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あなたのことを忘れない~新田進さん「集団的自衛権への焼身抗議」2周年 〔レイバーネット 2016.11.11〕

2016-11-13 23:34:35 | 平和 戦争 自衛隊

LNJ Logohttp://www.labornetjp.org/news/2016/1111nittaより転載

あなたのことを忘れない~新田進さん「集団的自衛権への焼身抗議」2周年

    松原 明

 

 2014年7月1日の集団的自衛権行使容認の閣議決定に抗議し、直前の6月29日に新宿南口で「焼身自殺未遂」があった。その後、11月11日には新田進さんが、閣議決定取り消しと辺野古新基地建設中止を求めて日比谷公園で「焼身自殺」した

 それから丸2年経った。11月11日午後7時、ちょうど決行の時刻にあわせて「メモリアルキャンドル」をする人たちがいた。集まったのは私を含めて合計8人だった。


*午後6時半すぎ、長岩さんが一人で準備をはじめた

 呼びかけたのは、長岩均さん(65歳・写真)。「目黒でかれがつくった辺野古の映画を見に行って、話したことはあったが、ほとんど知らない関係だった。私は70年安保の全共闘世代で新田さんは2つ上だと思う。新宿の人も含めて彼らにシンパシーとリスペクトを持つべきだ。命ある限り、私は毎年11月11日にここに来て彼の遺志をしっかり受け止めたい」と語ってくれた。私が「彼も日大全共闘で当時の古田会頭に対抗する意味をこめて、“新田進”をいうペンネームを使っていた」と話すと、長岩さんは「いま初めて知った」と驚いていた。

 50代半ばの男性(写真上)は「ツイッターできょうの事を知った。マスコミはこの事件をほとんど報道しなかった。異様だった。なかったことにしてしまうのは余りにひどいと思い」今日やってきたという。

 新田さんと同じ年だという男性(写真上)は「今の世の中を憂えている。こういう人がいたことを記憶したい。自分の思いを強くするためでもある」と。

 またある女性は「長岩さんに誘われた。新田さんのことはまったく知らないが、安倍政権に強い不安をもっている」と、安倍政権への怒りをぶちまけていた。

 この日は、長岩さんの友人で真言宗の住職・高橋猛さん(写真上)が「読経」をした。彼は最初にこう語った。「私は、自死を“見えない加害者がいる殺人事件”と捉えている。殺された人の遺志をつぐことが大事で、忘れることは再び殺されることだ。きょうは人数は多くはないが、彼のことを忘れない気持ちを持ち続けよう」と。そして読経がはじまった。薄暗い「日比谷公園・健康広場」の真ん中には時計台が立っているが、そこが現場だった。時計台の下には、10個ほどのキャンドルが並んでいた。

 そのあと日音協の坂口美日さん(写真上)のリードで、賛美歌「アメイジンググレイス」などをみんなで歌い、新田さんを追悼した。

 その後、参加者が自己紹介をして一人ひとりが思いを語った。立ちながらの1時間弱の集いだった。「こうして知らない者同士が出会ったのも新田さんのおかげですね」と誰かが語った。

 新田進さんは、私の古くからの友人で「小川町シネクラブ」の活動で長年一緒だった。11月11日、彼は安倍首相と衆参両院議長、それに主要マスコミに「抗議文」を投函したあと、11日午後7時ころ「焼身抗議」を実行し、まもなく亡くなった。映像が好きで、このときの様子もベンチにビデオカメラを置いて自身の姿を撮影していた、という。あれから2年経ち、確実に進む「戦争への道」。ますます彼のことが脳裏から離れない。


*新田進さん(1998年・上映会で)

