桜が満開となった日の夜、友人たちと宝塚で呑んだ
宝塚といっても普通の居酒屋で、けっして豪華なレストランなどではない
僕と同世代の賑やかなおじさん、おばさんたちと午後の公演の宝塚歌劇を鑑賞し、桜が満開の「花のみち」を散策した後に立ち寄った宝塚南口駅近くだ
すっかり帰りが遅くなってしまった
集まった友人たちの中で、僕だけが宝塚市民ではなく神戸まで帰らねばならない
深夜の宝塚南口駅
まだ外気はうすら寒いが酒で体が火照り
僕は電車が来るまで駅のホーム端で夜風を浴びる
四月になったばかりの冷たい風が酔った体に心地よい
中天やや傾いて十三夜の月がおぼろげながらも煌々と光る
それにしても、初めて見たあの歌劇の感動はどうだ
これまでは女性だけしか宝塚歌劇の良さは判らないのだろうと思い込んでいたが、初老のこの僕が初めて実物を見てすっかり感動している
そして今日の桜の咲き具合も素晴らしく花のみちでの桜吹雪はこれまでに見たことがない美しさだった
ふっと、さっきまで誰もいなかったホームの端に女性が立っているのが見えた
夜目だ、だれもいないと思ったのは闇に慣れていない目の錯覚だろうか
向こうも僕を見つけたようで近寄ってきた、若い女性だ
「あの、お伺いしますが、上り大阪方面はこの電車で帰れますよね」
この辺りではめったに聞かない、きれいな標準語だ
「ええ、まだ梅田とか神戸でしたら」
「大阪駅、上りの十一時半の列車に乗りたいのです」
「ちょっと待ってね」
僕はスマホを操作し「乗換案内」から時刻を算出した
女性は僕がスマホを操作するのを不思議そうに見ている
「あ、次の電車が二十二時四十四分で、西宮北口で大阪梅田行き快速急行に乗り換えれば梅田には二十三時二十分に到着しますね、梅田から大阪駅まで歩いても十分もかからないでしょうから、なんとかギリギリでしょうか」
「ありがとうございます!」
嬉しそうな女性は小柄ではあるが、なかなか街中にはいないほどの美人だ
「京都とか、滋賀のあたりですか?」
僕は気軽に彼女の行き先を聞いた
「いえ、神奈川なのです」
「え?」
このご時世に大阪から神奈川へ行く夜行列車なんてあるのか?
彼女の言っているのは夜行バスのことなのか?
「助かった」
可愛く喜んでいる彼女には気の毒だが、そんな時刻に列車は存在しないはずだ
「あの、もしかしてバスで帰られるのですか?」
「え?バス・・バスが神奈川まで行くような長距離ってあるのでしょうか」
「いや、普通にあるじゃないですか、ドリーム号とか」
「そうなのですか、なんだか長距離すぎて疲れそうですわね、でこぼこ道を何十時間も乗るのでしょう・・」
可愛い女性は人懐っこく、大きな目をさらに丸くして不思議そうな表情をする。
「では、ああ、そうなんですね、寝台列車のサンライズエクスプレス」
「寝台車・・一度乗ってみたいですわね、でも高くって」
この可愛い女性との会話がうまく噛み合わない
じゃあ、どうやって神奈川まで…
僕のその不審を察したのか彼女は笑顔で教えてくれる
「門司からくる東京行きですよ」
僕にはもう、何のことだか余計にわからなくなった
だが彼女はお構いなしに僕に話しかけてくれる
「今日、舞台が終わったのです」
「舞台ですか?」
「はい、そこの大劇場の」
「え・・ではお嬢さんはあそこの女優さんなんですか・・」
「ええ、まだ駆け出しだと自分では思っているのですけど、別の組で応援の主役をさせてもらって」
「主役をできる方なんですか、それはすごいですね、僕は歌劇のことはほとんど知らず今日、初めて実物を見せてもらいました」
「あら、今日の公演を見てくださっていたのですね、ありがとうございます」
あの舞台のたくさんの女優さんの中でどの人が今のこの彼女なのだろう・・
そこへ電車のヘッドライトが近づいてきた。
僕らは電車に乗り、阪急独特の木目調の車内、その緑色の座席に並んで座った
「光栄ですね、ヅカの女優さんと電車に乗れるなんて」
そうは言ったものの、さっきからこの女性のいう事があまり納得できていない
「いえいえ、光栄だなんて・・私服を着ればただのおてんばです」
女性はそう言って笑ったがその声がまた可愛い
「わたし、舞台をしくじってしまって」
「え、そうなんですかそれは大変だ」
「でも大丈夫、お友達のケコちゃんがちゃんと抱きしめてくれたから」
「なるほど、女優さん達でもいざとなったら助け合いですね」
そのあとも彼女と子供のころの話や、宝塚音楽学校に入ってからの話、舞台の話などを伺い、今津線の十五分はあっという間に過ぎた
西宮北口でコンコースへ上がる階段手前で、一緒に今津線電車を降りた彼女が立ちすくんでしまう
「ここは・・」
彼女は絶句している
もしも、思う時間に梅田へ着けなければ気の毒だと、僕は思わず彼女の手を引いた
冷たい手だった
「こっちですよ、西北は初めてですか?」「いえ、あまりに変わっているもので」
だがこの駅が大改装されたのはもう二十年ほど前のことではないのか
また不審に思ったが、それよりは時間がと僕の気が急き、エスカレータを乗り換え、梅田方面のホームに向かった
ちょうど入ってきた大阪梅田行き快速急行に乗る。
僕は遅くなるが、JR大阪駅で折り返せばまだ十分帰られるはずだ
「ありがとうございます」
女性は畏まったように礼を言う
「まさか、ヅカの女優さんが西北を知らないのはびっくりしました、あ、今頃はほとんど自動車での移動なんですね」
僕がそういうと彼女は「いえいえ、自動車なんてそんな、ほんとうに、すごく変わっていたものですから」と少し意味が分からない返事をする
「そうですか、大工事して変わったのはもう随分昔のことですが」
「でも、わたしの知っているのはもっと昔・・」
え?
