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ジン君、お久しぶりです。
いかがお過ごしですか?
昨年の秋にお会いして以来、なんだかお会いするのが怖くなってしまい、でも、どうしてもジン君になにか、つながりを持ちたくてお手紙としました。
メールやラインだと、すぐに読んでくれそうだけど、今はまだそのスピードが少し怖いのです。
ごめんなさい。
本当はわたしはジン君の気持ちが嬉しくて、嬉しくて、でも駄目だったの。
わたしの心の中にある怖がりがまた、あの一年前の事を思い出してしまって、頭の中、真っ白になってしまったの。
勝手なお願いですけれど、もう少しだけ、時間をください。
そうして、わたしがあの事件をなかったことに出来たら、きっとジン君とうまくできそうな気がするの。
本当に勝手なお願い。
ごめんなさい。
でもでも、もし、ジン君にほかに好きな人ができたら、かまわないよ。
わたしは恨まない、それは誓います。
なので、もしも今まだ、他に好きな人ができていなかったら、これからもそういう人が出てこなかったら、必ずジン君のもとへ行きますから、少しだけ待ってください。
突然、お手紙を差し上げて申し訳ありませんでした。
お返事ももしいただけるなら、メールでもラインでもなくお手紙でくださると有難いです。
今日はここまで読んでくれてありがとう。
お仕事、無理せず頑張ってくださいね。
お酒はほどほどに、ちゃんと野菜も食べてね。
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よーこさんへ。
手紙という形で久しぶりにご連絡いただいてすごく嬉しいです。
確かにメールやラインだと、自分がその瞬間に考えてお返事してしまったりするので、僕もお手紙というのはありだと思いました。
お手紙だとゆっくりと何度も読み返し、時間をかけて考え、それからお返事できますね、
父が昔、女の子と文通していたと聞いたことがあります。
きっと、こういう風な時間のやり取りだったのでしょうね。
あの日のこと、今は全然、気にしていないです。
というか、あの日は相当、うろたえましたけれど、、、
でも、よーこさんの辛いお気持ちを考えると、僕は確かに少し急ぎ過ぎたと反省していました。
だから、お手紙をもらってこの半年、悩んでいたことが溶けていくような、気持ちになっています。
本当にありがとう。
僕の気持ちは変わりません。
よーこさん、あなたが好きです。
だからあの時、僕は自分の人生が終わってしまったような気がして、それから昨日までずっと、仕事にも身が入りませんでした。
お手紙をいただいて、たぶん、明日から生まれ変わったかのような仕事マンに戻れると思います。
いつもでいいですから、よーこさんの気持ちが落ち着いたら、ぜひ会ってくださいね。
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ジン君へ
お返事ありがとうございました。
お手紙できちんと返してくれて、本当に助かりました。
わたし、読んでて泣きましたよ。
ジン君にものすごく、悪いことしちゃった。
必ず、会います。
そんなに時間はかからないと思うの。
だからほんの少し待っててくださいね。
お酒はほどほどに、野菜もきちんと食べてね。
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よーこさんへ
随分久しぶりになってしまいました。
ごめんなさい。
仕事マンに戻ったから忙しくてお返事もできなかったと言うのは言い訳です。
ただ、お返事をすぐしてよいのかどうか、少しだけ悩みました。
会うのは急がなくてもいいですよ。
よーこさんが本当に落ち着いてからでいいです。
他に好きな人もできてないし、第一、ぼくはもてないし、、
そうそう、あれからお酒の量が増えてしまっていて、少し反省しています。
今は夜帰ってからは缶ビール二本だけにしています。
野菜って、なかなか食べられないですよね。
コンビニのサラダは量が少ないし。
でも、気をつけます。
ありがとう。
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ジン君へ
まだお仕事、忙しいですか?
なんだか、会いたくなっちゃった・・
会って、いろいろお話をしたくなっちゃった。
じつはわたし、あれからお仕事もやめてしまって
あのとき、ジン君が言ってくれたよね
「そんな会社、辞めてしまえ、仕事なんてほかにいくらでもある」って
その会社を辞めるのになんであんなに悩んだんのだろ・・
気持ち悪い男ばかりの会社、女の人も他人のことなんてどうでも良いというような会社、辞めて正解だったけど両親からはひどく叱られました。
辞めた理由を言えなかったもの
ごめん、書いてたら思い出しちゃった
でも、会いたいな
ジン君、会いたいよ。
******
よーこさんへ
メールでお返事書こうと思ったけれど、お手紙にします。
会いましょう。
いつがいいですか?
もし、あなたがいつでもいいと言うのなら、日曜日のお昼に私鉄駅前のロータリーでお待ちしています。
よーこさん、よろしくお願いします。
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ジン君、急ぎでメールでごめんなさい。
こっちでは久しぶりですね。
私鉄駅のロータリーは、あまりよいことを思い出さないし、あの人たちに会うのが怖いから、新幹線の改札口でお願いしていいですか、時間はお昼で。
ではお待ちいたします。
よーこ
******
ジン君、そこにあなたがいるの、わかっているの
でも怖くてコンコースに出られない
あの会社の人たちがいる
わたしは改札の向かいのお店の中です
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わかった、すぐいく
じっとしてて
**********
「おい、ヨーコ、ここで誰かと待ち合わせか」
「うわ、ホンマにヨーコやんけ」
「相変わらず、可愛いやんか」
後ろから声をかけられた・・男たちの声だ。
それも二度と会いたくない奴の声だ。
ヨーコは、その場で動けなくなっていた。
ジンは在来線の改札からその様子を見つけ、走った。
「よーこちゃん!」
ジンが叫ぶと、ヨーコは振り向いたが、彼女を取り囲むスーツ姿の男たちは彼を見つけ、にやにやしている。
「おい、新しい彼氏か、もう”した”のか」
ヨーコは震えながら男たちを睨んでいる。
彼女はその店先にあった花瓶を掴んでいる。
「おい、こいつ、俺らに喧嘩を売ろうとしてるぞ」
「やるんやったら、やってみろ、どうなるか分かってるんやろうな」
ジンはヨーコの前に立った。
息を切らせて、けれど、穏やかに諭す。
「よーこちゃん、それはお店に返してあげて」
店の人が心配そうに見ている。
周りの通行人には手にスマホをもっている人もある。
「この子は、俺の彼女や、あんたらとは関係ないんや」
ジンは叫んだ。
男たちは相変わらずにやにやと二人を見る。
真ん中にいた男が二人を見比べながら低い声を出す。
「おう、そうか悪いことをした、この女は、前はわしらのもんやったさかいな」
ヨーコがジンのうしろから花瓶を再び持ち上げ投げようとする。
「あかんって!」
ジンは振り向いてヨーコを抱きしめた。
「これはお店のんや」
彼はヨーコの手から花瓶を奪い取った。
そのままヨーコを抱きしめる。
男たちには背を向けたままだ。
「ふん、好きもんやさかいなこのオンナ、せいぜいええ思いさせたれよ、ぼっちゃん」
「おう、ワシらがかわりばんこに喜ばせたったさかい」
「泣きながら喜んでたオンナやさかいな」
捨て台詞を残し、男たちは新幹線の改札に消えていく。
笑い声が聞こえる。
ヨーコは震えていた。
声も出さない。
やがて、ヨーコの震えが少し収まってきて、ジンは腕をほどいた。
「よう、我慢しなはったな」
店の主人らしき人が二人に声をかけた。
ヨーコは何か言おうとするのだが、声が出ない。
「すみません、お店の邪魔をしてしまって」
「いやいや、どない見てもあんたらが悪いんちゃうがな、あのオッサンたちや」
「そう言ってもらえると有難いです」
「世の中にアホはおるもんや、アホの相手はせえへんのが一番や」
「はぁ・・」
「お嬢さん、ええ彼氏見つけたな、ついていくんやで」
店の主人はそう言ってヨーコの肩をそっと撫でる。
「お茶でも行くか」
ジンはヨーコに話しかける。
ヨーコはかぶりを振る。
「じゃ、どうする、気分を害したから今日は帰るか、送っていくよ」
またかぶりを振る。
「じゃ・・」
ジンが言いかけた言葉を遮って、ヨーコは小さな声で言った。
「抱いて」
ジンは一瞬、何かわからず、ヨーコを見ていた。
「抱いてって!嫌な男たちのこと、忘れさせてよ!」
周囲が驚くような声でヨーコが叫ぶ。
涙を流したままジンに向かっている。
「うん・・」
ジンは彼女の手を引き、タクシー乗り場へ向かった。
*(七)戦
村上天皇は四十七歳で崩御され、冷泉天皇の御代になった。