〔追記〕
●有志の手で新田さんに関する情報が以下のホームページで紹介されている。抗議文の現物もある。→http://peacephilosophy.blogspot.jp/2014/11/blog-post.html
 ただし、この記事の中に11月11日を選んだのは、ベトナム反戦で佐藤首相に抗議して1967年11月11日に「焼身自殺」した由比忠之進さんと同じ日を選んだのでは、というコメントがあるが、そうではないと思う。この日、2014年11月11日には、新田さんが力を入れて関わっていた「戦争させない・9条壊すな!11.11総がかり国会包囲行動」があり、彼はこれに連動して行動を起こしたと私は思っている。

 

 <関連記事>

2014-11-29

11月11日日比谷公園で焼身抗議された新田進さんが遺した抗議文全文‬/(再)焼身自殺行為が、2度も

 

 

 

 

 


日本人が終戦まで「特攻」を止められなかった、驚きの理由

2016-11-13 20:30:51 | 平和 戦争 自衛隊

http://gendai.ismedia.jp/articles/-/50145より転載

日本人が終戦まで「特攻」を止められなかった、驚きの理由
尊い犠牲の上に、今日があるからこそ

特攻。「十死零生」の作戦はなぜ生まれたのかを探る本連載。最終回は、次第に「成功率の低い作戦」と判明していく中で、それでもなぜこの作戦を止めることができなかったのか。その「謎」を紐解く。毎日新聞・栗原俊雄記者のスペシャルレポート。

(前・中篇はこちらから http://gendai.ismedia.jp/list/author/toshiokurihara

「お前ら、覚悟しろ」

「特攻隊を志願しましたか?」

筆者がそう問うと、江名武彦さん(1923年生まれ)は答えてくれた。

「いえ。意思を聞かれることはありませんでした」

早稻田大学在学中の1943年12月、江名さんは学徒出陣で海軍に入った。航空機の偵察員となり、茨城県の百里原航空隊に配属された。前任地の静岡県・大井海軍航空隊から百里原に到着したとき、上官が言った。

「お前たちは特攻要員で来たんだ。覚悟しろ」

特攻隊員になるかどうか、聞かれたことはなかった。そして江名さんは南九州・串良基地から特攻隊員として2度出撃し、生還した。

【PHOTO】gettyimages


前回書いた通り(http://gendai.ismedia.jp/articles/-/50088)、1944年10月に最初の神風特別攻撃隊を送り出した大西瀧治郎中将は、大日本帝国海軍航空部隊を育てた一人である。しかも、航空特攻を「統率の外道」と認識していた。それでもなぜ、大西は特攻を推進し、続けたのだろうか。

まず言えるのは、大西のみならず海軍全体、そして陸軍にも共通することだが、1944年10月の時点では、米軍を主軸とする連合国軍に対して通常の作戦では太刀打ちできなくなっていた、ということだ。

たとえば特攻が始まる1944年10月に先立つ7月、サイパン近海で両海軍が激突した「マリアナ沖海戦」では、帝国海軍は9隻、約450機の搭乗機をそろえ米海軍に決戦をいどんだ。

しかし空母16隻、900機を擁する米海軍に惨敗した。ほぼすべての航空機と、虎の子の正規空母2隻を含む空母3隻を撃沈された。一方、敵艦は一隻も沈まなかった。世界の海戦史に残る惨敗であった。

大西はこの惨敗の後、日本ほどからフィリピンに赴任する前、台湾で面談した連合艦隊司令長官・豊田副武に語ったという(豊田、『最後の帝国海軍』)。

「中には単独飛行がやっとこせという搭乗員が沢山ある、こういう者が雷撃爆撃をやっても、ただ被害が多いだけでとても成果は挙げられない。どうしても体当たりで行くより外に方法はないと思う」

 

「ヨチヨチ歩き」でも出撃

ところで、飛行機搭乗員が独り立ちするまでどれくらいの時間がかかったか、ご存じだろうか。

特攻の実情を精密に分析した小沢郁郎によれば、何とか飛ぶことができる程度になるまで300飛行時間程度が必要で、それは「人間で言えばヨチヨチ歩きの段階」(『つらい真実・虚構の特攻神話』)であった。赤ちゃんのようなヨチヨチ歩きまで、毎日3時間飛んでも、100日もかかったのだ。

