story・・小さな物語              那覇新一

小説・散文・詩などです。
那覇新一として故東淵修師主宰、近藤摩耶氏発行の「銀河詩手帖」に投稿することもあります。

腕の傷

2025年01月08日 23時02分34秒 | 小説

 

静かな給茶室からはお城が見える。
陽は差さないがその分お城が順光になり
くっきりと石垣やその周りの緑、櫓と白壁の塀が鮮やかに
五月の空を背景にそそり立っている

この城には天守がなく、ただ石垣、櫓、土塀だけだ
城の外の堀には水が湛えられ、白鷺が遊ぶ

女は給茶室から城の風景を見ながら
さっき用意した会議室で
いつもの小田原評定が始まったのを廊下の足音で察知している

さ、そろそろいいかな・・・
女は自分用の珈琲を入れる
砂糖やミルクは使わない

「オジサンたちもこの珈琲を美味しく思ってくれるかな」
と苦笑いしながら一口、飲む
香りが立っている
「いいブラサンね」
軽い味わいと濃い香りに少しホッとする

さてと・・
自分のバックから消毒液を取り出し、制服の腕をまくり上げる
左の腕カバーを外し、そこへ消毒液を塗る
涼しい感覚が腕から全身に繋がっていく気がする
下腕にはいくつもの横筋がある

よく砥いだ肥前守を取り出して、その刃にも消毒液を塗る
明るい城が見える給茶室
女は簡便な事務椅子に座り、肥前守の刃を見る
よく砥いだ刃は、きらりと輝く
「ふう・・・」
ため息をついた女はその肥前守を自分の左腕にあてる
すうっと刃を滑らせた後に
やがて小さな血筋が浮き上がる

自分の血って、こんなにも赤いんだ
それはいつも思う事なのに、いつも新鮮でもある
また一筋、肥前守を走らせる
また一筋、血の筋ができる
それを五度ほど繰り返す

血の筋が乱れ、やや深く入ってしまったところから
血がほかの筋と混ざる
「そうね・・」
女は呟き、ペーパータオルに消毒液を沁み込ませて血をふき取り
軽く傷薬を塗りこむ
血が傷薬と交じり合う

そこに新しいペーパータオルを切って被せ、その上から包帯を巻く
また腕カバーを付けて「ふうっ」ため息をつく
「ワタシ、生きているんだな」
そう呟く

「またそんなことしてる、駄目だよ」
いきなり、彼女もこの人だけはと、この会社で信頼している営業部長の声がした
「あ・・」
「お茶が少し足りない、美味しい珈琲だったから同じものを、みんなにもう一杯ずつ頼むよ」
「はい」
彼女が答えた時には営業部長の姿はなくなっていた

それから数日後
たまに一人で行くマスターの店で会う男性とどうした訳か泊まることになった
彼女の腕カバーを「なんでいつも腕カバーをしているの?」
と不思議そうに聞く男性に
「わたしはこんな女なんです・・あなたもきっとこれを見ればわたしから逃げるわ」
そう言って腕カバーを外して見せた
何十本もの横傷が並ぶ白い腕
男性はそれをみて、彼女の腕をとり
その傷の部分を嘗めだした
「な・・なにをするの」
「いや、変なことじゃない、愛おしいんだよ」
男性がそう言いながら彼女の腕をしみじみ眺める
「この傷は自分の命を軽んじているんじゃなくて、命の不思議を魅せてくれたんだろ」
何も言い返せなかった

そう言えばあの営業部長も彼女の腕の傷を見た時に似たことを言っていた
「命って不思議だよね」
「でも、あまり傷つけちゃだめだよ、君自身が可哀そうだ」

男性に抱かれながら「営業部長さんに抱いてもらいたい」
そんなことを思う自分が不思議な彼女だった

 

