世界の女神関係の本を読み漁っていたのですが、「縄文ノート177 約5000年前のスペイン女王が示すアフリカ・西欧西岸人類拡散説」を書き、縄文ヒョウタンの原産地のニジェール川流域に4000~3000年前の世界文化遺産の「ブルキナファソ古代製鉄遺跡群」と「米魚食」の「西アフリカ文明」があり、Y染色体D型の縄文人のルーツであるという説を先にまとめたくなりました。
ある大学教授はFB(フェイスブック)で日本人は中国系というような主張をされており、ウィキペディアでもそのような図表などがあり、水田稲作を伝えた「弥生人=長江流域中国人=Y染色体O型人」による縄文人征服説がみられますが、日本人起源論の検討ではアフリカでの人類誕生から日本列島にやってくるまでの全行程のDNA・言語・文化・宗教の解明が不可欠と考えます。これまでの私の説について、再度、修正を加えながらまとめておきたいと思います。
なおこれまでのブログでは個々の分析で間違ったところもありますが、修正しないでここで正したいと考えます。
<目次>
1 Y染色体亜型(ハプロタイプ)からみた日本人
⑴ Y染色体亜型の分布
⑵ 7つの日本列島人形成説
⑶ 縄文人はY染色体D型か?
⑷ O型人は東南アジア人か、長江流域中国人か?
⑸ C型人は北方系か、南方系か?
2 言語からみた日本人のルーツ
⑴ 「主語-目的語-動詞」(SOV)言語である
⑵ 縄文語は倭音倭語
⑶ 農耕・食物語のルーツ
⑷ 宗教語のルーツ
⑸ 性器語のルーツ
⑹ 倭音倭語のルーツはドラヴィダ(タミル)語
3 食物・食文化からみた日本人のルーツ
⑴ イモ食のルーツ
⑵ 稲作のルーツ
⑶ 雑穀・根菜・イネのルーツ
⑷ 「モチモチ・ネバネバ食」のルーツ
⑸ 「ソバ・豆」のルーツ
⑹ 粉食のルーツ
⑺ イモ米魚食革命
⑻ 土器鍋食革命
⑼ アフリカからの食の歴史研究へ
4 宗教からみた日本人のルーツ
⑴ 縄文人の霊(ひ:死霊・祖先霊)信仰
⑵ ドラヴィダ族、雲南省イ族、タイ農村部、チベット、ビルマ、卑南・匈奴・鮮卑の「ピー」信仰
⑶ 「ポンガ」の赤米・カラス行事
⑷ 「神山天神信仰」
⑸ 「神籬(ひもろぎ:霊洩木)」信仰
⑹ 「龍神」信仰
⑺ 妊娠土偶・女神信仰
⑻ 男性器信仰
⑼ 仮面と太鼓
⑽ 霊(ひ)信仰から自然信仰・神使信仰・精霊信仰へ
5 西アフリカで「命(DNA)の祭典」「人類誕生の祭典(マザーランド・フェスティバル、バースランド・フェスティバル)」を
⑴ 海人(あま)族と山人(やまと)族~日本列島への移動ルート
⑵ 「Y染色体亜型アフリカ単一起源説」か「メソポタミア中継分岐説」か?
⑶ 西アフリカで「命(DNA)の祭典」「人類誕生の祭典」を!