当時「血の一滴」と言われた航空燃料も相当費やす。そうして膨大な時間と大切な燃料を費やして育てた搭乗員を、ただでさえ劣勢な戦場に送っても、戦果は一向に上がらず反比例するように戦死者が増えるばかりだ。

おなじ戦死するならば、命中率が高いと思われた特攻に踏み切ろう、という判断だったと思われる。前述のようにはじめに大戦果をあげたため、さらに拡大していった。

しかし米軍側が対策を整えるにつれ敵艦に突っ込むどころか敵艦隊に近づくことすら難しくなった。当然、戦果も期待したようにはならなかった。

それでも大西を初めとする海軍首脳は特攻を続けた。敵にダメージを与えられる戦術がそれしかなかった、ということもあるが、それ以外にも理由はありそうだ。 

 

なぜ「続けざるを得なかった」のか

1944年10月、大西が第一航空艦隊司令長官としてフィリピンに向かう前のことである。大西は多田力三中将(軍需省兵器総局第二局長)に特攻構想について話した。

多田が「あまり賛成しない」と述べたところ、大西は「たとえ特攻の成果が十分に挙がらなかったとしても、この戦争で若者達が国のためにこれだけのことをやったということを子孫に残すことは有意義だと思う」と話した(『日本海軍航空史(1)用兵編』)。

また毎日新聞記者で、海軍に従軍していた新名丈夫の証言をみてみよう。

大西は「もはや内地の生産力をあてにして、戦争をすることはできない。戦争は負けるかもししれない。しかしながら後世において、われわれの子孫が、先祖はかく戦えりという歴史を記憶するかぎりは、大和民族は断じて滅亡することはないであろう。われわれはここに全軍捨て身、敗れて悔いなき戦いを決行する」と話していたという(『一億人の昭和史3 太平洋戦争 昭和16~20年』)。

二人が残した大西証言がその通りだったとしたら、大西にとって大切だったのは戦果だけではない。後世の人々に、自分たち先祖がどう戦ったかを記憶してもらうこと、いわば「民族的記憶遺産」を託すことであった。

右が大西中将【PHOTO】gettyimages

 

大西はもう一つ、特攻を続ける理由があったのかもしれない。それは、その「作戦」を続けていれば、いずれ昭和天皇が停戦を指示するだろう、という期待だ(この大西の心情については、角田和男『修羅の翼 零戦特攻隊員の真情』などに詳しい)。

天皇は、特攻をどう受けとめていたのだろうか。

 

海軍に続いて陸軍が航空特攻を始めたのは11月12日。フィリピン・マニラ南方の飛行場から「万朶(ばんだ)隊」の4機が飛び立った。大本営は翌13日、「戦艦1隻、輸送艦1隻撃沈」と発表した。

同日、梅津美治郎参謀総長が、昭和天皇に戦況を上奏した。天皇は「体当リキハ大変ヨクヤッテ立派ナル成果ヲ収メタ。命ヲ国家ニ捧ケテ克(よ)クモヤッテ呉レタ」(『昭和天皇発言記録集成』掲載、「眞田穣一郎少将日記」)と述べた。

これに先立つ同月8日にも、天皇は梅津に対して「特別攻撃隊アンナニタマヲ沢山受ケナガラ低空テ非常ニ戦果ヲアケタノハ結構デアッタ」と話している(同日記)。

「あんなに敵弾を受けて」云々という内容からして、天皇は特攻の写真もしくは動画をみたのだろうか。いずれにしても、これらの史料からは天皇が特攻の戦果を喜んでいることが分かる。

ちなみに、2014年に完成し公開された「昭和天皇実録」には、特攻に関する記述がある。それによれば、天皇は梅津からの報告に対して「御嘉賞になる」(同日)とある。「実録」は、1990年から宮内庁が国家事業として作成したものである。