だが、天皇親政を目指し、宮中の倹約に努め、財政再建を志向した村上天皇に対して、後継の冷泉天皇には気の病があったとか、あるいは奇行をする人であったとか言われていて、政治面での活躍というものは後世にはあまり残らない。
在位期間が二年にすぎないが、上皇として五十年余り君臨した形になっている人物である。
春先のある日、皇家に相続争いによる諍いがあり、その際に乗じて謀反の疑いのあるとされるものを処断し終え、天皇はふっと側近に漏らす。
「もう、この国には大きな諍いはなかろう」
「そうであれば喜ばしいことです」
側近は畏まって答える。
「何か物足りぬの、鬼でも退治したいものじゃ」
「鬼と言えば・・・」
「あるのか」
「もうずいぶん以前になりますが、源家に入りこんだ鬼女が、その目論見を叡山の医僧に見透かされ、信濃へ配流されたということがございました」
「おうおう!」
御簾の向こうで膝を叩く音がする。
「その鬼女は退治されたのか」
「いえ、配流された先で子をもうけたとは聞いておりますが・・」
御簾の向こうで大きなため息がする。
「はぁ、なんじゃそれは・・これまで何をしておったのか、直ちに国司に命じてその鬼女を退治させよ」
「確かに、今も時折、周囲の里に略奪に出るようです」
「略奪に出るというのは民が困っておるということであろう、それでは朝廷の権威も保てぬではないか」
「は・・しかし第六天魔王の化身とも噂される鬼女でございますし、平将門の残党と組んでいるとも言われておりますゆえ相当な覚悟が要りましょう」
「将門の残党か、ならば余計に退治せねばならぬ。武士なんてものは戦で命を懸けるものよ」
「はっ」
「大軍を差し向けよ。こちらの威勢に驚いて逃げ出すやもしれぬ」
「はっ」
側近はあわただしくその場を出ていく。
その頃、信濃守に任じられていた平惟茂は、まさか天皇の勅書をいただくとは夢にも思わなかった。
だが、命令は「平信濃守惟茂 信濃国戸隠にて悪事を働く鬼女とその一党を退治せよ」となっている。
間違いなく紅葉のことだ。
命じられた以上は行くしかない。
だが、その前に追討軍が行くことを紅葉に知らせなければと、水無瀬の村長に手紙を書いた。
村長ならば手紙の裏に隠れた意味も理解してくれるだろうという想いがある。
そしてそれは、誰かに見られてもまったく問題のない文意ではあるが秘密裏に事を成してくれる裏のものに頼んだ。
「水無瀬村の主へ
この文は勅書を受けしものなる。
このほど、そなたの村にゐてひがことせん鬼女を退治に行くことになりき。
つかば、手早く戦のせらるるやうに要るものなどを調達したまへばや。出立は皐月になるかと思ふ」
手紙を受け取った村長は来る時が来たと覚悟を決めた。
だが、勅書とはどういうことなのだ、この地方を勅書によって引っ掻き回すということであろうか。
村にとって紅葉の存在は大きく、村人への読み書きなど学ぶ機会を与えていたり、彼女の医術の知恵でも村はずいぶん助かっていた。
病で苦しむものが減り、村には活気があふれていた。
さて、昨年に新天皇が即位してから、村長はあまりよい噂を聞いていなかった。
せっかく先が見え始めた財政再建は遠のき、裏切り者を処断するその勢いはすさまじいという噂もある
かつて、平惟茂が「都で何か異変があれば」と言っていたのを思い出し、すでに紅葉は荒倉山に拵えた山城に追いやってしまっている。
それはある意味では、村を、村と関係のない戦から守るための村長としての判断でもあった。
それでも・・どうにもならぬかも知れぬの・・荒倉山のほうを見て村長は呟いた。
荒倉山の頂辺り、自然の岩穴と簡便な建築を合わせた城に紅葉はいた。
地面に蓆を敷き詰めただけの間に合わせの城ではあったが、緑に囲まれ、鳥が鳴き、爽やかな風が通る。
「案外、ここでも、良きところよの・・」そう呟く。
そしてふっと呟くように言う。
「まもなくここを我らの討伐隊が来るという・・」
顔中髭まみれの男がさっと言葉を返す。
「姫様、我らがお守りするゆえ、何の心配もいりませぬ」
数人の男たちの代表のようだ。
その男は年齢は五十過ぎか、顔は浅黒く、ほとんどが髭に覆われていて、鬼武と名乗った。
かつての平将門の乱の生き残りだという。
「男はいざとなると役に立たぬもの、姫様、吾がお傍でお守りいたします」
苦笑しながらそういったのはまだ若くて顔は美しいが、身体は衣服の上からでも筋肉質が分かる女でお万という。
一夜に三十里ほども駈け、大木も軽々と持ち上げるという怪力の持ち主だった。
最初、紅葉の評判を聞きつけて、それほど美しい女であるなら、われのものとしよう、そう思って近づいた鬼武だったが、一旦は地獄を見てそこから起き上がった紅葉の気迫に押され、その博識と人柄に舌を巻いた。
わが女とする目論見は消え、彼は深く紅葉に傾倒するのである。
お万は村長に請われて紅葉に会った。
「周りにいるものが男ばかりだったら、あの紅葉でもさぞやむさ苦しかろう・・」村長はそう言った。
あらゆる学問に長じ、荒くれ者ですら味方につける女だというが、そのどんな知識も我が力には叶うものかと息巻いていたが、紅葉に会うとその境遇に深く同情し、彼女の良き相談相手ともなっていた。
彼らは地元の村人たちに恐れられている悪党だった。
いや、悪党にならねば生きていけなかった連中だ。
最初は郎党合わせても十人ほどだったが、鬼武を慕ってくる将門残党が増え続け、ついに五十名ほどになってしまった。
最初に搬入した食糧で足りるはずもなく、周囲の村に略奪に回る。
特に戸隠ではその被害が甚大だったというが、紅葉の指示で水無瀬にだけは立ち入らなかった。
五月の中頃、信濃府中に待機していた先遣隊は、信濃国司の軍もあわせて水無瀬を目指していた。
大きな戦も絶えて久しく、沿道の住民は目を見張った。
先遣隊が水無瀬の村へ入ろうと峠を越えたとき、思わぬ攻撃に遭う。
攻撃してきたものたちは、人数としてはそれほど多くはなかったが、山岳地形を利用し、慣れぬ都の兵は散々に翻弄され、命を落とすものが続出する。
今でいうゲリラ戦である。
相手は所詮は野盗の類でしかなかろうと、本隊が来るまでにはカタをつけてやると意気込んでいた先遣隊は統率の取れた攻撃にたじろぐ。
やむなく先遣隊はいったん戦線を下げて本隊の到着を待つしかない。
惟茂の率いる本隊が刻々と進軍してくるという情報は、水無瀬の村にも届いていた。
大将は先ごろ信濃守になった平惟茂だという。
村長は不思議に惟茂の気持ちを思いやる余裕があった。
「あのお方も大変だのう。よりによって紅葉追討の大将を任されるとは」
やがて、安曇野の方角から大軍勢が村に入り込んできた。
軍の中ほどにいた惟茂は村長の家に入る。
「ここは、われ一人でよい」部下にそう言い、彼は一人で家の中に入る。
応対した村長は彼の眼を見る。
「ご苦労様なること・・」
惟茂は軽く会釈をする。
「ところで、紅葉どのは何処に」
気が急くという風に惟茂は村長に尋ねる。
「荒倉山におります。あまりの山奥、村人でも道に迷うこともあり、野盗の類が出ますところゆえ、ご案内は致しかねますのでご自分たちで探されればよかろう」
「うむ・・だが・・」
「だが・・なんなのでしょう」
「なぜに紅葉どのは会津へ帰らなかったのか」
「都へ、息子を連れていきたかったのやもしれませぬ」
「息子、あの時の赤子か、息災なのか」
「少々、気の弱いところがございますな・・ゆえに此度は潜んでおります」
その息子を探し、紅葉の前に突き出せば、紅葉はおとなしく降参するだろうかとも思う。
だがそこで惟茂はかぶりを振った。
・・紅葉のあの性分、あの知識、息子が捉えられているのを知れば降参するより歯向ってくる方を選ぶだろうが、その時には甚大な被害も覚悟しなければならぬ・・
そのころ、大軍勢が次々と村に入ってくるのを見た紅葉の母である花田は、自分たちが村に迷惑をかけたと、その思いに耐えられず首をつっていた。
祖母の死体を見つけた息子の経若は悲嘆にくれた。
母は罪人として咎を受け、さらに母を追討する大軍勢までもが組まれてはるばる都や信濃府中からこの村にやってきている・・その現実は気の弱い彼には耐えられないものだった。
だが、彼は武士の子と、将軍の子であると母に言い聞かせられていた。
一応、太刀の使い方なども学んではいたが、自分から勇んで戦うなどとは夢にも思えなかった。
そんな経若が太刀をとった。
祖母の死体を見て彼なりに怒りを感じたのだ。
そして、村へ進軍する兵士の列へいきなり向かっていったが、兵士たちはまさか少年が自分たちに歯向かうなどとは考えず、一瞬、様子を見ようとした。
「何奴、止まれ!」
先頭の兵が叫んだ。
だが、兵士に向かって少年は太刀を振り上げてきた。
本能的に兵士は太刀をあわせ、少年の太刀を吹き飛ばし、そして少年を肩から一気に切り下げた。
兵士の列の前で、経若は血にまみれて息絶える。
僅か十四歳であった。
息子と母が亡くなったことを聞かされた紅葉は深い悲しみに気がふれそうになる。
怒り狂い悲しみに泣き叫ぶ、だが、この報いだけは惟茂に味わさせねばならぬと自らに言い聞かせ、怒りをさらにを奮い立たせる。
「吾は鬼であった覚えはない、だが、今こそ吾が鬼女となって見せよう」紅葉はそう誓う。
