スサノオ・大国主建国論をまとめる以上、「建国」や「国」「文明」「国家」の定義について、検討しておく必要があります。
私はよく「趣味は古代史です」などと言ってきましたが、「古代はいつからなのか」と質問されるとどう答えようか面倒だなと思っていたこともあり、ここで整理しておきたいと考えます。
⑴ 建国記念の日
日本では1872年(明治5年)に制定された「紀元節」を復活し、1967年より2月10日を「建国記念の日」としています。
日本書紀に書かれた若御毛沼(ワカミケヌ:神武天皇名は8世紀の忌み名)が即位したとされる日は1月1日ですがなぜか1月29日を記念日とし、さらに翌1873年には2月11日に変更しているのですが、こんな「建国記念の日」を定めているようでは、日本書紀の紀元前660年建国も公認されたことになりかねません。
弥生式土器から昔は弥生時代を紀元前4世紀ころとしていましたから、神武天皇は縄文人で縄文時代に建国したことになります。最近では紀元前9世紀頃からの稲作開始からを弥生時代としていますから、弥生時代の建国、古墳時代より前の建国説になります。
この科学的な裏付けのない「紀元節」「建国記念の日」「紀元前660年建国説」などを、歴史的な「建国」として私は認めるわけにはいきません。
「神話探偵団135 記紀神話の9つの真偽判断基準」で書いたように、天皇即位年の統計的推計により安本美典氏は神武天皇在位年を270~300年と推定し、私の推定では277年頃になります。
日本書紀の「難波碕に到るときに、はやき潮ありてはなはだ急きに会ひぬ。因りて、名付けて浪速国とす。・・・遡流而(しこうして)上りて、径(ただ)に河内国の草香邑の青雲の白肩之津に至ります」という表現は大阪湾が汽水湖であった河内湖の入口の様子を示しており、大阪湾と海水で繋がっていた紀元前1050~50年頃の河内潟時代の海面の状況ではなく、紀元前660年より前にワカミケヌたちが河内潟から大和を目指したことを否定しています。「遡流而上り」というのは紀元前50年以降かなりたって河内湖ができた後の河内湖へ入る入口の難波碕(現在の大阪城の北あたり)の様子を示しています(FC2ブログ「霊の国の古事記論54 若御毛沼命の河内湖通過(『神武東征』)時期について」では図の掲載ができていませんしたので、再度、アップしたいと思います)。
なお、神武東征を8世紀の創作とする説が見られますが、この頃には河内湖は大阪平野となっており、「遡流而上りて、径に河内国の草香邑の青雲の白肩之津に至ります」というようなリアルな表現は創作しようもありません。なお右派の「神武東征説」、左派の「神武東征8世紀創作説」に対し、私の説は薩摩半島南西端笠沙の阿多の五瀬命ら4兄弟(若御毛沼は末弟)の「傭兵部隊東進説」です。―『スサノオ・大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』等参照
以上のように、笠沙天皇家4代目(大和天皇家初代)のワカミケヌが大和に入ったのは3世紀末のことであり、記紀の真偽分析(統計的分析と記述分析)を行うかぎりこの国の建国を天皇家からとすることはできず、後述のよう紀元1世紀の百余国の「委奴国」からとすべきと考えます。
⑵ 古代
一方、世界の歴史区分の「古代」(文明の成立)についてウィキペディアを見ると、「通常、古墳時代もしくは飛鳥時代から平安時代中期または後期まで。始期については古代国家(ヤマト王権)の形成時期をめぐって見解が分かれており、3世紀説、5世紀説、7世紀説があり、研究者の間で七五三論争と呼ばれている」とされています。
この「七五三論争」というのは何度も読んでよく記憶に残っていますが、日本史を天皇家の権力掌握から始めたい大和中心史観(天皇中心史観)の内輪もめ論争という以外にありません。
いずれも世界史の中で、わが国の後進性を主張したい「日本劣等史観」という以外にありません。
⑶ 文明
「古代」を文明の成立とする規定だと、「文明」の定義をまず見ておく必要があります。
英語の文明の「civilization」は「civil=都市」を語源としており、日本の初期都市国家の成立でみると、吉野ヶ里遺跡が始まった紀元前4世紀頃、原の辻遺跡の紀元前2~3世紀頃からを「古代」とみることになります。
「水田稲作による余剰食料生産からの支配層の出現」でみても、紀元前4世紀頃というのは1つの転換期にはなりますが、私は各地にできたこのような部族共同体の都市国家が連合され、広域交易(米鉄交易)と外交が行われるようになった紀元1世紀の「委奴国」を古代国家成立と考えています。
なお、「ギリシア・ローマ文明」を原点とする西洋中心史観の文明の定義に対し、私は「生産・生活・精神文化」を総合して文明としてとらえるべきと考えており、部族社会の分業・広域交易段階の「縄文文明」の主張を行っています。―縄文ノート「49 『日本中央縄文文明』の世界遺産登録をめざして」「59 日本中央縄文文明の世界遺産登録への条件づくり」「82 縄文文明論の整理から世界遺産登録へ」「104 日本最古の祭祀施設―阿久立石・石列と中ツ原楼観拝殿」参照
