story・・小さな物語              那覇新一

小説・散文・詩などです。
那覇新一として故東淵修師主宰、近藤摩耶氏発行の「銀河詩手帖」に投稿することもあります。

その町

2023年04月22日 21時28分18秒 | 日記・エッセイ・コラム

 

その町、泉大津市は大阪府南部の堺市と岸和田市の間に挟まれた小さな自治体四つのうちの一つだ。

南海電車の急行電車が停車し、大阪の難波からは大体二十分という距離である。

この街に僕たち家族が親父に連れられて引っ越してきたのは昭和四十六年の春だったか。

大阪の港で港湾荷役の職人たちを束ねる仕事をしていた親父は、仕事が順調であったものの、ある時、自殺した同僚が親父の判で借金をしていたことを知る。
それもかなり悪い筋からの借金だったらしい。

結局、親父は自ら会社を辞し、その退職金で同僚の借金を支払った。

だが、そうなると生まれたばかりの第五子をはじめとする家族六人を率いる身では

即座に明日の食べ物に困ることになる。

 

堺市の親族が泉大津市にある大手製鉄会社の下請け会社を経営していた。

その親戚に相談したところ「すぐに来い」とのこと、我が家は社宅のある泉大津に来たという訳だ。

その町は住宅が密集し、その先の海岸線には巨大な製鉄工場が何本もの煙突から煙を吐き出していて、曇り空、トラックの荷台に乗せられ街はずれの海岸近く、広大なグラウンドに面した古い社宅に着いた。

 

神戸、大阪の都会暮らししか知らない、まだ十歳の私の目には、広漠たる灰色の空と、草叢とも呼べない砂地の荒れ果てた雰囲気は心細く、なんで我が家がここに来たのか、幸せだった大阪市築港のあの優しさ暖かさが恋しく泣きそうになった。

自宅近くの小学校に五年生から転入し、新しい生活が始まった。

親父は仕事のきつさ、給料の安さ、思い通りに行かぬ人生への悔いを愚痴り、やがて酒に溺れることになる。

身体を壊し、薬を酒で飲む日々が続く。

 

この街でさらに第六子が誕生して我が家は八人の大所帯になった。

経済は苦しく、必死で親父が働いても家族を養えず、役所に相談して幾ばくかの補助をもらうことが出来た。ところが、そのことがなぜか級友たちの知ることになり、私は「税金泥棒」と揶揄(からか)われるようになる。

大阪市内では、いじめなどというものを経験したことのない私は、同級生というものに悪意があるというのをはじめて知ったのだ。

 

悪意はやがて暴力に代わり、意味なく殴られる。

それどころか、話を知った上級生や中学生たちまでが訳なく殴りかかってくる。

母に頼まれて買い物に行ったその帰り、中学生たちが待ち伏せしていて、買い物籠は放り投げられ、散々、殴る蹴るの暴行を受けた。

あちらこちら怪我して血まみれで帰ってきた私を母は抱きしめてくれたが、折角買った食品は、連中に踏みつぶされ殆ど使い物にならなくなっていた。

それでも、その連中が有力者の子弟という事、そして私を普段から揶揄(からか)っていたクラスメイトが「美しい文字を書く」ことから、「悪人に美しい文字は書けない、字の下手な人間こそ悪意のある人間なのは当然だ」と担任の教師は私に悪いところがあるかのような「指導」までしてくれるという、教師にも悪意があるのを知った。

所詮はこの街では私たち親子は余所者であったわけだ。

 

だが、面白くない学校でも仲の良いクラスメイトもあり、彼らとはよく海や川で遊んだ。

彼らもまた途中転校組で「余所者」だった。

まだ埋め立ての進んでいない海岸は立ち入り禁止柵など乗り越えて虫取り網で簡単に取れる魚とりを楽しんで、時には獲物が夕食のおかずになることもあった。

自然のままの護岸に、案外きれいな水が流れている川も楽しい遊び場だったことには違いなく、横を走る緑色の南海電車を眺めるが好きだった。

だがあるとき、足を滑らせて川に落ち、水中でもがいていると目の前をきれいな鮒が悠々と泳いでいた。

 

