日本会議の源流を作った男――シリーズ【草の根保守の蠢動 第5回】
ではなぜ元号法制定運動が、成功を収めたのか?
その問いに答えるべく、今回は、元号法制運動の経緯を深堀してゆこう。
宗教団体の集まりとしてスタートした「日本を守る会」
元号法制定運動を推進した「日本を守る会」の発起人は鎌倉円覚寺貫主・朝比奈宗源。彼があるとき伊勢神宮に参拝し「世界の平和も大事だが今の日本のことをしっかりやらないといけない」と「天の啓示」を受けたのだという。
このような宗教的な経験がきっかけであるため、「日本を守る会」はあくまでも宗教者と文化人の集まりとして政治家や経済人は入会させなかった (※1)。
実際、「日本を守る会」設立当時の役員名簿をみると、明治神宮、浅草寺、臨済宗、仏所護念会、生長の家等々と、宗教団体の名前ばかりである(※2)。 現在の日本会議の持つ「宗教団体の連合体」という側面が、「日本を守る会」から受け継がれてきたものだということがよくわかる。
一方で、今の日本会議の役員名簿からは消えている宗教団体がある。
そう。「生長の家」だ。
前回お伝えしたように、現在の「生長の家」は「エコロジーリベラル」ともいうべき路線を採用しており、日本会議とは一切の人的交流はない。
しかし、当時は違った。
「生長の家」の社会運動と民族派学生運動
「生長の家」の創始者・谷口雅春は、終戦直後から「明治憲法復活」「占領体制打破」をスローガンに積極的な言論活動を展開しており「愛国宗教家」との異名を持つほどであった。また、強烈な反共意識とおりから勃興する創価学会への警戒心に基づき、積極的な社会運動を60年安保の頃から展開してもいた。
こういった谷口雅春と「生長の家」の保守運動は、当時盛んであった学生運動の分野にも及ぶ。
「生長の家」信者の子弟からなる「生長の家学生会」が結成されたのは1966年。
ちょうど、左翼側では「ブント」が再興されたり、三派全学連が羽田闘争を開始したりと、後年「70年安保」や「全共闘運動」などとよばれる左翼学生運動の下地が整いだしたころだ。
その後、左翼学生運動は拡大を続け、全共闘運動は全国各地に波及し、各地の大学でバリケードによる教室封鎖やセクトによる自治会占拠などが相次ぐようになる。右翼学生は各地の大学にいたものの、質・量ともに左翼学生運動に太刀打ちできない。
そんななか、社青同(日本社会主義青年同盟)が占拠し授業中断が続いていた長崎大学を「正常化」することに「生長の家学生会」に所属する学生達が成功する。
「長崎大学で、右翼学生が、左翼学生からキャンパスを解放した」というニュースは全国の大学で圧倒的劣勢に立つ右翼学生運動の希望の星となった。長崎大学学園正常化を勝ち取った学生たちは、民族派学生のなかで一躍ヒーローとなり、彼らの運動手法は「九州学協方式」として全国の右翼学生達にとりいれられていく。そして長崎大学での成功と実績を元に「生長の家学生会」を中心とし「民族派の全学連」を結成すべく、「全国学協」が1969年に設立される。
しかし、「全国学協」の結成は、いささか遅きに失した。
ノンポリの学生をも惹きつけ全国各地に飛び火した全共闘運動を代表とする左翼学生運動は、すでに69年の安田講堂事件や日大闘争を境に下火になりつつあった。
運動の主軸が「左翼学生運動への対抗」でしかない民族派学生運動としては、目標を失ってしまった格好だ。左翼学生運動という敵を失った彼らは御他聞に洩れず内ゲバに走るようになる(※3)。
村上正邦と「日本を守る会」
「日本を守る会」が結成され元号法制定運動に取り組み出した1974年は、ちょうど、目標を失った民族派学生運動の迷走がピークを迎えたころに重なる。
この頃「日本を守る会」の事務局を取り仕切っていたのが村上正邦だ。
後年「参院の法王」とまでよばれるようになる彼だが、当時は「生長の家」の組織候補として自民党から1974年の参院選挙に初出馬するも落選した直後ということもあり、生長の家を代表して「日本を守る会」の事務局の中心メンバーとして活動していた(※4)。
