縄文社会研究会・東京で事務局長であった山岸修氏がALSを発症し、昨年の8月末、「小生も日日、前向きにガンバル所存です」のメールとともに手持ちの縄文社会研究会の資料を送っていただいたのですが、12月19日治験入院中に感染で亡くなられたという残念な悲しいことがありました。
そこで、遅まきながらその資料を子細に見直すと、私が入会する前に岡野眞氏(香川大学教授)が報告された2010年3月発行の『社叢学研究』の「古代・出雲大社の立地場所をさぐる」という論文の抜き刷りがありました。
そこには図-3の宝治2年(1229年)造営と図-4の8世紀頃の立地環境図が載せられており、私の「引橋長一町=桟橋・浮橋説」と「出雲大社故地八雲山-琴引山線上説」を裏付けていたので、ここに紹介したいと思います。
<参考資料ブログ>
・スサノオ・大国主ノート130 『古代出雲大社』は外階段か内階段(廻り階段・スロープ)か? 190408→200208
・ヒナフキンの縄文ノート33 『神籬(ひもろぎ)・神殿・神塔・楼観』考」 200731→200825→1226
・ヒナフキンの縄文ノート50 縄文6本・8本巨木柱建築から上古出雲大社へ 200207→210203
・ヒナフキンの縄文ノート106 阿久尻遺跡の方形柱列建築の復元へ 211107
・スサノオ・大国主ノート140 縄文建築から出雲大社へ:玉井哲雄著『日本建築の歴史』批判 221024
・スサノオ・大国主ノート141 出雲大社の故地を推理する 221027
1.出雲大社の「引橋長一町」は直階段(階:きざはし)ではなく「高橋・浮橋(桟橋・浮桟橋)」
縄文ノート「33 『神籬(ひもろぎ)・神殿・神塔・楼観』考」「50 『縄文6本・8本巨木柱建築』から『上古出雲大社』へ」において私は次のように、古出雲大社の復元図・模型作成にあたって構造的にも弱く耐久性がなく、建築足場を必要とする直階段と解釈したのは、金輪造営図の本殿前の「引橋長一町」を木デッキ(桟橋)ではなく、直階段(階=きさはし)と誤って解釈した誤りであることを明らかにしました。
<縄文ノート33 『神籬(ひもろぎ)・神殿・神塔・楼観』考>
48mの中古の出雲大社は外直階段ではなく、神籬である「心御柱」を中心にした廻り階段であり、後の仏塔の「心柱」に受け継がれたと考えます。外階段は横風を受けて構造的に弱く、廻り階段の内階段だと建築用の足場を外側に組む必要がなく合理的です。
考古学者や建築家たちが長い外階段と錯覚したのは、金輪造営図の本殿前の「引橋長一町」と書かれた長方形の図を直階段と勘違いしたもので、階段なら「きざはし(階)」と書いたはずですし、「登る橋」なら階段になりますが「引く橋」では階段になりません。「引橋長一町」は100m長の海岸から本殿へ続く木デッキであり、全国各地からの神々の舟を引いて係留し、本殿に人々を導いたのです。
さらに「縄文ノート106 阿久尻遺跡の方形柱列建築の復元へ」では、日本書紀に「天日隅宮は・・・・汝が往来して海に遊ぶ具の為に、高橋・浮橋及び天鳥船をまた造り供えよう」と書かれていることに気付き、「引橋長一町」が「高橋・浮橋(桟橋・浮桟橋)」であることを追加しました。
<縄文ノート106 阿久尻遺跡の方形柱列建築の復元へ>
日本書紀の巻第二の一書第二には「汝(注:大国主)が住むべき天日隅宮は・・・・汝が往来して海に遊ぶ具の為に、高橋・浮橋及び天鳥船をまた造り供えよう。又天安河には、打橋を造ろう」と書かれており、天日隅宮(天霊住宮=出雲大社本殿)の前には海に出て鳥船(帆船)で遊ぶための高橋(木デッキ)と浮橋(浮き桟橋)があり、天日隅宮の傍の天安河(素鵞川か吉野川の旧名の可能性)には打橋(木か板を架け渡しただけの取りはずしの自由な橋)があったのです。
前者の「高橋+浮橋」が「金輪造営図」に書かれた「引橋長一町」であり、条里制の「一町」=109mで計算すると、拝殿前の銅の鳥居(四の鳥居)のあたりが水辺であったと考えられます。
なお、この時には注目しませんでしたが、図15の「引橋長一町」の下には左右に開いた細く短い両端に〇のついた絵が描かれていますが、これこそが「浮橋(浮き桟橋)」を描いているのであり、図に吹き出しで日本書紀からの説明を付け加えました。
2.「引橋長一町」を必要とする出雲大社の立地条件
以上の私の主張は、図16の地形図などから出雲大社本殿から「1町=109m」が満潮時や増水時には水没するような地形であったことを想定したものでしたが、岡野氏作成の13世紀、8世紀の出雲大社立地環境図によれば、現在の出雲大社の前面は8世紀に「湿地性低地帯」であったとされています。さらに古い2世紀の出雲大社造営の際には沖積が進んでいなかった可能性が高く、大国主が舟遊びをする「引橋長一町」の「高橋・浮橋(桟橋・浮桟橋)」が必要であったことが裏付けられました。