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最期のそのとき

2024年12月05日 22時04分08秒 | 小説

異性の友人として付き合っている女性、裕恵が体調がよくないと言ってきたのは半年ほど前だっただろうか。
彼女は薬剤師であり、街中の調剤薬局に勤めていた。
仕事に熱心になり過ぎて婚期を逃したと時々笑うような人だ。
お互い、年齢は五十に近く、確かにいろいろな病気のリスクというものはある。
それゆえ、大きな病院でしっかり検査をと彼女の背を推した。
「言われなくてもそのつもりよ」
けれど、体調がよくない状態で何か月も我慢をしていたはずだ。

一月ほど時間をかけた検査で裕恵が癌の一種に罹患していることが分かった。
「大丈夫よ、医学は進歩しているし、まずは化学療法で緩解にもっていくから」
強がっている風でもなく心底、そう言っているように見えるのはやはり彼女が薬剤師であるからなのだろうか。

仕事中、スマホに着信があった。
彼女、裕恵からだ。
「ね、今、いい?」
「ああ、ちょうど休憩に入ったところだ」
「その頃だろうと思って電話したの」
「なるほど・・」
「今日、検査結果が出たの」
「そう、結果はどうだったの?」
「うん」
そう言ったまま、電話の向こうの彼女は黙り込んでしまった。
「どうしたの?」僕が問いかける。
「うん」
だがまともに返事がない。
これは何か辛いことを医者に言われたか・僕はそう直感した。
「仕事が終わったら会おう、メシでも食おう」
僕はそう言ってやった、詳しいことは目を見て聴こう。

その日、駅前で待ち合わせた彼女は意外にも落ち着いていた。
行きつけのレストランに入り、適当に注文した後、ワイングラスを合わせる。
「で、どうだった?」
僕は小声で彼女に聴いた。
「うん、癌よ」
「癌は分かっている」
「うん・・」
「それで・・」
「なんとかなりそう、結構辛い治療かもって先生は言っていたけど」
「なんとかなるなら頑張るしかないな」
「うん・・」
そう言いながらアスパラガスのカツを口に放り込んだ彼女は、目に涙をためていた。
そしてふっと口にする言葉。
「ね、今からお願いがあるの」
「なに?」
「抱いてほしい・・」
僕はいきなりの言葉にどう返事していいかわからず彼女を見つめる。
「どうゆうこと?」
「あなた、前にワタシの肩を抱きしめたことがありましたよね、あの続き」
そう、数か月前、一緒に歩いていた裕恵があまりに綺麗に見えて、思わず後ろから肩を抱きしめたことがあった。
あの時は彼女は軽く僕の手を払いのけ「まだその時ではありません」と小さな声で言った。

そのあと、その店近くのラブホで僕は彼女を抱いた。
齢五十、その年齢が信じられぬほどに小柄な彼女の肌は若者のように張りつめて、小さいが形の良い胸は豊かな弾力を魅せてくれた。
「もっと、もっと強く抱いて」
白い肌に汗を光らせ、彼女は僕の首に腕をかけて必死にそう叫ぶ。
僕は可能な限りの力を振り絞って彼女に応えようとする。

全てが終わったあと、彼女は「ありがとう」と言いながら微笑んだ。
そして「しばらく、頼みますね」とも。

清楚というより普段は全く性的なものを感じることのない裕恵からそう言われたのは意外だった。

それ以降、月に二度ほど身体を合わせることが続いた。
何度目かのあるとき、僕は思っていたことを口に出した。
「もしかしたら、君自身の命の限りを感じているの?」
すると彼女は僕にしがみついて大声で泣きだした。
それはまるで、赤子が母の胸の中で泣くようなものだった。
「怖いの?」
僕が訊くと即座に答えが返る。
「当たり前でしょ、わたし死ぬのよ」
そしてそのまま二人の深い海の中へ入りこんでいく。

やがて彼女は入院した。
それまでも二週間くらいの入院は何度かあったが、その時はもはやいつ帰られるか分からないと本人が言う。
そして入院した部屋での同室の病人たちとのやり取りを面白くラインで伝えてくれた。
「斜め向かいのお婆さん、食事の時についてきたものを溜め込むんですよ~~ヨーグルトや牛乳の蓋とか」
「人間は不思議だね、何かを取り込んでいないと安心できないのかも」
「ですよね~ワタシはあなたの心を取り込めたかしら」
「う~~ん、なんとも言えないが、早くまた抱きしめたい」
「あら、そう思ってくださるんですね」
「もちろん」