誰も使わない広大なグラウンドには、所々にできたままになっている水たまりがあり、私の絶好のペット飼育場所になった。

そこでカエルの卵を他所の溝や川から持ってきて、孵化させたのだ。

やがて水面が真っ黒になる程の大量のオタマジャクシがうじゃうじゃと水たまりを泳ぎ、そして天敵がほとんどないことで皆元気に生育して、大量の小さなカエルがその辺りを飛び交う結果となり、私は社宅の人たちに叱られた。

 

二年余りここで過ごし、小学校の卒業式のあと、本来は市内の中学に進学するはずだったが、親父はその頃、親戚と大喧嘩して会社を辞めてしまっていた。

社宅はすぐに出ねばならないが、親父の再就職の先が決まらない。

当時、我が家に電話などあるはずもないが、実は面接を受けた会社からの親父宛の電話を親戚の息のかかった自治会長がわざと取り告がなかったり、郵便で送られた採用通知を渡さず廃棄していたことが判明し、親父は親戚に抗議したらしい。

「俺に逆らうものはこうなるんや」

と言われて、多分その親戚は親父が頭を下げて自分の会社に戻ることを期待していたのだろうが、親父にその気持ちがないのは子供の私でもわかった。

そして親父は、進退窮まった日、私を連れて神戸の倉庫会社の事務所に行った

そこは倉庫の会社ではあったけれど、経営していたのは親父の若き日に、共に無茶遊びをしていた旧友で、さる筋の親分でもあった。

 

アルコール中毒で手が震える親父を見て「なんでもっとはように、儂のとこへけえへんかったんや」と、親分は泣き、すぐに関係先へ手続きを取ってくれた。

親父の再就職が決まるまでの間、私と弟は会津若松の親戚のところヘ一時預かりとなったが、それは可能な限り遠いところへ長男・次男を追いやることですでに理屈もわかる年頃になった子供を大人の争いに巻き込みたくなかったからではないだろうか。

大阪まで迎えに来てくれた大叔父に連れられ、新幹線、東北本線と乗り継ぎ、栃木の先祖の墓に詣で、そこから東北本線・磐越西線で会津へ向かった。

三月も末だというのに、会津は大雪で、歩くのに難儀するほどだった。

 

会津若松で人の暖かさに触れ、泉大津での子供ながらの苦渋からやっと少し癒されたころ、泉大津へ帰れと親父から連絡があった。

やがて、真っ昼間、堂々とその筋の親分が手配した大型トラックに荷物を積み込んで、親父以外の家族は南海電車、大阪市営地下鉄、阪神電車、山陽電車と長い電車旅をして、青い空の広がる加古川市に着いた。

泉大津と同じくここにも製鉄所があり、親父はそこで仕事をすることになっていた。

製鉄所は巨大などというものではなく、もはや要塞のようなそこ自体が一つの町のような大きさだった。

私は中学校の入学式には間に合わず、四月半ばの転入となった。

 

この加古川の町で、播磨の人たちの明るさ優しさに触れ、私たち兄弟姉妹は、のんびりと過ごすことが出来たが、親父は無理がたたり、せっかくの転職も僅か数か月で寝たきりとなり、夏の盛りに亡くなった。

加古川の人たちは、私たち家族がまとまって暮らせるようにいろいろな手を尽くしてくれて、やがて山の手の小さな団地に一家そろって移り住んだのだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

忘れたい、無いものにしてしまいたい思い出もある

2021年01月17日 18時53分53秒 | 日記・エッセイ・コラム
あそこで君と待ち合わせしたのに、君ときたら2時間も遅れてきたんだ。
携帯電話などない時代、待つしかなかったんだよね・・・
駅のコンコースでだらしなく座り込んでいる僕をみて、君は「ごめ~~ん、おごるから」と拝むように手を合わせてくれた。
 
