ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート

「神話探偵団~スサノオ・大国主を捜そう!」を、「ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート」に変更します。雛元昌弘

「『人類の旅』と『縄文農耕』、『3大穀物単一起源説』」の紹介

2020-02-10 12:52:32 | 日本民族起源論
本日、はてなブログ「ヒナフキンの縄文ノート」に「『人類の旅』と『縄文農耕』、『3大穀物単一起源説』」をアップしました。https://hinafkin.hatenablog.com/
2014年5月に「古事記・播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構―海洋交易民族史観から見た鉄器稲作革命」(『季刊日本主義』2014夏に掲載)を書いた時、12000~5000年前の鳥浜遺跡から見つかったヒョウタンの種がアフリカ西海岸のニジェール川流域が原産地であることを知り、土器人(通説は縄文人)がヒョウタンに水を入れ、竹筏に乗って「海の道」をやってきたことを確信しました。2014年6月になって「米・麦・トウモロコシ」などのイネ科のルーツもまたアフリカ西海岸ではないかと思いつき、この小論をまとめました。
さらに、昨年末からのNHKスペシャル「食の起源 第1集『ご飯』~健康長寿の敵か?味方か?~」「第3集『脂』~発見!人類を救う“命のアブラ”~」の内容を加筆し、縄文農耕と土器鍋食の価値について補強しています。
スサノオ・大国主一族の「米鉄交易による鉄器稲作革命」による「千秋長五百秋水穂国」づくりは、アフリカで起こった人類誕生の「でんぷん食革命」に位置付けられます。そのはるかな「海の道」をたどっていただければと思います。雛元昌弘


神話探偵団129 「古代出雲大社」は外階段か内階段(廻り階段・スロープ)か?

2020-02-08 17:22:26 | スサノオ・大国主建国論

 この小論は2019年4月に書いて関係者に配ったレジュメ「48mの『古代出雲大社』は廻り階段・スロープでは?」をもとに、『スサノオ・大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』と『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』からの引用を加え、修正したものです。雛元昌弘

1.古代出雲大社について
出雲大社は、記紀神話では大国主命の国譲りに際して造られた大国主命の「住所(すみか)」「天の御巣」「天の御舎」「天日隅宮(筆者説:天霊住宮)」であるとともに、「神事を治める」「幽(かくれたる)事治める」神殿とされ、年に1度、十月十日の神在月(他の国では神無月)に八百万神が集まり、大国主で妻問を行ってもうけた180人の御子やその一族の縁結びを行った施設とされています。

出雲大社本殿




 それは、わが国の伝統的な住宅の田の字型の形式から裏付けられます。土間から見ると、左手奥が床の間や仏壇のある上座(客間)で、右手奥が建物の主が住む場所(納戸)になるのですが、出雲大社もこの同じ形式となっています。客間の位置に海人(あま)族の始祖神の天津神5神を祀り、納戸の位置に大国主命を祀っていることからみて、記紀が描くとおりに大国主命の「住所」「天の御巣」「天の御舎」であるとともに、海人族の始祖神を祀る神殿であることがその平面図がら裏付けられます。

出雲大社の本殿平面図(出雲大社・御朱印HPより)




2.「48m」か「96m」か?
 現在、高さ24.2mで最大の神社建築ですが、社伝では、中古には16丈(約48m)、上古においては32丈(約96m)の高さがあったとされています。
 上古96mは誇張ともみられていますが、次の点からみて真実の伝承である可能性があります。
 ① 8世紀の元興寺東塔(焼失)が72m(57m)、東大寺東塔・西塔(焼失)が70〜100m、室町時代の金閣寺・北山大塔が相輪を除いて80mほどあったとされていますから、出雲大社も96mであった可能性はあります。
 ② 出雲大社は「心御柱(しんのみはしら)」を中心にしていますが、後の仏塔も「心柱」を中心に四隅に柱(通し柱ではない)を配置した正方形の平面であり、海人族の出雲大社の心御柱構造を引き継いたものと考えます。
古事記によれば海人族の故地である伊伎島(壱岐)の古名は天比登都柱(天一柱)と言い、揖屋の地でイヤナギ(通説はイザナギ)・イヤナミ(同イザナギ)は「天之御柱」を廻って逢い、セックスして国土や神々を産んだとしており、柱(一柱、御柱、心御柱)は祖先霊を受ける重要な神籬(霊(ひ)漏る木)であり、仏塔の「心柱」はその伝統を受け継いだものと考えられます。
 ③ 縄文時代の高床式建物からみて、それを高層化すれば自ずと出雲大社になります。中国の仏塔もまた楼閣形で最上階まで登れるものが多いとされていることからみて、日本の仏塔が中国式仏塔を真似たのなら楼閣型にしたはずですが、そうなってはいません。日本の仏塔は心柱を中心にて3層・5層・7層の小屋根の垂木や肘木で取り囲んでおり、中に人が通ることのできない心柱型の塔になっており、これは天神宗教の出雲大社の形式を受け継いだ独特の様式とみられます。
 ④ 江戸城、姫路城の木造部分が約30mであったことからみて、軽い板葺きの簡単な構造であればさらに高層の建築物は可能です。
 ⑤ 高知県長岡郡大豊町のスギが68m、山形県寒河江市の光明寺のケヤキが60mという現在最高の樹高からみて、3本の60mの柱に1本の60mの柱を継ぎ足せば、96mの高層建築物をつくることは可能です。
 以上、96m説が成立する可能性は十分にありが、構造計算を行えば確認可能です。それができていない現在では、以下、48m説として話を進めます。