二か月近く入院していきなり彼女は僕の目の前に現れた。
LINEで「お近くの駅前にいます」と送ってくる。
公休日でゆっくりするつもりだった僕は慌てた。
「え・・・病院は?」
「一時的に外泊許可をもらいました」
「そうなんだ」
「今日、可能なら会ってください」
そんなに強く彼女に言われたことはない。
僕は何よりも彼女に会いにクルマを駅へ向かわせた。

さほど広くない駅前のロータリー、その脇で杖を突きやっとの思いで立っているであろう裕恵、彼女を見つけた。
「大丈夫なのか、こんなところまで来て」
彼女は大儀な風で僕のクルマに乗り込み「大丈夫じゃありません」という。
「じゃ、なぜそんなに大変な思いをして」
「ね、久しぶりに抱いてくれます?」
それを否定する気持ちを僕は持てない。
「わかった、あそこでいいか・・」
よく行っていたラブホの名を出すと「いいですよ」とのこと。

柔らかいオレンジの光線が広がるホテルの客室で彼女の肌がやや疲れて見えた。
胸の弾力はあるが、彼女が快感を感じたそのあと、大きな呼吸をした。
そして、は、は、は・・と大きな苦しそうな呼吸になる。
「大丈夫か?」
訊くと「はい、もっと、もっと」という。
いつものように愛撫を続けているとやがて呼吸が大きくなり、とてもこれ以上は続けられないと僕が感じるようになってしまった。
「無理だよ、それ以上やると命に係わる」
「いえ、もっと、もっと」
息を切らせてそう言う。
「僕は犯罪者扱いされたくない、それより今度また体調がよくなってから続きをしよう」
そういうと、彼女は僕の首に回していた腕を離した。
けれど相変わらず呼吸は荒いままで、彼女の胸に僕の耳を押さえつけると、激しく鼓動する心臓の音が聞こえた。
「続きなんてあるのかしら」
彼女は裸のままそう言って泣きじゃくった。
「帰っておいでよ」
僕がそう言うと彼女は頷いたが「優しいのね、でも無理なの分かっているでしょ」と呟く。
そしてまたしばらく泣いた。

部屋を明るくして彼女の肌を見ると、全体に黄色がかっている。
「ものすごくしんどそうに見える」
はぁはぁと息をしながら「そうなの?」と彼女は訊く。
「次に続きをするのを決めた、君は必ずここに帰ってこなくてはならない」
「ありがとう」

暫くそのまま休ませてから、僕は彼女を彼女の自宅近くの駅まで電車に同乗して送った。
「駅からすぐですから」
そう言う彼女を無理にタクシー乗り場につれて行って、止まっていたタクシーに乗せた。
結局、その日の夜から彼女はまた病院に戻っていく。

そのあともずっと彼女からの何らかのメッセージはラインであったりスマホのメールであったりはするが続いていた。
ただ、その日から十日ほどあと、彼女からのメッセージがない日があった。
そこから何日もメッセージがない。
不審に思った僕は彼女が入院していた病院に伺ってみたが「患者さんのことは、ご家族でない限りお伝え出来ません」とのことだ。
そこで、前に一度、自宅の電話番号を訊いていたのを思い出し、そこへかけてみた。
出たのは彼女の母親だった。
「娘は、数日前に病院で亡くなりました」
そう言って泣いている様子が伺えた。
そして一方的に電話は切られた。

おい、裕恵、まだ続きがあったじゃないか・・
僕はそう呟きながら意識を失った。

 

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みたび鬼無里へ

2024年10月28日 19時33分54秒 | 旅行

長野、小諸での墓参も5年目に入った。
そろそろ、〆をしなければと思うが、それは来年叔母の七回忌以降でよいだろう。
行ける資金、体力のある限りしなければならないことだ思う。