兵法の心得もあり、ゲリラ戦でも鬼武と協力して指揮にあたっていた紅葉は、仲間を指図してさらに大規模な山岳戦の準備を進める。
鬼武が戦をするらしいと噂が広まり、さらにかつての彼の仲間である将門残党が集まってきていた。
そして惟茂の軍勢が荒倉山に入る。
山は地形が複雑で大木がうっそうと茂り、地元のものでもよく迷う。
その道を散々に作り変えているものだから軍勢はなかなか先へ進むことができない。
先でとどまる兵士を後のものが押すものだから、どうしても山中で団子のような状況になってしまう。
谷あいで道に迷い、固まってしまった兵士の頭上から油が撒かれ、さらに火矢が飛んでくる。
火矢にあたったものは炎の塊となって焼け死んでいく。
そして逃げるにもその方向すらわからず、慌てるだけの兵士の上に山の上から巨岩が落とされる。
その惨状を見た惟茂は、先に酷い目に遭った先遣隊のものに問うた。
「これは、人のなせる業か、それとも、紅葉はやはり鬼だったのか」
「鬼です、我らのような軍勢を散々に打ち負かすのですから」
死んだ者、傷ついたものが原始林の中に転がっていた。
翌日、本隊の一部は、さして水量のなくなった川の流れを足掛かりとして山の奥へ向かう。
だがこのところ、あまりにも川の水量が少ないことに村人が気づいていて、何人かの兵士に変だということを伝えたが、血気に流行る彼らはそれを上層部に伝えない。
いや、村人の懸念を聞いた指揮官もあったのだが「雨が降らぬゆえだろう。むしろ好都合だ」などと取り合わない。
人の通る道はすべて敵の攻撃範囲であり、道に詳しくない部隊としては最適であるとしたうえでの作戦だった。
大人数が渓流に入り、登っていくと、やがて大きな水音が聞こえる。
その音はどんどん大きく、近くなっていく。
危険を察知した指揮官が「引け、脇の山に入れ!」と叫ぶが兵士には何のことだかわからない。
次の瞬間、谷を覆い尽くすほどの水が兵士たちを襲う。
その濁流は岩や川岸の樹々、草などあらゆるものを巻き込みながら大人数の軍隊を襲った。
その少し後の時刻、村にほど近い本営では、目の前に轟音とともに突如現れた異様な光景に、そこにいた者たちが震撼していた。
川が濁流となり、大量の倒木の流れの中に死体となった兵士たちが挟まっているのだ。
惟茂は震えた。
彼とて数多の戦を経験してきた強者であったはずだが、この悲惨は未だ経験がない。
濁流はそのまま村の中心へと、下流へと流れていく。
川の水は泥と血の色に染まる。
もはや、何人の兵士が命を落としたのかさえ見当もつかない。
*(八)信濃府中
惟茂は一旦兵を収めた。
このまま突進しても兵を損ずるだけだと判断したのだ。
平将門の残党もあるという水無瀬の村人たちの動きも気になる。
負け戦ばかり見せてはいられない。
緊急の際の備えにとその分だけの兵を残し、府中に向かう。
そこで彼は斎戒沐浴し、地元の天台寺院で祈りを捧げる。
何日か苦悩の祈りが続いた後、僧が彼の様子を見て語り掛ける。
「ずいぶん、難儀いたして居るようじゃ」
「はっ、誠に恥ずかしながら」
「平様は、その戦のお相手になにか想いを持たれているのではないかな」
「いいえ、さようなことは・・」
「想いを持たれているがゆえに、自分では戦線に立たず、配下の者を指揮いたして居るように伺えるが」
「いえ・・それは戦略であり、われは総大将ゆえ」
「御本尊をごらんなさい」
僧は観世音菩薩をさした。
「いいお顔をされておられるでしょう、優しげなお顔を」
「そういわれてみれば」
「観世音菩薩さまは唐の国では女人であるといわれておるそうじゃ」
「女人でございますか」
「今の敵も女人よの。女人ならば仏様のような優しげな心で自ら向かえばどうじゃろう」
「戦場で優しさなどが通用するのでございましょうか」
「優しさの中に強さも潜んでおるはず」
「紅葉に優しく近づけと・・」
僧はかぶりを振る。
「もちろん、うかうか近寄って射殺されたら、それでお仕舞じゃ。要は心ではないかの」
「心でございますか」
「仏様は悪鬼にも仏性が備わると説く、鬼にも鬼の兵士にも、貴殿の部下たちにも仏性が備わる、それはそれは尊いもの、それが命じゃ」
「命を損ずるなと・・」
「さよう、どうすれば敵味方の命をなるべく損ぜず、この戦を終わらせることができるのかというところではないか」
僧の言葉には、仏門にいるものとしての惟茂への批判があった。
「女人というものは、時として悪鬼のような心根を出してしまうことがあろう」
惟茂は僧の顔を見ることができない。
僧は彼にこういって励ました。
「観世音菩薩普門品にはこうある・・若し、是の観世音菩薩の名を持つこと有らん者は設い大火に入るとも、火も焼くこと能わじ。是の菩薩の威神力に由るが故に」
さらに続ける。
「若し大水に漂わされんに、其の名号を称せば即ち浅き処を得ん」
確かに火に焼かれ、水に漂わされていたのが彼の軍隊である。
「平様も是非に、観音様のお優しい心と、強靭な力をもって、その敵というものに対峙してほしいものです」
僧は言葉を結んで合掌する。
自分の中では、此度の戦は勅書を戴いたからという気負いばかりで、突進することしか考えず、物事の本質を見極めていなかったのではないか。それでいて、号令さえかければ敵の首が取れるものとタカをくくっていたのではないか・・和尚のいう優しげな心とは敵にも味方に対してもということではないのか・・
いや、その前に未だ消えぬ紅葉への想いが足枷になっているのは間違いがなかろう・・
想いは憎しみに変わり、そのまま紅葉の気持ちを考えずに突進して多くの命を失わせたのはほかならぬ自分である・・
今一度、事の成り行きから見つめなおす必要があるのではないか?
惟茂は府中の宿舎に戻ってからも、誰も近づけず、考え込んでいた。
ふっと居眠りをしたその夢の中に、あの会津で出会った、まだ呉葉と名乗っていた紅葉の姿が映し出された。
磐梯山を背に、井戸で水をくみ上げていた美しい少女の姿がはっきりとそこに浮かぶ。
気は強いが優しい女を、あの賢い女を悪鬼に仕立てたのは誰だ・・・
夢の中の呉葉は、優しく彼を導いてくれた。
われは、あの娘になにかを与えたことがあったのだろうか・・
温かい夢から覚め、彼の頭は冴え渡ってきた。
*(九)鬼無里へ
朝、惟茂は軍勢を集め、改めて水無瀬へ向かう。
ただ今度は一気に山を登ることはせず、山へ入る道を広げることから始めた。
自らも先頭に立つ。
道は広げられ、大人数でも途中までは登れるようになった。
ついた先を切り開き、山中の野営とした。
そして可能な限りの荒倉山の登山口には兵を配して監視をする。
山を出てきた盗賊の類はすべて捕らえられた。
兵糧攻めである。
腰を据えていつ起こっても良い戦に備える彼ではあったが、それでも深夜など陣営が騒ぎになるような石矢の攻撃を受ける時がある。
「鬼たちは夜目も利くのか」
兵士たちが怖がりひそひそ話をしている。
「鬼などこの世にはおらぬ。ただ、人間には恐るべき能力を持ったものがあるということだ」
惟茂は兵たちを鎮め、「いましばらく様子を見る。手出しはするな」と命じた。
その頃、荒倉山の砦では深刻な食糧不足が起こっていた。
鬼武を慕って、平将門残党が山に集まってきていたが、その者たちを食わす手立てがない。
惟茂の兵糧攻めが功を奏してきていたのである。
紅葉の配下は時には盗賊に姿を変え、周囲の村や町を襲っていたが、それとて大軍の兵に要所を抑えられれば目的の場所へは大幅な遠回りをするか、彼らとて困難な山中の藪を抜けるしか手立てがなく、効率はぐんと落ち、思ったように食料を集められず、しかも出ていたものの多くが敵に捕らえられてしまう。
まもなく冬が来る、その前に何とかしないと兵たちの命すら維持ができなくなる。
・・村への道は完全に討伐隊で押さえられている・・
紅葉(もみじ)は、下界を眺めながらため息をつく。
鬼武が傍にいるとき、彼女は言った。
「もう、ここから先、あなたはこの戦場にいる必要はありませぬ。食べ物がなくて負けが決まっているように見えまする・・平将門様の意志を継がれる戦はここでは、もはやできそうもありませぬゆえ、どうかあなたの部下とともにここを離れて再起をかけては」
鬼武はじっと紅葉の瞳を見つめる。
「まだ、負けと決まったわけではないし、われは紅葉様をお守りするのが最大の仕事ですから、それができない限り新王様の意志を継ぐなどという大きな仕事もできないのです」
鬼武の言葉に紅葉は硬い表情のまま下界を見つめ、そろそろこの戦を終わらせないととも考えていた。
いつしか、山は見事な紅葉(こうよう)で染まる。
「この山は全山が真っ赤じゃな」
平惟茂がつぶやく。
だが、彼としてもそろそろ戦を終えないとこのまま冬へと季節が変わり、それこそ抜き差しできなくなると案じていた。
よく晴れた朝、惟茂は出陣を命じた。
彼は隊の前方にいて、用心しながら、道を切り開きながら前進する。
遠くに僅かに煙が見える。
「あれは朝餉の支度をしているのだろう。それにしても、か細い煙ではある」
その方向に向け、隊をいくつかに分け、山中をそろりそろりと進ませた。
草や虫にまみれ、蛇や蜥蜴、蜂に悩まされながら、討伐隊は砦に近づく。
物音を察した敵方から攻撃が始まる。
