直子はクルマを走らせていた。
許可番号121-2233、許可方向国道2号加古川市往復、許可条件・・自動車専用道路を使用のこと、許可車両・・ハイブリッド式4人乗り乗用車、パスワードyg3ddte341
今日の運行許可を警察の自動車管理部から貰うのは簡単だった。けれども条件がついた。
附則・・加古川市某所にて1名乗車のあとは直ちに帰還、車両の返還を行なうこと・・
石油がこの国にまともに入らなくなって3年が経とうとしていた。
経済の混乱を避けるために国家がとった方法は徹底して国民を管理するというものだった。
行動を制限し、混乱を起こさせなくするため、モノを考えることを規制するしかなかったのだ。
電子情報保持法、自家用車運行管理法、自営事業管理法、出版管理法、電子情報管理法・・そしてこれこそ稀代の悪法といわれる劣性遺伝管理法・・
人々の不満が爆発しても仕方のない状況ではあったけれど、政府はじっくりと一つずつ法律を制定してきた。
テレビニュースから、時事や経済の話は消え、変わりにタレントの痴話話やドラマの裏話が中心になってきた。
確かに生活はある程度不便にはなったけれど、サラリーマン世帯の収入はここ数年で倍増し、ガソリンこそ買えないものの、暮し向きは随分よくなっているのも事実だった。
車が使えないので、ロードサイトのショッピングセンターは疲弊したけれど、住宅地に接してたくさんのショッピングセンターや映画館、ゲームセンター、エステティックサロン、温泉などが次々に完成し、人々はクルマを使わなくとも、それなりの便利さを享受するようになっていた。
直子のクルマは高速道路から一般道路に入った。
高速道路は空いていて、走っているのは運送会社のトラックや軍のクルマ、それにタクシーと少数の自家用車だけだった。
一般道路に出ると、自転車やこの頃流行りだしたエレキバイクが幅を利かせている。
直子がクルマの運転をするのは久しぶりだ。
丸2年ぶりだった・・
2年前のちょうど今ごろ、冬・・
政府は突然、電子情報保持法案を発表した。
当時すでに携帯電話は、クレジットカードや保険証の役目も果たしていたけれど、各個人にこれを持たせ、情報をいつでも引き出せるようにしたものだった。
最初、この法案はマスコミから大反対されていた。
けれど、政府としては一切の闇物資・・特にエネルギー系の物資を世に出させなくするために、徹底した国民の個人情報が必要になっていた。
直子の恋人、俊三は、この法案に反対する運動をインターネットを使い立ち上げていた。
この法案が通ると、全ての国民は電子情報を常に携帯しなくてはならなくなる・・警察やそのほか当局の求めに応じて、情報は常に取り出されることになる・・
国民世論の大半は法案の成立に反対だったが、おりしも、東海地方を襲った大地震が朝ラッシュ時の発生であったため、身元不明遺体が非常に多く残り、この点での個人情報の常時携帯の必要性が一気にクローズアップされてしまった。
俊三は電子情報保持法案が成立後も、携帯端末を持たずに外出を続けた。
一斉検挙の行なわれた夜、俊三は逮捕され、その後今日まで刑に服することになってしまった。
直子は、まもなく俊三に会える嬉しさと、これから始まるであろう世間への気遣いとに複雑な心境であった。
俊三が逮捕された時、直子のお腹には彼の子供が宿っていた。
法に反するものの子供は生まれてくることは許されない。
劣性遺伝管理法は、この国の国力がアジア各国に対してそれまでの優位性を保てなくなった時に出来上がった法律だった。
知能、人格、全てを満たした国民の資質を根本から追求するために、政府はある程度以上の知的レベルのものしか、出産を認めないようにした。
もしも、妊娠していることがわかっても、両親がある程度以上のレベルを保っていないと、出産の権利を剥奪されてしまう。
この法律はその後拡大解釈され、法律の存在そのものが絶対悪であるにもかかわらず、さらに悪魔的な存在となっていったのだ。
法律が制限する両親の資質に「犯罪行為」が加えられた。
俊三が逮捕され・・そして罪が確定した時、直子のお腹の子供は4ヶ月になっていたが、そのまま随胎させられた。
それは彼女にとって、忘れることの出来ない屈辱を国家が警察権力によってなした異常な事態ではあった。
彼女はそれまで、まさかこの法律がこういう形で自分に降りかかってくるとは考えもしなかったのだ。
自宅に突然現れた刑事、携帯端末の提示、そして、有無を言わされず、警察の車に乗せられて連れて行かれたのは大学病院だった。いきなり診療台に乗せられ、注射を打たれ、気がついたときには自宅のベッドで横になっていた。
俊三が刑を服し終えたから、もう、あのようなことはないだろうとは思う。
けれど、彼女の心には強引に引き裂かれた命への思いが傷になって残っていた。
刑務所が近づく・・下腹が痛む・・
「これより管理区域に入ります。これよりは誘導に従ってください。なお、従われない場合、犯罪者とみなされることがありますのでご注意ください」
クルマのスピーカーから電子音声が流れる。
カーナビがクルマを刑務所に誘導する。
クルマは何もしなくても勝手に入っていく・・建物の中で駐車場のようなゲートのあるところがあった。クルマはそこで勝手に停車した。
「前に見えるもの以外は何も見てはいけません。あなたは前だけを見ていてください」
電子音声が聞こえる。緊張する。
後ろのドアが開く。
「後ろを見てはいけません。ドアが閉まるとゆっくりと加速してください」
人が乗り込む感触がある。ルームミラーは遮蔽されて見えない。
アクセルを踏む前に、車はゆっくりと加速し始めた。
建物を出る。
眩しい・・日の光に満ちている田舎の景色があった。
「これより管理区域を離れます。どうぞ安全運転でお帰りください。本日はご苦労様でした」
ルームミラーの遮蔽が解けた。
懐かしい、恋人の顔がそこにあった。
「おかえりなさい・・」
ハンドルを握りながら、彼女は泣いた。様々な思いが込み上げてきて涙が途切れない。
「わが国に万歳!」
俊三がいきなり叫んだ。
「なに・・?」
「わが国に万歳だよ!」直子はクルマを路肩に停めようとした。
「停めてはならない・・まっすぐに君の家に行こう」
感情というものが感じられない・・俊三の声は若々しく、元気ではあるけれど、感情というものがないようにも思えた。
「帰る途中で食事でも・・」
「まっすぐに、君の家に行こう・・」
ルームミラーの彼の視線は宙を見ているようだった。
何が起こったのか・・分からないままに彼女はクルマを走らせた。
そこからは二人の間には、会話はなかった。
クルマを警察署に返し、コミュニティバスで直子の自宅のあるアパートに帰ったときはすでに冬の短い日が暮れかけていた。
アパートに入り、明かりをつけるといきなり俊三が直子を抱き寄せた。
「こわい・・やめて・・」
直子が驚いて彼を放そうとすると彼は、彼女の耳元に口を寄せて、囁いた。
「お願いがある・・すぐに布団を敷いてくれ・・できればベッドルームじゃないところで・・」
「なんなの!」叫ぼうとした直子の口を俊三は口付けで塞いだ。
何がなんだか分からず、直子はベッドルームにあった布団をリビングに敷いた。
「寝よう!」
彼が大声で言った。
「君も寝るんだ!2年ぶりだからなあ!」
あたりかまわず、大声で言う。
そのまま彼女は布団に押し込められ、彼がかぶさってきた。それも頭から掛布団をかぶって・・
「ごめんね・・意味がわからなかったろう・・迎えにきてくれてありがとう・・」
布団の中で囁くように俊三が言った。
「セックスをしている振りをしよう・・僕たちは馬鹿に見せかける必要があるんだ」
俊三の手が彼女の下腹部に伸びた。
随胎の手術の跡を触っている。
「悲しかっただろうに・・辛かっただろうに・・」
「今・・本当のことを言う・・僕はずっと監視されている。君も同じだ・・だから・・布団をかぶらない時は、当り障りのない話しか出来ない・・」
「監視・・・」
「そう・・ベッドには起床装置がついているだろう・・あれの中に盗聴器が仕掛けてある・・」
直子が驚いて、声をだそうとした口は彼の手で塞がれた。
「僕たちはセックスしか考えない馬鹿者カップルにならなければならない・・そうでなければ、今度は君も危ない・・」
「危ないって・・」
「僕は刑務所のカリキュラムで徹底的に馬鹿を演じてきた。もしもそれが出来なければ、手術で脳を触られる・・動物並の知能にされるのだ」
「つまり・・刑務所は何も考えることの出来ない馬鹿を作るための設備だった・・」
「今の世の中を渡るには、いらぬことは考えてはいけないんだ・・考え、行動する人間は今の政権から排除される・・馬鹿なテレビを見、馬鹿なゲームにうつつをぬかし、どうでもいいような仕事をのんびりとやっていなければならない・・いらぬことを考えた人間は刑務所に入って、再教育・・それも出来ない場合は手術で強制的にそう言う人間にさせてしまう・・」
彼はそう言いながら、彼女の胸をはだけた。
「しばらく・・馬鹿で居よう・・君を苦しませないために・・」
そう言って、今度は本当に彼女を愛撫し始めた。
テレビをつける。
さして面白くない番組で、出演するタレント達が大笑いしている。
俊三は声を上げて笑っている。
直子には面白くないものにでも声を上げて笑っている。
彼女にも、少し事情が飲み込めてきた。彼が彼女を愛しているからそう言う態度をとることは分かった。
けれど、さっき、彼は愛撫はしてくれたけれど、そこまでだった。
永い永い、愛撫だけの行為が続いた。
今、彼を見ていると、やはり刑務所で何か人格が変わったような気がするのだ。
彼女が冷蔵庫にあったもので、簡単な夕食を作って彼に差し出しても、彼はテレビを見ながら、笑いながら、それを食べていた。
チャンネルを替える。
ニュース番組になった。
司会者はこの間まで人気絶頂のバンドグループのリーダーだった青年、それに先日オールヌードの写真集を出版した女性歌手の二人だった。
火事や交通事故のニュースが、被害者の心情にまで入って報道されるので人気のある番組だ。
一昔前まで、ワイドショーといわれたノリの路線だった。
そして、夜・・彼はやはり布団はリビングに置くように言い、また頭から二人で布団をかぶりこんでその中に入った。
「僕の実家へ行こう・・明日・・鉄道ならキップは買えるんだよね?」
俊三が囁くように言う。
「買えるわ・・電車賃はすごく値上がりしたけれど・・」
「じゃあ・・明日の”はまかぜ”で僕の田舎へ行こうよ・・なるべく気軽な格好で、僕の両親に久しぶりに会いに行くことにするんだ」
鉄道の旅行は警察に届を出す必要がなかった。
クルマを借りるわけではないからだ。でも、鉄道の運賃はここ2年で、2倍以上に跳ね上がっていた。
俊三は夜も直子を少し愛撫しただけで、そのまま眠ってしまった。
翌朝、携帯端末から”はまかぜ”の乗車券を求めようとしたけれど、本日のはまかぜ号5本の列車は全て満席だった。大都市では、クルマによる移動が警察の許可を要するため、勢い、列車に旅行者が集中するので、なかなか優等列車の切符は当日では手に入らないのだ。
「だめだわ・・満席・・」
直子が溜息をつくように俊三に言う。
「それなら・・普通電車で行こうよ!」
俊三は大声で答える。誰かに聞かせているかのように・・
電車に乗るには携帯端末を改札口の機械にかざすだけでいいことになっている。
「端末は持っているの?」
直子が訊くと俊三は軽く頷いた。
二人は改札を入り、やってきた普通電車に乗り込んだ。
途中の駅で快速電車に乗り換え、姫路駅からさらに播但線に乗り換えた。この間、二人は一言も言葉を交わさない。
直子にも、俊三が喋らない時は、喋ってはいけない時だと、おぼろげに分かってきていた。
何も考えずに、何も喋らずに、それでも手をつないで、二人は山陰本線の香住駅を目指した。
寺前駅で気動車に乗り換え、座席に座って初めて俊三が口を開いた。
「やっと・・監視から逃れたね・・」
「ここは監視されていないの?」
「国土全体を監視するわけに行かないから、今の所、ここから北は大丈夫らしいんだ」
「じゃあ・・おおっぴらに喋ることが出来るわけね・・」
「だけど、監視役員がどこで見ているか分からないからね・・迂闊なことはいえない・・特に運転士や駅員あたりが危ないよ・・」
列車はかなりの速度で走っている。
しかもこの列車はワンマン運転だ。
今の列車の運転士が二人を監視することは出来ない・・
車窓が雪景色に変わる。立派な高速道路が見えるがクルマは走っていない・・
「雪景色は、久しぶりだわ・・」
直子はガラスの曇りをぬぐいながら、一心に外を見ている。
「ああ・・もう、街には帰りたくないなあ・・」
俊三は屈託ない表情でボックス席で足を伸ばして、直子の横から外を見ていた。
香住駅で山陰線の列車から降りた二人は、そのまま漁港に向かった。
漁港のはずれに一艘の小型漁船が係留してあった。
「俊三!」
漁船の横で年配の男が声をかけた。
「おやじ!」
声に気がついて船から女性が出てきた。
「お袋!」
家族3人は抱き合って再会を喜んだが、すぐに直子のほうを向き直った。
「この方が、直子さんかい?」
俊三の母が訊く。うん・・頷くよりも早く、彼の母は直子に頭を下げた。
「辛い思いをさせたねえ・・すまなかった・・本当に申し訳がなかったねえ・・」
彼女は深々と直子に頭を下げた。
横にいる父親は、悔しさをにじませた表情をしていた。
「昨日、出所する・・それだけの手紙を送ったんだ。僕は出所すると、旅に出ることにしていた。ちょうどいい雪だ。これなら海上保安庁も追ってこないだろうし・・」
直子は驚いた。
「今の日本に僕の居場所はないんだ。君さえよければ、今から一緒に船に乗ってもらうよ」
俊三は雪にまみれながら、しっかりとした口調でそう言った。
直子は寒さで下腹部が少し痛むのを感じた。・・屈辱を思い出した。
自分の両親が心配するだろうと思った。
「ここに来るまで、君にもきちんとした説明が出来なくて・・心の準備が出来ていないだろうけれど・・」
俊三は直子を見つめた。
「さあ・・雪がやむ前に行きなさい・・食べるものはたくさん、積んでおいたから・・」
母がそう言う。
「直子・・来てくれますか?」
俊三が直子を見ている・・直子はそのまま彼に抱きついた。
冬の日本海、雪が舞う灰色の海を波にもまれて一艘の漁船が北へ向かっていった。
「うまいもんだろ・・」
「ロシアが日本からの政治難民を受け入れてくれる・・そこまでたどり着けばの話だが・・」
舵を握る俊三の横で、直子はただ海を見ていた。
始めて誰にも監視されない時が来た・・彼女の心にあるのはそれだけだった。