昼酒でしたたかに酔った身体を姫路駅の高架ホームに晒す。
夏の熱気を含んだ風が余計に酔いを深めさせる気がする。
自分の不甲斐なさや周囲への苛立ち、それらで何かに反発したくなっても、所詮は昼酒をあおる事くらいしか出来ない・・それが僕という人間だ。
ホームの自動アナウンスは普通電車が入ってくることを知らせる。
投げやりになろうと何だろうと、僕は酔いをもてあましながら神戸へ帰るしかない。
仕事や生活を捨てることなど出来ない。
だからやはり、僕はそういう人間なのだ。
まともに立てない身体を、ホームの柱でようやく支えた僕の前に入ってきたのは、あの、オレンジと緑のツートンカラーに塗られた古い電車だった。
「こんな古い電車をいつまでも使いやがって・・」
そう独り言が出る。
だが電車が古かろうと、これに乗って帰らねばならない。
古い電車の古いドアが開く。
粗末な直角の向かい合わせシートとドアの横の小さな二人がけシートが組み合わされた車内。
そして、夏だというのに、むっとする暑さに天井を見れば扇風機がいくつも首を振っている。
壁の色はくすんだ薄緑、天井は黄色く濁っている。
「なんだ・・これは・・」
子供の頃、このあたりの普通電車といえばまさにこういう雰囲気だった。
今のJRにもまだ、こういう電車が残っていて、何かの都合で車庫から引っ張り出されてきたのだろうか。
灰色の床、割れた音の車内放送。
「この電車は明石から快速電車になります、普通、米原行きです」
向かい合わせのボックスでタバコを吸っている男性が居る。
・・マナーも何もあったもんじゃない・・
そう思ったがその男性の座っている座席には四角い灰皿まで備え付けてある。
何かに引っかかるかのようにガタガタとドアが閉まる。
開け放した窓から夏の風が飛び込んでくる。
僕は空いているボックス席に腰掛けた。
姫路の町が風とともに後ろへ流れていく。
電車は激しく揺れ、それでも驚くような高速で突っ走る、
車庫や操車場を過ぎ、川を渡る。
鉄橋の騒音がダイレクトに車内に広がる。
・・そういえば、夏の電車はこんな感じだった・・
タバコや酒の匂いがかすかに漂う車内で、乗客たちはごく普通に寛いでいるように見える。
この電車が姫路駅に入ってきた時に、違和感を覚えたのは僕だけなのだろうか。
電車の激しい揺れと騒音、そして窓から叩きつけられる生暖かい風が、僕の酔いを覚ませていくように思う。
御着駅に着いた。
木造の駅舎、そのホームに立っていた父親と息子という風体の二人が乗り込んでくる。
「窓際に座りたい」
小学生高学年だろうか、息子が父親にねだるが、生憎、この車両ではボックスが丸々空いているところはなさそうだ。
「ここ、良ければどうぞ」
僕は窓からの強い風に辟易していたので、窓際を譲って自分は通路側に座りなおした。
「ありがとう・・このおじさんにお礼を言いなさい」
父親は礼を言いながら子供にも促した。
「ありがとう・・」
息子は多少人見知りをするようだ。
蚊の泣くような小さな声である。
電車が走り出し、濃い緑の田んぼの風景が夏の風とともに流れていく。
「ひさしぶりやな」
件の父親は僕に向かって話しかけてきた。
「え・・」
「わかるやろ」
「あ・・」
窓から外を眺めていた息子が怪訝な顔で僕を見る。
「お父ちゃん、知り合い?」
「そや」
「どこの人?」
「お前が大きくなったときに分かる人や」
「ふ~~ん」
「元気そうやな」
「いや、そんな・・」
父親は僕を見つめて苦笑して居る。
この父親は、そう、僕にとっても紛う事なき父親なのだ。
すると、この少年はもしかして僕か・・
「おまえと、今日、会うのんは決まってたんや」
「そやけど・・」
「うん、今の俺には俺がもう永くないことは分かるが、それがいつになるかは分からん」
「あ・・」
「思い出したか?」
そうだ、僕が中学生になったばかりの頃、僕は父親と御着駅近くの親戚に会いに行った。
たしか、往路は自宅が山陽電車の駅近くだったから山陽電車に乗り姫路駅前からの路線バスに乗り換え、帰りはその親戚の家の近くの御着駅から国鉄に乗って加古川駅から今度は加古川市内の路線バスで自宅へ戻った。
確かに、その国鉄電車の車内で父親は誰か、知り合いらしき人と話しをしていた。
「苦労させたな・・」
「なにが・・」
進行方向窓側の座席に息子・・つまり、昔の僕が座っていて、通路側の席に向かい合わせで、少し窮屈な思いをして今の僕と父親が座っている。
「俺が勝手なことばかりしたおかげで、お前が随分苦しんだのだろう」
それはまさにそうだった。