ある部隊には、目の前に女が現れ、矢を射ようとすると瞬時に居なくなり、そのあと、あらぬ方向から巨石が飛んできたということもあった。
だが、もはや敵方には前のような迫力はない。
敵の多くは腹が減っているのだ。
抵抗も散発的なものである。
惟茂は部下の中でも声の大きなものを呼んだ。
「紙を丸めて、口に当て、叫んでほしい」
そう言って都からの命令書を丸めながら部下に手渡す。
「なんと叫ばれますか」
「紅葉よ、惟茂はここにいる、そなたも出でよ・・とな」
言われた兵士は大音声で叫ぶ。
森の中から声がする。
その声はだんだん大きくなっていった。
何度も同じことを言う、「紅葉よ!惟茂はここにいる!」
お万がその方向に向けて石を投げようとした。
「待って・・」
紅葉はそれを制する。
「平惟茂、そこにいるなら一人で来い!」
紅葉はどこにそんな力があったのかと思うほどの大声で叫ぶ。
「吾も、周りのものには手出しはさせぬ!」
仲間を下がらせ、彼女は砦の前に立つ。
やがて、木々の間から惟茂が現れた。
惟茂が見えた瞬間、鬼武が太刀を振りかざす。
「あ・・」紅葉が声を発する前に鬼武は、脇から飛び出してきた兵士に逆に胴を斬られ、血しぶきの中で倒れる。
倒れ伏している鬼武の死骸を見下しながら、惟茂が紅葉に近づく。
紅葉は愛おしいものを見るかのように鬼武の死骸を見つめる。
惟茂は左右の兵士に下がるように命じ、紅葉の前に立つ。
「お久しゅうござる、紅葉どの」
惟茂は普段のような挨拶をする。
彼の眼の前にいる紅葉は少し痩せたが色香は変わらない。
幾つになるのだろうと考える前に紅葉が口を開いた。
「ほんに、かような山中でまた相まみえるとは思ってもおらなんだ」
紅葉が苦笑したかのように言う。
双方の兵が遠巻きに見守る。
鬼武の配下の者はまだ矢をつがえているが、惟茂の兵士もその矢に向けて矢をつがえる。
「戦場ゆえ、手短に話そう。この戦を終わりにしないか」
惟茂は一気にそこまで言う。
「何を言うか、吾はまだ負けていない」
「そうだろうか、だが、このまま冬を迎え配下たちを食わせる術はあるのか」
紅葉は惟茂を睨んだ。
「もうまもなく冬が来るぞ」
真っ赤な樹々の葉に囲まれた彼女は美しい。
「まだ、止めては駄目だ」
紅葉の後ろから声が飛ぶ。
「戦だ!」
「われはいくらでも戦える!」
仲間が次々叫ぶ。
だが、彼らの多くは傷つき痩せていた。
「静かに!」
紅葉が叫ぶと周囲は静かになる。
惟茂が続ける。
「我らは兵士が死んでもいくらでも、府中からも上田からも京からも兵士の増員はできる。だが、そちらには今いるものしか抗う術もなかろう」
「それは確かに・・」
「われの代わりだとて、都にはいくらでもいる」
「それも分かっている」
「兵に食わせるものはあるのか。略奪をしたのでは結局はその地の民から恨まれることになる」
そうだ、ここしばらく、まさにその兵糧のことで思い悩んでいたのだ。
今朝も僅かな分しか郎党に食わせてやることができなかった。
「もう、これ以上の命のやりとりは、そなたの本意ではあるまい」
暫くの沈黙の後、紅葉はきつい目で惟茂を睨む。
「言いたいことはわかった!」
紅葉はそう叫ぶ。
「われが憎いか。だが兵站の確保をしなかったのは紅葉、お前の失策であろう」
惟茂に指摘され、紅葉は彼を睨む。
「腹が減っては戦はできぬということだ」
惟茂はとどめを刺すように、諭すように言う。
紅葉は小刻みに震えている。
しばらくそのまま立ちすくんでいたが、やがて崩れ、泣き出した。
「吾は負けたということだな」
それでもなんとか言葉を絞り出す。
惟茂はさらに声に優しさを加えて諭す。
「戦で死なず、餓えで死ぬのは兵にとっては屈辱的なことだ。それも、まもなく来る寒い雪の中ということになろう」
反論したとて、何の意味もない・・そう観念した。
戦の上では惟茂のほうがはるかに上だったということだ。
「願いがある!」泣きながら紅葉は叫ぶ。
「なんだ、条件次第では叶えるが」
「吾の郎党たちの命を助けてほしい。そちらが望んでいるのは吾の首だけであろう」
「紅葉、死ぬのだぞ」
「吾の命など、あの、源経基さまに殺されかけた時に終わっていると思っている」
泣きながらも努めて冷静に紅葉は話す。
「分かった、約束する」
惟茂は瞬時に返答する。
本当はここで紅葉を抱きしめたい。惟茂はそう思うし、紅葉のほうでもあの胸の中へ飛んでいきたいという気持ちがわく。
だが、それはできない。
「首を撥ねるならここで撥ねよ。村人の目に触れられたくないのでな」
紅葉はそう言って座り込んだ。
「せめて平殿の手にかかるのであれば本望よ」
そう言って笑う。
真っ赤に染まった木々の葉が風に吹かれて舞い散るその時、紅葉の首は落ちた。
時に安和二年十月二十五日(西暦九百六十九年)紅葉はその三十三歳の短い生涯を閉じた。
*(十)終章
平惟茂は、紅葉の首は秘匿した後で会津に送り届け、代わりに両腕を村に建てた塚に収めた。
人には「さすが鬼、首を斬るとその首は西の方へ飛んで行ってしまいました」
と説明した。
その辺りには亡くなった敵味方の兵士の塚も立てた。
首が信濃から西に飛んだということは、それは都の方角ではないのかと人々の口に噂されるようになり、関連はあるはずもないが、その数十年後、都は大江山の鬼に悩まされることになる。
だが、その頃ですら、大江山の鬼と聞いて、都の中には戸隠の鬼女を思い出すものも僅かではあるが存在した。
朝廷はここでもその対応を誤ることになるのだがそれは後の話である。
何処も鬼などはおらず、悪党にならねば生きることのできない者たちの怨嗟が鬼の形になって見えたということに日本人が気づくのは近代になってからである。
水無瀬の村は「鬼がいない里」として「鬼無里(きなさ)」と呼ばれるようになった。
だが、その名を付けた村長には別の思いがあった。
「鬼などもとより無い里なのだ」と。
紅葉を支えた郎党はその場では命は助けられたが、いずれ平将門の残党ということもあり、多くのものがすぐに探され捕縛され、処刑された。
なかには、荒倉山を下りようとした際に脇に潜んでいた兵士に斬られたものもある。
それはすべて平惟茂の命令で行われた。
怪力無双のお万は、その後、戸隠の寺院で剃髪したうえで仏門に入り、やがて自らの命を絶った。
会津では送り届けられた紅葉の首級に、一族のものは泣き、石塚を建てたが京を慮り、その塚には文字を入れなかったという。
平惟茂は鬼女退治の功績から鎮守府将軍に命じられ、武士の最高権力者として活躍するが、最晩年、越後で病気になった。
彼の死期が近いことを知った彼の妻は、必死で彼のもとに行こうとしたが、間に合わないと思い込んで自殺してしまう。
死の淵に最愛の妻が来ないことを彼は覚悟していた。
「われは最も愛した女を自分の手にかけた・・これは紅葉の報いよ」と周囲のものに語ったという。
作者より:
紅葉狩伝説は有名な伝説ですが、話の大筋は江戸時代に能の原作として成立したものであり、そこでは紅葉は非常に悪い鬼として描かれ、今現在も能や謡曲、神楽で演じられるのはその話が前提になっています。
しかし、調べれば調べるほどに、紅葉という女性の悲しい生涯とそれを支えた村が今も名残を残していること、また、作者有縁の地である会津から見ても、なかなか興味深いお話であり、そこに自分なりの解釈を求めました。
なお、一般的な伝承には紅葉は元から鬼であり、会津の豪農を自分の分身を嫁がせ騙したり、魔力や妖術を使い人々や兵士を惑わせるということですが、平安期の権力者たちが関わって今の伝説の下地になっているとも考えられ、あくまでも一人の女性の悲しい生き様をその伝説の下に見た気がします。
なお、創作中、BGMとして西島三重子さん「鬼無里の道」、白鳥座のみなさん「鬼無里村から」を聴き、イメージしていました。
作中の絵は、磐梯山と紅葉は作者が撮影したもの 女性の絵はアニメ「かぐや姫」のものを参照しデジタル作画いたしました。
資料として「妙法蓮華経並解結」、ウェブページ「紅葉伝説考」「宮内庁天皇系図」「ウィキペディア」「鬼無里公式ページ」などを参照させていただきました。
本作品は2021年に加筆、訂正したものを公開いたしました。
「鬼無里の姫・紅葉狩伝説異聞 ver.2021」にて公開いたしております。
*(一)会津
承平七年、西暦九三七年というから朱雀天皇の御代だろうか。
その年の早春、まだ雪が残る会津地方、猪苗代湖畔の村に、双子の女の子が生まれた。
名を呉葉(くれは)、黄葉(きのは)と授けられた。
親は大伴家持の血を引き継ぐ伴笹丸(とものささまる)、菊世夫妻である。
夫婦仲は至ってよかったが、仲の良すぎるものに子ができづらいのは今も昔も同じことのようで、この二人はすでに三十路になっていて、当時としては子を産むには遅い年齢に達し、なんとか子を授かりたいと揃って近傍の寺院に日々参っては祈りを捧げていた。
このとき、詣でた寺院のひとつで、御本尊の観世音菩薩とともに、第六天の魔王が祀られていたらしいが、そのことが後に大きな災いの火種にもなるのだが夫婦はもちろん、それをまだ知らない。
やっと授かった双子に、夫婦が喜んだのは言うまでもない。