1 Y染色体亜型(ハプロタイプ)からみた日本人
⑴ Y染色体亜型の分布
日本人のY染色体亜型(ハプロタイプ)は、ウィキペディアによれば、Ⅾ型が34.7%(アイヌは87.5%)、O1a型が0%、O1b型が31.7%(アイヌ0%)、O2型が20.1%(アイヌ0%)、C型が8.5%(アイヌ12.5%)となっています。―縄文ノート「43 DNA分析からの日本列島人起源論」(210403)、「46 太田・覚張氏らの縄文人『ルーツは南・ルートは北』説!?」(201018→210124)」参照
そもそもサンプル数が少ないという根本的な問題がありますが、Ⅾ型はチベット人41.3%、アンダマン人(ミャンマー沖のインド領の島)73.0%が多く、O1b型はベトナム人32.9%、韓国人32.4%、マレーシア32.0%などが、O2型は漢族(中国)55.4%、韓国人44.3%、ベトナム人40.0%、チベット人39.1%、タイ人35.3%、マレーシア30.0%が、C型は蒙古族53.0%、韓国人12.6%、チベット人8.7%が多くなっています。
この日本人に多いD型、O1b型、O2型、C型の4グループについて、ウィキペディアには前にはなかった次の図2・3が追加されており、Y染色体D型とともにO型人が一緒に東インド・ミャンマーあたりから日本列島にやってきた縄文人であるという私の仮説がより確かになってきたと考えます。
Ⅾ型はインド東部・チベット・ミャンマー・アンダマン諸島・雲南と日本に濃く分布し、O1b型はインド東部・東南アジアに濃く、O2型はインド東部・東南アジア・中国に、C型はシベリア・モンゴル、オーストラリア西部に濃く分布しています。
この図1~5からは、日本人の起源について次のようなことが明らかです。
① Y染色体D型人は、アフリカでC型人からD型人とE型人とに分かれ、さらに東インド・ミャンマーあたりでチベット人と分かれて日本列島にやってきており、韓国人・漢族(中国)にはほとんど見られないことから彼らと交わる機会のある陸路ではなく「海の道」をやってきた可能性が高い。
② Y染色体C型人は、アフリカから赤道に沿って「海の道」を東南アジアに進み、北上して中国・モンゴル・シベリア、日本列島に、南へオーストリアに広がったとみられる。
C型人はマンモスなど大型動物を追って「マンモスの道」を東に進んでから中国・東南アジアに南下したという説がみられるが、中国のC型人はずっと後の乗馬が確立した紀元前4500年ころから「草原の道」を通っての遊牧民が加わった可能性がある。詳しくは後述したい。
③ Y染色体O型人もまた、アフリカから中東をへて「海の道」を東に進んで東南アジアから中国・シベリアに広がり、日本列島にやってきたと考えられる。
⑵ 7つの日本列島人形成説
これらのデータはそもそもサンプル数が少なく、さらにどの時代の移動かははっきりせず、現代人のDNAだけから縄文・古代日本人の起源を判断するのは危険きわまりないのですが、日本人がD型、O型2種類、C型の4タイプのDNAで構成されていることは確かです。
しかしながら、いつ、どこから、どのような順番・ルートでアフリカから日本列島にやってきたのかでは説が分かれます。
第1の論点は、D型が縄文人、O型が水田稲作の技術を持ってわが国にやってきた弥生人(長江流域中国人・韓国人)という「2重構造説」です。
しかしながらO1・O2型は中国人・朝鮮人(弥生人)とは限定できず、東インド・東南アジア系でD型人と交わって日本列島に「海の道」をやってきた可能性があり、言語・稲作・生活文化・宗教などから総合的に判断する必要があります。
第2の論点は、D型が現代のアイヌに多いことや東日本に縄文遺跡が多く、竪穴式住居などから縄文人を北方系とする説です。
問題は、縄文遺跡が東日本に偏在して発見される一方、西日本に少ないのは、西日本では縄文遺跡が丘陵市街地の下に埋もれてしまい発見数が少ない可能性が高いことと、アイヌが旧石器・縄文時代以後にも日本列島にやってきた可能性が高いことです。
以下、検討を進めたいと思います。
⑶ 縄文人はY染色体D型か?
