(本作は「三条の方覚書」「十六の母(諏訪御寮人異聞)」の関連作でもあります)
弘治元年十一月(1555年12月)、甲斐の国はすでに冬の装いとなり、すでに借り入れの終わった田畑には朝霜が降り、富士の峰にも雪が積もるのが見える。
躑躅が崎館の奥で、観音像に向かい端座して祈りを捧げているのは、当主武田晴信の正室、三条の方だ。
先月、四年前に父を謂れなきことで死に至らしめた陶晴賢が、毛利元就との厳島の合戦で討ち死にし、彼女にとってはまさに父の仇を打ってもらったとの報告を都からもらって以来、祈りの時間が長くなっている。
亡き父の面影を追い菩提を弔うとともに、戦で亡くなられた敵味方の将兵のことをも祈る。
父が亡くなったのは四年前、天文二十年(1551年)のことだ。
大内義隆の食客として山口に滞在していた三条公頼は、陶の乱のどさくさに紛れて殺された。
それ以来、三条の方に父を思わぬ日はなく、陶氏への恨みも戦国の倣い故として抑えても抑えても湧き上がってきてしまう気持ちを、祈りに代えることで自分の中に収めていった彼女である。
二年前には三男がまだ幼いのに夭折した。確かに病弱ではあったが、まさか突然亡くなるとは思ってもみなかった。
その日から父への供養とともに、三男信之への供養も日課になった。
武田家の運は開け、晴信の善政によって甲斐府中の街中にも明るさが感じられるようになってきた。
だが、そこに不運の闇が覆ってきたような気がしてならない・・どうか仏よ、武田を守って・・彼女の祈りは続く。
はじめての川中島での会戦があった後も三条の方は、敵味方の亡くなった将兵やその家族のことを祈った。
信濃に侵出しているのは我が夫である。
その妻がいくら祈ったところで、殺生の罪は消せぬかもしれない。
だが、彼女は祈る・・少しでも武田が、いや、自分の家族が罪によって不運に陥ることがないように。
祈ることは増え、祈りの時間が伸びていく。
何時しか彼女の祈りは一刻にも及ぶようになっていた。
その時刻は侍女の誰も、奥仕えの武士も祈りを邪魔するまいと控えているのだ。
そんな折、祈りが終わり三条の方がほっと一息ついているときだ。
次女の一人が「御館様からです」と手紙を持ってきた。
信濃で二回目となった川中島会戦の後始末を続けている夫、晴信からだ。
封を切ってみるとそれはごく短い一行だけの文章である。
「諏訪の方、さる十一月六日に身罷れて候」
え?
どうして?
諏訪で四郎と仲良く暮らしているのではなかったの?
三条の方の頭は混乱し、心の臓の響きが大きくなる。
手紙を持ったまま、しばらく呆然とする三条の方だった。
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諏訪の方、「梅」は、諏訪の領主、諏訪頼重の実子だ。
諏訪と武田の長年続いた争いを終えた時、信玄の父、武田信虎が人質にするように求め、諏訪頼重は素直に従い、わが愛娘を武田へ送ったのだ。
もちろん、武田とて同盟国の子女であるがゆえに、丁寧に扱っていた。
流れが変わったのは、武田信虎を息子の晴信(のちの信玄)が駿河へ追いやり甲斐の実権を得た時で、信虎とは違い晴信は諏訪への進出を目論んでいたことからだ。
まさに嵌められた感のある諏訪頼重謀反、そして追討。
武田信虎を心から信用し、まさかその息子が攻めてくるはずもなかろうと、何の戦準備もしていなかった諏訪はいきなり晴信勢の攻撃を受ける。
碌な戦にならず、敗れた諏訪頼重は甲斐府中に連れてこられ、しばし幽閉された。
そして謀反の罪を着せられ、成敗される。
その直後、三条の方は晴信名代として梅姫を見舞った。
正室が見舞いに来るという知らせに、梅姫の侍女たちは非常な不安を持っていたが、梅姫は一人、動ぜずに端座していた。