その日、笹丸は寺院に御礼のお参りをした後、晴れ渡る会津の空に聳える磐梯山にも向かって、この双子の人生が幸あらんことを祈った。
磐梯山は彼らの時代の百年ほど前に大爆発を起こし、秀麗な円錐形の山から四峰が連立するごつごつした山容に変わっていたが、雪を纏う神の山は美しかった。
(この当時の磐梯山は今の山容ではなく明治期の大爆発の後の姿が今の状態である)
笹丸はこの方面、耶麻郡の郡司で、京よりこの地へ派遣されてから相当な年月が経っていたが未だ都への思いは捨てきれないでいたし、いつしか自分がまた都に帰ることもあるのだと自らに言い聞かせている男だった。
双子の娘はすくすく育つ。
そして父母ともが京びとである血を受け継いだのか、成長するにしたがってその美しさは田舎の人々の評判に上るようになっていった。
美貌だけではない。両親ともに京びとであったゆえ、呉葉、黄葉の二人は徹底した教育を施された。
二人の教育には、時として都から訪れる官吏たちも関わってくれ、読み書きから文学、数学、医学、薬学、天文学、史学、陰陽学、兵学、音楽などに及んだという。
だが、口さがない人の中には「第六天魔王からあらゆる能力を得ているのだ、出来て当たり前だろう」と言う人も僅かだがあった。
双子が十五歳になったとき、日頃から二人を見染めていた豪農の息子が、親を通して「双子のどちらかをもらい受けたい」と申し出てきた。
身分は笹丸のほうがずっと高くとも、そこに経済は伴わない。
京から遠く離れた辺境の郡司でしかないのだ。
笹丸は双子に訊いた。
「どちらかに、あの傲慢な源吉に嫁いでもらわねばならぬ。そしてもう一人は都に行って京びとになってもらわねばならぬ」
豪農の息子、源吉の申し出は今の段階では絶対に断れないのだ。
姉の呉葉は黙ってしまっていたのだが、妹の黄葉はすぐに顔を上げた。
「お父さま、お母さま、吾は、この会津が大好きでございます、吾をここに残していただきとうございます」
はっきりと、よくとおる声でそう言った。
そういえば黄葉(きのは)は時折、磐梯山を眺めて立ち尽くしていることがあった。
「その時は、我ら二親とも都へ行くことになるのだぞ、構わないのか」
「お父さま、お母さま、お姉さまとお別れになるのはとても悲しゅうございます」
「そうであろう」
「ですが、同じくらい、磐梯山や猪苗代湖と別れるのも辛うございます」
控えめながらはっきりと黄葉はそう言った。
ちょうど、その頃、都から平泉へ陸奥守の使いとして行った、平惟茂(たいらのこれもち)が一軍を率いて、ここを視察しながら通過して都へ戻るという連絡があった。
春なのに、また寒さが戻り雪が降った日、惟茂が十騎ほどを率いて猪苗代に到着した。
磐梯山は雲に隠れて見えず、ただ降りしきる雪だけがあたりを覆っていた。
その日の宴は郡司の館で行われ、「田舎ゆえ、何もおもてなしは出来かねますが」そう詫びながら、大皿に盛り上げた野菜や魚鳥の煮物を並べる。
「この辺りは客人が来られると、こういう風におもてなしをするんだそうです、われも最初は戸惑いました」
笹丸の言葉に「いやいや、こうして何気ない材料をきちんと調理されること、感じ入ります」と惟茂はさっそく、小皿にとり平らげていく。
濁酒を呉葉と黄葉が主なものに注いでいく。
惟茂は「ほぉ、たいそうお美しい女子(おなご)がおられますな」と、呉葉を見て言う。
笹丸は「さようでございますか、都にはもっと目を見張る女性(にょしょう)もおられますでしょうに」
「いやいや、北国である故か、雪の精とでもいうのだろうか、陸奥には肌の白く顔の引き締まる美しい女性が多い気がします」
そう惟茂は返しながら、呉葉を見つめる。
「それでは、皆さまに心ばかりのお慰みを・・」
笹丸はそう言い、娘二人に目配せをした。
「わが娘たちのお琴をしばしお楽しみくださいませ」
二人は一旦下がって、やがて琴を抱えて広間に戻ってくる。
琴の演奏が始まった。
二人は同じ調べを奏でるのではなく、姉は高い方の音程を、妹は低い方の音程をというふうにまるで奏者が何人もいるかのような調べを披露する。
惟茂はじめ、その場にいた身分の高い武人たちは、みな感じ入り、涙を流して聞き惚れるものもある。
その夜の酒宴は遅くまで続き、翌朝、多くのものがまだ眠っている館の外に惟茂が出て、雪の止んだ冷たい空気を吸っていた。
そこには井戸がある。
塀の向こうに真白くなった磐梯山が見える。
そこへ、水を汲みに出てきた呉葉と出会った。
「あら、あまりお休みになれませんでしたか?」
呉葉が惟茂に語り掛ける。
「いやいや、小用に起きたのだが、あまりに山の姿が見事なものでな」
「磐梯山がですか。確かに美しいですが、吾どもは見慣れておりますから」
「それはそうでしょう。だが、この山の美しさと貴女の美しさは都にはない」
真白い雪の積もる屋形の庭で、白い息を吐きながら水を汲む呉葉の姿は惟茂には得難いものに思われていた。
惟茂は続ける。
「昨夜、もうお一人、あなたとよく似た女性をお見かけしたが」
桶をそこにおいて、呉葉はにこやかに答える。
「双子の妹でございます。もうお輿入れが決まっております」
「双子とな。どちらもお美しい・・」
「妹の方がお好みですか?」
呉葉は惟茂を見ながら悪戯っぽく笑う。
「いやいや、そのようなことはない。われはあなたが良いのだ」
言ってしまってから武人らしくもなく顔を赤らめる。
「こちらへ・・」
呉葉が惟茂を誘う。
吸いつくような眼に思わず惹かれ、ついていくと、離れの部屋に入っていった。
部屋の戸を閉めてしまい、薄暗く差し込む光しか明かりというものがない部屋で、呉葉はゆっくりと衣をはだけ始めた。
「何をなさる、かような真似は・・・」
惟茂は一瞬、そこを出ようとしたが呉葉の少し強い声が飛ぶ。
「お待ちくださいまし」
「吾は、父母からあなた様を全てにおいて、もてなせと言われています」
「御父母からか・・」
「ですので、今しばし、吾のおもてなしを受けていただきたく存じます」
そういったかと思うと、呉葉はすべての衣を脱ぎ捨て、惟茂に覆いかぶさってきた。
まだあどけなさの残る少女とも思えぬ技が、彼の本能を刺激していく。
その技に陶酔してく彼ではあるが、呉葉は生娘だったのが意外だった。
朝餉の時、笹丸はふっと思いだしたように惟茂に語り掛けた。
「そろそろ、われらも京に戻りたいと存ずるのですが」
惟茂は箸をおき、笹丸が蹲るその背中を見つめ、しばらく考えてこういった。
「伴どの、陸奥に来られてどれくらいになりましょうや」
「さよう、二十年(ふたとせ)になりましょうか・・」
「それは長い、都へ戻れば、早速、将軍に上申いたします」
「かたじけない、その折にはぜひ娘を連れていきたく存じます」
「それはそれは、たいそうお美しい姫様ですので、都でも評判になりましょう」
そう答えながら、惟茂は顔が火照ることに気が付いていた。
伴夫婦の思惑、いや、呉葉の思惑はうまく運んだということだ。
数日で惟茂一行は都へ向かい、村を出ていった。
そしてその三月ほど後に、僅かの伴を連れて都へ向かう伴笹丸・菊世夫婦と呉葉の姿があった。
*(二)京
天暦四年、九五一年、村上天皇の御代になっていた夏。
伴笹丸一行は懐かしい都に着いた。
平安の世の太平は都を大きく発展させ、この街に生まれ育った彼でさえも目を見張るほどであった。
呉葉は輿の中から簾を上げて夏の光がまぶしい都の景色を眺めてはいたが、特に驚くということもないようだ。
「どうだ、呉葉、この都の栄えぶりは」
笹丸は馬を少し遅らせ、輿の横につけ、簾を上げている呉葉に語り掛けた。
「お父様、都とはもっと煌びやかなものと思っておりました」
そう言ってクスリと笑う。
「なに、これでも煌びやかではないのか。では、お前は、都がどのような姿だったら煌びやかだと思うのだ」
呉葉は空を指さし「日天はここでもひとつ。せめて都というほどなら二つあればよいのに」などという。
そういえば、会津にあっても、村のものが春秋などに磐梯山の美しさを愛でているようなときでも、呉葉はさして気の進まぬようですぐに家の中に入ってしまうことがあった。
気の利く娘ではあるが、時には我儘そのものを見せることもあり、親として手を焼くこともある。
それはその年ごろの娘たちによくある一時の跳ね上がりだと笹丸は捉えていたのだが、どうも少し違うようだ。
笹丸は官吏を断り、街中、四条通で、いまでいう雑貨屋を開いた。
武士から町人になるわけであり、笹丸は伍輔(ごすけ)、妻の菊世は花田(はなだ)、呉葉は紅葉(もみじ)と名を変えた。
特に呉葉の紅葉への改名は、彼女の強い希望でもあった。
妹が黄葉とかいて「きのは」と読むのに、自分は本来「紅葉」の「くれは」であるべきだというのが彼女の意見だった。
特にそれを断る理由もなく、夫婦は娘の我儘を通す。
そして改名がなると、彼女は「くれは」を「もみじ」と変えて名乗るようになった。
一家が開いた雑貨屋は、履き物や髪飾り、着物の上に羽織るもの、部屋に飾るものなどを売る女性向けの店だ。
これには紅葉の才覚が大きく役立っていた。
何に対しても燃え上がることなく冷めた目で見る彼女の才覚は、確かな品定めや店の陳列となってあらわれ、店はたいそう繁盛したといわれる。
店に来る女性たちが、買うものを品定めしているとき、時には紅葉は店の奥で琴を弾き、その美しい音色が評判となり店はさらに繁盛する。
町家の一角に、女性たちが群れる店があり、その店の奥から見事な琴の音色が流れてくる。
その店を、時々、向かいから立ち止まって見ている武士があった。
平惟茂であった。
惟茂の心に沁み込んだ想いは消えることなく、彼は時に店を遠巻きにするのだが、その惟茂の姿を、紅葉はとうに見つけていた。
ある夜、惟茂は店の裏に忍び寄った。
障子越しに紅葉の影が近づくのを見て、彼はわざと少し音を立てて文を落とした。
ところが、どうも紅葉は彼の動きに感づいていたようで、いきなり戸を開ける。
平安朝らしい流暢な流れしか想像していない惟茂はさして広くない町家の庭に立ちすくんだ。
「平様、驚かれることはありませぬ。すでに父母は寝入っておりますれば」
久しぶりに聞く呉葉改め、紅葉の声だ。
紅葉の誘うままに、惟茂は家に上がり、部屋に通された。
僅かな燭台だけが灯である。
だが、紅葉はいきなり衣を脱いでいくということはしない。
まず、僅かな燭台の灯の下、きちんと酒肴を用意した。
まだ動揺が定まらない惟茂に酒を勧め、自らも呑む。
そして、急に改まったかのように座を下げ、深く礼をする。
「平さま、おかげさまでわれら家族は、こうして都の空の下におります。どのようにお礼を申し上げてよいやら判りかねますが、今宵はごゆるりとお過ごしくださればと思います」
そしてまた酒を勧める。
惟茂の酔いが回ってきたころを見計らい、紅葉は衣を脱いだ。
上質な絹のような肌に包まれ、惟茂は我と時間を忘れていく。
翌早朝、惟茂が目覚めると紅葉はいなかった。
彼は衣服を整え、そろりと縁側から庭に出る。
夏の夜明けが早いのをこれ幸いと裏木戸から外に出、道から玄関に向かうと、そこに紅葉がいた。
彼女は竹箒をもって玄関先を掃除していた。
「あ・・昨夜は・・」
「あら、平様、お久しぶりですわね、会津でお会いして以来で、ご無沙汰をいたしております」
紅葉は早朝にしては少し大きめの声でそういう。
顔はあくまでも笑顔だ。
すると、玄関が開いた。
紅葉の親である笹丸改め、伍輔だ。
「これはこれは、かような狭き町家にお越しいただき恐縮です。折角ですので朝餉などいかがでございましょう」
すっかり町人となった伍輔はにこやかに惟茂を迎え入れる。
その日の夕刻、惟茂は主筋ともいえる八条の源経基の室、奥方を四条に案内した。
このところの猛暑で盆地である京の暑さは耐え難い。
「惟茂、どこぞ少しでも涼しいところはないのかえ」
館で彼を見かけた奥方は、軽い挨拶のかわりにそう言った。
「お方様、四条通の小さなお店で、この世のものとは思えぬ美しい琴の音が聞こえると評判でございます」
惟茂の思わぬ進言に奥方は興味を持ったようだ。
「琴の音とな。琴は吾もするが、この世のものとは思えぬとはどういうことであろうか」
「実は、昨日、その音を少し遠くから聴き入ってございます。それはそれは夢のようでござりました」
奥方はたいそう驚き、「今宵、そこへ吾を連れていけ」という。
夏の長い日がようやく沈むころ、ただその頃は風がぴたりとやんで実は最も暑いころなのだが、その時刻に惟茂は牛車を警護し経基の奥方はじめ数人を警護して四条通へ向かう。
「暑いのう」
奥方がそう叫ぶのを惟茂はただ「はっ」とだけ答える。
蝉の声が煩い。
道を歩く町衆も、暑さにげんなりした様子で、これもある意味、都の夏の風景でもあった。
しばらく行くと、人だかりがしている家がある。
「あそこでございます」
惟茂が指をさす。
かすかに琴の音が響いてくる。
近づくと琴の音は非常に涼しげで、多くの人が店の前で神妙に耳を傾けている。
貴人の隊列が来たので、人々は道を開けた。
牛車は店のすぐ前まで入っていく。
自らも琴をたしなむ奥方は、屋形を下りた。
店の中へ入り、琴の音を聞く。
「かような音を出せるものがあるのか・・」
絶句して立ち尽くす奥方に、惟茂が寄る。
「会津の郡司をされていた伴笹丸どののご息女、紅葉どのにてございます」
「会津、陸奥のか・・」「さようでございます」
「日ノ本は広い・・」
奥方はそう言って絶句する。
*(三)源家
数日後から紅葉は八条の源家へ琴の師範として通うことになった。
妻のもとへ通う非常に美しい姫のことはすぐに噂になり、幾日も経ず、主人の知るところとなった。
元来が女好きの性癖がある経基はこの姫に非常に興味を持ち、すぐに奥方が教えを受けている部屋を尋ねる。
彼が部屋に入ったことで、座は緊張したが、中心にいた娘は、さして動揺をするわけでもなく、不思議そうに経基らを見ている。
まだあどけなさも残るがそれでも美しい。
「邪魔して悪いのう、そなたが紅葉どのか」
紅葉は「はっ」とだけ返事をし、平伏する。
「素晴らしい琴の音じゃ、誰に教えを請けたのか」
「吾は、所詮は陸奥の田舎者にございます。琴は父母より教わりました」
「ほぉ、父母とは誰じゃ」
「陸奥の国、会津耶麻郡の先の郡司が父でございます」
「ほぉ、耶麻郡の郡司とな」
「はい」
経基は訝しがった。
会津のような田舎で、これほど洗練された琴を弾くものがあるとは思えない。
「詳しく申してみよ、そなたの父は都にかかわりがあるであろう」
「は、大伴家持どのの子孫にあたると聞いたことがございます」
「なるほど・・」
ふと顔を見上げた紅葉の表情に経基は見入ってしまう。
「なんと美しい・・・・」
紅葉はその声にまた平伏した。
「うちにはいれ、悪いようにはせぬ」
やがて紅葉は、源家につかえることとなった。
家の者たちの教育を任され、経基や奥方の信任が厚い。
ただ、才色兼備の美女を女好きの経基が放っておくはずもない。
はじめは奥方への気遣いから、時折眺める程度のことであったが、半年ほどたったある夜、紅葉は経基に呼ばれた。
部下に誘われるままに奥の部屋に入り、そこで平伏して待つ。
やがて、襖が開いて後ろから経基が入ってきた。
「よいよい、お顔を上げてくれ」
彼女の前にどっかりと座った経基は、ホッとしたかのように顔を上げた紅葉を見つめる。
「こうして、そなたを真正面から見ると、やはり美しいのう」
紅葉は少し恥じらう表情を見せた。
「今宵はお呼びいただき、誠にありがたく存じます」
臆する様子もなくはっきりとそういう。
「そなたは、なぜに今宵、呼ばれたのかわかるのであるか?」
「はい、お館様、大変、嬉しゅうございます」
ほぉ・・経基はちいさく感嘆の声を上げる。
「ま、とりあえずは酒だ、注いでくれるか」
経基の言葉に、紅葉は立ち上がり傍に寄っていく。
酌をし、経基からも杯を返され繰り返す。
やがて、経基は「では、頼もうか」などという。
隣の寝所に紅葉を誘う。
多くの女性と交わっている経基にして、紅葉の持つ技は全く知らぬ世界だ。
遊女のものではなく、かといって周囲に多くいる貴女たちのものでもない、その技は彼女本人によほどの素質がないと、いくら学んでも使うこともできないほどのことに思えてくる。
それでも、まだ十八の少女らしく時に自らも感極まりながら震え声を上げるその様子に、経基は我と時間を忘れる。
僅かに残る光が浮かび上がらせる裸身はこの世のものではないと思うほどに美しい。
その日以後、経基は紅葉を寵愛した。
毎夜、紅葉を呼び、他の全ての女は忘れられたかのようになった。
女は愛されることで美しさが増すともいわれているが、紅葉はさらに美しく、派手な着物もよく似合うようになっていった。
周囲からは紅葉がまるで奥の権力者であるかのように、お付きを従え邸内を我が物顔に歩くように見えてしまう。
経基の奥方は、本来は自分が琴の教えを受けるために呼んだ娘であるだけに、この成り行きにかなり狼狽した。
主人の女好きはそれはある面ではこの時代の権力者の常であり、ある程度はやむを得ないと思ってはいたが、それにも度というものがある。
町中で拾った娘を、奥の重鎮のようにしてしまったことは奥方の最大の悔やみとなった。
やがて奥方は心労から寝込んでしまった。
それを知った紅葉は、医術の心得もある自分がお見舞いに行こうとしたが、奥方はかたくなに拒む。
奥方の周囲の者たちは、あらゆる医療、祈祷を尽くして病の平癒を図るが、奥方の病状は悪化するばかりだ。
思いあまった奥方は、皇家に縁が深い自分の両親への手紙にこの事態を書いた。
やがて、皇家から病の原因を探る名人ということで、叡山の医僧が派遣されてきた。
医僧は奥方を触診しながらこう言う。
「お方様、病の根本はその因を断つことでございます」
弱り切っている奥方はか細い声で漸く喋る。
「わが病の因と言えば、あれしか考えられぬ」
「あれとは・・」
「この頃、お館様の寵愛を一身に受けているものよ」
「そんなもの、放っておけばよろしいでしょうに」
「あのものは、お館様の寵愛だけではなく、この館の主のように振舞う。やがて吾もここから追い出されるのであろう」
「つまりは、お方様はこの病が気から来ていると知っておられると」
「気などというものではない、あれは同じ”き”でも”鬼”の字を当てるのがふさわしい」
「なるほど、鬼女というわけでござりますか」
「さよう、人を惑わし、世を狂わせる鬼じゃ」
「世を狂わせるようなことにもなりますか」
