よっちゃん、貴女と初めて出会ったのは僕の行きつけのバーだったね
そのバーは厳めしい髭面のマスターがいるお店で
いろいろなお酒を安い値段で出してくれるのでよく通ったところだ
貴女は会社の上司の方と来ていたようで
その方の話を表情を崩さずに聞きながら頷いていた
当時の僕はすでに妻子もある四十男で
貴女は美しい盛りの二十歳代後半だった
最初の貴女のイメージというものは
大人びた、いかにも仕事の出来そうなキャリアウーマンで
ビジネススーツをやや崩し気味に着こなし
黒のストッキングに包まれた長い脚を
ハイチェアーに投げ出すかのように組んで
何本もの煙草を吸っていた
煙草を吸わない僕は
不思議に煙草をたしなむ女性に惹かれる癖があり
その時も煙草の甘く切ない香りにわが身をゆだねながら
上司らしき人との会話に余念のない貴女を見ていた
よっちゃん、貴女と二度目の出会いは意外に早く
その時もやはりあのバーだったのだけれど
貴女は一人で店に来ていてゆったりと自分の時を楽しんでいるかのよう
何か悩みごとがあるようで
しきりに人生経験の豊富そうな店のマスターに何かを質問している風だったけれど
マスターときたら、何もしゃれた答えは出せずにただ頷いていたものだ
その時のよっちゃんは、やはり煙草を何本も燻らせるのだけれど
ふと、気がついたのはカウンターに置かれたガラスの灰皿に
幾本も捻じ曲げられ押し込まれた吸い殻のフィルターに
貴女の口紅は付着していなかったこと
よっちゃん、貴女は煙草を吸うために口紅は付けない主義だと
煙草のフィルターに口紅が付着するのが嫌なのだと
僕からの質問にそっけなく答えてくれたね
そう言われて改めてあなたの唇を見ると
仕事の出来そうなやや崩れたキャリアウーマンという
貴女全体のイメージからはそこだけ雰囲気が違うような、
優しいピンクの柔らかそうで控えめな唇に、意外に思ったものなんだ
吸い終わった煙草をガラスの灰皿の縁でもみ消し潰しながら
貴女は「あなた、わたしに気があるの?」なんて
とんでもない質問を僕にぶつけてきた
そして「男なんて何人も何人も知っているわ」と
蔑んだような眼で見つめる貴女がいた
僕を見つめる貴女の瞳は大きく、少し茶色がかっていた
その時のよっちゃんはどうかしていたのだろうか・・僕が聞きもしないのに
「わたし、セックスだけのために付き合ったオトコもいたわ」
なんて僕に宣言するものだから、こういう女性と出会ったことがない僕には
どう反応していいかわかるはずもなく、
多分、とぼけた顔をして頷くしかなかったのだろう
「ああ、気持ちいい!ってそれだけ、最低だよね」
悪戯っぽく僕に目をやりながら煙草を咥え直す貴女が居て
それは四十歳代にしては奥手の僕には
女性にも男性のようにセックスだけを求める気持ちもあるのかと
僕より一回り以上も若いこの女性の大人の感覚に、ちょっとしたショックでもあった
貴女に三度目に出会ったのは、あれは夜の公園
メールをもらって急いで駆け付けた僕の前で貴女は泣いていた
仕事を辞めさせられると、どうしていいかわからないと
今ならパワハラなどと言う言葉もあるが
未だその当時は会社の上司には逆らえない風潮の中
いくらでも候補がいる事務の女子社員としては
不適格という烙印を押されていたのだった
そして実はこれは後で知ったのだけれど、その同じ頃に
貴女は長年想い続けていた青年と別れることになって
失恋し半ば自棄になっていたのかもしれない
そして、三度目の出会いの後で・・身体を重ねた僕の前には
あのバーで「男なんていくらでも知っているわ」と
強がった大人の女性は消えてなくなり従順で感情の高ぶりのままに身体を任せる
とても男性経験が豊富とは思えない一人のごく普通の女性がいた
よっちゃん、貴女は男などいくらでも知っていたのではなく
男をたくさん知っているふりをしていただけだったんだよね
そのことを僕に読み取られたその恥ずかしさゆえか
貴女は僕の前では前にも増して強がりを言うようになったけれど
僕にはそういう貴女がことのほか可愛く感じられるようになっだのだから・・
不思議なものだ
貴女が本当に強い女性などではないことは
それ以来、貴女が心療系統の病院へ通い続ける羽目になったことを見ても
分かることなんだけれど
でも、貴女が心の病を決して受け入れるつもりのないことは
貴女の常の強がりを見る僕には十分理解できているつもりなんだ
よっちゃん、心の隙間を埋めるかのように
貴女は僕を誘い出してはあるいは僕の誘いに乗ったふりをしてきては
僕と肌を重ね合わせてくれた
真っ白な肌、驚くほど大きくて豊かな弾力の胸、細く長い髪、綺麗に括れた腰の線
優しい息遣い、そしていつも最後に見せる涙
僕は貴女を抱くことはできても
貴女の想いを僕の人生として受け止めることなどできず、
それは僕にすでに伴侶がある故なのだけれど
いつのまにか、そのことは時間が解決すると思ってしまった
けれど最初に出会ってからもう十年、僕の家庭は綻びる隙間を得ず
ただ己の人生だけを守ろうとする僕の思考に
家庭を崩壊させて貴女と真に向き合うつもりもなく
それに気がついたのか、いや、はじめから判っていたのか
よっちゃん、ここ一年ほど、貴女が僕との距離を置き始めた
本当は
本当は
貴女を追いたい
貴女を我がものとして掻っ攫っていきたい
だがそのことが還って、煙草のフィルターに口紅がつくからと
素のままの唇で煙草を吸う生真面目な貴女の心を傷つけ
貴女の病を余計に深くするのは間違いがなく
僕はただ、よっちゃん、貴女との
間隔が以前の数倍に空いてしまった二人の時間を待ちわびるしかなく
本当は何もかも捨てて貴女を奪いに行きたいのだけれど
そんなことは安物の恋愛小説か演歌もしくは四畳半フォークの世界でしかないのだと
本当はどうしようもない崩れた人間というのは僕のことなんだと
僕は自嘲するしかなく
よっちゃん、やはり貴女は僕よりはずっと大人で
何もかも分かっていながらこの十年を過ごしてくれていたのだろうね
そして・・今夜もふっと僕のことを思い出したら
クスリと、苦笑いしているだろうなぁ
煮え切らない僕のこと
(銀河詩手帖271号、那覇新一名にて掲載作品)