D型日本人34.7%(崎谷26~40%)を縄文人とするのは多くの学者に共通していますが、篠田謙一・崎谷満・斎藤成也・神澤英明氏は北方系、太田博樹・覚張(かくはり)隆史氏は「ルーツは南、ルートは北」説です。
まず、Ⅾ型は蒙古族1.5%、韓国人1.6%、漢族0.6%にほとんど見られず、図6からみても中国・朝鮮半島経由は考えにくく、他の部族と交わることなく「海の道」をやってきた可能性が高いと考えます。なお、ウィキペディアでは元は左図でしたが現在は右図に換わり、モンゴル・中国・韓国などは2~10%の色分けとなっており、現段階の少ないDNAデータから科学的な判断を行うには限界があることを示しています。
また「東夷」と呼ばれ、わが国と同じ「主語-目的語-動詞」(SOV)言語で、ピー(祖先霊)信仰、倭(い)族名、烏信仰(烏帽子、烏神事)、「銕(金+夷、和音:くろがね、呉音:テチ、漢音:テツ)」字に関係しそうなイ族(夷族・倭族、烏蛮)が古くは長江流域に住み、倭人のルーツではないかとの仮説を私は考えていましたが、Y染色体D型はイ族(サンプル数125人)には0.8%しかなく漢族(同166人)の0.8%と同じであり、台湾原住民(246人)が0.0%であることからみても、東夷のイ族が台湾をへて日本列島にやってきた可能性はないと今のところ考えています。イ族にはK型が28.0%ありウイグル族と近く日本人0.0%とは異なっており、東インド・ミャンマー山岳地帯の同じ照葉樹林帯文化圏の別のDNA族とみられます。
アイヌはD型が87.5%と日本人34.7%より多い一方、南方系のO型を含まず、蒙古族に53.0%と多いC型を12.5%ふくむため、蒙古族などと接触してシベリアを移動してきた北方系の可能性が高く、日本人もC型が8.3%含まれるため、篠田・崎谷氏らの縄文人北方説がでてきたと考えられます。
私もD型人の一部はチベットからシベリアを通り日本列島にやってきたと考えますが、Ⅾ型人の多数は表1・図6から東インド・チベット・ミャンマー・アンダマン諸島から「海の道」を移動したと考えています。後にさらに総合的に検討します。
細石刃文化(19000~12,000年前)からの北方説が見られますが、全国で500個所を超える細石刃遺跡は北海道と九州に多く、北東日本型と南西日本型の二つの分布圏に分かれており、北方説の決め手にはなりません。
また黒曜石文化は図7のように活火山のあるアフリカからインドネシア・フィリピン経由で伝わった可能性が高い南方系であり、その日本海の両岸における分布は南方系の海人族交易によるものです。
石器文化と海洋交易からは南方系とすべきなのです。―縄文ノート「27 縄文の『塩の道』『黒曜石産業』考」(201216)、「44 神名火山(神那霊山)信仰と黒曜石」(201014→→210120)、「61 世界の神山信仰」(210312)、「144 琉球の黒曜石・ヒスイ・ソバ・ちむどんどん」(20627)
このD型が人類拡散史にとって極めて大きな意味を持つのは、C型から分かれたD型・E型のうち、E型が西アフリカ熱帯雨林地域に残っており、さらにニジェール川河口部のナイジェリアでD型人が3人見つかっていることです。この事実は、C型からのⅮ・E型の分岐点がこの西アフリカ熱帯雨林地域であることを示しており、この地域をルーツとしたC型DNA保持者がいずれ発見されるとともに、Ⅾ型人もさらに見つかるに違いないと私は考えています。
さらに重要な点は、このニジェール川・コンゴ川流域の熱帯雨林が人類と分岐したチンパンジー・ボノボの生息地域であり、熱帯雨林で果実などを食べていたチンパンジー・ボノボが、地上に降りてイモ類や豆・穀類、海・川・沼の半身浴で魚介類などを採集して脳の働きに欠かせない糖質・DHA食を実現し、メスの共同子育てとの母子のおしゃべり・歌・会話によって頭脳を発達させ、半身浴採集で二足歩行と手の機能を向上させた可能性が高いことです。―縄文ノート「81 おっぱいからの森林農耕論」(210622)、「85 『二足歩行』を始めたのはオスかメス・子ザルか」(210713)、「87 人類進化図の5つの間違い」(210724)、「88 子ザルからのヒト進化説」(210728)、「89 1段階進化論から3段階進化論へ」(210808)参照
考古学者は人骨化石から人類の起源地をアフリカ東部地域と推定していますが、熱帯雨林の酸性土壌では人骨や木器・骨角器などは残らないという物理法則を無視した説であり、現在もチンパンジー・ボノボが棲み、果実やイモ類、魚介類などが豊富で、Y染色体E1b1型人が住む熱帯雨林こそ、人類誕生の地と私は考えます。―縄文ノート「62 日本列島人のルーツは『アフリカ高地湖水地方』」(210316)、「70 縄文人のアフリカの2つのふるさと」(210422)参照
