NHKが、「子どもの授業が激変!2018教育改革前線」と銘打った番組を放映している。またかとうんざりするが、めげずに、批評しておきたい。
このところの教育の流れを、「ゆとり」→「脱ゆとり・基礎基本」→「アクティブ・ラーニング」のように単純化してとらえているようだ。一見分かりやすいが、これは、単純化しすぎて、事実をまっとうにとらえていない。
授業の例として、『ごんぎつね』のごんの気持ちについて尋ね、児童に発言させている。いろいろな考えが出てきてすばらしいというのである。この意見の背後には、基礎基本を教える教育は、詰め込みで、児童の思考力の育成や意見の創造など行われていないという誤解である。
この事例については、『ごんぎつね』の最後の場面で、ごんの気持ちを想像させることの是非には疑問があるが、一般に、物語を読む過程や最後に、登場人物の心情を想像しないような授業があったであろうか。偏った事実を分析してコメントすること自体に意味がない。
過去において、思考力、 創造力、想像力を重視する動きはなかったのか。児童の主体的活動を尊重する動きはなかったのか。戦後間もない時期の経験主義理論に基づく教育実践は、それこそ児童中心の教育ではなかったか。つまりアクティブだったのである。それがなぜ否定されたのか。また児童の活動を重視する教育理論と実践もあった。なぜ廃れたのか。そういう歴史的事実を丹念、的確に把握しないで改革を掲げると、国の将来を誤ることになる。児童から様々な意見や考えを生み出すことの先に、あるいは基礎に、それらの意見や考えの妥当性、質を判定する能力が伴うものでなくてはならない。つまり、基礎・基本や知識は、児童の主体的学習の敵ではなく、両輪なのである。質を度外視した活動は、「這い回る経験主義」とか、悪しき「活動主義」として否定された歴史もある。「ゆとり教育」も、質を問わない、究極の児童中心の教育実践ではなかったのか。
児童・生徒の自発性と、活動の質の保障こそが、プロとしての教員の仕事であり、それができるということが、素人とは違う、免許保持者なのである。そのような資質に比して、情報機器が使えるかどうかなどは、些末なことである。
この番組のわずかな救いは、ゲストの米国人タレント・パックンという人物の意見が妥当なものであったことである。
そもそも、なぜ日本国の教育改革の旗印が「アクティブ・ラーニング」なる英語なのか。グローバルな視点にたっていることになるのか。また、この場合も、グローバルなる概念や思想は、人類にとって正しい方向を志向する考えであるのかどうか。
教育に関しては、だれもが経験者であり、したがって評論家にもなりうる。しかし、であればこそ種類も質も多種多様で、素人の意見が通用することもある。
まもなく学習指導要領が改訂され、文科省、都道府県教育委員会から学校現場に、分かりにくい教育が求められ、教員と児童・生徒が混乱しかねない事態を招来するのではなかろうかと危惧している。