ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート

「神話探偵団~スサノオ・大国主を捜そう!」を、「ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート」に変更します。雛元昌弘

神話探偵団129 「古代出雲大社」は外階段か内階段(廻り階段・スロープ)か?

2020-02-08 17:22:26 | スサノオ・大国主建国論

 この小論は2019年4月に書いて関係者に配ったレジュメ「48mの『古代出雲大社』は廻り階段・スロープでは?」をもとに、『スサノオ・大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』と『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』からの引用を加え、修正したものです。雛元昌弘

1.古代出雲大社について
出雲大社は、記紀神話では大国主命の国譲りに際して造られた大国主命の「住所(すみか)」「天の御巣」「天の御舎」「天日隅宮(筆者説:天霊住宮)」であるとともに、「神事を治める」「幽(かくれたる)事治める」神殿とされ、年に1度、十月十日の神在月(他の国では神無月)に八百万神が集まり、大国主で妻問を行ってもうけた180人の御子やその一族の縁結びを行った施設とされています。

出雲大社本殿




 それは、わが国の伝統的な住宅の田の字型の形式から裏付けられます。土間から見ると、左手奥が床の間や仏壇のある上座(客間)で、右手奥が建物の主が住む場所(納戸)になるのですが、出雲大社もこの同じ形式となっています。客間の位置に海人(あま)族の始祖神の天津神5神を祀り、納戸の位置に大国主命を祀っていることからみて、記紀が描くとおりに大国主命の「住所」「天の御巣」「天の御舎」であるとともに、海人族の始祖神を祀る神殿であることがその平面図がら裏付けられます。

出雲大社の本殿平面図(出雲大社・御朱印HPより)




2.「48m」か「96m」か?
 現在、高さ24.2mで最大の神社建築ですが、社伝では、中古には16丈(約48m)、上古においては32丈(約96m)の高さがあったとされています。
 上古96mは誇張ともみられていますが、次の点からみて真実の伝承である可能性があります。
 ① 8世紀の元興寺東塔(焼失)が72m(57m)、東大寺東塔・西塔(焼失)が70〜100m、室町時代の金閣寺・北山大塔が相輪を除いて80mほどあったとされていますから、出雲大社も96mであった可能性はあります。
 ② 出雲大社は「心御柱(しんのみはしら)」を中心にしていますが、後の仏塔も「心柱」を中心に四隅に柱(通し柱ではない)を配置した正方形の平面であり、海人族の出雲大社の心御柱構造を引き継いたものと考えます。
古事記によれば海人族の故地である伊伎島(壱岐)の古名は天比登都柱(天一柱)と言い、揖屋の地でイヤナギ(通説はイザナギ)・イヤナミ(同イザナギ)は「天之御柱」を廻って逢い、セックスして国土や神々を産んだとしており、柱(一柱、御柱、心御柱)は祖先霊を受ける重要な神籬(霊(ひ)漏る木)であり、仏塔の「心柱」はその伝統を受け継いだものと考えられます。
 ③ 縄文時代の高床式建物からみて、それを高層化すれば自ずと出雲大社になります。中国の仏塔もまた楼閣形で最上階まで登れるものが多いとされていることからみて、日本の仏塔が中国式仏塔を真似たのなら楼閣型にしたはずですが、そうなってはいません。日本の仏塔は心柱を中心にて3層・5層・7層の小屋根の垂木や肘木で取り囲んでおり、中に人が通ることのできない心柱型の塔になっており、これは天神宗教の出雲大社の形式を受け継いだ独特の様式とみられます。
 ④ 江戸城、姫路城の木造部分が約30mであったことからみて、軽い板葺きの簡単な構造であればさらに高層の建築物は可能です。
 ⑤ 高知県長岡郡大豊町のスギが68m、山形県寒河江市の光明寺のケヤキが60mという現在最高の樹高からみて、3本の60mの柱に1本の60mの柱を継ぎ足せば、96mの高層建築物をつくることは可能です。
 以上、96m説が成立する可能性は十分にありが、構造計算を行えば確認可能です。それができていない現在では、以下、48m説として話を進めます。