なお大国主時代の杵築大社(きづきのおおやしろ)=出雲大社の創建年を紀元2世紀とする筆者説については、ブログ「ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート131 『古事記』が示すスサノオ・大国主王朝史」「ヒナフキンの縄文ノート24 スサノオ・大国主建国からの縄文研究」、『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』(梓書院:日向勤ペンネーム)などを御参照ください。
3.出雲大社の旧社地について
私は地域計画や建築計画のプランナーとして道の駅や物産館、各種公共施設の立地計画にも携わってきましたが、どこに立地させるかについては、その施設の目的と用途に応じて誰もが納得できる場所とする必要があります。
宗教施設となると神聖な場所としての条件が何よりも重要であり、死者の霊が神名火山(神那霊山)から天に昇り、降りてくるという八百万神の共同祭祀の場所としてふさわしくなければ多大な共同建設作業に住民を動員することなどできません。
私は3度の出雲大社見学で現在の本殿が八雲山からズレた場所に立地し、しかも東西北を山に囲まれて見えにくい位置にあることに疑問を抱き、「スサノオ・大国主ノート141 出雲大社の故地を推理する」で神名火山(神那霊山)である八雲山と琴引山を結ぶ線上の、出雲平野や日本海から見える場所で、真名井から神水をえられる場所こそ大国主が求めた立地点と考え、その場所を現在の本殿の当方で真名井に近い場所と推理しました。
今回、岡野眞氏も図2のように現在の出雲大社より東の真名井神社あたりまでを旧社地として想定しており、岡野氏指摘のように集中豪雨時の素鵞川・吉野川の洪水・土砂災害を避ける上でも両河川の扇状地を避けた場所の可能性が高いと考えられ、現在の命主社(いのちぬししゃ)と出雲の森・涼殿あたりに大国主の杵築大社があった可能性が高いと考えます。
岡野眞氏(香川大学教授)は「河川・地盤の立地環境」と「磐座・神木・神水祭祀」から出雲大社の故地について推定し、私は「神名火山(神那霊山)信仰」と「引橋(桟橋と浮橋)を必要とする地形」、「真名井の神水」から古出雲大社の場所を推定しましたが、北島家・千家家、真名井神社などに伝わる伝承などによりその位置は確定できるのではないか、と考えます。
霊(ひ)と霊継(ひつぎ)(DNA=命のリレー)を大事にし、全ての死者が神として祀られる大国主の八百万神信仰は、旧約聖書一神教以前の全世界の人類共通の宗教であり、戦争・殺戮のない世界の実現に向けてその歴史をアピールすべきであり、そのためにも出雲大社故地からの巨木3本柱の柱痕の発見・発掘と、縄文巨木建築の伝統を受け継いだ世界最高の48mの出雲大社の復元、さらには世界遺産登録運動を進めることを期待したいと思います。
4.杵築大社の名称について
古事記は出雲大社について「僕住所」「天之御巢」「天之御舍」「天之新巢」と書いており、大国主の住まいを天の巣のような高層建築として描き、出雲国風土記が「天下造所大神之宮」を「杵築」としていることからみて、元々は「杵築大社(きづきのおおやしろ:延喜式)」と呼ばれていたと考えられます。
「杵築」について荻原千鶴訳注の『出雲国風土記』は「地面を突き固め」としていますが、斐伊川上流に「木次」の地名があることから考えると、「杵築」「木次」ともに後世の当て字であり、「きづき」は「木継き」で、3本柱の先に1本の柱を継ぎ足して48mの巨木建築とした可能性があると私は考えます。古代人にとってびっくり仰天の高層神殿の特徴を「木継で作った社」と表現したのではないでしょうか。
日本一高い峰定寺の神木の「花脊(はなせ)の三本杉」のうち1本が62.3mであるものの、自然状態の縄文杉が最高45mであることから考えて、3本柱をただ束ねて48mの高層神殿とした可能性も否定はできませんが、運搬や建築の容易さから考え、上部の建物部分のところで3本柱の真ん中に柱を挟んで1本柱に置き換えたものを神殿とした可能性が高いと私は考えます。3本の木を束ねた無骨な柱は想定できません。
上部の神殿部分はまずデッキをこしらえ、あらかじめ地上でおおまかに木組み全体を加工しておいた部材を心御柱を中心にした内部階段でこのデッキに運び上げ、調整しながら組み立てたと考えられます。内部階段の塔にすれば、建築用足場を周りに組むこともなく、容易に建築は可能です。
