それ、問題です!

引退した大学教員(広島・森田信義)のつぶやきの記録

5W1H の再検討

2017-07-06 08:47:25 | 教育

 報道文等の読み書きに際して、5W1Hに着目することの必要性が説かれることが多い。「いつ」「どこで」「だれが」「なにを」「なぜ」「どのように」に留意して書け、また読めというのである。

 先日来、タレント(これは正しい英語なのだろうか)が、身内、家庭内のごたごたを、YOUTUBEなるSNS(こういう略語もあまりよくないが、それは、別に問題にしよう)で公開して話題を呼んでいる。
 
 世の中には、多様なコミュニケーション、表現手段があるので、思うところ、感じるあところがあれば、いつでも、どこでも、媒体に載せて送り出すことが可能である。
 しかし、ここで考えておきたいのは、一体、誰に向けて発信したものであるのかということである。不平不満をぶっつける気持ちは分かるが、なぜ、それを「皆さん」「世間」に向けて発信するのか、「それはあなたおよびあなたがた身近な関係者内の問題でしょう。公共の電波や公共性の高いメディアに乗せて発信すべきものですか?それにしても愚かしい、不愉快な内容ですね.」といわざるを得ないのである。

  いわゆる「5W1H」は、発信者の側から見た場合の重要事項なのであろう。これでは「コミュニケーション」という「相互関係」「双方向」の行為の一方に着目したに過ぎないのである。
 発信者の側の「5W1H」をモード1とするなら、受信者の側に着目したモード2の
「5W1H」が必要なのではないか。
 「誰に向けて」という観点からの「5W1H」の必要性である。「誰に向けて」-「いつ」「どこで」「だれが」「何を」「なぜ」「どのように」表現するのか を考慮しないと、発信された情報は宙に浮き、怪情報、迷惑情報にならざるを得ない。今も点けっぱなしのテレビから、タレントの独り言のビデオを放送している。これは誰に向けて発信したのだえあろうか。1タレントごときが発する独り言に、世間の皆様が耳を傾けてくれるといえるのであろうか。ワイドショウやバラエティ番組はおもしろおかしく伝えているが、このような情報を目玉として取り上げる程度の番組には問題がある。取捨選択、評価能力が問われる。ワイドショウ、バラエティ番組が馬鹿にされるゆえんである。
  SNS等で、独り言、個人的な心境、批評を綴ることそのものを否定するわけではない。が、本来、個人で解決すべきものを腹いせ風にぶちまけるような表現は避けようという良識が必要である。
  最近は、新聞の中身も、半分程度が広告、さらに異常なほどの分量の自社広告にあふれ、いったい誰のための新聞で、なぜ、私は、こんなものに購読料を支払わなければならないのか、解決不能の疑問を抱え込むのであるが、報道の代表格たる新聞にも独りよがりの姿勢が濃厚になっている。モード2の 「5W1H」に照らして見て欲しい。
  表現教育の内容としても、モード2は、極めて重要ではなかろうか。

 追加説明: わが国の作文教育では、(大正期以降)伝統的に自己表現系作文(例えば、日記、詩、生活文等)を中心に指導され、優れた作品を生み出してきたという伝統がある。近年、やや状況が変わってきたとは言え、やはり日本人が好きで、得意とするジャンルは、自己表現系の文章である。これは、コミュニケーション系作文(説明・解説、主張・意見などの文章)とは性格が異なる。両者がともにバランスよく指導されるのがよいことは言うまでもない。

 


登場人物考

2017-07-01 23:32:07 | 教育

 

 滅多に見なかったNHKの連続朝ドラマを、数回続けて見ている。このドラマは、人によっては仕事や学校に出かける前に目にする時間帯のようである。かつて見たものの中には、ずいぶん暗い世相を描いたり、意地の悪い人間が登場して、朝から不快な思いをすることもあったのであるが、今回のドラマ『ひよっこ』は、展開にメリハリを欠くきらいはあるあものの、爽やかな内容のもので、気分が悪くなるということはない。
 爽やかな感想を抱く原因を考えるに、どうやら登場人物に、一人として意地の悪い人間がいないことによるようだ。多少意地悪風の人物も、他愛がない。朝から、この世は「憂き世」だというような暗い気分にならなくて済む。
 ところが、二回、三回とみているうちに、なにやら物足りない気分になってきた。視聴者のわがままのようでもあるが、善人ばかりが描き出す世界にリアリティがない。つまり嘘くさいのである。
 小学校の国語教科書に採用されることの多かった新美南吉の作品に悪人が登場しないと言われてきた。が、彼の作品、たとえば『ごんぎつね』にリアリティがないとは言えない。その差は何であろうか。おそらく、登場人物が一面的な善人ではなく、心の内に、悪しき面との葛藤を抱えていたり、置かれている状況が複雑で、必ずしも明るくないというようなことが影響しているのであろう。
 小学校の3年生までは、作品が不条理な展開、結末を持つものは理解が難しいと言われる。不条理だけど、人間の世界には、こういうこともあるのだという理解は、小学校児童の発達段階の前半には無理ということである。上記の『ごんぎつね』が4年生の最終単元あたりに位置しているのも根拠のある措置といえよう。
 水戸黄門を見て、勧善懲悪の世界の分かりやすさに感動するというあり方は、3年生以前の段階と言えようが、成人も、こういう分かり方の気分のよさを抱え続けているのであろうか。原始的な感覚とでも言っておこう。
 ところで、一般的に、国語教科書の教材が暗いのは、登場人物の相互あるいは内部の葛藤関係を描くことが多いからであろう。善人、悪人という観点に絞れば、人間は、悪しき面と善き面の両方を抱え込んでいる存在である。
 水戸黄門のように、「○○屋、おぬしも悪よのう。」と言われるような単純な悪人は、稀であるということになろう。
  が、リアルな世界は、複雑で、明暗ないまぜになり、不条理なものも抱え込んでいる。それを理解し、耐え、克服することができるような人間に育てることが、教育の目標あるいは願いであろう。
  教育実習生の授業分析の席で、ある学生が、「この登場人物は、善い人ですか、それとも悪い人ですか?」と真剣な面持ちで質問して、皆をびっくりさせたが、私たちには案外、そのような素朴な認識の基盤が生き残り続けているのかもしれない。幼児の時に接する昔話、民話には、「善人」と「悪人」が、セットで登場に、いつも善人が勝利して、私たちを安心させてきたという長い歴史がある。