3.伊勢神宮、東大寺大仏殿、京都御所大極殿を超える大きさ
 出雲大社本殿の出土した注列の正面約13m、側面約12m四方であり、伊勢神宮社殿が正面11m、側面5m、高さ(比率からのおおよその計算値)約11mと較べてもはるかに大きな神社建築であり、宗教上の権威の高さを示しています。
 平安時代、10世紀末の『口遊』(源為憲)は、「雲太、和二、京三」と記し、聖武天皇が建立した十五丈(45メートル)の東大寺大仏殿、京都御所の大極殿をしのいで、48mの出雲大社が日本で最高の高さであったことを伝えています。

「雲太、和二、京三」の高さの比較図




 この巨大な本殿は、社家に伝わる『金輪造営図』に残され、図面に画かれた3本の柱を鉄の輪で束ねた巨大な柱が2000年に出雲大社の現在の本殿の前から見つかり、伝承と資料が物証で裏付けられました。
 この出雲大社本殿の特徴は、2つあります。1つは、極端な高床式の建物であるということであり、もう1つは、部屋の中央に心柱のある、田の字型に7本の柱を配置し、切妻型の屋根をもった様式であるということです。

『金輪造営図』(寺社建築と文化財の探訪<TIAS>HPより)




復元された鉄の輪で束ねた3本組の柱




 高いことはより天に近づくことであり、大国主による「地神信仰・海神信仰から天神信仰」への宗教改革のシンボルとなる宗教施設であり、百余国の王の権威を示すシンボル施設でした。また、新羅との米鉄交易や対馬・筑紫、越方面などから八百八十の神々が集まる時の目印、ランドマークとなる実用性もあったと考えられます。海から見ると陸地は平板に見え、上陸地点を見逃す心配がありますが、そびえ立つ出雲大社は灯台に匹敵する目印となったと考えられます。
 木造部分で見ると江戸城(寛永度)が約45m(天守台を含めると58m)、姫路城が約32m(同約46m)、法隆寺五重塔が32m、大館樹海ドーム52m、出雲ドーム49mなどからみても、紀元2世紀ころと考えられる出雲大社48mの高さが群を抜いていることがわかります。

4.古代出雲大社の復元図・模型は外部直階段
 写真のように、古代出雲大社の復元図はいずれも正面、妻入りの外部直階段で想定されています。私も授業を受けたことのある福山敏男京大教授の復元図が元となっていると思われます。

福山敏男京大教授による復元図
(上田正昭編『古代を考える 出雲』川添登「9 出雲大社と古代建築」より)




出雲大社復元図(復元:大林組、監修:福山敏男、協力:馬庭稔(建築家))




島根県立古代出雲歴史博物館に展示された出雲大社復元模型




 これらの直階段の復元図・模型は、鎌倉時代の絵図に現在と同じような直階段で描かれているところからの想定されたと考えられます。

鎌倉時代1248年の出雲大社并神郷図(寺社建築と文化財の探訪<TIAS>HPより)




5.外部直段、梁なし建築への疑問
 しかしながら、この直階段の想定には、大きな疑問があります。
 第1は、冬の季節風や台風、地震を考えると、構造的に弱いことです。特に、冬の北西の季節風を受けると、長い直階段と神殿は一体的に風を受けて風圧で倒れる危険性が高いと考えられます。
 第2は、再現模型・再現図では、神殿・直階段とも柱だけとして梁を設けていないものと、神殿・直階段全体を梁構造としているもの、神殿は柱だけとし直階段は梁構造としているものが見られますが、縄文時代から梁構造(貫構造も)の高床式建物があることからみて、強度を確保するためには全体が梁構造であったと考えられます。
 神殿の9本の柱を垂直に正確に建てるためには、下から順に梁を組んで柱を固定する必要があり、柱だけを9本垂直に立て、風があれば揺れる柱の最上部に神殿を置いたとは考えられません。

三内丸山遺跡の見張り台復元(私は神殿説です)




