夏のような暑い日曜日。
朝の礼拝は「伝道者の書」から、むなしさを越えるまことのいのちの尊さを語り、午後からは地元の平和集会で、個人の心の中に踏み込んでくる共謀罪の危うさと、為政者たちの言葉に対する侮蔑に抗していく市民的な戦いの大切さを語り、夕の礼拝では主の祈りに込められた祈りのこころを語りました。
やがて、こんな風に自由に語れなくなる日が来るかもしれないと思うと、一回一回の機会をもっと大切にしなくちゃな、と。
2017.5.22
「暑い中、皆さまごくろうさまです。
私は徳丸6丁目のキリスト教会の牧師をしております朝岡と申します。朝の礼拝を終えて、やってまいりました。
大切な機会にご挨拶する機会を頂き光栄です。
国会では共謀罪法案が衆議院の委員会でまたしても強行採決されました。子どもたちにも見せられないような国会の様子を見て本当に残念な思いでいっぱいです。
私はキリスト教会の牧師として、共謀罪法案に大変な危惧を抱いています。この法案は現在の治安維持法と呼ばれます。
やはり牧師をしておりました私の祖父は、1942年6月26日の朝早く、教会にやって来た刑事に連れられていき、そのまま一年近く帰ってくることができませんでした。自分はなんで警察にひっぱられたか分からなかったそうです。捕まって取り調べを受けて初めて、自分の容疑を知らされた。それが「治安維持法違反」であったというのです。
共謀罪法案の恐ろしさは、これと同じく人の心の中に国家が踏み込んでくることです。そういう法案がまたしても作られようとすることに大きな恐れと危険を感じるのです。
今の為政者は言葉をまったく侮蔑しています。私たち人間は言葉で生きるものです。その言葉が軽んじられ、その言葉を侮蔑するということは、それによって自由とか、良心とか、平和とか、そういう大切な価値が失われていくことになる。そのような態度を私たちは見過ごすことができません。
また今この時、平和が安全保障と言う言葉に取って代わられようとしています。安全保障というのは相手を恐れるところから生まれる思想です。平和というのは相手に対して自分を開く姿勢です。
教会は基本的に日中玄関に鍵を掛けません。日曜日も玄関の扉を開けています。だれでも礼拝に来れるように、また困り事のある方や相談のある方に来ていただきたいと思っているからです。時々近隣のお巡りさんが防犯上あぶないから施錠してください、と言うのですが、教会はむしろ誰でもお出でになれるように玄関を開いておきたいと思うのです。これもまた平和と安全保障の捉え方の違いでしょう。
一番身近にいる隣人に対して自分を開くことができなければ、決して平和はうまれません。一番近い隣国との間に平和を築くことができなければ、世界の平和も実現しないでしょう。
私たちは平和な社会を願っています。それが一度に実現するとは思っていませんが、しかしそのための不断の努力を続けたい。このような市民的な取り組みをご一緒に続けさせていただきたいと願っています。」
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