なお、出雲大社の9本柱の中央の「心御柱」は、死者の霊(ひ)が神名火山(神那霊山)かれ天に昇り、降りて来てさらに里に下りた際の依り代である神籬(霊洩木)であり、縄文時代から続く霊(ひ)信仰を示しているという筆者の主張は縄文ノート「78 『大黒柱』は『大国柱』の『神籬(霊洩木)』であった」「104 日本最古の祭祀施設―阿久立石・石列と中ツ原楼観拝殿」をご参照下さい。
5.木柱の謎の4角穴
次の写真左のように、出雲大社の埋もれていた3本組木柱に四角い穴(貫通している貫(ぬき)なのかどうかは不明ですが)が2つ、交差して掘られていることは構造上の重要な点です。
この穴については、右写真の諏訪の「御柱祭」でみられる「桟穴(えつり穴)」の可能性があり、同一の建築技術を示しており、運搬用の材の可能性があります。
しかしながら、御柱祭ではこのような直角の桟(さん)をもうけず単に柱に穴を開けて引っ張るものもあり、運搬のためには必要のないものであり、それは出雲大社の柱についても同じです。
そこで私が考えた仮説は、横棒を通して埋めて引き抜き力に抗し、48mもの塔状の神殿が強風などに対して倒壊するのを防いでいた構造材であるというものです。横風を受けると風上側の柱には引き抜き力が加わり、風下側の柱には押し込み力が加わるのですが、この引き抜き力に抗するために横に桟をつけたというものです。杉が直根だけでなく横に伸びた側根で倒壊を防いでいるのと同じ構造を出雲大社では人工的に作り、周りを石で埋めた構造としていた可能性です。
杉が防風林として使われるように倒壊しにくいことを知っていた古代人はその根が横に張る構造を人工的に作り出し、48mもの高層楼観を作り出したのではないでしょうか?
ただ、出雲大社の土中柱の写真では2つの四角穴が建物とどういう角度となっているのか判然とせず、またその横桟の木材が土中に残っていないのがこの仮説の難点であり、今後の研究課題です。
おわりに
今回、故・山岸修さんから託された資料から、岡野眞氏の『社叢学研究』の論文「古代・出雲大社の立地場所をさぐる」に出合うことができ、私の出雲大社故地の仮説が立地環境からも裏付けられたことは想定しなかった喜びです。縄文社会研究会を主宰された上田篤先生と講演された岡野眞氏、故・山岸修氏に感謝したいと思います。
□参考□
<本>
・『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)
・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)
<雑誌掲載文>
2012夏「古事記」が指し示すスサノオ・大国主建国王朝(『季刊 日本主義』18号)
2014夏「古事記・播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構」(前同26号)
2015秋「北東北縄文遺跡群にみる地母神信仰と霊信仰」(前同31号)
2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(前同40号)
2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(前同42号)
2018秋「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ」(前同43号)
2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(前同44号)
2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(前同45号)
<ブログ>
ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina
帆人の古代史メモ http://blog.livedoor.jp/hohito/
ヒナフキンの邪馬台国ノー http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/
霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/
ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/
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