「このままではお館の精も心も吸い取られ、世のことも思うままにしかねる」
「それは・・いけませぬな」
「わらわの体内にもすでに鬼の毒気が満ち満ちておるのよ」
憎しみをこめて、力の限り叫ぶ奥方に「それなら、拙僧に考えがあります」
医僧はそう言い、部屋を出ていく。
しばらくして医僧から経基に謁見の願いがあり、奥方の病を心配していた経基はすぐに医僧に会った。
「お方の具合はどうじゃ」
医僧は平伏したままで答える。
「鬼の気が心身に満ちており、正直なところ、なかなか御快癒は難しゅうございます」
「鬼の気とな」
「さよう、この館に鬼が姿を変えて居座っておるのでございます」
「鬼、そんなものが現実にあるはずがなかろう」
「いえいえ、仏法では鬼は人に姿を変え、ごく普通にそのあたりに暮しているとも説かれております」
経基は、しばらく考え込んでから「では、この館の誰が鬼なのか目星はあるのか」と問う。
「拙僧ごときではすべてのお人を見ることが叶いませぬゆえ、あくまでも憶測にすぎませぬ」
「構わぬ、言え」
医僧はさらに平伏してやや間を置いて答えた。
「殿の御傍にて、このところ侍る女子に相違なかろうと」
経基はいきなり笑い出した。
「いくらなんでもそれはなかろう。紅葉が鬼であるなら、まろはとうに食われておるわ」
「いやいや、今はまだ、殿様には失礼ですが、使い道があると鬼が見ているのではござりませんでしょうか、そのうえで、今はお方様を亡きものにしようということでございましょう」
皇家がよこした医僧の言葉である。
経基は考え込んだ。
医僧は続ける。
「例えば夜伽の時など、異常に心地よい、これまで味わったことのない気持ちになるとの思いはございませんか」
「それは・・」
「おありなのですね、それこそ、悪鬼が殿さまを誑かしているのです」
医僧は冷静に語る。
「遠く聞こえる噂では、あのものの父親は、出生を第六天魔王に祈念したと流れてきております。さすればあのものは鬼に相違ございませぬ」
その夜は紅葉を呼ばない、彼女が寵愛を受けるようになって初めてのことだった。
翌朝、改めて紅葉を呼んだ。
「御館様、昨夜はご調子がよろしくなかったのですか?」
部屋に入るなり、紅葉はいつもの明るい様子で気軽に口を開いた。
「座れ」
何か様子が変だ・・・紅葉は本能でそう感じた。
「紅葉よ、お前は鬼か?」
紅葉はきょとんとしている。
朝の陽が照らす庭を背に、紅葉は美しい。
「お方が寝込んで居るが、お前はお方に何かをしたか?」
紅葉には何のことだかわからない。
「吾は、お方様がご病気と聞いて少しは医術の心得もありますゆえ、お見舞いに伺いたいと願いを出しただけでございます」
そのとき、部屋の後ろから入ってきたものがある。
医僧だ。
「黙れ、鬼女。お前は悪魔の医術と鬼の呪術でお方様を亡きものにしようとしたであろう」
紅葉は驚いた。
そして背を伸ばし、経基を見つめ涙を流す。
「吾は鬼でございますか、会津の片田舎に生まれた吾が、京では鬼と呼ばれるのでしょうか」
「鬼だというものがある・・」
「吾をどうされようとしておるのでございましょう」
「鬼の首は撥ねねばならぬ」医僧が言う。
頭の良い娘である。
この時に、彼女は物事の中にある憎悪が読めてしまった。
これは、この原因はお方様に相違ない・・
だが、奥方を憎む気持ちは彼女には湧いてこない。
平伏しなおし、紅葉は静かに言葉を返す。
「そうなるとあれば止むを得ませぬ、お好きにされれば宜しいでしょう」
大人しくそういう紅葉に経基は少し哀れを感じる。
だが、紅葉は小刻みに体を震わせ、唇を噛んでいた。
「殿さま、こ奴は許してはなりませぬ」
医僧が叫ぶ。
「黙れ!」
とっさに経基が出した大声に医僧は怯む。
「紅葉よ」
「はっ」
「何か言いたいことはないか、このままではまろは、お前の首を撥ねねばならぬ」
平伏したまま紅葉はややあってから答えた。
「お腹にお館様のお子がおります・・吾は、今、首を撥ねられても命など惜しくはありませぬが、この子が生まれるまでは吾の命をお留めくださいませ」
「それはまことか」
「はい、吾は医術の心得もありますゆえ、自分でいまが三月(みつき)かと」
武士に囲まれて紅葉は四条通りの実家に戻った。
そして武士たちはそのまま、父母の伍輔、花田ともども、屈強な武士幾人を加え、都の外れ、山科まで連れていく。
うち、三人の武士はこのまま残り、家族三人を警護して送り届けるという。
その別れの様子を平惟茂が遠くから見守っていた。
「紅葉が鬼であるはずなんかない。いずれ、われが罪を晴らせよう」と誓う。
だが、彼は責任ある武士としての重役だ。
そこから先へは進めない。
三人の武士について歩かれながら、やっと伍輔が声を発した。
「われらは、何処へ送られるのでしょう」
その言葉に武士は答えた。
「知らないのか。お前たちは鬼と鬼の親ということで、信濃国、戸隠へ配流されるのだ」
別の一人が言葉を繋げる。
「本来は死罪相当だが、殿様の憐憫の情により配流となったのだ。恨まず感謝せよ」
だが、とうの武士たちには何故にこの一家が配流されるのか、鬼だとはいうが、とてもそう見えない、美しい姫を連れたごく普通の人たちなのにと言う想いはあった。
だが、それもまた平安の頃では珍しいことではなかった。
これまでにも何度か、おそらくは無実の人の護送にあたっている彼らなのである。
まだ母の花田は、それでも甲斐甲斐しく一行の世話もするが、父、伍輔には相当な精神的負担となった。
十日ばかり、山野を歩き続け、信濃の国、水無瀬という村にたどり着いた。
ここから戸隠まではあと半日の道のりだ。
だが、ここで伍輔が体調を崩した。
紅葉は武士たちの許しを得て、薬草をとり、煎じて父に飲ませるが薬効なく、数日で伍輔は亡くなってしまう。
最後の言葉は「都など、都の連中など信じねば良かった・・・紅葉には迷惑をかけた」だった。
*(四)水無瀬
伍輔が亡くなり、しばらく留まっていた水無瀬の村だったが、ここの村人たちは優しかった。
「鬼だって、とても鬼なんかにはみえない娘さんじゃないか」
「きっと、都の偉い人に讒言でもされたのだろう」
この村人たちは、平将門の乱を支持した過去があり、中央政府などというものは信じるに足らぬという気概を持っていたようだ。
そこで紅葉に事の成り行きを尋ねたところ、紅葉のお腹に将軍の子が宿っていると知り、非常に驚いた。
村人たちは相談しあい、警固の武士に告げた。
「戸隠だって水無瀬だって都から見れば似たようなものでしょう。ここは、我ら水無瀬の者たちがしっかりとこの者たちを見張りますゆえ、配流先はここということで宜しいのではないでしょうか」
武士たちにも異存はない。
戸隠の村では鬼は受け入れたくないという話も、伝わってきていた。
郡司に許しを得て、武士たちは都へ帰っていった。
ちょうど刈り入れの時期で、村人たちは哀れな母娘のもとへ米や雑穀、野菜などを届けてくれた。
紅葉は村人たちに深く感謝をし、村の子弟たちに読み書きや算用を教えたり、医学の知識で病で悩む村人への診察をしたりした。
水無瀬の人たちは紅葉の博学ぶりに驚いた。
やがて、二人のためにと小さな家まで建ててくれた。
そこを村人たちは「内裏屋敷」と呼び、交代で警護についた。
いつ都から鬼を討伐せよという命令が出るかわからない、中央政府への不信を持つ村人ならではの配慮である。
「この川からこっちは西京(にしきょう)、向こうは東京(ひがしきょう)と呼ぶことにしました」
あの川は加茂川、この神社は加茂神社、そっちの山が東山で・・村長から地名の変更をすることを告げられた紅葉は涙を流す。
だが、都には失望し、もはやそこに戻ろうという気は起きない。
秋の山々はそれこそ木々の紅葉で色づき美しい・・なぜ都になど憧れを持ったか、紅葉(もみじ)は山々を眺めながら悔やむ。
やがてここにも長い冬が来た。
紅葉は会津で冬には慣れているが、この淋しさはこれまで味わったものではなく、会津と、会津にいる妹が恋しく思い出される。
その頃、紅葉が京を追い出され、伍輔が亡くなったという噂は会津にも届いていた。
黄葉(きのは)は、豪農の家で生活していた。
源吉はけっして傲慢でもなく、ただやや粗野なところがあるだけで、黄葉には優しかった。
「姉様は鬼だといわれて都から信濃に追い出されたようだ」
源吉が外で拾ってきた噂に黄葉は愕然とした。
翌朝、磐梯山に向かい、「どうか、お山の神様、姉様がここに帰って来られるようにお願いいたします」と祈る。
父母が出生を祈願したとされる寺院にも参った。
観世音菩薩に祈るが第六天魔王には祈らない・・彼女は自分たちが魔王の分身だという何の根拠もない噂をしっていた。
この十年ほど前に建立された小平潟天満宮にも参り、「道真公は、都を追い出されたと伺っています、今、姉様も京を追い出され、信濃にいるようです。公と同じ憂き目にあっている姉様を、どうか守ってください」とここでも祈る。
水無瀬に春が来た。
そして紅葉のお腹の子が生まれた。
村人たちの支えがあったゆえか、丸々と太った男の子だ。
経若丸と名付けられた、源経基の一字をとったのである。
このことは都に知られると、あまりよくない結果にしかならないと村人たちは考え、秘匿することにした。