川カニを食べるマスクチンパンジーが発見されたギニア山地を源とし、サハラ砂漠の南を東に進み、ナイジェリアチンパンジーの棲むナイジェリアでギニア湾に注ぐニジェール川流域は、若狭の鳥浜貝塚や青森の三内丸山遺跡から発掘された縄文ヒョウタンの原産地であり、さらにニジェール川は魚類が豊富で、雨季に水没するニジェール川内陸三角州の氾濫原(面積は九州とほぼ同じ)は水稲の原産地の1つであり、2000年前には既にこの地で稲作が行われ、日本人と共通する「米魚食文化」があったのです。
なお、9万年前の骨製の銛がコンゴ民主共和国(ザイールは1971~97年の国名)のセムリキ川(エドワード湖から北に流れアルバート湖に注ぐ)で見つかっており、このエドワード湖とアルバート湖のほとりの高地湖水地方に20000~8000年前頃のイシャンゴ文明があり、穀類を粉にする石臼・粉砕用石器とともに多くの骨製の銛と魚骨を伴い、糖質・魚介食であったことは木村愛二氏が『古代アフリカ・エジプト史への疑惑』で紹介しており、ニジェール川流域でもいずれ石臼・粉砕用石器や骨製銛が見つかる可能性があると考えています。―「縄文ノート111 9万年前の骨製銛からの魚介食文明論」(211128)参照
私の次女は青年海外協力隊員としてニジェールに赴任していたことがあり、素晴らしいヒョウタン・ランタンを土産にもらい、米を食べているという話を聞いてびっくりしたことがあったのですが、私たち黄色人はそのルーツを考えるにあたっては「母なるアフリカ」原点から出発すべきなのです。
このニジェール川氾濫原の南のブルキナファソには4000~3000年前の世界文化遺産の「ブルキナファソ古代製鉄遺跡群」があり、ヌビア(スーダンのクシュ文明)からブルキナファソまで、4000年前頃から「アフリカ横断アイアンロード(鉄の道)」があった可能性があり、ヒッタイトでの製鉄より早く、エジプト文明を西アフリカ製鉄が支えた可能性があると私は考えています。―縄文ノート「122 『製鉄アフリカ起源説』と『海の鉄の道』」(220210)、「136 『銕(てつ)』字からみた『夷=倭』の製鉄起源」(220427)参照
図8で明らかなように、西アフリカのY染色体E1b1型から北アフリカからエチオピアにかけてのY染色体E1b1bが派生した可能性があり、エジプト文明もまたこの西アフリカをルーツとする可能性が高いと考えられるのです。
ニジェール川河口のナイジェリア中央部のノクからは大量のテラコッタの人物像と鉄の鉱滓(カナクソ)、通風管の破片、鉄の鉱滓、溶鉱炉の痕跡が発見されており、4つの炭化木片は紀元前約3500年、2000年、900年、紀元後200年を示し、ウィキペディアはこの「ノク文明」を「紀元前10世紀から紀元後6世紀頃」としています。
さらにこの西アフリカ地域のセネガンビア(セネガル)には8~12世紀の1045カ所の環状列石があり、私は「大西洋東岸人類拡散説」(西アフリカ海岸北上→スペイン→イギリス・アイルランド)を考え、スペイン・イギリス・アイルランドのストーンサークルに先立ち、セネガンビア(セネガル)にはさらに古い環状列石があった可能性があると考えています。―「縄文ノート177 約5000年前のスペイン女王が示すアフリカ・西欧西岸人類拡散説」(230805)参照
日本における製鉄は通説では6世紀で、私は出雲国風土記が大国主を「五百鉏々猶(なお)所取り取らして天下所造らしし大穴持」とし、日本書紀が大国主を「建国王・天下経営王・農業技術王・百姓王」とみなしていることからみても製鉄の起源は1・2世紀のスサノオ・大国主一族に遡ると考えていますが(遺跡は未発見)、この西アフリカ地域にはそれをはるかに遡る4000~3000年前に製鉄を行う「西アフリカ文明」があったのです。―縄文ノート「121 古代製鉄から『水利水田稲作』の解明へ」(220205)、「125 播磨・吉備・阿蘇からの製鉄・稲作・古墳の起源論」(220226)、「136 『銕(てつ)』字からみた『夷=倭』の製鉄起源」(220427)参照
5000年前頃からのエジプト文明に先立ち、人類発祥の地であるこの西アフリカの地には最古級の製鉄遺跡があり、「西アフリカ文明」として世界史にはっきりと位置づける必要があると考えます。
崎谷満氏は『DNAでたどる日本人10万年の旅』でY染色体D型の縄文人がアフリカを出たのは38300年前頃としていますが、彼らはヒョウタンだけでなく「雑穀(中尾佐助氏)」と「米魚食文化」(アフリカ米とインド米はDNAは異なる)をこの地から引き継いで南・東南アジアを経て日本列島にやってきた可能性が高いと私は考えています。
⑷ O型人は東南アジア人か、長江流域中国人か?