「日本を守る会」のデビュー戦として村上正邦がプロデュースしたのが、「昭和天皇在位50年奉祝行列」だ。この提灯行列は明治神宮の潤沢な資金や各種宗教団体の動員力をベースに成功裏に終わる。しかし村上正邦は、肝心の元号法制定運動の手応えを感じることができないままでいた。
そこで、彼が目をつけたのが、「全国学協」のOB組織「日本青年協議会」だ。
前述のように、「全国学協」の前身は長崎大学で社青同のバリケードを解除し「学園正常化」を勝ち取った「生長の家」学生信者グループだ。その延長で結成された全国学協もOB 組織の日本青年協議会も、「生長の家」信者がその大半を占めている。生長の家の信者として「日本を守る会」の事務を取り仕切る村上正邦にとっては、同じ宗教の信者同士だ。
なによりも、日本青年協議会を率いる人々は、長崎大学正常化運動を勝ち抜いた闘士であり、民族派学生運動のヒーロー。長年学生運動の現場で左翼学生運動と対峙し、左翼の運動手法も組織の動かし方も熟知している。これほどの適任者はいないだろう。
日本青年協議会と椛島有三の登場
かくて、1977年、日本青年協議会は、「日本を守る会」の事務局に入る。
実質的に事務を取り仕切ったのは、日本青年協議会書記長 椛島有三(かばしまゆうぞう)。
彼こそが、長崎大学学園正常化運動のリーダーだった人物であり、民族派学生として日本ではじめて左翼学生運動に対する勝利を収めヒーローとなった人物だ。
椛島は「日本を守る会」に元号法制化運動の進め方について次のような提案をする。
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この法制化を実現するためには、どうしても国会や政府をゆり動かす大きな力が必要だ。それには全国津々浦々までこの元号法成果の必要を強く訴へていき、各地この元号問題を自分たちの問題として取り上げるグループを作りたひ。そして彼らを中心に県議会や町村議会などに法制化を求める議決をしてもらひ、この力をもって政府・国会に法制化実現をせまらう
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その後、元号法制定運動は、「日本を守る会」に集まる各種宗教団体の動員力を利用して椛島の戦略どおりに全国的に展開され、わずか2年という短期間で元号法の制定を勝ち取ったのだ(※5)。
「国会や政府をゆり動かすために」「全国津々浦々各地に自分たちの問題として取り上げるグループを作り」「県議会や町村議会などに法制化を求める議決をしてもらう」
読者はもうお気づきであろう。
1977年に椛島有三が元号法制定運動で提示したこの戦略の基本パターン。これはまさに連載第一回で指摘した「日本会議の運動手法」そのものだ。
日本会議は1977年の元号法運動の成功パターンをいまも繰り返しているのだ。
「椛島有三」という男
長崎大学学園正常化闘争で民族派学生運動のヒーローとなり、長じて社会人になってからは元号法制定運動を短期間で成功に導いた椛島有三。
彼は、この実績をベースに、保守陣営の中で頭角を顕すようになる。そして、2015年の現在も、我々の眼前にそびえる巨大組織・「日本会議」の事務総長として君臨している。
次回は、椛島有三と日本青年協議会について、分析を進める。
ご期待いただきたい。
(文中敬称略)
[参考文献]
※1 魚住昭 「証言 村上正邦」p119—120
※2 堀幸雄 「右翼事典」p490
※3 このあたりの民族派学生運動のながれについては、日本会議の歴史を正確に理解するために重要なポイントであり本来ならばもっと詳細に記述する必要がある。しかし本稿の主題からは外れるためあえて概要のみ記すにとどめた。60年代末から70年代にかけての民族派学生運動の歴史については本連載の中であらためて記述することとする
※4 魚住昭 「証言 村上正邦」p120-121
※5 ケネスルオフ 「国民の天皇」p262いささか不規則な引用だが極めて重要な箇所であるためこの形式で引用した
<文/菅野完(Twitter ID:@noiehoie)>
≪続く≫