⑷ 国(くに)
「国」についてウィキペディアは「日本史においては、古くは中国史書『漢書』にあらわれる奴国(なこく)などがある」「『魏志倭人伝』収載の邪馬台国などの地方の『くに』の連合も記されている」「弥生時代に日本列島各地に政治的支配が始まり、その地方政権が支配する領域も『くに』と呼ぶようにもなった。これら地方の『くに』は、地域としてはのちの『郡」相当の広さしかない狭小な地域にすぎなかったが、政体としての独立性を保つ原初的政権であった」「ヤマト王権によって日本列島の統一が進行していった4世紀の古墳時代にあっては、そのような『くに』の地方豪族の首長を『国造(くにつのみやつこ)』に任じた」「これらとは別に、『大地』『土地』『出身地』に近い意味合いもあった。天津神に対する国津神(くにつかみ)の『国』は、天に対する地を意味し、実際、地の漢字が当てられることもあった」などと説明しています。
この説明には重大な誤魔化しがあり、『後漢書』に紀元57年に「倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬」と書かれ、それに符合する「漢委奴国王」の金印が志賀島で発見されているという有名な事実を大和中心史観・天皇中心史観の筆者は意図的に省いています。なおこの博多湾の入口の志賀島はスサノオの異母弟・綿津見3兄弟を祀る志賀海神社があり、海人族の安曇族の本拠地であり重要な交易拠点であった可能性が高いと考えます。
光武帝は冊封された周辺諸国のうちで王号を持つ外臣に与える金印を委奴国王の使人に与えたのであり、当然ながら委奴国王は「どこの馬の骨とも分からない人物」などではなく、委奴国王として皇帝に親書を使者に託す正式な外交的手続きをきちんと行ったからこそ、「漢委奴国王」の金印を与えているのです。
その2年後の59年には倭人の4代目新羅国王・脱解(たれ)が倭国王と国交を結んだことが『三国史記』新羅本紀に書かれており、日本書紀によればスサノオ・イタケル(五十猛=委武)親子が新羅に渡っているのです。
さらに魏書東夷伝倭人条には「倭人在帶方東南大海之中・・・舊百餘國・・・今使譯所通三十國」「其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國乱相攻伐歴年」と書かれており、紀元1世紀には後漢・新羅と外交を行う百余国からなる国が7~80年存在し、そこから分離独立した30国が邪馬壹国なのです。
このような3つの史書による限り、この国の建国は紀元1世紀の「委奴国(いなのくに)」「倭国(いのくに)」なのです。それは大国主が少彦名(すくなひこな)と「国を作り堅め」、少彦名の死後には、大和の大物主と「共に相作り成」し、その国名を「豊葦原の千秋長五百秋(ちあきのながいほあき)の水穂国」とした古事記や、大国主と少彦名が「力をあわせ、心を一つにして、天下を経営す」とした『日本書紀』一書(第六)、大国主を「五百つ鉏々(いおつすきすき)取り取らして天の下所造らしし大穴持命」とした『出雲国風土記』の記載や、52代・嵯峨天皇が「素戔嗚尊(すさのおのみこと)は即ち皇国の本主なり」として正一位(しょういちい)の神階と日本総社の称号を尾張の津島神社に贈り、66代一条天皇が「天王社」の号を贈っていることと符合しているのです、
なお、この「委奴国・倭奴国」名について、これを中国側からの卑字「奴」を使った国名とする説が見られますが、私は「委奴国王」が後漢皇帝に上表した文書の中に記した国名であり、「いなの国(稲の国)」を表していると考えています。
ウィクショナリーによれば、「又」は右手を表し、「右」「友」「有」の原字とされており、「奴=女+又」字は「力を入れる、力を込める」とされ、努(力を入れて仕事につとめる)、怒(心に力を込めていかる)、弩(力を入れて引く強い弓)の用法と意味からみても、「奴隷」を表す卑字と見るべきではないと考えます。
中国で大事にされる「姓」字は「女+生」であり、「魏=禾+女+鬼」字が「女が禾(黍・栗・麦などのイネ科穀類)を祖先霊(鬼)に捧げる」ことを示していることからみても、中国は狩猟・遊牧民の殷や姫氏周の時代より前は母系制社会であり、「奴」字は女性が農耕を開始し、担っていたことを示しています。「奴」字が卑字・悪字とされたのは、男系社会に代わり、儒教が体制化してからではないか、と私は考えています。
例えば、「夷」(弓+↑、倭音倭語:えびす、呉音漢語・漢音漢語:イ)は、異民族をさす蔑称として「東夷北狄西戎南蛮」のように蔑称とされていますが、周の9代目は「夷王」であることからみても、後世の歪曲に注意する必要があります。
⑸ 国家