日本のO1b型人31.7%は、表1・図17からみて、東インド・東南アジア(ベトナム・マレーシアなど)から「海の道」をD型日本人と一緒に移動してきた可能性が高く、韓国人にも32.4%みられることからみて、同時期に南方から日本列島と朝鮮半島にたどり着いたと考えられます。
韓国人にはD型が少ないのですが、韓国南部でのDNAデータがさらに増えれば、O1b型と同時にやってきた可能性もあります。三国史記新羅本紀は紀元59年に4代新羅王の倭人の脱解(たれ)が倭国と国交を結んだと書き、日本書紀一書にはスサノオが子のイタケル(五十猛=委武)を連れて新羅に渡ったという記載があることからみても、この頃から倭人と新羅とは活発に交流・米鉄交易を行っていたのです。―縄文ノート「53 赤目砂鉄と高師小僧とスサ」(201106→210208)、「83 縄文研究の7つの壁―外発的発展か内発的発展か」(210703)参照
O2型日本人20.1%は、表1の漢族(中国)55.4%、韓国人44.3%、イ族(夷族・倭族、烏蛮:四川・雲南、チベット・ビルマ語系)28.8%、ベトナム人40.0%、チベット人39.1%、タイ人35.3%、マレーシア30.0%であり、図18をみると東インド・ミャンマー北部が色濃く、O1b型・O2型のどちらもがこの地がルーツで、Ⅾ型と一緒に海の道を通ってやってきた可能性があり、その後の漂着あるいは移住でその割合が高くなったと考えます。
これまで、水稲栽培の伝播からこのO型日本人を弥生人(長江流域中国人・韓国人)とみなす説が大勢を占めてきましたが、後に稲作関係の言語と稲のDNAから検討したいと思います。
中国からは竹筏の漁民が今もしばしば漂着しており、孔子が「道が行なわれなければ、筏(いかだ)に乗って海に浮かぼう」と述べたように春秋戦国時代から戦乱を逃れ、あるいは新天地を求めて、O型中国・朝鮮人が少しずつわが国にやってきた可能性を考える必要があります。―縄文ノート「66 竹筏と『ノアの方舟』」( )「152 朝鮮ルート、黒潮ルートか、シベリアルート、長江ルートか?」(220918)参照
東南アジアや中国のように言語・文化の異なる多くの少数民族がいないわが国では、Y染色体D型人とO型人は東南アジアで交わって一緒にやってくるとともに、縄文人の後にやってきたO型人はまとまった部族集団ではなく、少数の男が何度もやってきて、妻問婚により言語・文化は縄文人に同化したと考えます。
⑸ C型人は北方系か、南方系か?