だが、人の口は完全には防げない。
いつしか噂は流れ、それは平惟茂の耳にも届いた。
信濃の鬼女は、無理やり将軍から精を受け、子をもうけた・・というものだった。
なぜか、その鬼は第六天魔王の生まれ変わりだと尾ひれもついていた。
惟茂は「こうしてはいられない、なんとしても信濃に行かなければ」と考え、無理やりに陸奥の視察に出ることを申し出た。
なぜに、自分がそういう行動をとるのか彼には分らなかったが、心の底で突き動かすものがあった。
*(五)会津
夏、平惟茂(たいらのこれもち)にようやく陸奥への視察の命がくだった。
彼は往路は関東から陸奥を目指し、復路に会津から信濃へ出ることにした。
気が急くのを抑えながら各地を視察し、ようやく会津に達した時はすでに秋の初めになっていた。
田の稲穂が美しく、そこで働く農民たちに声をかけながら、猪苗代の近くで出会えた男に尋ねた。
「この辺りに、黄葉(きのは)と呼ばれる、たいそう美しい女人がおられると思うが」
「ああ、その方なら、あの林に囲まれたお屋敷の妻女でございましょう」
男はそう言って指をさした。
「あそこがここの村長でございます」
屋敷の後ろには磐梯山が夕陽に照らされて屹立していた。
その屋敷を尋ねると、ちょうど一日の作業を終えた家人たちが戻ってきたところだった。
部下を従えた惟茂は、大音声に叫ぶ。
「われは、陸奥守の使い、平惟茂である。猪苗代に見分に参った」
家人たちは驚いた。
その声に、奥からこの家の妻女らしい女が走ってきた。
「これはこれは、平様、ようこそお越しくださいました」
清楚な妻女だが声はまったくあの紅葉と同じだ。
「どうか皆様、今宵はこちらでお泊りくださいませ」
「郡司様はこちらからご案内いたしますゆえ」
妻女は慇懃に頭を下げる。
部下たちを先に居間に向かわせ、惟茂は玄関に立ったままだ。
「どうぞ、平様、こちらへ・・」
妻女、黄葉が導くが、惟茂は動かない。
「お久しゅうござる」
そう言って深く頭を下げた。
黄葉は驚いて立ちすくむ。
兜をとって見せたその顔に見覚えがあった。
「あなた様が黄葉(きのは)様ですね」
言葉もなく、黄葉は頷く。
多少はふっくらしているが、まさにあの紅葉(もみじ)と同じ顔だ。
「此度はぜひとも、会津を訪ね、あなたにお会いしたかった」
「吾にですか・・」
惟茂は姿勢を正した。
「あれは幾年になりましょう、郡司の家でお琴を聴かせていただきました」
黄葉は思い出した。
「あの時の御武家様でいらっしゃいましたか」
「実は、どうしてもお伝えしたいことがござる」
絞り出すかのようにそういう惟茂であったが、彼の言葉で黄葉は用向きを察したように姿勢を崩さずに立っている。
「姉様のことでございますか」
「勘づいていただけましたか、まさに、あなたの姉様、そして御父母様のことでござる」
「京を追い出されて、信濃で暮らしているという噂は流れております」
「さよう・・」
「しかしなぜか、姉も父母も鬼になったと・・」
「そこまで噂が流れておるのか」
黄葉は土間に降りてきた。
「なぜでございますか、会津で幸せに暮らしていたものが京では鬼になるということですか」
「すまぬ、われにはそのカラクリはわからぬ・・」
「会津では父母ともに村人の信任が厚うございましたゆえ、誰もその噂は信じておりませぬ・・おおよそ京びとたちの、邪な謀り事であろうということになっております」
一部に口さがない人はあるが、源吉は村長として信任されていた。
「そう捉えていただけると有難い」
「ですが、父は亡くなったと聞こえています。せめて母様と姉様は会津に戻ってこられないのでしょうか」
「われは今、まさにそのことをあなたにお伝えしたかった。是非に姉様に手紙を書いてくだされ。拙者が必ずや届けましょう」
そこへ家主の源吉が帰ってきた。
「これはこれは、平様、かような土間で立ち話などもったいのうございます」
誰かから伝え聞いていたのか源吉は大きな声を出し、惟茂を居間に連れて行った。
その際、黄葉の耳元で少し囁いた。
「郡司どのに知れたら変な癇癪を起される。あとでうまく平殿と話し合ってくれ」
黄葉は軽く頷く。
その夜、惟茂の寝所に黄葉がやってきた。
盆に酒と肴を載せて持っている。
まだ、彼は寝ておらず、燭台の明かりで文をしたためているようだった。
「起きておられましたか」
「これはこれは妻女どの」
「残念ながら吾は、姉様のような技も持ちませぬゆえ、今宵は何事もなくと思っております」
惟茂は苦笑しながら言う。
「いやいや、たくさんなご馳走をいただいて満腹いたしております。さらに妻女殿のご馳走も戴いたとあらば世の物笑いになりましょう」
酒を注ぎながら黄葉はほっとしたようだ。
夫には「もしそのようなことがあっても構わぬ」とは言われていたが、他の男に抱かれるのは嫌だった。
「さようにお思いいただけると有難く存じます」
「ところで何の御用でござるか」
「姉様への文を認めてまいりました。あなた様を信用いたしますので是非届けていただきたく思います」
「早速、文を・・わかりました。必ずや姉様、紅葉様にお届けいたします」
惟茂がそう返事をすると、そのあと少しだけ都のことなどを彼に訊いて、訊きたいことが終われば安心したかのように黄葉は部屋を出ていった。
翌朝、惟茂一行は郡司の館に少し立ち寄り、会津を後にした。
*(六)水無瀬
その後も各所で視察しながら、信濃の水無瀬に着いたのはもう木々が赤く染まる時節だった。
この旅は、急がぬと冬になるな・・そう思いながらも彼は水無瀬で数日を過ごすつもりでいた。
村長の家で名乗り、部下の宿所の手配を頼む。
そして居間に通されてから、惟茂は村長の目を見つめた。
「さて、いつもならば国司の方々は戸隠に泊られますが、今宵はかような田舎へお泊りとは」
村長は警戒心を解かない。
「うまく、旅が進みすぎてこの村が丁度良い塩梅となったわけだ」
そういう惟茂の言葉に村長は答えず彼を見つめる。
「ところで、村長、伺いたいことがござる」
やはり、そう来たかと、村長は少し緊張を解いた。
「そのことが真の目的でしょう。わざわざ山深い信濃を通るのはよほどの大事かと」
「分かっておられるのか・・」
「もちろんでございますが、あなた様が何をなされるか、そこを見極めないといけません」
惟茂は姿勢を崩した。
「なにもせんよ・・」
「なにもですか・・」
「今はの」
「この度は何もないと・・」
「さよう」
「目的は?」
「手紙を預かっている、紅葉どのの妹からだ」
村長は無言で立ち上がり、部屋を出ていった。
やがて、村長について、紅葉がやってきた。
赤子を腕に抱いている。
「吾に何の御用でしょうか」
部屋に入るなり立ったまま、紅葉は惟茂を見る。
「紅葉どの、お久しゅう・・・」
そう言ったまま、惟茂が思わず涙を流した。
恋焦がれた女がここにいる。
「何方かと思いきや、平様でございましたか」
「座ってくれ」
惟茂は目の前の褥を指さす。
紅葉は赤子を抱いたまま座る。
「男児か」
「はい。経若丸と名付けました」
「あの方のお名前からとったのだな」
「さようでございます」
ふうっと、惟茂はため息をつく。
「さほどに、あのお方が好きか」
紅葉は少し考えてから答える。
「もはや、それは分かりませぬ。ただこの子の親があのお方なので」
その言葉を聞きながら、惟茂は懐から手紙を取り出し、紅葉に手渡す。
紅葉がそれを開けると、そこには懐かしい妹、黄葉の文字が並んでいた。
・・姉、この度は都のこと、聞き及べり。流れこし噂には姉が鬼になられしとか言はるれど、我ら会津のものは誰一人として姉が鬼になられしとは思ひたらぬ。さだめて、なにか、都に不都合のありしにさうらはむ。いかでか、いま都のことは忘れたまはれ、会津へ一日もとく帰りたまふるやうに・・
読みながら紅葉は泣いた。
腕の赤子が母親の異変に気付き、大きな声で泣き出した。
赤子は村長が連れて行ってしまい、紅葉は惟茂と二人向かい合う。
「われからも願います。どうか、会津へ帰ってくだされ」
顔を下に向け、紅葉はかぶりを振った。
そして泣く。
大声で泣き続け、やがて疲れ果てて黙り込んだ。
紅葉どの・・惟茂は見ていられず近くにより、崩れそうな紅葉の身体を支えた。
惟茂の腕に紅葉は抱き留められ、二人はそのまま横になってしまい、長い時間そうしていた。
村長が気を利かせたのか、燭台の明かりはいつしか消されている。
二人はやがて求め合い、睦み合う。
紅葉はこれまでの技を使わず、ただ求め、求められるままだった。
惟茂はここに来て初めて、紅葉という女性の真の姿を見た思いがした。
数日後、村長に見送られ、惟茂一行は都へ向かう。
「しばらくは何もないでしょう。ですが、もし、都で何か異変があればここに飛び火するやもしれません。どうかその時までに心の準備を」
「それはいつ頃になりそうですか」
「たぶん、ここ数年は何もないかと」
村上天皇はこの頃、財政の立て直しに取り組んでいて、要らぬ噂などでは動きそうになかった。
惟茂の出立を紅葉は赤子を抱いて、村の外れから見送る。
2へ続く
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