 第3に、現在の出雲大社の直階段には屋根が付けられているように、屋根がないとすぐに朽ちて強度が低下する可能性があり、屋根を付けると重さと風圧によって倒壊の危険性はさらに高まります。
 第4に、全体に建築用の足場を組むことなく建造しようとすると、建築にあたっては、先に直階段を低い方から順番に作っていき、最後に9本の柱を立てて神殿を作る「直階段先行建築方式」が考えれますが、幅の狭い階段は横風に弱く、構造的にみてありえないと言えます。
 第5に、三内丸山遺跡の見張り台(注:私は神殿説です)、原の辻遺跡(壱岐)の楼観、吉野ヶ里遺跡の主祭殿の復元において外階段をもうけた例がなく、全て内部に階段・梯子(写真には写っていないのも)を設けていることからみて、外階段ではなく内階段・スロープ建築にするのが合理的であり、縄文時代からの建築の常識であったみられることです。後世の低くなり、拝殿から本殿へ直接登る直階段の建築図から、拝殿があったかどうかも不明な出雲大社本殿の再現だけ外階段方式を採用するのは不自然です。
   

原の辻遺跡(壱岐)と吉野ヶ里遺跡の楼観




吉野ヶ里遺跡の主祭殿




 第5に、記紀に書かれた天神信仰の「心御柱」の伝統と、それを受け継いだわが国独特の仏塔の「心柱」から考えて、「心御柱」から順に建造した可能性が高く、その場合には「外階段様式」ではなく「内階段様式」にするのが建築思想にかなっています。

仏塔の心柱の建立図(濃尾・各務原地名文化研究会HPより)




 以上の5つの点からみて、出雲大社本殿は心御柱を中心にし周りの8本の柱に梁をかけ、内階段またはスロープを設けたタワー構造の建物であったと考えます。

6.「踊り場つき折れ階段」か「廻り階段・スロープ」か?
 三内丸山遺跡の6本の立柱、吉野ヶ里遺跡の6本柱の楼観、原の辻遺跡(壱岐)の9本柱の楼観、吉野ヶ里遺跡の16本柱の主祭殿の復元例においては、「直階段・梯子」や「踊り場つき折れ階段・梯子」を設けた再現が行われていることからみても、出雲大社の9本柱にもまた梁があり、内部に階段があった可能性が高いと考えられます。
 出雲大社がこれらの建物と大きく異なるのは、内部に「心御柱」がある正方形の平面であることであり、天神宗教思想と構造からいえば仏塔に近く、廻り階段の「会津さざえ堂」のような構造の可能性が高いと考えます。

法隆寺五重塔断面図(前同)




会津さざえ堂(東京別視点ガイドHPより)




 途中の梁や階段・スロープの材木や最上部の「住居・神殿」の建築資材を運びあげるためには、「踊り場つき折れ階段」よりは「廻り階段・スロープ」が有利であり、さらに「廻り階段」よりは「廻りスロープ」の方が運搬に有利です。
 私が学生の時、1964年にアルバイトした建築現場では、2階屋根まで直スロープをもうけ、屋根材や瓦・土を肩に担いで運びましたが、重量物の運搬には階段は危険であり、スロープが有利です。

7.「廻り階段・スロープ」説の宗教的意味
 前に述べたように、イヤナギ・イヤナミ(伊耶那岐・伊耶那美)神話によれば、オノゴロ島に天降った時(筆者説:対馬・壱岐から対馬暖流を海下った時)、そこには「天御柱」と「八尋(やひろ)殿」があり、その「天御柱」を左右から廻り、セックスして国々や神々を生んだとされています。
 この神話は、海人族の拠点であった壱岐は古くは「天比登都柱(天一柱)」と呼ばれ、現在まで続く諏訪大社や広峯神社(姫路:スサノオ・五十猛(いたける)親子を祀る牛頭天王総本宮)など各地の御柱信仰と御柱祭からみて、高木(神籬=霊漏ろ木)から死者の霊(ひ)は天に昇り、降りてくるという天神信仰(霊(ひ)信仰)を示しています。
 福岡県前原市の紀元前100年前頃の平原遺跡や、紀元前3世紀頃からの吉野ヶ里遺跡の紀元前1世紀の王墓の前にも立柱があり、イヤナギ・イヤナミ神話の「天御柱」に符合します。