四半世紀の時間と莫大な税金を投じただけあって、歴史研究の貴重な資料となるものだが、特攻の場面から分かる通り、天皇の生々しい肉声が削られている憾みが残る。筆者は毎日新聞オピニオン面のコラム「記者の目」で、具体的な例をあげてこの問題を指摘した(2014年8月18日)。

ともあれ、先に見た大西の狙いは、かりにそれが事実であったとしたら完全に外れた。

【PHOTO】gettyimages

後世の日本人に残すため

さて、特攻と言えば航空機によるそれがよく知られている。しかし軍艦などによる水上特攻もあったし、改造した魚雷に人間が乗る水中特攻、さらには上陸してくる敵戦車などに、爆雷を抱いて突っ込む陸上特攻もあった。実際は、航空特攻の死者よりこれらの死者の方がはるかに多かった。

たとえば1945年4月、沖縄に上陸した米軍を撃退すべく出撃した戦艦「大和」以下10隻の艦隊を、海軍首脳は「水上特攻」と認識していたし、命令は「片道燃料」であった(実際は現場の判断で往復可能な燃料が積まれた)。この「大和」艦隊の死者だけで3000人を超える。今回は紙幅の事情で詳細は省くが、機会があればこれらの特攻のことも書きたいと思う。

敗戦が決まった翌日の同年8月16日、大西瀧治郎は割腹自殺した。遺書の中で、死んでいった特攻隊員たちに感謝し、かつ彼らと遺族に謝罪している。

「特攻隊の英霊に曰す/善く戦ひたり深謝す/最後の勝利を信じつゝ肉/彈として散華せり然れ/共其の信念は遂に達/成し得ざるに至れり/吾死を以て旧部下の/英霊とその遺族に謝せんとす」

大西はさらに「一般青壮年」に向けて

「(前略)諸子は國の寶なり/平時に處し猶ほ克く/特攻精神を堅持し/日本民族の福祉と世/界人類の和平の為/最善を盡せよ」

とつづった。

大西は後世の日本人が「特攻精神」を継承することを、最後まで望んでいたことが分かる。 

大西の願いは叶ったのか?

ところで、大西が前述の多田力三中将に特攻構想を明かした際、多田が強く反対していたら、どうなっていただろうか。それでも、まず間違いなく、特攻は遂行されただろう。なぜなら、特攻は一人大西だけでなく海軍上層部の意思だったからである。

いかに海軍航空部隊育ての親の一人といえども、大西は一中将である。大西一人では、作戦の成功=死という「作戦」を始めることはできたとしても、それを組織的に継続することは不可能であっただろう。

たとえば1944年10月25日に「敷島隊」が突っ込む前の同月13日、軍令部作戦課参謀だった源田実が起案した電報には、「神風特別攻撃隊」の隊名として「敷島隊」「朝日隊」等が記されている。

また軍令部作戦部長だった中澤佑少将によれば、大西はマニラ着任前、及川古志郎軍令部総長に会い、特攻の「諒解」を求めた。同席した中澤によれば、及川は「諒解」し、「決して命令はして呉れるなよ」と応じた(『海軍中将 中澤佑』)。

この席で本当に大西から航空特攻を申し出たかどうかは、疑問も残るところだ。いずれにしても、海軍の実質的最高責任者である軍令部総長が遂行に同意していたことは確かだ。

【PHOTO】gettyimages

さらに言えば、実は航空特攻以外の特攻は、「敷島隊」のずっと前から決まっていた。「人間魚雷」回天の試作が始まったのは1944年2月である。

「自分も後から続く」と約束しながら、長い戦後を生き延びた将軍に比べれば、いや比べる意味がないほど、大西は潔かった。

その大西の願い、「民族の記憶」は実現したと言える。敗戦から71年が過ぎた今日まで、特攻はときに祖国愛や同胞愛を語り振り返る文脈のなかで語られ、現代人の感動をよんでいるからだ。