三条の方はその梅姫を見て、未だ十三歳ながら堂々とした振る舞いに圧倒された。
「此度は、御父上、諏訪頼重様にあられましては誠にお気の毒でございました」
礼を踏まえ、九つも年下の少女に頭を下げる。
「これはご正室様、父のことは戦国の倣いゆえにお気になさらずにいてくださりませ、かようなご挨拶は勿体のうございます」
凛とした返礼に圧倒される。
都での女性同士のやり取りは見慣れている三条の方ではあったが、なるほど武士の世界では命の遣り取りも日常茶飯事、この小さな少女の覚悟が一瞬にして読めた。
ふっと涙を流す三条の方。
それを見て今度は梅姫が三条の方の傍に来る。
「お方様、何かお哀しいことでも・・それとも己(わたし)がお心に触りましたでしょうか」
にじり寄る梅姫に三条の方は頭を振った。
「いえいえ、あなた様のご覚悟のほどがきちんと読めましたゆえ、苦労知らずの都育ちの妾はいたく感動しておるのでございますよ」
と答えた。
梅姫はまっすぐに三条の方を見つめ、三条の方は姫の手を取った。
戦国有数の美女として伝わる武田晴信正室三条の方と、側室になる梅姫、諏訪の方の出会いは優しい風の吹く奥座敷だったのだ。
ふたりの心にお互いに響きあうものがあったのだろう。
以後、梅姫は三条の方を実の母娘、実の姉妹のように姉とも母とも慕うようになる。
やがて、晴信が梅姫を側室にすると宣言した。
これは、諏訪家直系の血を引く梅姫が武田と繋がることで、諏訪領民の心を鎮めるのが最大の狙いだった。
だがその話が決まったころ、部屋を訪れた三条の方に、梅姫は不安を隠せない顔で言う。
「お方様、己は、御館様が恐ろしゅうてなりませぬ」
「なにゆえ?」
「大変、失礼なことを申し上げます、申し上げた以上は己の扱いがどうされても構わぬ覚悟でございます…」
そう前置きして思い切った表情をして梅姫は続けた。
「武将たるもの、皆そうでなければならぬのでしょうが、伝え聞いたことからではございますが、御館様は人を欺き人の命を奪う事をなんとも思っておられないと見えて致し方のうございます」
梅姫は俯いた。
領主の正室にこのようなことを言えば、如何に優しい三条の方とはいえ、厳しく接してくるだろう・・それくらいのことは未だ少女の域を出ない梅姫にもわかっていた。
だが、三条の方は、最初はちょっと驚いたように、そしてすぐに笑顔になって話を最後まで聞いた後、こういった。
「人を好んで欺き、喜びながら人の命を奪うような人は居らぬとは申しませぬが、少なくとも御館様は違います・・きっとご本人もその時は辛い思いを為されておられるはずです」
「そのようなものでしょうか」
「姫様も、御館様と肌を合わせるようになれば、御館様の悲しさ、悔しさ、苦しさが自然にご自身の心に入るようになるでしょう、その時にはお分かりになります」
そしてこう付け加えた。
「御館様はとても繊細でお優しい方でございます」
その言葉には安心した梅姫だったが、以前から思っていた別の疑義が沸き上がってきた。
「それでは、失礼ついでにもう一つ、宜しゅうございますか?」
「なんでしょう・・姫様が仰ること先ほどのも当然そうお思いになられることで、全く失礼とも思ってもおりませず、そう、ごく自然なお若い女性なら誰しも持たれるご不安かと捉えました」
「それでは、思い切ってお伺いします」
「どうぞ、なんなりと」
「これまで、御館様はお方様だけのものでしたのに、己が入ることはお方様にとって、女性としてお嫌なことではありませぬか」
すると三条の方は、フッと笑みを浮かべた。
「もちろん、我が身よりずっとお若い、それもお美しい女性と御館様が肌を合わせられること、妬き餅もありますわよ」
梅姫は俯いて話を聴いている。
「でもね、武将の妻として最も大事な仕事は、家運を向上させ、家を絶やさないようにすること・・果たして妾ひとりの力でそれが成し遂げられましょうか」