あるときは、誘われて・・でもその日の僕は体調がよくなく、38℃の高熱を出していて、でも連絡の入れようもなくここで僕が待っているとやはり君は遅れてやってきて、こんなことを言った。
「風邪?そんなもん、アルコールで消毒すれば治るわよ」
そして実際、大酒を呑んだ僕の体温は平熱に戻っていた・・
 
言い合いの喧嘩もしたし、君を泣かせたこともあるし・・
でも阪急三宮駅は僕にとっては黄金の思い出のある所だ。
 
そんな思い出も何もかも吹っ飛んだ26年前。
いち早く解体が告げられた阪急三宮の駅ビル、阪急会館、
 
あの日から10日ほどして区間開通した鉄道でやっとここに降り立った時、あの何かが焼けたような匂いと小便の匂いが入り交ざった不思議な空気の中で、僕は立ちすくみ、本当にこの街が元に戻るのだろうかと悲嘆にくれた。
 
愛する神戸の街のそのほどんどが粉々の瓦礫となって地面にばら撒かれていた。
 
ちょうどそのころ、野戦病院のようになった勤め先で、同僚や後輩が被災して命を落とすものもある中、奮闘する君の姿があったはずだ。
新聞で君の病院の悲惨を知った。
だがその時、僕は誰かに連絡を取るより自分のことだけ、自分の家族のことだけで精いっぱいの状態だった。
君の奮闘を知ったのはずっと後になってからだ。
 
美しくない思い出。
あの何かが焦げている匂いと、小便の匂いは、たぶん二か月ほど、この街のあらゆるターミナルから消えることはなかったのではないだろうか。
 
僕は震災を忘れたい。
もうないものにしてしまいたい・・
 
だが、声高に「忘れてはならない」と叫ぶ方々もある。
忘れていいんだよ、辛い思い出は。
忘れてならないのはあの時の記録ですと、小さな声で言っても誰も見向きもしない。
今年も僕の感情を崩壊させるテレビドキュメンタリーが延々と流れる。
 
だから僕はこの日はテレビを見ない。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鬼無里へ

2020年07月17日 19時21分53秒 | 日記・エッセイ・コラム

全国で後梅雨の豪雨被害が伝えられる中、僕は拠無い用事ができて長野県へ向かうことになった。
不思議なのだ。
この用事と言うのが、「鬼無里(きなさ)の姫 紅葉狩伝説異聞」をここにアップして、さらに校正などを進め、とりあえず人さまに見ていただいても良いと思われる状態になったとき、長野県のある自治体から一通の手紙をもらったことから始まった。

いや、「鬼無里の姫」の物語が会津から始まったことを思えば、今年3月にどうしてもと、わが父祖の地である会津へ行ったその時からこの流れは始まっていたのかもしれない。

とにかく僕はお国がくれた「定額給付金」をもとに、新幹線と特急とを乗り継いで長野へ行く切符を買い、現地到着日は午後になり、まともな活動ができないので、空いている時間を活用して鬼無里に向かったのだ。
いや、長野に行く以上、紅葉姫に会いたい・・いや、紅葉姫に会うために長野へ行きたい・・それは僕の中で大きな割合を占めていた。

小雨降る長野駅でレンタカーを借り、鬼無里への国道とは名ばかりの怖いトンネルもある406号を走ること30分余りで「旅の駅・鬼無里」についた。
ここでお昼にしようと思っていたが、あまりお客の少なさにレストハウスは閉めてしまっていて名物の蕎麦は望めず、向かいの喫茶店でなら食事ができるという。
鬼無里に来てトンカツでもないだろうと、土産物屋のスタッフに「東京・西京と呼ばれるところへはどう行けばよいのですか」と尋ねてみた。
「ここからクルマで5分ほど」とのこと、意外に遠いなぁというのが実感だ。