国家についてウィキペディアは、「人類史上最古の国家がいつ成立したか正確には判明していないが、集約的な農耕による集住が進んでいた古代メソポタミアにおいて、紀元前3300年ごろにはウルク市が完全に都市としての実体を備え、都市国家化したと考えられている」とし、都市国家の成立を基準にしています。
さらにウィキペディアは国家論について、ヘーゲルは「家族、市民社会、国家」に大別して役割を論じ、マルクスは「階級的抑圧・搾取の機関」ととらえ、マックス・ウェーバーは「警察や軍隊などの暴力手段の独占」と「官僚や議員などの統治組織」を強調し、ゲオルク・イェリネックは「国家の三要素(領域、人民、権力)」を持つものとするなどを紹介しています。
問題は、古代の都市国家論と中世・近代の国家論が整理されていないことで、私は地域によって異なる「家族→氏族共同体→部族共同体→国」の展開や「征服王朝」などについて並列的・重層的・総合的な分析が必要と考えます。
⑹ まとめ
古代国家論では、ギリシア・ローマをモデルとし、キリスト教を思想的ベースにした西欧史学は、マルクスを含めて大きな誤りを犯しており、人々を統合した「古代宗教」の分析が欠かせないと考えています。
エジプトのファラオの神権政治、メソポタミアの司祭を頂点とした社会構造、インドのバラモン(司祭)を頂点にしたカースト制度、中国・殷の亀卜(きぼく)による神権政治、妻問夫招婚の霊(ひ:祖先霊)信仰による氏族・部族連合のスサノオ・大国主王朝や邪馬台国の卑弥呼(霊御子=霊巫女)を女王とする鬼道(祖先霊信仰)による連合国などを見ても、氏族・部族社会においては宗教の果たす役割が大きく、西欧史学の古代論は全面的な見直しが必要と考えます。
ユダヤ・キリスト・イスラム教が侵略し、絶滅を図った女神信仰や神山天神信仰、殺戮された「魔女」たちの宗教から、古代国家論を再構築する必要があると考えます。―はてなブログ「ヒナフキンの縄文ノート」の「10 大湯環状列石と三内丸山遺跡が示す地母神信仰と霊(ひ)信仰」「15 自然崇拝、アニミズム、マナイズム、霊(ひ)信仰」「32 縄文の『女神信仰』考」「34 霊(ひ)継ぎ宗教論」「37) 「神」についての考察」「38 「霊(ひ)」とタミル語peeとタイのピー信仰」「74 縄文宗教論:自然信仰と霊(ひ)信仰」「75 世界のビーナス像と女神像」「86) 古代オリンピックとギリシア神話が示す地母神信仰」「90 エジプト・メソポタミア・インダス・中国文明の母系制」「116 独仏語女性名詞からの母系制社会説」「132 ピュー人(ミャンマー)とピー・ヒ信仰」等参照
日本においても、天皇一族が滅ぼした各地の女王国の分析から始める必要があると考えます。―『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)参照
□参考□
<本>
・『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)
・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)
<雑誌掲載文>
2012夏「古事記」が指し示すスサノオ・大国主建国王朝(『季刊 日本主義』18号)
2014夏「古事記・播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構」(前同26号)
2015秋「北東北縄文遺跡群にみる地母神信仰と霊信仰」(前同31号)
2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(前同40号)
2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(前同42号)
2018秋「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ」(前同43号)
2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(前同44号)
2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(前同45号)
<ブログ>
ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina
ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/
帆人の古代史メモ http://blog.livedoor.jp/hohito/
邪馬台国探偵団 http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/
霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/
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