「石の宝殿」南の古代天皇の石棺に使われた竜山石の石切場
「しかし、生石村主真人が播磨の生石の出身なら、なぜ『志都乃石室』などと言ったんでしょうか?『石の宝殿』と分かるように詠むのではないでしょうか。播磨国風土記が物部守屋が作った、と記しているのも引っかかりますね」
高木はまだ納得がいかなかった。
「播磨国風土記や生石村主真人の関係を時系列で整理してみてくれない」
カントクが何か思いついたようだ。
「カントクの興味のある壬申の乱から、整理してみました。一覧表をコピーして用意しましたので見て下さい」
高木はあらためてヒナちゃんの実力を思い知らされた。そこには、次のような年表が整理されていた。
<聖武天皇と生石村主真人 年表>
672年 壬申の乱
686年 天武天皇死去、大津皇子処刑
710年 平城京遷都
712年 古事記作成。この頃、万葉集編纂開始。
713~15年 播磨国風土記
720年 日本書紀
724年 聖武天皇即位、紀伊国行幸
725年 聖武天皇、吉野・難波行幸
726年 聖武天皇、印南行幸、難波京造営に着手
729年 長屋王自殺(天武天皇の孫)、藤原夫人を皇后に。
737年 長屋王を自殺に追い込んだ藤原4兄弟死亡
738年 生石村主真人、美濃少目
740年 聖武天皇、恭仁(くに)京へ遷都。大仏造立を発願。
744年 難波京へ遷都
745年 平城京へ遷都
750年 生石村主真人、外従五位下
752年 大仏完成
「表を見て頂くと、生石村主真人は天武天皇の孫か曾孫の世代になります」
カントクやヒメの関心の高い壬申の乱から始めるとは、ヒナちゃんはおっとりした性格に似合わず、なかなか計算高い。
「これはいいねえ。こう整理してみるといろんな事が見えてくる。聖武天皇が即位の翌々年に印南に行幸し、直後に難波京造営に着手したというのは興味深いなあ」
カントクとヒナちゃんはまるで息を合わせているみたいだ。
「聖武天皇は、いったい印南のどこを訪ねたのかしら?」
マルちゃんの質問はいつも的確だ。5W1H、どこ、は重要だ。
「印南へ行ったとしたら、生石にある『石の宝殿』は確実に見たのではないでしょうか? それと、ヤマトタケル命の生地伝説があり、その母の播磨印南大郎女(はりまのいなみのおおいらつめ)の墓とされる日岡山、ヤマトタケル命の王子、仲哀天皇の后の神功皇后(息長帯比売命:おきながたらしひめのみこと)が大国主神に戦勝を祈願し、建立したとされる高砂神社なども見た可能性があります」
ヒナちゃんの下調べは抜かりがない。
議論に夢中になっているうちに、車は生石神社に到着した。神社正面の急な石段の下には車を停める場所がなかったため、さらに先に進むと、神社の南側に駐車場が整備されていた。
(日南虎男:ネタモトは日向勤氏の『スサノオ・大国主の日国―霊の国の古代史』梓書院刊です)
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「しかし、生石村主真人が播磨の生石の出身なら、なぜ『志都乃石室』などと言ったんでしょうか?『石の宝殿』と分かるように詠むのではないでしょうか。播磨国風土記が物部守屋が作った、と記しているのも引っかかりますね」
高木はまだ納得がいかなかった。
「播磨国風土記や生石村主真人の関係を時系列で整理してみてくれない」
カントクが何か思いついたようだ。
「カントクの興味のある壬申の乱から、整理してみました。一覧表をコピーして用意しましたので見て下さい」
高木はあらためてヒナちゃんの実力を思い知らされた。そこには、次のような年表が整理されていた。
<聖武天皇と生石村主真人 年表>
672年 壬申の乱
686年 天武天皇死去、大津皇子処刑
710年 平城京遷都
712年 古事記作成。この頃、万葉集編纂開始。
713~15年 播磨国風土記
720年 日本書紀
724年 聖武天皇即位、紀伊国行幸
725年 聖武天皇、吉野・難波行幸
726年 聖武天皇、印南行幸、難波京造営に着手
729年 長屋王自殺(天武天皇の孫)、藤原夫人を皇后に。
737年 長屋王を自殺に追い込んだ藤原4兄弟死亡
738年 生石村主真人、美濃少目
740年 聖武天皇、恭仁(くに)京へ遷都。大仏造立を発願。
744年 難波京へ遷都
745年 平城京へ遷都
750年 生石村主真人、外従五位下
752年 大仏完成
「表を見て頂くと、生石村主真人は天武天皇の孫か曾孫の世代になります」
カントクやヒメの関心の高い壬申の乱から始めるとは、ヒナちゃんはおっとりした性格に似合わず、なかなか計算高い。
「これはいいねえ。こう整理してみるといろんな事が見えてくる。聖武天皇が即位の翌々年に印南に行幸し、直後に難波京造営に着手したというのは興味深いなあ」
カントクとヒナちゃんはまるで息を合わせているみたいだ。
「聖武天皇は、いったい印南のどこを訪ねたのかしら?」
マルちゃんの質問はいつも的確だ。5W1H、どこ、は重要だ。
「印南へ行ったとしたら、生石にある『石の宝殿』は確実に見たのではないでしょうか? それと、ヤマトタケル命の生地伝説があり、その母の播磨印南大郎女(はりまのいなみのおおいらつめ)の墓とされる日岡山、ヤマトタケル命の王子、仲哀天皇の后の神功皇后(息長帯比売命:おきながたらしひめのみこと)が大国主神に戦勝を祈願し、建立したとされる高砂神社なども見た可能性があります」
ヒナちゃんの下調べは抜かりがない。
議論に夢中になっているうちに、車は生石神社に到着した。神社正面の急な石段の下には車を停める場所がなかったため、さらに先に進むと、神社の南側に駐車場が整備されていた。
(日南虎男:ネタモトは日向勤氏の『スサノオ・大国主の日国―霊の国の古代史』梓書院刊です)
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