そうそう、鬼無里の文物や歴史を紹介する「鬼無里ふるさと資料館」も、ネットで調べれば開館しているはずだが、閉館していた。
さて、最初のプランではここから歩くことにしていたが、時間的制約、今は止んでいる雨がいつ降り出すとも限らず、僕は土産物などは後にしてクルマを先に進めることにした。

山あいの道を走ること6分ほどで西京に着いた。
「両京スポーツセンター」なる建物がある駐車場にクルマを停める。

雨は降っていない。
裾花川という美しい名前の川。

西京バス停傍にある「春日神社」の案内票。

その神社、鳥居と本殿。

本殿、ごく普通の村の氏神様という感じだ

少し歩くと「東京口」と言うバス停に出た。
「ひがしきょうぐち」と読む。
拙作、「鬼無里の姫」で村の人たちがこの辺りの地名を、都を懐かしむ紅葉のために変更したと・・・しているのがこの辺りだ。
しかし、東京などは連想できず、山の中の静かな待合室のあるバス停だ。

この辺りは「モミジ」の樹が多い。
秋に来たいものだと思う。

 

強烈な坂を上り、加茂神社の入り口に立つ。

加茂神社の本殿、鬼無里村の指定文化財だそうだ。

神楽殿、ぜひここで神楽を拝観したいものだ。

 

東京三条の道標、鬼女伝説の所縁の地を訪ねるハイキングのためにこうしたしっかりした道標が建てられている。
しかし、ここは京都でも東京でもない・・静かな山の中だ。

ソバ、鬼無里の名物だったのだ。
本来は鬼無里が日本最大の産地だった「麻」の裏作で作ったもので、水の良い鬼無里の蕎麦は一級品だそうだが、戸隠が頑張ってソバの名産地になったのに・・鬼無里の蕎麦はあまり知られていない。

村のずっと奥の方まで歩くと、内裏屋敷跡の石碑が見える。

草に覆われた道を入るとそこには案内板が・・

この絵の紅葉さん、可愛い。

内裏屋敷の想像図、ここの案内には「鬼女」ではなく「官女」とされていた。
こういう紅葉さんへの畏敬の念が素晴らしい鬼無里だと思う。

紅葉さんの供養塔。

緑のもみじと紅葉さん。


駐車場への道を歩いていると小雨が降りだした。
でも歩いていると、金物屋の看板の家から声が・・
「どこから来られた~~」
「神戸です!」
「こりゃまた珍しいところから、しばらく喋っていけ」
と仰っていただき、いろいろお話を伺った。


以下その内容・・
*この両京には昔、650軒もの家があって、この前の小学校には最盛時260人の生徒がいたが、その後はどんどん減っていき、ついにこの辺りに子供がいなくなり、村では三つの小学校を統合した。
*ここは麻の生産量が日本一でそれはそれは潤ったのだが、ビニール紐にしてやられてしまい、あっという間にダメになった・
*蕎麦はもちろん名物だが、麻の裏作で作ってついでにやっていた鬼無里と、本気で頑張った戸隠都では勝負にならず・・
*県の指導で山林を加工しやすい、杉やカラマツに変えた。でもやがて木を切る人がいなくなり、ではそれを加熱温泉の燃料にしようとしたが、杉やカラマツでは思った火力が得られず、断念した。
*観光地としては奥の裾花渓谷が本当に美しく、秋には渋滞ができるほどだったが、ダム湖の下にすべて沈んでしまった。
*この里の米はとても旨い、だが、最近では稲作をする体力もなく、田圃の半分が空き地になってしまった。村の人でもコメを店で買う現状は悲しいよね。
*すでに村の住宅の三割は空き家で残りも年寄りばかりだ。
*村のかやぶき屋根の吹き替えにも難儀している。それでも昨年は三軒の吹き替えをやった。
*紅葉姫の伝説はいいかもしれないが、あれも戸隠でも力を入れていて、鬼無里だけのものとはいいがたい。それにあれだけでは弱いと思う。
*最近、中心部の「町」の「旅の駅」での「おやき」を目指して観光客が増えているらしい、でも、この奥にまでは来てくれない。