小諸へ行く前に長野でほぼ半日の時間を得たので、レンタカーを借り鬼無里へ向かう。
国道406号は相変わらず狭くて走りにくいところもあるが、随分、改良が進んでいるように思えた。
長野駅から20キロ強、所要50分ほどで鬼無里の「旅の駅きなさ」に到着した。

たぶん昼食時間しか営業していないであろう、そば処「きなさ」に先に入る。
鬼無里は信州蕎麦発祥の地ともされる。
かつて麻の栽培で日本一を誇った鬼無里、その裏作で始めたのが蕎麦だ。
冷たい水と地質が蕎麦にあい、鬼無里の蕎麦はすぐに評判をとった。
だが、麻で十分儲かっていた鬼無里の人たちは蕎麦に対しては淡々としていて、不作の年は「ない」で済ませたそうだ。
それに対し、隣の戸隠では「蕎麦で人を呼ぼう」と本気で考え、不作の年はどうするかなども綿密に考え、折角訪れた人たちを悲しませないような工夫もしたという。

結果として「蕎麦は戸隠の名物になった」とは土地の長老のお話からだ。
ワタシは酒を呑むのだがさすがにレンタカー利用では酒は呑めない、いや、そもそもこの店には日本酒はなくビールだけがあるという感じで蕎麦と酒の繋がりはしばしお預けだ。

それでも、鬼無里の蕎麦は旨い。
3年ほど前に路線バスで鬼無里入りしたときにもいただいたがあの時の味が忘れられず、今回もまずは「蕎麦」だ。
ワタシの縁のある小諸も蕎麦が旨いが、鬼無里のものは小諸に負けてはいない。
非常にうまい蕎麦を酒抜きで食う。
気がつけば店の営業時間は終了していて、観光客らしき人たちを断っている。
なんとか食えたワタシは幸せ者だ。

蕎麦を食ったら歩いて5分ほどの松巌寺へ向かう。
過去二回の鬼無里訪問ではここが「ついで」になってしまってマトモに見ていなかったこともある。
旅の駅付近から趣のある本堂が見える。

松巌寺は曹洞宗とのこと、ワタシがいつもお世話になっている小諸善光寺(大雄寺)もおなじ宗派でそう言った意味では親近感がある。
元々、紅葉伝説の紅葉が持っていた地蔵を祀った寺院で、当初は真言宗だったらしい。
それが江戸期に松巌和尚により、本尊勧進が行われ曹洞宗に改宗したらしい。

松巌寺の石段。

山門。

正面から山門と本堂を望む。

山門すぐ脇にある貴女「紅葉」の墓。

通路を挟んで存在する「紅葉家臣の墓」


本堂全景。

正面から。

貴女紅葉の看板。

本堂内部。

正面のご本尊、紅葉の地蔵尊はあそこにあるのだろうか。

天井絵。

天蓋。

紅葉伝説の扁額。
平惟茂と紅葉、鬼女紅葉。

紅葉伝説、紅葉誕生(会津)

紅葉流罪。


紅葉伝説、紅葉子息(経若丸)誕生。


水無瀬(鬼無里)での内裏屋敷。

なるほどと思う。
拙作「鬼無里の姫」では紅葉を双子にして、伝説の違和感を解消した。
それはそうしなければ、会津と信濃の双方に縁を持つワタシとしては納得できないからだ。

道元の歌を川端康成が書き留めた石碑。

経蔵。

観音堂。

松巌寺縁起。

本当はご住職と少し話がしたかったが不在とのこと、それでも寺院には時折、ここを纏っている方々が出入りしているのが印象的だった。
なお、本寺院のご住職は本年に交代されているとのこと、いつもの小諸善光寺御住職もご存じな方のようだ。

紅葉伝説が鬼無里でどのように承継されているのか、その現状も知ることができた。
ただ、あまりにも時間が足らない。
次回こそは鬼無里もしくは裾花川沿いのどこかで宿泊して2~3日かけて廻らねばならない。

