく、今日という重い時間の続いた一日である「今日一日」だったのである。子どもたちの作文を読むには、まず書き手の切実な内面を掘り当てることから始める。そうでないと大人や第三者による押しつけになり、本音を表現しなくなる・できなくなるからである。
「季語」についても異論あり。しばしば日本人の共有財産である日本語を束縛する、冒涜行為になっている。この句の「囀(さえずり)」は春の季語だという。小鳥は一年中さえずる存在ではないか。季語は、同好の人々の内輪のことば「符丁」のようなもの。職人で通用する特別な用語である。一般の客には理解できないのが特徴であるが、次第に普及して、同好の人々が一般人化して、法律のようになってしまった。日本語の豊かな世界の首を絞めるようなことになっていないか。そのうち、その偏狭さが災いして、文化としては衰退の憂き目にあうのではないかと思っている。日本人の共有財産である母国語への偏狭な介入は、内輪だけの行為にとどめてもらいたい.少なくとも母国語の前では謙虚であって欲しい。
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