3.伊勢神宮、東大寺大仏殿、京都御所大極殿を超える大きさ
 出雲大社本殿の出土した注列の正面約13m、側面約12m四方であり、伊勢神宮社殿が正面11m、側面5m、高さ(比率からのおおよその計算値)約11mと較べてもはるかに大きな神社建築であり、宗教上の権威の高さを示しています。
 平安時代、10世紀末の『口遊』(源為憲)は、「雲太、和二、京三」と記し、聖武天皇が建立した十五丈(45メートル)の東大寺大仏殿、京都御所の大極殿をしのいで、48mの出雲大社が日本で最高の高さであったことを伝えています。

「雲太、和二、京三」の高さの比較図




 この巨大な本殿は、社家に伝わる『金輪造営図』に残され、図面に画かれた3本の柱を鉄の輪で束ねた巨大な柱が2000年に出雲大社の現在の本殿の前から見つかり、伝承と資料が物証で裏付けられました。
 この出雲大社本殿の特徴は、2つあります。1つは、極端な高床式の建物であるということであり、もう1つは、部屋の中央に心柱のある、田の字型に7本の柱を配置し、切妻型の屋根をもった様式であるということです。

『金輪造営図』(寺社建築と文化財の探訪<TIAS>HPより)




復元された鉄の輪で束ねた3本組の柱




 高いことはより天に近づくことであり、大国主による「地神信仰・海神信仰から天神信仰」への宗教改革のシンボルとなる宗教施設であり、百余国の王の権威を示すシンボル施設でした。また、新羅との米鉄交易や対馬・筑紫、越方面などから八百八十の神々が集まる時の目印、ランドマークとなる実用性もあったと考えられます。海から見ると陸地は平板に見え、上陸地点を見逃す心配がありますが、そびえ立つ出雲大社は灯台に匹敵する目印となったと考えられます。
 木造部分で見ると江戸城(寛永度)が約45m(天守台を含めると58m)、姫路城が約32m(同約46m)、法隆寺五重塔が32m、大館樹海ドーム52m、出雲ドーム49mなどからみても、紀元2世紀ころと考えられる出雲大社48mの高さが群を抜いていることがわかります。

4.古代出雲大社の復元図・模型は外部直階段
 写真のように、古代出雲大社の復元図はいずれも正面、妻入りの外部直階段で想定されています。私も授業を受けたことのある福山敏男京大教授の復元図が元となっていると思われます。

福山敏男京大教授による復元図
(上田正昭編『古代を考える 出雲』川添登「9 出雲大社と古代建築」より)




出雲大社復元図(復元:大林組、監修:福山敏男、協力:馬庭稔(建築家))




島根県立古代出雲歴史博物館に展示された出雲大社復元模型




 これらの直階段の復元図・模型は、鎌倉時代の絵図に現在と同じような直階段で描かれているところからの想定されたと考えられます。

鎌倉時代1248年の出雲大社并神郷図(寺社建築と文化財の探訪<TIAS>HPより)




5.外部直段、梁なし建築への疑問
 しかしながら、この直階段の想定には、大きな疑問があります。
 第1は、冬の季節風や台風、地震を考えると、構造的に弱いことです。特に、冬の北西の季節風を受けると、長い直階段と神殿は一体的に風を受けて風圧で倒れる危険性が高いと考えられます。
 第2は、再現模型・再現図では、神殿・直階段とも柱だけとして梁を設けていないものと、神殿・直階段全体を梁構造としているもの、神殿は柱だけとし直階段は梁構造としているものが見られますが、縄文時代から梁構造(貫構造も)の高床式建物があることからみて、強度を確保するためには全体が梁構造であったと考えられます。
 神殿の9本の柱を垂直に正確に建てるためには、下から順に梁を組んで柱を固定する必要があり、柱だけを9本垂直に立て、風があれば揺れる柱の最上部に神殿を置いたとは考えられません。