それは「家族や国を守るため、自ら命を投げ出した若者たち」に対する共感や同情であり、「戦争でなくなった人たちの尊い犠牲の上に、今日の繁栄、平和がある」という歴史観にも通じる。

本当に死者たちを悼むならば

こうした「『尊い犠牲=今日の繁栄と平和』史観」は、戦没者の追悼式で、来賓の国会議員などがしばしば口にするフレーズだ。

筆者はこの歴史観に同意する。同意するが、そのフレーズには危険性があることも感じている。それはたくさんの犠牲者たちを悼むあまり、追及すべき責任を追及させなくさせる呪文になり得るからだ。

 

本当に死者たちを悼むならば、以下のことを考えるべきだと、筆者は思う。

たとえばたくさんの人たちが死んだ戦争を始めたのは誰なのか。あるいはどの組織なのか。敗戦が決定的になっても降伏しなかったのか誰なのか。そしてそれはなぜだったのか。特攻でいえば、それを始めたのは誰だったのか。責任者は責任をとったのか、とらなかったのか、と。

「特攻は志願だった」

戦後、特攻隊を送り出した上官らによって、特攻はそう物語られてきた。しかし、冒頭にみた江名さんのように、意思をまったく聞かれないまま特攻隊員にされていた人もたくさんいる。筆者は水上特攻として動員された戦艦「大和」の生還者20人にインタビューしたが、「作戦」参加の意思を聞かれた人はただの一人もいなかった。

そして注目されがちな航空特攻と違い、忘れられた特攻隊員も、たくさんいる。たとえば、満州の荒野で押し寄せてくるソ連軍戦車に爆雷を抱いて突っ込んだ兵士たちだ。

他の民族がそうであるように、私たち日本民族も、自分たちの歴史を誇らしいものとして記憶しがちだ。それゆえ、特攻も美しい物語として記憶されてゆくだろう。そういう側面があったことは確かだが、そうではなく、強制されて死んでいった若者たちがたくさんいたこと、さらにはそうした死の多くが忘れ去られてしまっていることも事実だ。

筆者は今後も、トータルとしての特攻を取材し、執筆したいと思う。

 

 

 

 


<11/12本日公開>アニメ映画「この世界の片隅に」ーこめられた思い…戦時中の広島と呉を舞台に〔NHK〕 /みんなで「見て応援」しよう...!

2016-11-13 17:50:49 | 紹介

 

 

 NHK おはよう日本 http://www.nhk.or.jp/ohayou/digest/2016/10/1019.html

2016年10月19日(水)

映画「この世界の片隅に」 こめられた思い

 

和久田
「今年は、アニメ映画のヒットが話題になっていますが、新たな注目作が登場します。」

戦時中の広島と呉を舞台にした映画、「この世界の片隅に」。



1人の女性とその家族の、ささやかで幸せな暮らし。

それが戦火に飲み込まれてゆく様が描かれます。





インターネットで制作費を募るクラウドファンディングでは、国内映画の過去最高額を記録。

広島では映画を支援する会も結成され、多くの戦争体験者が制作に協力しました。
そして主人公の声を演じるのは、この人。

主人公の声をつとめる 女優 のんさん
「(オファーを受けて)すごくびっくりした。
原作を読んで、すごい作品だと思ったので、絶対やりたいと思った。」

和久田
「映画『この世界の片隅に』。
原作はこちらのマンガです。
発表されたのは平成21年。
その翌年から映画化に向けて動きだし、今年(2016年)、実に6年の制作期間を経て完成。
来月(11月)公開される予定です。」

阿部
「映画にこめられた思いをたどります。」

戦時下の暮らし描く アニメ映画「この世界の片隅に」

リポート:三宅佑治(おはよう日本)

先月(9月)行われた完成試写会。
監督と、声を担当したのんさん、そして原作者・こうの史代さんが喜びを語りました。

原作者・マンガ家 こうの史代さん
「(制作を始めて)6年たちましたね。
夢のような、本当にできたなという気持ち。
本当に胸がいっぱいです。
ありがとうございます。」

 

主人公 すず
“ふつつか者ですが孝行致します。”



 

主人公は、広島市で育ち、呉市に嫁いだ女性、すず。

主人公 すず
“いわしの干物4匹で、一家4人の3食分。”



 

時は太平洋戦争末期。
東洋一と言われる軍港があった呉は、何度も激しい空襲に襲われます。

作品の特徴は、厳しい暮らしの中でも明るさを失わない、主人公・すずのキャラクター。





そして当時の庶民の暮らしぶりを丁寧に描いていることです。

アニメ映画で描く 戦時下の暮らし

原作者のこうのさんは広島出身の漫画家。
これまで、被爆者の戦後の人生を描いた作品などで高い評価を得てきました。

しかし、戦時中を描くのは今回が初めて。
きっかけは、呉に住み戦火を生き抜いた、亡き祖母への思いだったといいます。



 

原作者・マンガ家 こうの史代さん
「祖母からは、ちょっとだけ呉戦災の話は聞いたことがあった。
でも私は、あまりそれをまじめに聞いてこなかった。
祖母は亡くなって聞くことはできない。
そこらへんの後悔の念はあった。

祖父母とか、話をできなくなってしまった人々と、描くことで対話をしているような、そういう人たちのことを追いかけるように丁寧に描ければいいなと思った。」



 

「戦時中の庶民の暮らしはどんなものだったのか?」。
こうのさんは、国会図書館や郷土資料館で当時の雑誌や新聞を集め、家事の道具や服装の材質まで細かく調べました。




中でも興味を引いたのが、当時、お米を節約するために作られていた料理「楠公飯(なんこうめし)」。

こうのさんは、この料理を作品に登場させました。
もともと武将・楠木正成が非常食として考案したとされるもの。

玄米にたっぷり水を吸わせて炊くことで、ご飯の量が増えたように感じるといいます。




 

“けさはえろうご飯が多いのう、飯粒がふくらんでおる。”

すずは自信満々で振る舞いますが…。

やっぱり薄めた味しかしません。
懸命に工夫を重ねて、厳しい暮らしを生き抜こうとしたエピソードです。

原作者・マンガ家 こうの史代さん
「“昔の人は愚かだったから戦争してしまった。
そしてこんな(貧しい)生活に”と片づけられるが、彼らは彼らなりに工夫して、幸せに生きようとしたということを、この作品で追いかけてつかみたいと思った。」

 

主人公の声をつとめる 女優 のんさん
「すごく、日常とか普通の暮らしを大切に描いている作品だと思う。
戦争というのが降ってきて、だからこそ毎日を生活することがすばらしいと思える。
とてもいいテーマだなと思った。」

戦時下の広島描くアニメ映画 失われた街の再現に挑む

作品のもう1つの特徴、それは原爆や空襲で失われた広島と呉の当時の町並みを忠実に再現していることです。

その再現に力を尽くしたのが、原作に惚れ込み映画化を申し出た、監督の片渕須直さん。
片渕さんは宮崎駿さんのもとで腕を磨き、「魔女の宅急便」の演出補佐も担当。

海外での受賞歴も数多い実力派です。


片渕さんは映画化にあたって作品の舞台を正確に再現するため、東京から広島に何度も足を運び調査を続けてきました。




 

監督 片渕須直さん
「主人公のすずさんが、どのくらい自分で息づいて感じられるか。
(東京から)深夜バスで行って、広島に着いて呉まで行って、わっと見て、その日の深夜バスでまた東京帰ってきたり。
何回(行ったか)きりがない。」

片渕さんの熱意に動かされて、広島では市民が「映画を支援する会」を発足。


 

「ここの1番下、ここに座ってね。」

監督 片渕須直さん
「手すりに。」

戦争の体験者たちが、記憶を思い出しながら町の再現に協力してくれました。

原爆でほとんど消えてしまった広島中心部の町並み。
その貴重な写真を提供してくれた人もいました。





濵井徳三(はまい・とくそう)さん、82歳です。

爆心地に近い商店街で理髪店を営んでいた濵井さんの家族。
疎開していた徳三さんは助かりましたが、両親と兄弟は、いまだに骨すら見つかっていません。
その話を聞いた片渕さんは、単に町並みを再現するだけでは足りないのではと考えました。


 

監督 片渕須直さん
「そこに住んでいる方も全部含めて街なんだろうと思って。
“普通の人たちがここにいたんだな”と、(観客が)近いものとして感じることができるのでは。」


 

そして出来上がったのがこのシーン。
すずが広島の街へ買い物に出かける場面。
片渕さんは理髪店の建物だけでなく、濵井さんの家族の姿も描いたのです。

濵井徳三さん
「すごいね。
あれだけのものがよみがえってくるとは。
うれしかった、取り上げてもらうこと自体がね。」

 

監督 片渕須直さん
「これは自分の街だったと言う方がいて、それを描くのは覚悟がいることだと痛感しました。
単純に生々しいというだけではなくて、“そこにいた人の気持ちがわかる”と思ってもらえるものを画面に描こうと思った。」

映画「この世界の片隅に」 そのメッセージに迫る

“こっち来て見てみぃ。”

“なんじゃ、あの雲は。”

8月6日、広島に原爆が落とされます。

多くのものを奪った戦争とは、いったい何だったのか。

誰もが失意のどん底にあった広島の街。
それでも生きていく、すずたちの姿が描かれます。

原作者・マンガ家 こうの史代さん
「(私たちは)戦後に生まれたということは、戦争を生き延びた人からしか産まれていない。
そのことを誇りに思う。
そして敬意を表したい。
自分の知っているおじいさん、おばあさん、戦争を経験した方々、そういう人たちになぞらえて考えたり、戦争中のことを振り返っていただき、話をするきっかけになればいいと思う。」
 

阿部
「映画『この世界の片隅に』は、来月12日から全国で公開されます。」

 

 *****************:

みんなで「見て応援」しよう...!

 長谷川 宏FBさんより

(以下記事「アニメ映画『この世界の片隅に』プロモを報道できないこの国のマスメディアのどうでもよいチンケな理由」より一部引用): で、この”黙殺”の理由は何か?

 この映画の主演女優がのん(本名:能年玲奈)さんであり所属大手プロダクションと独立騒動を起こしているためだというのです。
 大手プロダクションのご機嫌を損ねたくないテレビ各局は”自主的”に報道を控え、臆病にも系列スポーツ新聞までもが一斉に”沈黙”を守っている、というのが現状なのであります。
 読者のみなさん。 まったくひどい話です。

 これだけの話題性があり報道価値があると思われる日本のアニメ映画を、マスメディアを挙げて、声優の一人が所属プロダクションともめたという、作品の評価とはまったく関係のない、どうでもよいチンケな理由で”黙殺”しているのであります。...
 マスメディアの実にくだらない保身のために、このすばらしい作品が世間から”隠ぺい”されてしまっているのです。
 これがこの国の良識あるマスメディアの振る舞いなのであります。
 なんという志の低いスケールの小さな”偏向報道”なのでしょうか。

 

 

 

 


南スーダン対立激化で大量虐殺のおそれ 国連が警告〔NHK2016.11.12〕/ 政府は、「駆け付け警護」など新たな任務の付与を今月15日にも、閣議決定する方針

2016-11-13 17:33:33 | 平和 戦争 自衛隊

NHKニュース|NHK NEWS WEB
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161112/k10010766711000.html