C型日本人8.5%、C型アイヌ12.5%は、C型が蒙古族53.0%、韓国人12.6%、チベット人8.7%、マレーシア6.0%、漢族6.0%などに見られることからみて、北方系と考えられてきました。
問題は図4からこのC型人をマンモスなどの大型動物を追ってシベリアへ進んだ部族とし、C型人からF型、K型を経て分岐したO型人を北方系狩猟民が南下してきたとみなす西欧肉食史観・ウォークマン史観・中華中心史観の根強い思い込みがあることです。
アフリカの熱帯雨林で果実などを食べていたチンパンジー・ボノボが、地上に降りて棒でイモ類や海や川・沼の半身浴で魚介類などを採集し、糖質・DHA食とおしゃべり・会話によって頭脳を発達させたA型・B型・C型・D型人などは、果物・イモ類・魚介類が豊富で塩分を確保できる熱帯地域海岸にそってまずC型・D型人がアフリカを出て水平拡散し、それぞれ河川を遡って内陸部を北に進むとともに、一部はユーラシア大陸の東海岸に沿って北上したと考えられます。
その後、インド・東南アジアでC型人から分岐したO型人が農耕を開始して北上すると、漁撈・狩猟好きのC型人はシベリアや日本列島、オーストラリアに新天地を求めて拡散した可能性が高く、あるいは伝染病の感染を避けて辺境に向かった可能性も考えられます。
シベリアの狩猟民のC型人からO型人が分かれて中国人となり、さらには東南アジア・オーストラリアに拡散したという中華史観の南下拡散説には合理的理由はありません。
2 言語からみた日本人のルーツ
Y染色体DNAからみて日本人はD型・O型・C型の本土・琉球人とⅮ型・C型のアイヌの2民族であり、東南アジア諸国や中国・台湾などのように言語・文化を異にする少数民族の多い多民族国家にならなかったという特徴があります。
そこでまず言語からそのルーツをさぐっていきたいと思います。―縄文ノート「41 日本語起源論と日本列島人起源説」(200918→210112)、「42 日本語起源論抜粋」(210113)、「153 倭語(縄文語)論の整理と課題」(220928)参照
⑴ 「主語-目的語-動詞」(SOV)言語である
日本語と朝鮮語は「主語-目的語-動詞」(SOV)言語であり、「主語―動詞-目的語」(SVO)言語の中国や東南アジア諸国とは異なります。
この言語構造からみてそのルーツはインド・チベット・ミャンマーから、さらに中央アジア・西アフリカにさかのぼると考えられます。―「季刊日本主義42号 言語構造から見た日本民族の起源」(2018夏)、スサノオ・大国主ノート「倭語論3 『主語-目的語-動詞』言語族のルーツ」(200125)、縄文ノート「97 『3母音』か『5母音』か?―縄文語考」 (181210→210922)、「115 鳥語からの倭語論」(211213)参照
⑵ 縄文語は倭音倭語
語彙でみると、ほとんどの日本語は「倭音倭語・呉音漢語・漢音漢語」の3層構造であり、アメリカ軍の占領下にあった影響で、戦後は数詞や身体語、生活語などの一部には「英語」が加わった4層構造となっています。
ここから「倭音倭語の縄文人を呉音漢語の弥生人が征服した」などという説がでてきそうですが、呉音漢語・漢音漢語は漢字2文字の熟語に使われることが多く、例えば「日本」を「呉音:ニチ・ニッ」+漢音・呉音:ホン」から「ニホン・ニッポン」と連呼しているのは中国語読みなのです。「嫌中派」の皆さんは倭音倭語の「ひのもと・ひなもと」に言い換えて応援してはどうでしょうか? ちなみに、大国主に国譲りさせた穂日の子の「武日照命(たけひなてるのみこと)」は「武夷鳥命・天夷鳥命」とも書かれ、「日=夷」で「ひな」と読んでいました。
このような漢音・呉音読みは漢字が入る前ではなく、スサノオ・大国主一族の外交・交易や遣隋使・遣唐使などの僧侶・役人によって漢字がわが国にもたらされ、江戸時代に寺子屋や読み物などが普及してから以降と考えられています。
倭音倭語こそが1万数千年にわたりY染色体Ⅾ型・0型の縄文人が使ってきた言語なのです。
⑶ 農耕・食物語のルーツ
言語は交流・交易、移動、侵略により変化しますが、他民族との接触が少ない地域ではほとんど変化せず、その典型例が1万年数千年の歴史をもつ倭音倭語で、紀元前後からの漢字導入とともに呉音漢語・漢音漢語を借用して3層構造となったのです。