父親はあの夏、一緒に電車に乗ったときから・・いくばくもしないうちにこの世を去った。
「みんな知ってるで・・」
「どんなことを?」
「お前が高校へ行かして貰えなかった事、そこから必死で生きてきたこと・・」
「いや、僕は高校へは自分でいった」
「定時制だったな・・俺も定時制を出た」
「そうやったな・・親父と同じ生き方をしていると苦笑したこともあったわ」
「弟や妹たちのこと、それにおかあちゃんのこと、ほんまにありがとう」
「いまさら礼なんていい・・」
「そうか・・」
「それやったら、なんでもう少し生き永らえて、家族を引っ張っていってくれんかった・・」
「そやな・・ほんまに申し訳ない」
「詫びも要らんって」
「ただな・・俺は自分の寿命が尽きるのは判ってた」
開け放した窓からの風は田んぼの上を流れてくるからか、少し冷たさを感じるようになってきた。
播州地方独特の、平野に屹立する岩山が流れる。
新幹線の白い車体が颯爽と走り去っていく。
窓際の子供の僕はその新幹線を夢中で追っている。
あれは、0系か・・
「電車が好きやったな・・」
僕は子供の僕を見ながら話題を変えた。
「そや、電車が好きで好きで・・南海電車や阪急電車に古い電車が来たら、それが鈍行でも無理に乗ってしまうんやもんな・・」
おやじはそう感慨深く呟いて、ふっと、思い返したように言う。
「そやけど、折角・・電車の仕事をしたのになんで転職したんや・・電車が好きでなくなったんか」
「いや、今も電車は好きやで・・」
「ほな、なんでや」
「電車を仕事としてではなく、ただ趣味として楽しみたいと思った・・」
「なるほどな・・」
「人生って、子供の頃に思ったようにはいかないし、行かん方がええこともある・・」
「お前もそれがわかる年頃になったか」
「僕、もう五十や・・不惑や」
親父は少し笑った。
「そうか、五十になるか・・俺より十二も上なんやな」
「ほんまやな・・でも、僕、自分が五十になっても、ぜんぜん進歩してない気がする」
「今、不惑って言うたやないか」
親父はそういって大声を上げて笑う。
窓の外を一心不乱に見ていた子供の僕がこちらを見る。
「まあな・・人生、たいして進化せんもんかも知れん」
僕も少し笑った。
子供の僕はまた窓の外のほうを向いてしまった。
「なあ、ボク・・」
僕は子供の僕に話しかけた。
「窓からの風、きつくないか」
子供の僕は外を見たままで「大丈夫や」という。
まさしく、子供の頃の僕はこんな愛嬌のない子供だった。
電車は速度を落とし、ガチャガチャと曽根駅のカーブしているホームに停車する。
「俺は・・」
「ん?」
「俺は、このあたりで死ぬ・・お前は俺の死に目に会えない・・」
親父が真顔で僕に静かに向かう。
「そやから、今日、会いたかった・・すまんな、ありがとうな・・が言いたくてな」
「そんなん・・」
「いやいや、生きているうちに出来ることはしてしまわんと・・」
「そやけど、親父は今、生きてないやろ」
「いやいや、お化けみたいなことを言わんでくれ、俺はこうして生きている・・ただ、お前に、それも未来のお前に会いたかっただけや」
「不思議なことが出来るもんやな」
「人間、強い想いさえあればなんだって出来る・・」
「だったら、なんでその強い想いで生きようとせえへんかったんや?」
「寿命はな・・多少は延ばせても大きくは変わらん」
「そんなもんか」
「そや」
「おかあちゃんが寿命を延ばせたのは何でや」
「脳の病気のときか・・」
「うん・・」
「それはな、寿命はまだ尽きてなかったんや・・病気が重いというのは人間の都合やさかいな」
「病気が重くても、寿命が尽きてなかったらまだまだ生きられるということか」
「そや」
「病気が重くなく見えても寿命が尽きたらそれまでということか」
「そやそや」
電車は曽根の駅を発車して左右に小高い岩山を見ながら相変わらず猛烈な騒音と揺れで走り出す。
親父はタバコを取り出して火をつけた。
タバコを思い切り吸い込み、気持ちよさそうに吐き出す。
「国鉄はタバコが吸えるからええな」
「そうやったな・・昔は車内でタバコが吸えた」
「違う、今、タバコが吸える・・吸えなくなるのは、たぶん未来の話やろ」
「ほな、あれか・・親父が僕の時代に来てくれたんやなくて、僕が親父の時代に来てるんか」
「それは知らん・・難しいことはわからん・・ただ、俺は大人のお前に会いたいと願っただけや」
「親父の時代でもあり、僕の時代でもあるわけか・・」
「そうかもしれん・・」
親父は美味そうにタバコを吸い込む。
「酒は呑むのか」
「ああ・・」