僕は自分の作品も紹介した。
「紅葉姫の物語は伝説のままでは滑稽な作り話に見えますが、よくよく、当時の事案と合わせてみると、ひとりの女性の悲しい人生を描いた大河ドラマという風にもとれます。鬼を基にすることで合わなかった辻褄を、ひとりの女性の物語として歴史的史実と合わせれば納得のいく歴史ドラマになりうると思うのです」
と申し上げた。
「そうかもしれんなぁ」と言っていただけた。

一時間以上、お話を伺っていただろうか。
「長野の医者へバスで行けというんだけど、バスは乗り換えがあって、一日仕事、自分のクルマでなら片道30分ほど、そりゃ、誰もバスに乗らんけど・・そろそろわしも免許を返納せよと言われていわれているし、さてどうするかの・・」
そう言って笑う矍鑠たるお父さんだ。

村の中心部に来ると店はすべて閉まっていた。
食事は諦めた。。
そこへ鬼無里を巡回する長野市営バスが・・

すぐ近く、松厳寺は紅葉の墓所があることで知られている。

立派な本堂。

紅葉の墓所。

ちゃんと戒名もつけられている。


しばし、祈りの時間を持った。

紅葉さん、会いに来ましたよ。
今回は、紅葉さんのおかげで、実の祖父やその親族のことがわかり、こうして信濃に来ることができました。
ありがとうございました。

小雨が優しく降っている。
そのままクルマを荒倉山から戸隠の方向へ走らせた。
大望峠。
晴れていれば戸隠連山の絶景を見ることができたのだろうか。

峠から見た山。
こういうところにかつて煌びやかな生活をしていた紅葉さんが潜んでいた・・・
なんだか本当のような気もしてきた。

戸隠を経て長野までクルマで・・・
紅葉さん、また会いに来ます、今度は秋のモミジの盛りの時にぜひとも・・

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昔見た色の電車が走る

2018年07月24日 20時44分40秒 | 日記・エッセイ・コラム

友達から誘いを受けて、神戸電鉄の終点近くにある車庫へ、メモリアルトレインという名の復刻塗装電車を見に行った。
今年の夏は暑く、現地の気温は35度を超えていた。
めまいがしそうな真昼間だ。

そこに2編成の電車が鎮座していて、一編成は明るい緑色が主体の変わった雰囲気の電車で、これは僕が子供の頃に、鵯越の祖母宅へ頻繁に連れて行ってもらった時、旧型電車に塗られていた色だ。
道場南口神鉄1357・1151


そしてこの日デビューしたという、灰色の車体に窓回りを朱色に塗った電車は、僕の青春時代、まさにこの電鐵がこの色合いばかりで走り回っていた・・・あの頃を思い返す電車だった。

話には聞いていたし、だから今日はそれが完成した記念の式典ということなのだが、実物を見た瞬間、様々な思いがこみ上げてきて、少し、あの頃を思い返すと精神的にもろくなる僕には、暑さ故だけではなく、眩暈がしてきていた。

この日、僕が思い出したのは、昭和61年12月28日、冬の強烈な季節風の中、撮影を続けていた神戸電鉄の電車と、そのすぐ後に三宮で会った君や君の友達たちとの、ちょっと小洒落たバーでの楽しい時間。
神戸電鉄1353箕谷カラー

そして、そのあと、国鉄三ノ宮のプラットフォームで、向かいのビルに映し出されていた電光掲示板のニュース。
「本日、兵庫県香住町の国鉄余部橋梁で、7両編成のお座敷客車が強風にあおられて転落、列車の乗務員と列車が転落したカニ工場の従業員たち多数が死傷」

え・・
東へ帰る君たちに手を振りながら、僕は気が遠くなるのを感じていた。
当時、国鉄にはお座敷客車は多数あったが、7両編成というのは僕もチームの一員となって手掛けた「みやび」だけだった。

僕はこの客車の仕事を最後として、国鉄を退職した。
自分にとって最高の記念となる車両が完成したという自負もあり、これで国鉄を退職してもいつでも自分がそこにいたことを記念に思い返すことができるというものだった。