松巌寺を出て、クルマを奥に向けて走らせる。
向かった先は加茂神社だ。

前回訪問時に氏子総代さんが出てきていろいろ話を伺ったところだ。
今回、神社脇を掃除しておられたご年配の男性と少し話をした。
加茂神社入り口だ。

鳥居。

拝殿、この中に本殿があるという。

神楽殿、この舞台で祭りをするのだそうだが、若い人が村には居らず、二年連続で祭りができなかった由。
こういうところにこそ、関東関西の学生が歴史を学ぶために祭り主体者として来てはどうなのだろう。

ねずこの樹、鬼滅の刃ブームは去ったらしい。

真新しい蔵があった。


クルマで坂を下り、内裏屋敷跡に向かう。
徒歩でも10分ほどだがクルマだと本当にすぐ近くだ。
色づきはじめたモミジ。

内裏屋敷跡。

貴女紅葉供養塔。

月夜の陵にも立ち寄る。
内裏屋敷跡の裏山を数分登ったところだ。

ここから白髭神社へ向かう。
前回は時間が足らず、割愛したところだ。
正面。


手水舎。
水はなかった・・

社殿。
時間が止まったかのよう。

ここは、平惟茂が紅葉追討作戦の勝利を祈願し、さらには後に木曽義仲が戦勝を祈願したところと伝わっている。
空が暗くなってきた。
先を急ごう。

クルマを暫く走らせると大望峠に出た。
曇り空ではあるが、北アルプスの全景が見える。
右手前の山が一夜山で、鬼無里遷都伝説の舞台でもある。

山の名前はこちらから・・

戸隠西岳の威容。

ここから戸隠へ向かう。
戸隠神社宝光社の前を通過し、中社前へ、そこから奥社前を経て気がつけばクルマは黒姫近くへ来てしまっていた。
そこから長野市内へ・・
夕方のラッシュ時、鉄道の力の弱い地方での道路渋滞は生半可ではないことを思い知りながら、ぎりぎりレンタカー営業所に時間内にクルマを返すことができた。
走行距離は85キロだった。

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めがねの向こうのあなた

2024年10月16日 22時07分45秒 | 詩・散文

 

スマートフォンの目覚しアラームが鳴った
時刻は午前六時ちょうど

ベッドから起き上がり、ダイニングキッチンに向かおうとした
おっと、その前に
枕もとの「めがね」をかける

明るい日差しが差し込むキッチンで
妻が健気に働いている
「おはよう、あいこ」
声を掛けると「あら、今日は自分で起きられたのね」
妻がフライパンを持ったままおかしそうに笑う
「まぁね、朝くらい自分で起きないと」
「わたしの手が掛からなくてよくなったのね」
「そ、僕も少しは大人になるんだ」
そういうと、妻が吹き出した

リモコンでテレビのスイッチを入れる
目の前には旨そうなベーコンエッグと軽いサラダ
僕は手を伸ばしてそれを掴み口の中に入れる

「箸で食べなさい」
妻が注意してくれながら笑う
「ああ・・」
そう言って僕は箸でそれを掴むがうまく掴めない

暖かい珈琲、ゆっくりとした時間
だがこの空間には香りがない
食べ物の香りも妻の香りもない
テレビニュースでは昨日の衆議院解散を報じていたが
すぐに某野球チームの敗退へと流れが変わった

「タイガースは残念だったわね」
妻がさして残念そうでもない表情でそう言う
「エーアイ、そこは違う、愛子はオリックスバッファローズのファンだ」
妻は一瞬、僕の顔を見る
「オリックス、今年は駄目だったわね」

僕はXRAIゴーグル通称「めがね」を外した
ダイニングキッチンの明かりはついておらず
テレビニュースの音声だけが広がる
窓の外は朝から暗い雨
目の前には昨夜買っておいたロールパンがある
僕はそれを箸で取ろうとしていた

涙が染み出る

「愛子・・・」
テーブルの上には小さな写真立てに入れた妻の笑顔
急激に進行する癌で逝った妻
妻の死から一年、僕はまだ妻の死を受け入れられない

「めがね」をかける
明るい部屋の中で妻が悲しそうに立っている
「ね、わたしは、こうしてここにいるよ」
「ああ、ありがとう」
「わたしが至らないことがあれば、さっきのように教えてください」
「うん、そうだな」
「本当の愛子さんに近づけるよう頑張りますから」
妻は僕の目を見る
褐色の大きな瞳はまさに妻のものだ