三内丸山遺跡の見張り台復元(私は神殿説です)




 第3に、現在の出雲大社の直階段には屋根が付けられているように、屋根がないとすぐに朽ちて強度が低下する可能性があり、屋根を付けると重さと風圧によって倒壊の危険性はさらに高まります。
 第4に、全体に建築用の足場を組むことなく建造しようとすると、建築にあたっては、先に直階段を低い方から順番に作っていき、最後に9本の柱を立てて神殿を作る「直階段先行建築方式」が考えれますが、幅の狭い階段は横風に弱く、構造的にみてありえないと言えます。
 第5に、三内丸山遺跡の見張り台(注:私は神殿説です)、原の辻遺跡(壱岐)の楼観、吉野ヶ里遺跡の主祭殿の復元において外階段をもうけた例がなく、全て内部に階段・梯子(写真には写っていないのも)を設けていることからみて、外階段ではなく内階段・スロープ建築にするのが合理的であり、縄文時代からの建築の常識であったみられることです。後世の低くなり、拝殿から本殿へ直接登る直階段の建築図から、拝殿があったかどうかも不明な出雲大社本殿の再現だけ外階段方式を採用するのは不自然です。
   

原の辻遺跡(壱岐)と吉野ヶ里遺跡の楼観




吉野ヶ里遺跡の主祭殿




 第5に、記紀に書かれた天神信仰の「心御柱」の伝統と、それを受け継いだわが国独特の仏塔の「心柱」から考えて、「心御柱」から順に建造した可能性が高く、その場合には「外階段様式」ではなく「内階段様式」にするのが建築思想にかなっています。

仏塔の心柱の建立図(濃尾・各務原地名文化研究会HPより)




 以上の5つの点からみて、出雲大社本殿は心御柱を中心にし周りの8本の柱に梁をかけ、内階段またはスロープを設けたタワー構造の建物であったと考えます。

6.「踊り場つき折れ階段」か「廻り階段・スロープ」か?
 三内丸山遺跡の6本の立柱、吉野ヶ里遺跡の6本柱の楼観、原の辻遺跡(壱岐)の9本柱の楼観、吉野ヶ里遺跡の16本柱の主祭殿の復元例においては、「直階段・梯子」や「踊り場つき折れ階段・梯子」を設けた再現が行われていることからみても、出雲大社の9本柱にもまた梁があり、内部に階段があった可能性が高いと考えられます。
 出雲大社がこれらの建物と大きく異なるのは、内部に「心御柱」がある正方形の平面であることであり、天神宗教思想と構造からいえば仏塔に近く、廻り階段の「会津さざえ堂」のような構造の可能性が高いと考えます。

法隆寺五重塔断面図(前同)




会津さざえ堂(東京別視点ガイドHPより)




 途中の梁や階段・スロープの材木や最上部の「住居・神殿」の建築資材を運びあげるためには、「踊り場つき折れ階段」よりは「廻り階段・スロープ」が有利であり、さらに「廻り階段」よりは「廻りスロープ」の方が運搬に有利です。
 私が学生の時、1964年にアルバイトした建築現場では、2階屋根まで直スロープをもうけ、屋根材や瓦・土を肩に担いで運びましたが、重量物の運搬には階段は危険であり、スロープが有利です。

7.「廻り階段・スロープ」説の宗教的意味
 前に述べたように、イヤナギ・イヤナミ(伊耶那岐・伊耶那美)神話によれば、オノゴロ島に天降った時(筆者説:対馬・壱岐から対馬暖流を海下った時)、そこには「天御柱」と「八尋(やひろ)殿」があり、その「天御柱」を左右から廻り、セックスして国々や神々を生んだとされています。
 この神話は、海人族の拠点であった壱岐は古くは「天比登都柱(天一柱)」と呼ばれ、現在まで続く諏訪大社や広峯神社(姫路:スサノオ・五十猛(いたける)親子を祀る牛頭天王総本宮)など各地の御柱信仰と御柱祭からみて、高木(神籬=霊漏ろ木)から死者の霊(ひ)は天に昇り、降りてくるという天神信仰(霊(ひ)信仰)を示しています。
 福岡県前原市の紀元前100年前頃の平原遺跡や、紀元前3世紀頃からの吉野ヶ里遺跡の紀元前1世紀の王墓の前にも立柱があり、イヤナギ・イヤナミ神話の「天御柱」に符合します。