だが、君と心から寛ぎあうことができたこの夜に、僕は自分の人生での記念碑を一つ失ったということになったわけだ。

神戸電鉄の復刻塗装電車は、様々な思いを見る人に与えたのかもしれない。
僕の幼年期、このカラーの電車は急行用であり、鵯越には停車せず、いつも薄汚れた感のある旧型電車の「普通」に乗せられていた思い出も蘇る。
その鵯越も僕や先ごろ亡くなった母にとっては良い思い出の地ではなく、人間の勝手さと狡さ、そして自分たちの運の悪さを思い知らされるところでもあった。

だが、幸いに僕は長じて鉄道ファンとなった。
国鉄を退社しても鉄道ファンであることは変わらなかった。

辛い思い出しかない電車も、ファン目線で見れば美しく輝いているわけで、だから、君と打ち解けることのできたあの日にも、神戸電鉄の撮影をしていたのだ。

車庫でのイベントで見せてもらった復刻塗装電車だが、そのあとの運転を撮影しようという気にならなかった。
暑さ、寝不足、そして一気に押し寄せてきた思い出が、僕をその場に留めることを許さなかった。
正直、吐き気がするほどの苦痛が襲ってきた。

そして、昨日、今の仕事としているタクシーの乗務中、切ない思いに責められ苦しんだ。

君と一緒に乗ったのは、阪急・阪神、そして広電と広島のJR電車だ。
神戸電鉄で君を思い出して苦しむのは、これは自分では間違い以外の何物でもないが、自分の心など自分ではコントロール出来っこなく、結局、君への思いに苦しめられ続けることとなる。

そういう経験があるから小説も書けると・・友達は言ってくれる。
恋愛で苦しんだ人は誠実さで多くの人から好かれると言ってくれる人もある。
だが、小説など書けなくていい、君と繋がりあえる環境があるなら、ほかに必要なものなどあろうか。
別に、たくさんの人に好かれなくたっていいかもしれない、ただ、君がそこにいてくれれば、それに勝るものなどあったのだろうか。

本当に大切なものを、さして大切ではないものと比較して、間違えた選択をして、君を苦しめ、君を泣かせ、そして結局、お互いが離れていかざるを得ないそのきっかけを作ったのは、まぎれもなく僕自身だ。


妻がいて、娘がいて、僕は家族を愛している。
そこに何の不満もないはずではある。

ただ、友達としてでもいい、君との繫がりを持てていないこと以外は・・・


今日、勤務明けで、なのになぜか眠れない切れ切れの夢の後で、ふっと自家用車を走らせ、神戸電鉄粟生線の線路際に行った。
やはり、もっと見ようと思ったのだ。
あの、復刻塗装の電車を…

そして緑の中、まさに、あの頃の姿となった電車が僕の前を軽やかに走っていく。
その姿を見たとて、何かが変わるわけではないのだが、吹っ切ってはいけないものも世の中には、あるはずだと、そう思うことにした。
神鉄復刻塗装電車

生きている間に君に会うことができるだろうか・・
そして、少しでも君との時間を持つことがまたできるのだろうか。

何故か、君との接点のない神戸電鉄の電車が思い起こさせてくれた切なさに感謝しながら。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

挫折記・小中学生時代

2018年06月14日 20時54分46秒 | 日記・エッセイ・コラム


人生とは挫折の連続である。
自分の人生で一度も挫折を経験したような人はおそらくいないか、いたとしたらその人はよほどの幸運に恵まれているのだろうとは思う。
かくいう僕の来し方も挫折の連続であったことは間違いがない。

最初に断っておくが、この一文は自分が過去に挫折するに至ったその際のきっかけになったであろう人たちを否定するものではなく、あくまでも自分の歴史として淡々と振り返り、これから老境に至る自分への戒めとするものである。