ではこの倭音倭語のルーツはどこなのでしょうか? その検討においては、日本語は中国語、対照語は侵略民族語など他言語から影響を受けにくい単語を比較する必要があります。侵略者の基本単語(数詞や身体語など)を統計的に比較する西洋中心史観(白人中心史観)の手法をサル真似すべきではありません。インドヨーロッパ語族などの分析は、ナチスのアーリア人説と同じであり、東欧・中央アジア・インドなどの植民地支配を正当化したい西欧人の願望にもとづく分析であり、被征服者の言語からの分析に変える必要があると考えます。
私が小学生の頃には日本語は「ウラルアルタイ語」と習い、その後、南方語説(オーストロネシア語説)、朝鮮語説、ドラヴィダ(タミル)語説があることを知りましたが、いまだに倭音倭語のルーツについて決着がついていないのは方法論の整理ができていないからと考えます。
私は支配民族の影響や文化的影響を受けやすい各国の言語ではなく、それらの影響を受けにくい各国の農耕語や原宗教語、性器語(隠語)などの比較から日本語のルーツを捜すべきと考え、大野晋氏の「ドラヴィダ(タミル)語説」に注目しました。―縄文ノート「25 『人類の旅』と『縄文農耕』と『三大穀物単一起源説』(140613→201213)、「26 縄文農耕についての補足」(200725→1215)「153 倭語(縄文語)論の整理と課題」(220928)
まず生活文化の基本となる農業・食物語をみると表3・表4のとおりです。
焼畑農耕や水田農耕が中国の長江(揚子江)流域の中国人から伝わったのなら、これらの農耕語や食物・食事関係語は呉音漢語であるはずですが一語も見当たらず、倭音倭語がドラヴィダ(タミル)語と似ていることからみて、倭音倭語のルーツはドラヴィダ(タミル)語の可能性が高いと言えます。
さらに、表5の食物や料理に関わる単語にもドラヴィダ(タミル)語との類似がみられ、倭音倭語ドラヴィダ(タミル)語ルーツ説を裏付けています。
⑷ 宗教語のルーツ
大野晋氏の『日本語とタミル語』『日本人の神』によれば、タミル語の「ko」は「神・雷・山・支配」を、「kon」は「神・王」を、「koman」は「神・王・統治者」を表し、タミル語の「o」は日本語の「a」に対応するので、「かん(神主、神原、神崎などに使われる)」を示しています。―「縄文ノート37 『神』についての考察」参照
その他、マツル、ハラフ、イミ、ハカ、ヒなどの宗教語に類似性が見られますが、倭音倭語の「霊(ひ)」に対応する「pee(ぴー)」(自然力・活力・威力・神々しさ)については、宗教論のところで検討したいと思います。
⑸ 性器語のルーツ
小学生の時に父が押し入れに隠していた安田徳太郎氏の『人間の歴史』を密かに盗み見したこと思い出しますが、性器語について表7のように東南アジアの国々との対応が見られます。―縄文ノート「41 日本語起源論と日本列島人起源説」(200918→210112)参照
ドラヴィダ語の性器語について大野晋氏は取り上げていませんが、Y染色体D型・O型族は東南アジアの沖の海中に没したスンダランド(72000~16000年前頃の氷期には陸地であったが、紀元前14000~6000年前頃にかけて海底に没した)を経由して「主語-動詞-目的語」言語族の単語や文化を吸収し、日本列島にやってきたと考えられます。
なお、ブータン語の男性器「ボー」は、日本語古語では「ポー」であり、女性器名の琉球方言の「ホー,ボー、ホーミ」や九州方言等の「ボボ」、古事記等の「ホト」、さらには「チンポ」となった可能性があります。―縄文ノート「41 日本語起源論と日本列島人起源」(200918→210112)、「94 『全国マン・チン分布考』からの日本文明論」(181204→210907)参照
⑹ 倭音倭語のルーツはドラヴィダ(タミル)語
以上、言語構造と希少性・恒常性のある農業語・宗教語・性器語から、倭音倭語のルーツがドラヴィダ(タミル)語であり、東南アジア語や呉音漢語・漢音漢語を借用して現在の日本語となったことを明らかにしてきました。西欧中心史観の基本単語(数詞や身体語など)の統計的分析を機械的に当てはめての大野説批判は、アーリア人の侵入により支配下におかれたドラヴィダ族の言語に当てはめるのは誤っています。
大野晋氏の説こそ正しかったのであり、他の言語ルーツ説の研究者は、農業語・宗教語・性器語についてより類似性の高い言語を提示すべきであり、それができないなら大野説を承認すべきでしょう。
なお前述のように、ドラヴィダ人はY染色体H型が多く、Ⅾ型・O型の縄文人とは言語・文化を同じくする別部族であったと考えられます。
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