平原遺跡の大柱(糸島市HP)と吉野ヶ里遺跡の立柱




 イヤナギ・イヤナミ神話の「八尋(やひろ)殿」は、両手を広げた長さの「尋」(1.8m)の8倍ですから14.4mになり、三内丸山遺跡の大型掘立柱建物の長さ15m、出雲大社の出土した柱の正面幅13.4mとほぼ合致しており、縄文時代から大国主時代、古事記作成時まで、ほぼ同じ尺度が用いられていることを示しています。
 記紀によれば、大国主は自らの「住居・御巣・御舎」を「神事」「幽事=霊(ひ)信仰」の神殿とし、全国各地の百余国でもうけた180人の御子たちの霊(ひ)信仰=天神信仰の拠点としたのであり、その中心に「心御柱」=「天御柱」を置き、その周りに回りスロープを設けたのは、、その周りを廻りながら登っていくという天神信仰の装置でもあったのです。
 魏書東夷伝の夫餘(ふよ)条の「殷正月を以って天を祭り、国中大いに会し、連日飲食・歌舞す」、高句麗条「居所の左右に大屋を立て、鬼神を祭り、また霊星・社稷を祀る」、濊(わい)条「十月節を用い天を祭り、昼夜飲酒・歌舞す、この名を舞天となす」、馬韓条(後の百済の地)「大木を立てて鈴・鼓を懸け、鬼神に事(つか)える」、辰(しん)韓条(後の新羅の地)「大鳥の羽を以って死を送る、その意、死者をして飛揚せしめんと欲す」、弁辰条(辰韓と雑居)「鬼神を祠祭するに」と同様に、邪馬壹国もまた「鬼道」(孔子が道の国と見ていたことに由来し、鬼神信仰を鬼道とした)であったのです。
 出雲大社本殿には「心御柱」を回る「廻りスロープ」があり、「心御柱=天御柱」を廻りながら、人々が祖先霊を祀る神殿であったのです。

8.出雲大社は「日本列島文明」の記念碑的公共建造物
 考古学者ゴードン・チャイルドは、文明と非文明の区別をする指標として、「効果的な食料生産」「大きな人口」「職業と階級の分化」「都市」「冶金術」「文字」「記念碑的公共建造物」「合理科学の発達」「支配的な芸術様式」をあげています。(ウィキペディアより) 
 この文明論は、宗教論と海洋交易論を欠いている欠陥があると私は考えますが、この分類を日本列島の土器時代(煮炊き蒸し土器鍋時代=縄文時代)からの文明に当てはめると次のようになります。

 

日本列島文明の誕生




 「縄文文明論」として、三内丸山遺跡を「都市」とする説(小山修三氏)がみられますが、このような「文明」の定義だと三内丸山遺跡は当てはまりません。
 しかしながら、土器時代(縄文時代)からスサノオ・大国主の建国までを、「霊(ひ)信仰」という1つの連続した文化として見ると、1万年の土器文明、受け霊(ひ)・霊(ひ)継ぎの性器信仰(石棒、金精信仰)、宗教芸術性の高い縄文土器、「乗船南北市糴(してき)」の鳥船による米鉄交易で入手した鉄先鋤による「鉄器稲作」の開始、人口の爆発的な増加、環濠都市国家(城=き)の成立、鉄先鋤や朱、銅槍・銅鐸の製造、赤目砂鉄による吉備・播磨での製鉄の可能性、世襲王の誕生と専門職の成立、漢字を借用した独自の漢字書き下し文(万葉仮名用法以前の表意表音漢字使用)、世界最高の木造の出雲大社の造営、石の宝殿・益田岩船の巨石文化など、中国文明とは異なる海洋交易民の「日本列島文明論」が成立すると考えます。
 この「日本列島文明論」のシンボルとなるのが、芸術的な縄文土器と土偶、石棒と円形石組み、古代出雲大社、石の宝殿と益田岩船(大国主・大物主連合の記念建造物)と私は考えており、霊(ひ)継ぎ=命(DNA)のリレーを大事にする「八百万神(やおよろずのかみ)」の多神教は、世界中の民族宗教のベースとして解明され、世界史の中で評価されるべきと考えています。
 その世界的・世界史的な課題として、「48mの古代出雲大社の復元プロジェクト」と「出雲大社を中心とする霊(ひ)信仰施設」の世界遺産登録運動を提案したいと思います。


倭語論12 「大和」は「おおわ」「だいわ」か「やまと」か?