僕は神戸・湊川で長男として生まれ、最初は貧しくとも世の中全てが貧しかった時代、それを特に気にすることなく幼少期を過ごしていたのだけれど、我が家では次々に子供が生まれ、生活が苦しくなるにつれて父は酒におぼれ、身体を壊していく。

定職に就くこともできず、同じ仕事を2年以上は勤めることのできなくなった父は家族を引き連れ、まるで彷徨うかのように大阪・兵庫を転々とする・・
そしてある頃からいろんなものが狂い始めた。
神戸湊川、神戸東川崎、大阪天保山、大阪朝潮橋、また天保山、そして泉大津・・転々としながら、兄弟姉妹は六人になっていた。
(ほかに死産も二人あった)

******

最初の挫折は自分の記憶にある限り、中学校への入学だろうか。
昭和四十八年、泉大津市に居たわけで、小学校を卒業すると、必然的に泉大津市立中学校への入学である。
ところが、父母は僕が中学に入るための用意を一切しない。

それはすでに、我が家が海岸近くの社宅から退出することが決まっていて、父母ともにこの街にはいたくないと考えていたからだった。
春には新しい街で、中学校に入学する・・

だが、三月になっても、父の次の仕事は決まらず社宅の退出期限が迫る。
ここに至って父母は僕と弟を遠く、会津若松の親戚に預けるという手段に出た。

電車が好きで、それゆえ、祖母に連れられての会津への道中も楽しいものだったし、会津の親戚は滞在中はずっと歓待してくれた。
けれど、その間に中学校の入学のための説明会も、そして制服や教材の購入日も過ぎていく。
結局、父が僕たち兄弟を呼び戻したのは、新学期も始まって2週間ほどたってからだった。
帰路は親戚に東京駅まで送ってもらい、そこからは小学生の弟と二人で大阪に戻る。

会津若松から泉大津に帰ってすぐに、トラックに同乗して先に出発した父以外の、母と僕たち兄弟姉妹は、これが家族と乗る最後となるだろう南海電車と、大阪市営地下鉄と阪神電車と、そしてこれからお世話になり続けるだろう山陽電車を乗り継いで加古川の別府へ着いたというわけだ。

泉大津の中学校から転校という形ではあったが、僕は一度もその中学には行ったことがなく、中学生活は加古川市の閑静な松林の中の、ただっ広い学校から始まったがその時はすでに授業は三週間ほど先へ進んでいた。
つまり僕は小学校卒業→中学校入学というプロセスにおいて挫折したことになる。
結果的には播州加古川の明るく屈託のない地域性が、自分にとって大きな宝となったわけであり、そこで得た生涯の友人たちは今も大きな宝になっている。

ただ、影響は残った。
三週間の学習の遅れは、先に教科書を用意することもできなかったことから、そのまま学業成績の不調となってしばらく苦しんだ。

*****

父は、新天地での仕事もむなしく、それから半年ほどで亡くなり、我が兄弟姉妹は分裂の危機になった。
いくらなんでも母の手一つで六人の子供は育てられない・・
親戚たちがそういう意見に纏まるのは当然だった。

けれど、母は頑として子供たちを手放さなかった。
行政に相談し、生活保護の手続きを進め、加古川市の山の手にある借家へ移り住んだ。
僕も半年だけ通った中学校から、加古川市と高砂市の境界上にある中学への転校も余儀なくされた。
加古川市は海岸近くと山の手では大きく気風の異なる面がある。
山の手の神吉あたりは、海岸沿いの別府あたりよりも、さらに人は明るく、人懐っこく、そしてよそ者にも全く昔からの住民と同じように接してくれるという、田舎にはあり勝ちな排他的な空気の全くないところだった。

ここの気質は自分には本当に合い、転校した学校ではさらに良い友人たちに出会たこと、これもまた自分にはかけがえのない宝である。

これで当面は良かったのだが、僕の進路を決める際に、このことが大きな足かせとなった。

中学三年、僕は自分の進路を「教育」の道へ進むと、これは小学生時代から決めていたのだが、そこで大きな問題が生じた。
入学遅れによる成績不振はこの頃にはずいぶんと改善し、進学校である公立高校への入学は全く問題がないレベルになっていた。

