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みんなの戦争証言アーカイブス プロジェクト
二・二六事件は、映画やドラマ、歴史の教科書の中の出来事としか考えていなかったが、
今回、処刑された将校の妹さんに取材することができた。...
対馬勝雄陸軍中尉の妹さん、波多江たまさん100歳である。
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【二・二六事件は陸軍の派閥争いではない。処刑された兄は、貧困にあえぐ農村を本気で救いたかった】
今回取材した波多江たまさんのお兄さんは、二・二六事件の決起将校の1人で、
昭和11年7月12日に処刑された、対馬勝雄 陸軍歩兵中尉。
この80年近くも前の出来事を、こと細かに話してくれた たまさんは、なんと御年100。
第一次世界大戦があった1914年に生まれた。
しかし。
とても100歳とは思えない肌のツヤと声の張り!
そして理路整然と話す明晰さと滑舌の良さ!
3時間に及んだ取材も、一度も休憩を挟むことなく
途切れることなく話してくれた。
そして取材後にようやくお茶をゴクリ。
茶菓子をペロリ!
なんという100歳なのか!
ただただ頭が下がる。
そんなたまさんのお兄さん対馬勝雄中尉は、子どものころから曲がったことが嫌いな性格で
「軍人とは死ぬ事なり」と日記に綴り、日本のために心身を捧げた軍人だったという。
人望も厚く、部下が戦死したならば、残された家族は生活が大変だろうと、自らの給料から生活費を渡し、
あるときは借金までして、食うに困る部下に食べ物を分けていたという。
この面倒見の良さは、本人が送った貧乏生活に起因していると、たまさんは話す。
生まれ育った頃の青森地方の農村の貧困ぶりは大変で、昭和恐慌に続き、昭和東北大飢饉と呼ばれる5年連続の凶作。
その間に、昭和三陸大津波が東北を襲った。
お米などないのでカボチャのツルを煮て食べる。
布団はないので、藁を重ね布を敷いてその上で寝る。
娘は売りに出すか女中として働かせに出す。
それは給料をもらうためではなく、まかない飯を食べさせてもらうため。
NHKドラマ「おしん」ですらまだマシと言えるよう状況だったという。
そんな生活を送ったから、お金がない部下の苦労がよくわかったのだろう。
当時、貧困地域では、軍隊に入る事がてっとり早くお金を稼ぎ出世する早道で、小さい頃から成績優秀だった対馬勝雄さんは、
陸軍幼年学校から士官学校に入り陸軍将校となった。
そして転機となったのは満州事変。
将校として50人の部下を指揮していた勝雄さんは、満州を占領するために戦った。
部下の多くは東北の貧困農家の出身だった。
その部下の多くが血を流す一方で、
日本は満州にどんどん日本人を移住させ実効支配していく。
そこへ財閥が入り込み、豊富な資源をもとに産業を発展させ私財を肥やしていく。
「貧乏人が血を流し勝ち取った土地で、財閥が私財を肥やす」
「死んだ部下には大した報奨金も与えられず貧乏のまま」
たまさんは、「兄はこの頃から政治に対する不信感が芽生えたのではないか」と言う。
そして昭和11年2月26日。
しんしんと雪がふる中、対馬勝雄中尉は首相官邸を襲撃。
他の決起将校らも、主要閣僚を殺害し主要施設を占拠した。
昭和維新と銘打って、財閥など特権階級と、そこから資金援助を受けている政党を解体し、貧困にあえぐ農村を救うべきだと昭和天皇に訴える。
しかし叛乱軍とみなされ…
2月29日に投降。
7月5日に決起将校らに死刑判決。
7月12日に銃殺刑となった。
対馬勝雄中尉 享年27
銃殺刑の直後、家族とともにかけつけたたまさん。
対馬勝雄中尉の遺体からはまだ温もりが感じられた。
若くして人生の途を閉じてしまったが、その死に顔は穏やかだったことがせめてもの救いだったという。
事件直後から、「皇道派」「統制派」の陸軍内の派閥争いだ。などと報道されたが、
たまさんは、それは政府や参謀本部が情報統制し意図的に流した情報で、決起された背景はきちんと伝えられていないと強く訴える。
少なくとも、兄・対馬勝雄中尉は、貧困にあえぐ東北の農村を救いたいと本気で考えていたという。
そんな二・二六事件に対する波多江たまさんの思い、
そして
「いつのまにか突然に始まっていた」という太平洋戦争についてのインタビューの模様は、
「みんなの戦争証言アーカイブス」で公開いたします。
http://true-stories.jp
過去の日本に何があったのか?
自国の歴史を知らずして他国と話す事はできない。
伝える事が未来につながる
安彦和弘
2015年5月18日取材