2020-02-07 11:46:50 | 邪馬台国
 「大和」と書いて「やまと」と読むことについて、みなさんは疑問を持ちませんでしたか?
 小学生の時でした。何にでも疑問を持ってしまう私は、「だいわ」ではなく、「やまと」と読むのに疑問を持ちました。とりあえず「やまと」と丸暗記しましたが、納得はしていませんでした。その疑問をずっと持ち続けていましたが、古代史をやるようになってようやく「やまと」の謎をとくことができました。
 では「大和」はもともとどう読まれていたのでしょうか? 「大」は倭音「おお」、呉音「だい」、漢音「たい」の漢字読みから、倭語では大和は「おおわ」であり、大和国は「おおわの国」と読むべきと考えています。
記紀(古事記・日本書紀)は、「大和」を「大倭」とも書いていますから、「わのくに」は元々は「倭国」でその後に「和国」と書き替え、さらに「おおわのくに(大倭国、大和国)」ができ、それを「やまとの国」と呼ばせるようになった、と私は考えます。
 そもそも、わが国の国名は次のようなタイプがあります。 

1 穀物国名 「いなのくに(委奴国,伊那国:稲の国)」「わのくに(倭国:倭=人+禾(稲))」「きびのくに(吉備国:黍の国)」「あわのくに(阿波国:粟の国)」
2 自然国名 「ひの国(肥国:火の国)」「きのくに(紀国:木の国)」「まつらの国(末盧国:松浦の国)」「おおみのくに(近江国:おお海の国)」
3 地名国名(地名の由来は様々) 「つしまの国(津島国→対馬国)」「いづもの国(出雲国)」・・・

 では「やまと」読みは何からきているのでしょうか? 「山戸」「山門」「山処」などの自然名や地名やからきているという説がありますが、奈良盆地は大きな平野であり、この国を「山の国」とすることは考えられませんし、ゆかりの古い地名もありません。
 記紀によれば、薩摩半島西南端の笠沙(かささ)の阿多(あた)にいた笠沙天皇家3代の2代目は猟師の「山幸彦」であり、兄は漁師の海幸彦とされています。その海幸彦の子孫は「はやと(隼人)」を名乗っていることからみて、山幸彦の子孫は「やまと(山人)」を部族名としていたと考えます。その笠沙天皇家4代目の「わかみけぬ(若御毛沼:8世紀に神武天皇の諡号=死号)」ら4兄弟は東遷して奈良盆地に入り、「大和天皇家」を建てたとされています。
 もともと奈良盆地は、スサノオ(大物主大神)の子の大年(大歳=大物主)が美和(三輪)の国を建て、出雲のスサノオ6代目の大国主の時に、大国主・大物主連合(大物主は代々襲名)が成立し、協力して国づくりを行ったと記紀は記しています。「美」は呉音「み」、漢音「び」に対し、倭音「うつく(しい)」ですから「美しい和の国」です。
 スサノオ・大国主一族の「わの国」は、「倭国」から「和国」に漢字を変え、それを受け継いだ大物主(スサノオの子の大年)一族は奈良盆地に入り、「美しい和の国」「みわの国」と称したのです。その後、スサノオ7代目の大国主の国づくりに協力し、大国主・大物主連合ができた頃に、大物主の「みわの国(美和国=三輪国)」は「おおわの国(大倭国=大和国)に名前を変えたのではないか、と私は考えています。

「倭(わ)」から「大倭・大和(おおわ)」、「大和(やまと)」への国名変遷



 そして、筑紫大国主王朝で数えて16代目頃に、薩摩半島西南端の笠沙(かささ)・阿多の山人(やまと)族のワカミケヌ(後に神武天皇)が傭兵隊として美和国に入り、10代崇神天皇の時に大物主の王女・御間城姫を妻として権力を奪い、「おおわの国(大和国)」を「やまと国」と呼び変えさせた、と考えます。
 「大和」を「やまと」と覚えさせる「皇国史観」の暗記教育に私はずっと疑問を持っていましたが、70歳を越えてようやく国名変遷の謎を解くことができました。
 『スサノオ・大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム:梓書院、2009年)において「やまと=山人説」を展開しましたが、『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(第2版:雛元昌弘著者名のアマゾンキンドル本)で「委奴国」からの国名変遷の経過を解明しています。雛元昌弘

「『正使陸行・副使水行』の邪馬台国甘木高台説」の紹介

2020-02-06 18:18:03 | 邪馬台国
 本日、Seesaaブログ「ヒナフキンの邪馬台国ノート」に「『正使陸行・副使水行』の邪馬台国甘木高台説」をアップしました。https://yamataikokutanteidan.seesaa.net/
 卑弥呼の「鬼道(祖先霊信仰)」が祀った鬼は委奴国王スサノオ~大国主の霊(ひ)である、と考えるスサノオ・大国主建国論にとって、卑弥呼と記紀のアマテル(本居宣長説はアマテラス)神話との関係解明は避けて通れません。
 そのような観点で、『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)ともども、目を通していただければ幸いです。雛元昌弘

倭語論11 「委奴国」名は誰が書いたか?