ところが・・我が家が生活保護を受けていたことがここにきて大きな障害となってしまった。
加古川市の担当者は「君が高校に進学することは素晴らしいことでぜひ頑張ってもらいたい、だが、君が十六歳になったその日で生活保護費の支給が、君の分だけ打ち切られるというのも現実だ」と伝えてくれた。
高校に行ったら、その分、家族が苦しむわけだ。

そこで母は僕を、父がその下請けで勤めていた製鋼所の養成工にすることを決めた。
養成工なら定時制高校にも会社が通わせてくれるというものだ。
これは僕にとっては寝耳に水で、中学の教師が他の就職先の資料も持って来てくれてはいたが、自分としては納得できない。
「進学できる高校に行きたいと」いう願いはむなしく、大人の事情で取り消さざるを得ない。

ここに至って、どうにもならない事情に中学三年の僕は苦しんだ。

この当時、虫歯が多かった僕は、歯の治療に、市から紹介された歯科医院へ通っていた。
あるとき、いつものように治療の継続のために予約してあった歯科医院を訪れ、窓口で母子家庭の保険証を見せた。
とたん、受付の女性は奥に入り、いつもの歯科医が出てきた。
「うちはもう、これは扱わないので帰ってください」という。
歯のいくつかは削ったままで、この先の治療は必要な状況でだ。
「あの、では、どこの歯医者さんへ行けばいいんですか?」
突然言われたことで混乱しながらも、やっとそれは問えた。
「うちは知りません、もう関係ないですから」
歯科医のあの傲慢な姿を思い出すたび、今も虫唾が走る。

自転車で仕方なく家に帰る道、頭の中が混乱していたんだろう、前をよく見なかった。
気が付けば自分は水の中にいた。
道路わきの水路に自転車もろとも飛び込んだのだ。
幸い、田圃のある所だから水路の水はきれいで、底にヘドロもたまっていなかった。
ずぶぬれになって家に帰り、母に顛末を説明すると、母も悔しそうに口を結んだまま、何も言わなかった。
歯科での治療は、今の場所に住む限り、クルマでもないと通えないところばかりで、あきらめざるを得ない。
(僕が国鉄に入社し、その自前の保険証でようやく、国鉄寮の近くにあった板宿の親切な歯科医と出会ったのは翌年の話だ。)

そして、進路については僕は二の手を打つことにした。
大学への進学校に行けないなら、自分の好きなことにチャレンジするというものだ。
加古川市の担当者から「国鉄も養成工をしていたはずだ」とアドバイスをもらった。
担任の教師に相談し、国鉄の募集要項を取り寄せてもらった。
母に黙って入試の申し込みをし、家に来た入試のための葉書も母に見せない。

そして、国鉄の試験を、自転車で八キロ先にある工場まで受けに行った。

結果は見事合格、3倍の難関を突破して、家に合格通知が来た。
「これ・・なに?」
母は不思議がって僕に尋ねる。
「ああ・・国鉄に行くねん、製鋼所にはいかへん」
悔しがるかと思った母は素直に喜んでくれた。
「あんた、そんな話を進めてたんか・・」そうしみじみ呟いた。

だが、それでも進学できない辛さは僕を苦しめる。
この頃から僕は、一番行きたい道がだめなら、その次に行きたい道を歩くことを覚えたのかもしれない。

この時、希望する高校への進学に挫折し、ついでに歯の治療にも挫折した。

だが、国鉄でのほかに代えられない体験ができ、さらに多くの親友に恵まれ、それは今に至るもとてつもない大きな宝だ。
僕は今も国鉄を悪しざまに言う言葉に強い反感を覚えるのは、この時の国鉄への深い感謝があるからだ。

だが、治療を放置せざるを得なかった歯は、間違いなく悪化した。

ここから先はまた機会があれば書きたいと思う。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする