※木下裕也先生の「教会・国家・平和・人権―とくに若い人々のために」記事を連載しています。
木下裕也(プロテスタント 日本キリスト改革派教会牧師、神戸改革派神学校教師)
内村鑑三の非戦論
日清戦争をどう見るのかについて、当時日本では義戦論がとなえられていました。この戦争は朝鮮の政治に口出しして朝鮮の発展を遅らせている清をこらしめ、朝鮮を清の手から解放して文明化をうながす正義の戦争であり、文明国である日本が清に対してふるう教訓の鞭であるとの理解が支配的だったのです。当時のキリスト教指導者たちの多くもそのような考え方に立っていました。
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内村鑑三も日清戦争のおりには義戦論者のひとりでした。しかし戦争に勝利した日本はアジア侵略政策をつのらせ、戦勝に酔った政治家、軍人、言論人、実業家たちのおごりや道徳の乱れは目に余るものでした。自国の利益、自身が強い国になることだけを欲する日本の現実を目にした内村は「日清戦争の義」をとなえた自分を深く悔い、日露戦争のさいには義戦論を捨てて非戦論に立ち、日本の進み行きに対する鋭い批判者、警告者となっていきます。
内村の非戦論はいかなる意味においても戦争を認めないというものです。絶対的な平和、絶対的な戦争廃止の立場です。それを聖書そのものが教えているというのがその理由です。理屈をつけずに聖書の御言葉に従う姿勢を内村ははっきり持っていました。彼の非戦論もこの信仰の姿勢から導き出されたのです。
内村の非戦、平和の考えの要点だけを以下に挙げます。現代のわたしたちが平和について考えるときにも、耳をかたむけるべき指摘がなされていると思います。
▢敵を愛せよとのキリストの教えは決して理想論ではない。これはキリストが命じておられることである。そうである以上、これを守り行う力も神が与えてくださる。
▢軍事的な抑止力によって平和を実現することはできない。もしできるなら、世界はとっくに平和を実現しているはずである。剣をふるうことでむしろ憎しみと報復の連鎖がつのるばかりであるというのが本当ではないか。剣を捨てることによってこそ平和が到来する。悪とは自滅的なものである。
▢キリストが教えられた無抵抗の教え【注1】は人を無気力にするとの意見があるが、反対である。無抵抗は抵抗するより勇気のいることである。われわれは愛のため、勇気のため抵抗しない。敵を愛し、敵の善を思う。これには敵を倒すことにまさる非常な勇気を必要とする。
▢あらゆる戦争の奥底には、人間の罪の問題があることを知らねばならない。われわれは何より自分自身の罪とたたかわねばならない。その意味では敵は外にでなく、内にある。十字架のキリストを仰ぎ、罪の赦しの恵みにあずかることによってこそ、真の和解と平和が与えられる。
内村は日露戦争の開戦が迫りつつあった時期に、この戦争は日本とロシアとの戦争にとどまらず、全世界に戦争の悲惨をもたらすものになるかもしれないと警告していました。そしてその後に起こるふたつの世界大戦、十五年戦争と日本の敗戦を見ることなく世を去るのです。
【注1】マタイによる福音書5章38節以下。