「石の宝殿」へ昇るスロープ
「石の宝殿を見る前に、聖武天皇と生石村主真人の関係について、結論を出しません?」
駐車場に車を停めてさあ降りようという時に、ヒメが言い出した。ヒメは考えだしたら止まらない。皆はやっぱりね、と目配せして車に留まった。
「そうよね。なぜ聖武天皇はこの印南の地に行幸したのかなあ。それと、聖武天皇は天武天皇の血を引く一方、その母は藤原不比等の娘、妻も不比等の娘だから、藤原氏との関係が深い。それなのに藤原一族の拠点の平城京から恭仁京や難波京へ遷都した理由がよくわからないわね」
マルちゃんの質問は、5w1Hの「WHY」へと進んできた。
「聖武天皇即位の5年後には、天武天皇の孫の長屋王が藤原不比等の息子の藤原4兄弟によって謀反の疑いをかけられて殺されています。聖武天皇の時代は、天武天皇系の皇族と、藤原一族・天智系皇族の熾烈な権力闘争が戦われた時代と考えられています」
高木は常識的な答えを口にしたが、皆さんには言うまでもないことであった。
「聖武天皇は外戚の藤原氏の圧力と戦いながら、天武系の皇族による支配体制の強化を図ろうとしていたというわけね。そうすると、紀伊、吉野、難波、印南への行幸は、天武系の各地の氏族への根回し、ということになるのかな?」
マルちゃんは、答えを知りながら生徒に質問してくる長老みたいな言い方になってきた。
「紀伊はスサノオ、難波と印南は大国主一族の拠点だから、それは十分に考えられる。吉野は大海皇子、後の天武天皇挙兵の地だから、天武派の聖地になる」
いよいよカントクの出番である。こうなると止まらない。
「壬申の乱後、天武天皇は播磨・丹波の郡司に特別に禄を与えた。これは、大津皇子の西への退路を断つ重要な役割を播磨と丹波が果たしたことが評価されたことによると思われる。さらに、唐に対する国内最大の軍事拠点であった筑紫の美努王(三野王とも書く)は、大友皇子の軍派遣の要請を断っておる。大海皇子の拠点の美濃では、美濃王が大海皇子に付いている。美努王も美濃王も、美濃の母方で育てられた皇族であったと考えられる」
ここまで深くは考えていなかった高木にも、先は見えてきた。
「長屋王を殺した藤原4兄弟が天然痘で死んだ後、聖武天皇が美努王の子の橘諸兄を取り立て、国政を任せたとうのは、壬申の乱ネットワークの復活、ということですね」
「印南に行幸し、石の宝殿を見た聖武天皇は、この生石(おいし)の地で大国主の子孫と反藤原包囲網の相談をした、と考えるとワクワクとしてくるわね」
ヒメのキラキラした目の輝きをみていると、どうやら次の小説の世界に入ってしまったようだ。
「上生石大夫(かみのおいしのまえつきみ)は播磨国の国司で、藤原4兄弟が死んだ翌年に生石村主真人は美濃の少目(しょうさかん:補佐官)になっておる。これを見ると、生石一族は聖武天皇を支える有力な武人であった可能性があるな」
「上生石大夫の『上(かみ)』は『昔の、前の』というような意味もありますが、『神』の可能性もあります。もし『神』となると、スサノオ・大国主の一族を指すことになります」
高木にはとてもそこまでの考えは及ばなかった。ヒナちゃんの推理力には驚いた。
「上生石大夫を見つけ、生石村主真人の年表を作ったヒナちゃんには、全てお見通しだった、ということになるわね」
ヒナちゃんに「すごいね」と声をかけようとしていた高木であったが、マルちゃんに先を越されてしまった。高木の体内時計のテンポが遅いのは、長年の生活習慣なのか、それともDNAのせいなのか、なかなか改善できそうにない。
「生石村主真人が詠んだ『大汝(おおなむち) 小彦名(すくなひこな)乃 将座 志都乃石室者 幾代将経』の歌は、いつ、どこで、誰に、何のために捧げられた歌かな、と考えたのがそもそものスタートなんです」
ヒナちゃんも5w1H派であったのか。
「志都乃石室の前に立って、生石村主真人が生石一族の先祖の大国主と少彦名のはるか昔の国づくりの偉業を懐かしんで詠んだ歌か、と最初は考えました。しかし、そんな単純な過去志向の歌かな、という疑問がすぐに湧いてきました。天武天皇の諡(し)号、『天渟中原瀛(あまのぬなはらおき)真人』と同じ『真人』を名前に持つ生石村主真人です。『真人』は道教においては不老不死の『仙人』の別称ですから、永遠に未来を生きる人という意味になります。大国主と少彦名の国造りに習って、これから悠久の国づくりを進めよう、という未来志向の歌の可能性はないかな、と考えました。
そこで年表を作ってみると、この歌は真人が石の宝殿を見た聖武天皇に捧げた歌では? とヒラメキました。そこで播磨国風土記を読み返してみると、上生石大夫の名前がでてきたので、この仮説に自信がでてきました」
「こんど『石の宝殿殺人事件』を書く時には、ヒナちゃんを主人公にしたいなあ。今回の調査旅行は面白くなってきたわね」
ヒメはやはり次の小説を考えていたようだ。ヒメに関しての高木のカンは悪くはない。
「ヒナちゃん、修士論文は『播磨国風土記』をテーマしたらいいと思うよ」
長老はいつものように指導教官口調である。
「あとは、石の宝殿を見てから、話を続けましょう」
やっと、ヒメの「なぜなぜ頭」の回転は止まったようである。
(日南虎男:ネタモトは日向勤氏の『スサノオ・大国主の日国―霊の国の古代史』梓書院刊です)
(日南虎男:そろそろと『邪馬台国探偵団』http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/を始めました。4月いっぱいは、週1更新は難しいかもしれませんが、よろしく)
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「石の宝殿を見る前に、聖武天皇と生石村主真人の関係について、結論を出しません?」
駐車場に車を停めてさあ降りようという時に、ヒメが言い出した。ヒメは考えだしたら止まらない。皆はやっぱりね、と目配せして車に留まった。
「そうよね。なぜ聖武天皇はこの印南の地に行幸したのかなあ。それと、聖武天皇は天武天皇の血を引く一方、その母は藤原不比等の娘、妻も不比等の娘だから、藤原氏との関係が深い。それなのに藤原一族の拠点の平城京から恭仁京や難波京へ遷都した理由がよくわからないわね」
マルちゃんの質問は、5w1Hの「WHY」へと進んできた。
「聖武天皇即位の5年後には、天武天皇の孫の長屋王が藤原不比等の息子の藤原4兄弟によって謀反の疑いをかけられて殺されています。聖武天皇の時代は、天武天皇系の皇族と、藤原一族・天智系皇族の熾烈な権力闘争が戦われた時代と考えられています」
高木は常識的な答えを口にしたが、皆さんには言うまでもないことであった。
「聖武天皇は外戚の藤原氏の圧力と戦いながら、天武系の皇族による支配体制の強化を図ろうとしていたというわけね。そうすると、紀伊、吉野、難波、印南への行幸は、天武系の各地の氏族への根回し、ということになるのかな?」
マルちゃんは、答えを知りながら生徒に質問してくる長老みたいな言い方になってきた。
「紀伊はスサノオ、難波と印南は大国主一族の拠点だから、それは十分に考えられる。吉野は大海皇子、後の天武天皇挙兵の地だから、天武派の聖地になる」
いよいよカントクの出番である。こうなると止まらない。
「壬申の乱後、天武天皇は播磨・丹波の郡司に特別に禄を与えた。これは、大津皇子の西への退路を断つ重要な役割を播磨と丹波が果たしたことが評価されたことによると思われる。さらに、唐に対する国内最大の軍事拠点であった筑紫の美努王(三野王とも書く)は、大友皇子の軍派遣の要請を断っておる。大海皇子の拠点の美濃では、美濃王が大海皇子に付いている。美努王も美濃王も、美濃の母方で育てられた皇族であったと考えられる」