2020-02-05 05:37:57 | 倭語論
 この国の国名が最初に記録されたのは、紀元57年に百余国の「委奴国王」が使いを後漢に送り、「漢委奴国王」の金印を与えられた時です。
 この後漢・光武帝時代の「委奴国」、後漢・霊帝時代の倭国大乱の頃の「倭人国・天鄙国」、魏書東夷伝倭人条の「邪馬壹国(邪馬台国)」の国名が中国の記録から浮かび上がりますが、これらの国名は漢・魏国側が付けたのか、それとも倭人側が国書で上表した国名なのか、今回は最初に歴史上に登場する国名「委奴国」について考えてみたいと思います。

中国の記録に現れた国名



 後漢書(5世紀)には紀元57年に光武帝が倭国の使者に金印を与えたと書かれ、志賀島から「漢委奴国王」の金印が発見され、通説は「漢の倭(わ)の奴(な)の国王」と読んで福岡県の那珂郡(福岡市の一部と春日市など)にあてています。
 これに対して、「倭」を「委」字に省略することがありえないことから、奴を「いど国」と読んで「伊都国」にあてる説や、この金印は江戸時代に捏造されたという説も見られます。
 しかしながら、漢王朝が周辺民族の中の一小国に印綬を与えた例が見当たらないことや、卑弥呼に対して「親魏倭王」の金印を与えていることからみて、倭人の百余国の中の1国に過ぎない奴国や伊都国に対して金印を与えることなど考えられません。なお、金印偽造説がありえないことは『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)に分析しています。
 この「委奴国」は、どう発音していたのでしょうか? 「委」は倭音・呉音・漢音とも「い」、「奴」は倭音・呉音「ぬ」、漢音は「ど」ですから、委奴国は「いぬの国」または「いどの国」として国書を使者に持たせた一応は考えらます。そもそも、委奴国王が国書も通訳も持たせず使者を後漢に送り、光武帝に面会などできません。ましてや漢語を理解しない野蛮国の誰とも分からない使者に後漢が金印を与え、国書(冊)や金印を渡すことなどありえません。
 紀元前2~1世紀の硯が唐津市、糸島市、福岡市、筑前町、松江市から、紀元1~2世紀の硯が吉野ヶ里町から見つかっており、紀元3世紀の倭人条には卑弥呼は「使により上表」し、「使訳通ずる所、三十国」と書かれています。末盧国(唐津市)、伊都国(糸島市)、奴国(福岡市)、邪馬壹国(筆者説:吉野ヶ里町・筑前町・朝倉市など)など卑弥呼を共立した倭国の30国には漢語を理解し、漢文を読み書きできる通訳がいたのです。発見された硯からみて紀元前2~1世紀にはこれらの国々では漢字を使用していたことが明らかです。
 では漢字を理解していた倭人が、「奴隷」「匈奴」などに使われる「奴」字を国名に使用したでしょうか?「奴」字は「女+又(右手)」で、手を縛られた女奴隷を表す字とされています。
 この難問には数か月、悩みましたが、私の結論は「奴」字は、中国が母系制社会であった周の時代には「女+又(股)」で、子供が生まれる女性器を指していたのではないか、それが倭国に伝わってそのまま残っていたのではないか、という解釈です。「奴」が女奴隷を表すようになったのは、春秋戦国の戦乱によって奴隷が生まれてから、と考えられるのです。
 というのは、「姓名」の「姓」が「女+生」であり、孔子の「男尊女卑」の「尊」字は「酋(酒樽)+寸」、「卑」字は「甶(頭蓋骨)+寸」で「女が支える先祖の頭蓋骨に、男が酒樽を捧げる」という鬼神信仰(祖先霊信仰)の男女の役割分担を示していることは前に述べましたが、孔子が理想と考えていた「女+臣」の姫氏の周王朝の時代は母系制社会であった可能性が高いのです。
 孔子が住みたいとあこがれた「道」(天道・人道)の倭人国にはこの母系制が残っており、「奴」は尊字・貴字として使われていたと見られます。それは、八嶋士奴美(やしまじぬみ)などスサノオ2・3・5代目の王名や大国主の越の妻の奴奈川姫(ぬなかわひめ)の名前などに「奴(ぬ)」字が使われていたことから明らかです。「奴(ぬ)」は霊(ひ)=魂が宿る女性器(女+又)であり、魂が宿る「玉」(ヒスイの勾玉)を表していたと考えます。
 海の「うみ、あま」読み、「原」の「はる、はら」読みの「い=あ」「う=あ」母音併用の例から見て、「委奴国」は倭音では「いぬうあの国」と発音し、「いぬの国」とも「いなの国」ともとれる発音であり、「稲(いな)の国」として「委奴国」の国名を国書に印し、光武帝に上表した可能性が高いと考えます。
 「海人族の倭人は紀元前から海を渡って国際交易交を行っていた」「倭人は紀元前から漢字を使用していた」「倭人は倭音の倭流漢字を使っていた」「倭音の母音は『あ=い=う』ととれる発音であった」「倭人は母系制社会であり、周時代の漢字用法が残っていた」という大前提で古代史を見直す必要があると考えます。
 この国は中国文明を積極的に取り入れながら、「主語―目的語―動詞」の言語構造を変えずに漢字を使い、倭音を捨てることなく呉音・漢音を使っていたのです。安定した禾=倭(稲)の国、積極的に交易を行う国であり、霊(ひ)継ぎを大事にする母系制の国であったのです。
 この長い歴史を踏まえるならば、食料を外国に頼り、貿易戦争を隣国に仕掛け、敵地攻撃能力を誇る軍国主義国への道を歩んではならないと考えます。