僕は両手を広げた
妻は一瞬ためらいながらも僕の腕の中に入ってきた
もちろん、体温も感触もない妻だ
ぎゅっとそのまま抱きしめて口づけなんてことは出来っこない
だが、この時の妻は耳元で「愛してる」と囁いてくれた

妻の身体の感触が蘇る
妻の香りが蘇る
妻の体温まで蘇る
着ているブラウスをはぎ取って
胸の中に顔をうずめたい衝動に駆られる

だが所詮は映像でしかないのだ
そのはずなのだ
妻は自分でブラウスのボタンを外す
あの、懐かしい妻の胸が僕の前に広がる
僕は泣きながらそれに顔をうずめる
不思議に感触までもが蘇ってくる

しばらくして僕の心が落ち着いてきた
「あいこ、ありがとう」
妻は僕から少し離れ、ボタンを直す
「エーアイすごいなぁ、ここまで出来るなんて」
涙を拭きながら妻に向かって言う
「今、あなたは「めがね」をしてないのよ」
「え・・」
「さっき、わたしが抱きついた時にあなたは無意識に「めがね」を外したの」
テーブルの上にはXRAIゴーグル通称「めがね」が置いてあった
部屋の明かりはついていない
外は暗い雨だ

だのに「あいこ」いや、死んだはずの「愛子」がそこにいた
「愛子なのか・・」
「あなたが不憫すぎて・・でも、あなたにしか見えないわ」
「本物の愛子なのか」
「本物よ、怖い?」
「怖くなんかない、ずっといて欲しい」
「幽霊でもいいの?」
「幽霊なんかであるはずがない、愛子の思いが目の前にいる」
そう僕が答えると妻は軽く頷いた
「わかった、天上に行く時は一緒に行きましょう、その時まで」

僕は照明のリモコンで明かりをつけた
明るい部屋の中、ややブラウスの乱れた妻が立っている
妻は嬉しそうだ

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霧雨の列車

2024年09月12日 21時39分02秒 | 小説

北海道をレンタカーで走る
観光と言えば観光かもしれない
だが僕に特に行くあてはなく
このクルマを返すまでの一週間で何処まで行けるか
関心はそこにしかない

いろいろな日常が煩わしく
勤めていた会社を辞めた
僕はもう還暦を超えているが
食うためには仕事をするしかない

だがその仕事ももうあと数か月で年金が支給される・・
その前に辞めたのだ
何もしなかった人生
もっと何もしないということ
何がしたいかと言えば何もしないことをしたい

本能から出た叫びが僕の心を占めた時
僕は会社に辞表を出していた

この年にして家族もおらず
かつて恋愛の経験はあれど遠い昔だ

北海道に来てから雨が多い
今はまだ降ってはいないが寒く暗い空だ
クルマは空知から十勝へ向かう

気温が急に下がった故か
霧が出てきた

霧は進むほどに深くなる
カーブが連続する道も
沿道の樹々の影が見えるだけで
ただ霧の中へ向かう

狩勝峠を越えたようだ
展望台はあるがなんの眺望も開けない
やがてトンネルを超えて
道は下っていく
ヘッドライトはむなしく霧を照らす

坂を下り、やがて右側に霧の中にも目立つ大きな看板が見えた
この辺りで少しクルマを停めようと思っていたので
公園かレストランでもあるのだろうかと、その看板のところを右折した

ほんの少し走ると、クルマの左側、いきなり列車が現れた
霧の中、ぼんやりと佇むその列車は動いていないようだった

そこに黒い機関車に牽かれた青い客車があった
客車には車体の上と真ん中と裾に白い帯が巻かれている
この客車は・・昔の特急ではないか・・・
霧の山中に突如として現れた列車に僕は驚いた

僕が子供の頃、多くの少年たちが心をときめかして
東京駅、上野駅、大阪駅などへ眺めに行ったあの寝台特急の客車だ。
そしてその先頭には、黒い機関車
「これはキューロク(九六〇〇形蒸気機関車)ではないか」

貨物機だったキューロクが特急の先頭に立っている
それはこの列車が現役当時ならおかしな光景だったろうが
こうしてふっと出会えたこの不思議な列車に
僕は妙な安心感を覚えた

霧がやがて雨になる
粒の細かい雨が機関車と客車、森の中を濡らしていく

ふっと、客車の前に少年が立っているのが見えた
こんな霧雨の山中に子供がいる
少年は客車をずっと眺めているようだ
「君は、ここの人なんか?」
僕の問いに少年は客車の方を見たまま
「いや、ボク、神戸やねん」
「神戸?僕も神戸やけど・・どうやってここに来たの?ご家族は?」
「うん、学校が終わってから・・」

霧雨が降っている
青い客車がプラットホームに停車していた
この先、豪雨で運転が見合わせになったのは昨夜らしい
東京からの寝台特急が地元の駅に停まったままやでと
クラスメイトが教えてくれた

寝台特急は京都や大阪からのもあるが
カッコいいのはいくつも優等車を連結した東京からの列車だ
当時、熱烈な鉄道ファンだった僕は
授業が終わってから近くの駅へ行った

雨で運転が規制され駅の改札は閉じていた
「すみません、停まっているあの列車が見たいんです」
普段は内気な自分が良くそこまで言えたなと
いまでは思うが、そう駅員に頼み込んだ

「いいよ、どうせ暇やし、付き合ってあげる」
駅員はそう言い、僕をプラットホームに連れて行ってくれた。
地下道を通り、ホームに上がった僕の前にあったのは
濃い青に、三本の帯を締めた寝台特急の客車だった

客車の中は暖かそうで
停まったままの列車のなかで乗客たちが寛いでいた
こうなると慌てても怒っても先へなど行けない・・
運転開始まで待つしかないのが鉄道旅行
運行トラブルにあったときの唯一の対処だった

立派な客車だった
食堂車があったが灯りはついているものの乗客はおらず
ウェイトレスが椅子に掛けて暇そうにしていた
普通の寝台車ではたくさんの乗客たちが居て
僕を見つけて指さしてくる
上等の寝台車もあり、個室にいた乗客の少女と目が合った
向こうは僕を見て声を掛けてくれたようだが
特急の固定窓では声は聞こえない

僕も「どこまで行くの?」と訊いたが
向こうは耳をこちらに向けて声を聴こうとはするものの伝わらない
霧雨はやがて強い雨に変わっていく
少女は長い黒髪で、哀しそうな表情をしていた

「こんな立派な列車でなんで楽しくないんだろう」
独り言をつぶやいた僕に横にいた駅員が
「いつ列車が動くか分からないからやろうね」と答えた
いや、あの少女の哀しそうな眼はそんなことが原因ではなさそうだ
僕は少女と暫く向かい合っていた
「そろそろ戻ろうか」
駅員が僕を促した
少女に軽く手を振った
少女も少し寂し気に手を振り返してくれた

ふっと我に返った
僕は狩勝の山の中にいる
少年は客車に向かって何か話しかけていた
そのとき、僕にも見えた
あの寝台車の中にいる黒髪の少女が

目を凝らした
少年は楽しそうに車内の少女と会話をしている
固定窓だろ、声など聴こえまいに・・・
雨が強くなってきた
「おい、そこの少年、濡れるぞ、クルマの中に入れよ」
僕が声を掛けると、一瞬少年は僕を見た
次の瞬間、そこに少年はおらず
ただ青い三両の客車が佇んでいる

錯覚が幻覚か・・
山の中に突如として現れた青い客車を見て
大昔の自分が映し出されたのだろうか
それにしても、あの少女は東京からの寝台特急で何処へ行ったのだろうか

秋の終わり、北海道の山の中で
クルマのシートを倒して僕は目を瞑った

「わたし、あなたと、もうすぐ会えるよ」
黒髪の少女が嬉しそうに微笑んでいる
そんな夢を見た

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