南スーダン対立激化で大量虐殺のおそれ 国連が警告

政府軍と反政府勢力の間で武力衝突が続いているアフリカの南スーダンについて、現地調査を行った国連の担当者は「民族紛争が起きかねない状況だ」と述べ、このままでは大量虐殺につながるおそれがあると警告しました。

5年前、スーダンから独立した南スーダンでは、最大民族ディンカ族が中心の政府軍と、ヌエル族が中心の反政府勢力との間で、武力衝突が繰り返されてきました。

ことし4月、国連などの仲介で双方が参加する政権が樹立され、衝突は一時収まりましたが、7月に首都ジュバで270人以上が死亡するなど衝突が再燃しています。

これを受けて、今週、現地調査を行った国連のアダマ・ディエン事務総長特別顧問は、11日、首都ジュバで記者会見し「対立は激化しており、民族紛争が起きかねない状況だ」と述べ、このままでは民族対立の激化に伴って大量虐殺につながるおそれがあると警告しました。
また、若者らが敵意に満ちた投稿を繰り返すなど、ソーシャルメディアなどが民族対立をあおる手段に使われている現状に懸念を示しました。
そのうえで、和解に向けた対話を進めるよう双方に求めるとともに、国際社会に対しても解決に向けた努力を促しました。

南スーダンで活動する国連のPKO=平和維持活動には、陸上自衛隊の部隊も派遣されていて、日本政府は現地の情勢などを最終的に見極めたうえで「駆け付け警護」など新たな任務の付与を今月15日にも、閣議決定する方針です。

 

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161108/k10010759591000.html?utm_int=detail_contents_news-related-auto_001

自民 合同部会 南スーダン派遣部隊に新任務付与方針を了承

 

自民党の国防関係の合同部会が開かれ、国連のPKO=平和維持活動にあたるため、南スーダンに派遣される自衛隊の部隊に、安全保障関連法に基づいて「駆け付け警護」などの新たな任務を付与する政府の方針が了承されました。

続きを読む

政府は、国連のPKOにあたるため、今月20日からアフリカの南スーダンに交代で派遣される自衛隊の部隊に、安全保障関連法に基づいて、国連の関係者などが襲われた場合、救援に向かう「駆け付け警護」などの新たな任務を付与する方針です。
これを受けて、自民党の国防関係の合同部会が開かれ、稲田防衛大臣も出席しました。

この中で、政府の担当者が「駆け付け警護」の任務を盛り込んだ実施計画の案を示し、「PKO参加5原則」が維持されていても安全を確保して有意義な活動を実施することが困難な場合は、部隊を撤収することなどを説明しました。

これに対し、出席者からは「隊員や邦人の安全確保のため新任務の付与は当然で、政府は、現地情勢をしっかり判断して国民に丁寧に説明すべきだ」といった意見が出され、合同部会として、「駆け付け警護」などの新たな任務を付与する方針が了承されました。

また、公明党の安全保障関係の合同会議も開かれ、政府側から同様の説明が行われ、新たな任務を付与する方針が了承されました。

政府は、南スーダンの治安情勢は極めて厳しいものの、自衛隊が活動している首都ジュバは比較的落ち着いているとしており、治安情勢などを最終的に見極めて、今月中旬に新たな任務の付与を閣議決定する方向で調整を進める考えです。

防衛相「部隊は対応可能なレベルに」

稲田防衛大臣は閣議のあとの記者会見で、今月20日から南スーダンに交代で派遣される自衛隊の部隊について、「2か月に及ぶ訓練を総括した結果の報告を受け、防衛省として、部隊の練度は新たな任務に十分、対応可能なレベルに達していると確認した。この判断を政府部内でも共有して、新たな任務の付与の検討を進めたい」と述べました。

 

 

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東京新聞 2016.11.12 夕刊「民族大虐殺の恐れ」