「たくさんは呑むなよ・・それと、いい酒を飲めよ・・安モンは呑むな・・俺みたいになるぞ」
「僕は焼酎ばかりや・・親父のように日本酒やウィスキーは飲まない」
「そうか・・それがええかもしれんが、焼酎も飲みすぎるな・・」
「うん・・」
「自分で撒いた種とはいえ、酒で身体を潰したのは苦しかったぞ・・」
「うん・・そうやろうな」
「それと、女には気をつけろよ」
「嫁か・・」
「嫁はまぁ・・男にとって基本的に怖いくらいでちょうどいい・・」
「おかあちゃんは怖いんか?」
「優しそうに見えてもな・・俺が東京で女と遊んで帰ってきたとき、神戸駅で鬼のような形相で立っていたときは怖かった」
タバコを吸いながら親父は笑う。
「嫁以外の女と遊んでも構わん・・そやけど、子供は絶対に作るなよ」
「僕もう五十や」
「五十でも子供くらい出来るぞ・・とにかく、相手を悲しませるからそれだけは気をつけろ」
「わかった・・」
「嫁でも子供を作りすぎると辛い思いをさせるからな」
「確かにな・・」
親父は結局、お袋に十人の子供を孕ませ、四人が死産で僕を含め六人が今生きているというわけだ。
親父の死後、お袋が必死で六人の子供を手放すことなく育て上げてくれた・・
これはまぎれもない事実だ。
電車は宝殿の駅に入っていく。
駅の北側は見事な水田、濃い緑の絨毯が遠くまで広がっている。
ということは、この景色は親父の時代のものか・・
僕はこれまでの会話で疑問に思っていたことを親父にぶつけた。
「おかあちゃんには会いに行ってやらんのか」
「行ったよ・・何度も行っている・・」
「入院していたときもか?」
「あの時はほぼ毎日、会いに行っていたな・・」
「好きやったんやな・・おかあちゃんが・・」
「好きかどうか・・済まない想いだけが一杯でな」
この駅のずっと北側でお袋は四十年も住み続けて子供たちを育て、自分の世界を作っていく。
神戸で生まれ、大阪で永く生活していたお袋にとって、ほとんど縁らしい縁のないこの緑豊かな山野がどんなに寂しく映ったことだろうか。
だが、生来の明るさと、余り物事を深刻に捉えない性格とが幸いし、お袋は自分の世界を築いていく。
「おかあちゃん、ここで四十年も生活したんや・・」
「ああ・・」
「親父に先立たれてから、ほんまに一人で・・ようやったと思うわ」
「でもな、こうちゃん・・」
親父が僕を昔の呼び方で呼んでくれた。
子供の僕が怪訝な顔をして振り返る。
「この、加古川の、こういう綺麗なところで住んだことに、俺は少し安心しているんや・・」
「そうか・・」
「加古川へ来たのは不思議な縁やった・・俺も何で加古川に来たのかは未だによう判らん・・」
「上田の親分のおかげやないか・・」
「親分は確かにそうやけど、親分は神戸でもいくつか仕事をしていたからな・・」
「たまたま加古川で仕事の穴が開いてたと言うことか・・」
「そやな・・」
宝殿を発車した電車は、田んぼの中を相変わらず騒音を撒き散らしながら快走する。
クリームと赤の電車がすれ違う。
「特急しおじや!485系や!」
子供の僕が叫ぶ。
電車は加古川の川を渡り、たくさんの線路が分岐する構内を激しく揺れ、さらに騒音を撒き散らしながら加古川駅に入っていく。
「こうちゃん、元気でな・・」
「ああ・・会いに来てくれてありがとう・・」
「酒・・お前は焼酎だったな・・呑む量には気をつけろよ」
「ああ・・」
そのとき、子供の僕が不思議そうに口を出した。
「おとうちゃん、この人も”こうちゃん”なん?」
「ああ・・そうや、お前が大きくなったら、そのときに分かるお人や・・」
ドアが開く。
構内放送がけたたましく叫ぶ喧騒のホームへ、親子が降りていく。
親父はホームで僕に向かって手を振った。
「おやじ!」
僕は開いている窓から大きめの声で話しかけた。
「今から駅前の”カノコ”で”こうちゃん”にメシを食わせてやれよ!」
「カノコやな・・判った!」
「ポタージュスープが旨いぞ」
「そうか、判った!」
親父は笑顔で手を振る。
子供の僕は僕のほうよりも電車の車体を見ているようだった。
ドアがガタガタと閉まる。
電車はゆっくりと加速していく。
「次の停車駅は東加古川です」
女性の声で車内放送が流れる。
高架から加古川の町の広がりが見える。
冷房の効いた車内、窓を開けることもないエアコン完備の快速電車は、ほとんど揺れらしい揺れもなく、ただ窓の外の景色だけが足早に流れていく。
僕はゆったりとしたロマンスシートに座って車窓を見ている。
少し建物が増えたものの播州平野の長閑さは昔と少しも変わらない。