注:2019年12月17日のフェイスブックの原稿に加筆・修正しました。雛元昌弘



「琉球論5 『全国マン・チン分布孝』批判の方言北進・東進論」の紹介

2020-02-04 17:52:38 | 倭語論
 本日、Livedoorブログ「帆人の古代史メモ」に「琉球論5 『全国マン・チン分布孝』批判の方言北進・東進論」をアップしました。柳田圀男の『蝸牛孝』の「方言周圏論」(天皇中心史観の方言版)批判に続き、性器方言の起源が琉球からの「方言北進・東進」であることを解明しています。http://blog.livedoor.jp/hohito/
 古代史で根強い日本民族形成の「二重構造説」や「弥生人による縄文人征服説」、古代人口の「西低東高説」、縄文社会の「東日本中心説」(サケ・マス文化論)などに対し、私は「海人族南方起源説」にたち、「方言北進・東進説」を展開しています。なお、これらの説は7300年前の「喜界カルデラ噴火」や「崇神期大疫病」などの破局的災害を無視したものであり、いずれ、その批判をまとめる予定です。
 海人(あま)族のスサノオ・大国主一族のルーツが南方系であることを方言論から解明しています。 雛元昌弘



倭語論10  「男尊女卑」について

2020-02-03 18:32:20 | 倭語論
 前回「倭語論9 『卑』字について」において、孔子の「男尊女卑」につい書きましたが、補足します。
私はわが国の古代史は呉音や漢音でなく、倭音で読み、倭流の漢字用法で解釈する必要があると考え、「漢字分解」により倭人がどのように漢字を使ってきたか、にこだわってきました。
 その発端は、狭山事件の脅迫状に見られた極めて珍しい「万葉仮名的漢字と片仮名表記」の両方が、なんと松尾芭蕉の『奥の細道』の「さみ堂礼遠あつめてすゝしもかミ川」と与謝野晶子の詩集の表紙『ミだ礼髪』にみられたことに気づいたからです。
 そこで、「奥の細道」の分析を始め、梁山泊で知りあった菊池孝介氏により「奥の奥読み奥の細道」を『島根日日新聞』に連載させていただきましたが、さらに、芭蕉の「栗といふ文字は、西の木とかきて西方浄土に便ありと、行基菩薩の一生杖にも柱にも此の木を用ひ給ふとかや」に出会い、「漢字分解」による意味解釈に進むようになりました。
 芭蕉と同じように紀元前に漢字を覚え始めた倭人は、漢字分解によって漢字の意味を理解してきたに違いないと考えたからです。念のために近くの埼玉大学の中国人留学生に聞いてみましたが、彼女は中国人は漢字の構成からその意味を読み取る、と述べていました。
 ここで孔子の「男尊女卑」についてさらに漢字分解を進めてみたいと思いますが、「尊」字は「酋(酒樽)+寸」で、「卑」字は「甶(頭蓋骨)+寸」です。「尊」は酒樽を、「卑」は祖先霊が宿る頭蓋骨を「寸(手)」で支えるのです。

