ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート

「神話探偵団~スサノオ・大国主を捜そう!」を、「ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート」に変更します。雛元昌弘

宗教論1 新型コロナウィルスから箸墓古墳と崇仏廃仏、奈良大仏を考える 

2020-02-25 19:31:04 | 宗教論
 2月24日の新型コロナウィルスの国内感染者は156名(死者1名)、ダイヤモンド・プリンセス号は691名(死者3名)となりました。致死率は約0.47%で高齢者が中心で、SARSの致死率約9%と較べると高い数値ではありませんが、コロナウイルスは突然変異しやすいとのことであり、いずれ、さらに恐ろしいパンデミック(感染症の一国的・世界流行)が発生しないとも限りません。
 この機会に、古代の疫病の歴史をさかのぼってみたいと思います。

1.10代崇神期の疫病
 日本ではっきりとしたパンデミック第1号は、4世紀後半の崇神天皇期の「伇病多起、人民死為盡(役病が多く起こり、人民が死に尽きんとする)」(古事記)、「民有死亡者、且大半矣(民の死者あり、まさに大半であろう)」「百姓流離、或有背叛、其勢難以德治之(百姓流離し、あるいは背叛し、その勢い徳をもって治め難し)」(日本書紀)です。
 徳がないとされた崇神天皇(御間城入彦印恵)は宮中に祀っていたスサノオ(日本大國魂神=大物主大神=大美和大神)とアマテルの神霊を宮中から出し、スサノオの子孫のオオタタネコ(大田田根子)を探し出して美和(三輪)に祀らせたところ、疫病は収まったとされています。美和王朝の大物主(スサノオの子の大年。代々襲名)の権力を奪い、スサノオとアマテルの祭祀権を奪ったことにより恐ろしい疫病を招いたのが崇神天皇であったのです。「霊(ひ)継ぎ」が断たれたことにより、スサノオ・アマテルの霊(ひ)は崇神天皇に祟ったのです。
 梅原猛氏や井沢元彦氏は聖徳太子や孝徳天皇、称徳天皇、文徳天皇、崇徳天皇、安徳天皇、順徳天皇、崇道天皇(早良親王)のように「徳」の字の付けられた太子や天皇は怨霊であるとしていますが、私は「崇」字のついた10代崇神天皇、32代崇峻天皇、第75代崇徳天皇もまた怨霊に祟られた天皇か、怨霊となった天皇と考えます。
 32代崇峻天皇は蘇我馬子に殺され、讃岐に流される途中に絶食して憤死した早良親王は怨霊となって恐れられて崇道天皇と追称されて御霊神社などに祀られ、第75代崇徳天皇(崇徳上皇)もまた保元の乱で破れて讃岐で死に(暗殺説も)怨霊になったとされています。
 崇神期の恐ろしい疫病をスサノオを祀ることにより退散させた英雄のオオタタネコ(大物主)と妻のモモソヒメ(百襲姫:第7代孝霊天皇皇女)の夫婦墓が箸墓であることは、箸墓278mが9代開化天皇陵100m、10代崇神天皇陵242m、11代垂仁天皇陵227mよりも大きいことなどから裏付けられます。―「邪馬台ノート2 纏向の大型建物は『卑弥呼の宮殿』か『大国主一族の建物』か」参照

箸墓からみた美和山(三輪山)と穴師山


 「備後国風土記逸文」には一夜の宿を提供した貧しい蘇民将来にスサノオは「茅の輪」を与え、身につけていた一家は疫病から免れたという逸話があり、今も各地の神社では「茅の輪くぐり」が行われていますが、オオタタネコはスサノオの「茅の輪」を受け継ぎ、疫病退散のお守りとして「麻の三勾」(三輪山の蛇神のスサノオが鍵穴から去った時に残したとされる)を人々に配り、疫病を退散させたのかも知れません。

2.30代敏達期の疫病
 29代欽明天皇から蘇我氏と物部氏の崇仏廃仏論争が起こりますが、敏達天皇14年(585年)に「國行疫疾、民死者衆(国に疫疾がおこり、民に死者おおし)」「發瘡死者充盈於國(瘡が発して死者が国に充ちみちた)」(日本書紀)とされる疫病が流行します。パンデミック第2号といえます。
 この疫病の原因として、蘇我馬子が仏殿を建て仏法をおこそうとしたからと主張した物部守屋と、仏殿を壊し仏像を焼いたり海に捨てたからとする蘇我馬子の争いとなります。
 その後、32代崇峻天皇の時、蘇我馬子と炊屋姫(かしきやひめ:後の33代推古天皇)、聖徳太子は物部守屋を滅ぼします。
 この時も、疫病は崇仏廃仏の宗教対立・政治権力の争いになっています。

3.第45代聖武天皇期の疫病
 第45代聖武天皇期の天平9年(737年)の天然痘は、当時の日本の総人口の25~35%にあたる100万~150万人が死亡したとする説もあるパンデミック第3号です。
 「長屋王の変」により長屋王を自害させ、皇族でない藤原光明子を皇后として権力を奪った藤原不比等の息子の藤原4兄弟も全員が病死しています。
 この天然痘の流行は長屋王を自害させたことによると考えた聖武天皇は、平城京から恭仁京、難波京、紫香楽京へと遷都を行った後、平城京へ帰り、東大寺と盧舎那仏(奈良大仏)、国分寺を建立させています。

4.疫病からの政変と宗教・思想改革
 崇神期パンデミック(疫病大流行)はスサノオ(大物主大神・大美和大神)・大年(大物主)の美和王朝の権力を御間城印恵(いにえ)が奪ったことにより生じ、敏達期パンデミックは崇仏派と廃仏派(八百万神派)の争いを激化させて崇仏派の勝利へとつながり、聖武天皇期パンデミックは天皇家による仏教国教化を実現させます。
 疫病による人民の死は、宗教・政治対立を高め、スサノオ・大国主一族の八百万神信仰と建国から、天皇家による仏教国家への転換を生み出しています。明治維新は、なんとこのような崇仏天皇家の歴史を大逆転させ、廃仏毀釈に走ったのです。崇神天皇が認めた八百万神信仰に戻るのでもなく、本居宣長の「アマテラス太陽神教」というオカルト信仰宗教にはまってしまったのです。
 江戸時代末期の1858年におきたコレラの大流行では、死者数は江戸だけでも2.8万人あまり、日本全土では10~26万人とされていますから、1853年のペリーの黒船さわぎと相まって、人々の開港反対の攘夷意識に影響を与えた可能性は大きいと考えますが、命を大事にする霊(ひ)継の八百万神信仰でもなく崇仏でもなく、「アマテラス太陽神教」へと走ってしまったのです。
 このような歴史と較べると、今回の新型コロナウイルスは宗教的・思想的・政治的な変革をもたらす可能性は小さいかもしれませんが、私は「人類・生類全体のウィルスとの戦い」として、宗教の共通価値を確認する思想的な機会としてとらえたいと考えます。その一番重要な共通価値は生(DNAの継承)であり、変化を続けるコロナウイルスを無力化する免疫力の解明が課題となります。
 八百万神信仰は「霊(ひ=DAN)継ぎ」信仰であり、そこには神使である動物も生類として含まれます。中国における自然動物食の在り方を含めて考える機会とすべきチャンスかも知れません。