ここまで深くは考えていなかった高木にも、先は見えてきた。
「長屋王を殺した藤原4兄弟が天然痘で死んだ後、聖武天皇が美努王の子の橘諸兄を取り立て、国政を任せたとうのは、壬申の乱ネットワークの復活、ということですね」
「印南に行幸し、石の宝殿を見た聖武天皇は、この生石(おいし)の地で大国主の子孫と反藤原包囲網の相談をした、と考えるとワクワクとしてくるわね」
ヒメのキラキラした目の輝きをみていると、どうやら次の小説の世界に入ってしまったようだ。
「上生石大夫(かみのおいしのまえつきみ)は播磨国の国司で、藤原4兄弟が死んだ翌年に生石村主真人は美濃の少目(しょうさかん:補佐官)になっておる。これを見ると、生石一族は聖武天皇を支える有力な武人であった可能性があるな」
「上生石大夫の『上(かみ)』は『昔の、前の』というような意味もありますが、『神』の可能性もあります。もし『神』となると、スサノオ・大国主の一族を指すことになります」
高木にはとてもそこまでの考えは及ばなかった。ヒナちゃんの推理力には驚いた。
「上生石大夫を見つけ、生石村主真人の年表を作ったヒナちゃんには、全てお見通しだった、ということになるわね」
ヒナちゃんに「すごいね」と声をかけようとしていた高木であったが、マルちゃんに先を越されてしまった。高木の体内時計のテンポが遅いのは、長年の生活習慣なのか、それともDNAのせいなのか、なかなか改善できそうにない。
「生石村主真人が詠んだ『大汝(おおなむち) 小彦名(すくなひこな)乃 将座 志都乃石室者 幾代将経』の歌は、いつ、どこで、誰に、何のために捧げられた歌かな、と考えたのがそもそものスタートなんです」
ヒナちゃんも5w1H派であったのか。
「志都乃石室の前に立って、生石村主真人が生石一族の先祖の大国主と少彦名のはるか昔の国づくりの偉業を懐かしんで詠んだ歌か、と最初は考えました。しかし、そんな単純な過去志向の歌かな、という疑問がすぐに湧いてきました。天武天皇の諡(し)号、『天渟中原瀛(あまのぬなはらおき)真人』と同じ『真人』を名前に持つ生石村主真人です。『真人』は道教においては不老不死の『仙人』の別称ですから、永遠に未来を生きる人という意味になります。大国主と少彦名の国造りに習って、これから悠久の国づくりを進めよう、という未来志向の歌の可能性はないかな、と考えました。
そこで年表を作ってみると、この歌は真人が石の宝殿を見た聖武天皇に捧げた歌では? とヒラメキました。そこで播磨国風土記を読み返してみると、上生石大夫の名前がでてきたので、この仮説に自信がでてきました」
「こんど『石の宝殿殺人事件』を書く時には、ヒナちゃんを主人公にしたいなあ。今回の調査旅行は面白くなってきたわね」
ヒメはやはり次の小説を考えていたようだ。ヒメに関しての高木のカンは悪くはない。
「ヒナちゃん、修士論文は『播磨国風土記』をテーマしたらいいと思うよ」
長老はいつものように指導教官口調である。
「あとは、石の宝殿を見てから、話を続けましょう」
やっと、ヒメの「なぜなぜ頭」の回転は止まったようである。
(日南虎男:ネタモトは日向勤氏の『スサノオ・大国主の日国―霊の国の古代史』梓書院刊です)
(日南虎男:そろそろと『邪馬台国探偵団』http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/を始めました。4月いっぱいは、週1更新は難しいかもしれませんが、よろしく)
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