平原遺跡の大柱(糸島市HP)と吉野ヶ里遺跡の立柱




 イヤナギ・イヤナミ神話の「八尋(やひろ)殿」は、両手を広げた長さの「尋」(1.8m)の8倍ですから14.4mになり、三内丸山遺跡の大型掘立柱建物の長さ15m、出雲大社の出土した柱の正面幅13.4mとほぼ合致しており、縄文時代から大国主時代、古事記作成時まで、ほぼ同じ尺度が用いられていることを示しています。
 記紀によれば、大国主は自らの「住居・御巣・御舎」を「神事」「幽事=霊(ひ)信仰」の神殿とし、全国各地の百余国でもうけた180人の御子たちの霊(ひ)信仰=天神信仰の拠点としたのであり、その中心に「心御柱」=「天御柱」を置き、その周りに回りスロープを設けたのは、、その周りを廻りながら登っていくという天神信仰の装置でもあったのです。
 魏書東夷伝の夫餘(ふよ)条の「殷正月を以って天を祭り、国中大いに会し、連日飲食・歌舞す」、高句麗条「居所の左右に大屋を立て、鬼神を祭り、また霊星・社稷を祀る」、濊(わい)条「十月節を用い天を祭り、昼夜飲酒・歌舞す、この名を舞天となす」、馬韓条(後の百済の地)「大木を立てて鈴・鼓を懸け、鬼神に事(つか)える」、辰(しん)韓条(後の新羅の地)「大鳥の羽を以って死を送る、その意、死者をして飛揚せしめんと欲す」、弁辰条(辰韓と雑居)「鬼神を祠祭するに」と同様に、邪馬壹国もまた「鬼道」(孔子が道の国と見ていたことに由来し、鬼神信仰を鬼道とした)であったのです。
 出雲大社本殿には「心御柱」を回る「廻りスロープ」があり、「心御柱=天御柱」を廻りながら、人々が祖先霊を祀る神殿であったのです。

8.出雲大社は「日本列島文明」の記念碑的公共建造物
 考古学者ゴードン・チャイルドは、文明と非文明の区別をする指標として、「効果的な食料生産」「大きな人口」「職業と階級の分化」「都市」「冶金術」「文字」「記念碑的公共建造物」「合理科学の発達」「支配的な芸術様式」をあげています。(ウィキペディアより) 
 この文明論は、宗教論と海洋交易論を欠いている欠陥があると私は考えますが、この分類を日本列島の土器時代(煮炊き蒸し土器鍋時代=縄文時代)からの文明に当てはめると次のようになります。

 

日本列島文明の誕生




 「縄文文明論」として、三内丸山遺跡を「都市」とする説(小山修三氏)がみられますが、このような「文明」の定義だと三内丸山遺跡は当てはまりません。
 しかしながら、土器時代(縄文時代)からスサノオ・大国主の建国までを、「霊(ひ)信仰」という1つの連続した文化として見ると、1万年の土器文明、受け霊(ひ)・霊(ひ)継ぎの性器信仰(石棒、金精信仰)、宗教芸術性の高い縄文土器、「乗船南北市糴(してき)」の鳥船による米鉄交易で入手した鉄先鋤による「鉄器稲作」の開始、人口の爆発的な増加、環濠都市国家(城=き)の成立、鉄先鋤や朱、銅槍・銅鐸の製造、赤目砂鉄による吉備・播磨での製鉄の可能性、世襲王の誕生と専門職の成立、漢字を借用した独自の漢字書き下し文(万葉仮名用法以前の表意表音漢字使用)、世界最高の木造の出雲大社の造営、石の宝殿・益田岩船の巨石文化など、中国文明とは異なる海洋交易民の「日本列島文明論」が成立すると考えます。
 この「日本列島文明論」のシンボルとなるのが、芸術的な縄文土器と土偶、石棒と円形石組み、古代出雲大社、石の宝殿と益田岩船(大国主・大物主連合の記念建造物)と私は考えており、霊(ひ)継ぎ=命(DNA)のリレーを大事にする「八百万神(やおよろずのかみ)」の多神教は、世界中の民族宗教のベースとして解明され、世界史の中で評価されるべきと考えています。
 その世界的・世界史的な課題として、「48mの古代出雲大社の復元プロジェクト」と「出雲大社を中心とする霊(ひ)信仰施設」の世界遺産登録運動を提案したいと思います。