「男尊女卑」の「尊」「卑」字の漢字分解



 孔子の「男尊女卑」は対句で、「女は頭蓋骨を掲げ、それに男は酒を捧げる」という宗教上の役割分担を表した意味になります。死者の頭蓋骨を女が奉げて祀り、男はそれに酒を供えるのです。「姓」=「女+生」からみても、祖先の祀りは女が担うのであり、宗教上の役割は女が主、男が従になります。
 「男尊女卑」を「男は尊い、女は卑しい」と解釈するようになったのは、女奴隷が生まれて女性の地位が下がってからであり、後世の儒家による歪曲です。孔子が高弟の子貢を評して「女は器なり」と述べ、「畳の上で死ねそうもない」とした高弟の子路を「樽」としたのは、甲乙つけがたい両者を対等に「男は樽、女は器」と祖先を祀る祭祀の役割分担を例えて述べたのです。子路を尊び、子貢を卑しいとしたのではありません。
 私は真崎守の漫画でしか『老子』を知りませんが、老子は料理人の女性を弟子にしているのに対し、これに対して孔子は「男尊女卑」と誤解していて魅力を感じませんでしたが、思想家としての孔子を見誤っていたと思います。もっとも「論語よみの論語しらず」ならぬ、「論語よまずの論語しらず」ですが・・・
 魏皇帝が「卑弥呼」に破格の「親魏倭王」の金印と曹操一族にしか持てない「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡(きんぎんさくがんしゅりゅうもんてつきょう)」(龍は皇帝を象徴)を与えたのは、孔子の本来の意味の「男尊女卑」に基づ、「鬼道」を行う卑弥呼に格段の「親近感」を覚えたからだと考えます。私は「霊(ひ)御子」「霊(ひ)巫女」として私はこれまで書いてきましたが、その確信を深めました。(詳しくはアマゾンキンドル本の『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』参照)
 この国は「男女の格差」を示すジェンダーギャップ指数(2019年)で、世界153か国中110位、経済の分野では115位、政治は144位、中等教育就学率128位と、最貧国・後進国であることを世界中に暴露していますが、かつてこの国が女王国であった歴史を思い出し、未来を展望すべきと考えます。
 魏皇帝が女性向けの銅鏡百枚や多くの絹織物、真珠、鉛丹(口紅用か)を卑弥呼に贈り、男性用としてはわずかに刀が2本であったことをみると、邪馬台国を構成する30国の多くは女性が祖先霊の祭祀を行う女王国であったのです。

注:2019年10月27日のFBに掲載したものに加筆・修正しました。 雛元昌弘


「琉球論3 『龍宮』への『无間勝間の小舟』」「琉球論4 『カタツムリ名』琉球起源説」の紹介

2020-02-03 13:02:17 | 倭語論
 昨日、Livedoorブログ「帆人の古代史メモ」に「琉球論3 『龍宮』への『无間勝間の小舟』」をアップしました。記紀神話に登場する「龍宮」への舟と航海はどのようなものだったのを荒尾南遺跡の帆舟土器線画やアイヌのイタオマチプ(板綴り舟)から考察し、龍宮神話が架空の創作ではなく、真実の伝承であることを明らかにしています。http://blog.livedoor.jp/hohito/



 本日は「琉球論4 『カタツムリ名』琉球起源説」をアップし、柳田圀男の『蝸牛孝』から、カタツムリ方言の起源が琉球であることを考察しています


 海人(あま)族のスサノオ・大国主一族のルーツが南方系であることを帆かけ舟と方言論から解明しています。 雛元昌弘

「琉球論2 『龍宮』は『琉球』だった」の紹介

2020-02-02 10:05:27 | 倭語論
 昨日、Livedoorブログ「帆人の古代史メモ」において「琉球論2 『龍宮』は『琉球』だった」をアップしました。
 記紀神話に登場する「龍宮」は、海の底の架空の話とされてきましたが、龍宮=りゅうぐう=りゅうきゅう=琉球であると私は考えます。2018年5月に書き、『季刊日本主義』(43号2018秋)に掲載した原稿「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ」をもとに加筆・修正したものを、2回にわけて紹介します。
 卑弥呼(襲名アマテル4)を筑紫大国主王朝11代目であり、卑弥呼の後継者争いで破れて薩摩半島生南端の笠沙に逃げ延びたニニギ(偽名の可能性がある)の子が山幸彦(山人:やまと)であるとする私の説については、『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)を参照下さい。スサノオ・大国主建国論と邪馬壹国、大和朝廷の関係を解明しています。 雛元昌弘
http://blog.livedoor.jp/hohito/