梅姫は俯いたままである。
三条の方は一息おいて続ける。
「あなたの血を、諏訪家の血を持った後継を生んでください・・それが甲斐武田と諏訪のつながりになるのです、そのためには妾の妬き餅くらい、いくらでも焼いて差し上げます」梅姫が顔を上げた。
三条の方は梅姫に近づいて彼女の手を取った。
互いに戦国の女であり、運命はその流れの中でしか開いてはいかない。
梅姫は側室になるとはいっても、武田家と並ぶ家柄の娘である。
正式とまではいかぬが、諏訪と甲斐の民に晴れ姿を見てもらわねばならない。
晴信は、そのために、梅姫をいったん諏訪に返し、婚礼の身支度をさせて改めて甲斐府中に行列を連ねて嫁いでくるような演出を一門のものに命じた。
もう日が暮れようとするころ、晴信と並んで門前に於いてその行列を待っていた三条の方は、行列の戦闘が見え始めると篠笛を取り出した。
優しい音色が暮れなずむ府中の街に広がる。
ゆっくりと提灯を多数掲げた行列が進んでくる。
その夜、晴信は諏訪の方の部屋に行った。
自室でこればかりはどうしようもない我が心から出る女の嫉妬を紛らわせようと、三条の方は回廊に出て月を眺める。
煌々とした十四日の月が庭を照らす。
「今宵は小望月か・・」
三条の方の独り言が、躑躅が崎の中庭に静かに沁みていく。
「満ちるしかない十四日の月、武田もまた、満ちていく」
そう確信はしたが、心の中には少しの不安もあった。
満ちたその先にあるものとは・・考えたくもない思いがよぎる。
三条の方は家伝の笛の名手でもある。
その笛を習いたいと諏訪の方と呼ばれるようになった梅姫が請う。
最初はたどたどしかった諏訪の方の笛もすぐに上達して、三条の方と二人、躑躅が崎の奥で笛を重ねることも多くなった。
それは時として館に勤める武士や侍女たちの癒しにもなっていった。
諏訪の方がいたころの躑躅が崎は楽しかった。
だがそんな生活が終わりを告げたのは、諏訪の方の懐妊が分かった時だ。
だから、二人が本当に仲の良かったのは、僅か数か月という事になる。
出産のために諏訪へ帰る諏訪の方を、三条の方は名残を惜しんで見送った。
禰津の方、油川の方とは気さくには話をしても、それが諏訪の方ほどには親密にはならなかったのはなぜだろうかと、三条の方は思う。
難しいことは何もないのではないか、ただ、ウマが逢ったという事なのだろう。
やがて諏訪に四郎が生まれる。
三条の方の子供である太郎は今川の姫を娶り、先年には将軍足利義輝から義の字をもらい受け、義信と名乗り今のところ盤石だ。
二郎は盲目になってしまったが知恵も周り何とか生活をしている。
長女、次女とも聡明で美しく、いずれどこかの武将とでも引き合わせることが出来るだろう。
四郎は諏訪にいる限り、武田の一家臣に過ぎない。
それゆえ、野望さえなければ諏訪の方の気持ちは楽なはずだ。
決して無理などしているはずもないが、四郎の出産直後より体調が思わしくないと信玄から聞いていた。
その時は、出産後の身体によい食べ物などを使者に伝え、やがて快癒したと聞いた。
以後も数年は時折、手紙のやり取りなどしていたが、それもあるころからぷっつりと途絶えた。
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三条の方はふっと、館の門前へ出た。
遠く東、諏訪の方向の山々に向かって静かに笛を吹く。
哀しく優しい音色が、甲州往還の辺り、夕陽とともに染まっていく。
「ね、梅姫、今度いつ会えるかな」
暮れなずむ山々を見ながら、篠笛を吹く三条の方の頬に自然に涙が伝っていく。
「妾もいずれ、あの世に行くゆえ、その時はともに笛など楽しみましょう」
人の命の儚さをまた味わい、そして武田家の中に何となく流れている不運の空気を微妙に感じ取っていた三条の方であった。