どう見ても二十代前半の可愛い女性が西宮北口大改装のもっと昔なんて知っているはずがない
「まさか、お嬢さんは四十年前くらいから生きておられるのですか」
ふっと、そう口走ると彼女はちょっと寂しげに頷いた
「やっと、あのお芝居が終わったのです、長かった」
「終わったといいますと」
「春のおどり、っていうお芝居なのですけどね」
「春のおどり・・」
「あれから六十年ほどかしら、やっと今日、帰れるのです」
「今日?帰る?」
「あの夜と同じ十三夜の四月一日、神奈川にですよ」
何を言っているのか僕には理解ができない
闇の中を突っ走る快速急行のモーターやレールジョイントに僕は自然に黙ってしまった
結局はこの女性を大阪駅、それも神奈川へ帰るというのだから上りホームに連れて行けばいいのだろうと自分に言い聞かせ、列車の揺れに身を任せる
小さな肩が僕の方にもたれかかってくるが、不思議に重さを感じない
だが、くすぐったいような感触はある
安心したのか、女性は眠っているようだ
やがて列車は梅田に着いて、僕は彼女を促して駅のホームへ出た
「ここはどこですか?」眠そうに彼女が訊く
「梅田、阪急電車の梅田駅ですよ」「ここが梅田…嘘みたい」
「ここが出来たのはもう五十年ほど昔のことですよ」
だが、彼女は目を丸くしているだけで、止むを得ず僕は彼女の手を牽いて中央口から大阪駅へ向かった
「眩しい、まるで舞台みたい」梅田の光の渦を見てそんなことを言う
歩道橋を渡り、大阪駅を見るとやけに暗い
「あれ、こんな駅だったかな」今度は僕が驚いて辺りを見回す
十三夜の月は先ほどよりずいぶん、下のほうで煌々と輝く
ピ~~、電気機関車が発車の合図ともとれる警笛を鳴らしている
とにかく上りホームに彼女を連れて行かねばならない
改札口に駅員は居るが、切符を持たない僕たちが走って通っても何も言わない
駅員も、深夜とはいえ多くいる乗降客もまるで幻灯機の映像のように僕らとは違う世界の人たちみたいに見える
古びた階段を駆け上がり、大阪駅十番ホームに着いた。
目の前に茶色の客車がたくさん連なって停車している
「あ、この汽車です、今日は大阪駅までご案内くださり本当にありがとうございました」
開け放しのドアから女性が客車のデッキへと入っていく
女優さんだという彼女は、デッキに立ってしきりに頭を下げる
「どうか、暖かい車内に入ってください」
「ありがとう」
もう一度深くお辞儀をしてくれて女性は質素な客車の中へ入っていった
女優さんがこのような列車に乗るのかと不思議な気持ちになったが、やがて発車ベルが鳴り響き、電気機関車の警笛が聞こえる
がくんと軽いショックの後、空いている車内に落ち着いている彼女は僕を見て会釈をしてくれ、彼女を乗せた古びた車両は通り過ぎていく
レールジョイントのリズムを速めていきながら、長い編成の列車は僕の前から遠ざかり、こんなに暗かったかと思う大阪駅の先へ列車はゆっくりと去り、赤いテールライトが闇の中でひときわ目立つ
僕は列車を見送ってから辺りを見渡した
そこは確かに大阪駅で、連絡口改札からのエスカレータの真横に僕は立っている
銀色の快速電車が発車するところでいつもの喧騒の中の大阪駅だ
それにしても可愛い女性だったと思いながら、四月一日、不思議な出会いに何となく暖かいものを感じながら僕は深夜の神戸線、最終近い新快速電車で帰る
翌日、宝塚で会っていた友人の一人にライン通話でこの不思議な話をした
歌劇の午後の公演を観るように企画してくれた僕より少し年上の女性だ
その女性は一瞬絶句した後、不思議なことを言った
「そうなの、ヒロミちゃん、やっと帰れたんやね、きっと大阪駅まで連れて行ってくれる人が初めて見つかったのよ」
そしてこう続けた
「ありがとう、私からもお礼を言うわ」
さらにこう付け加えた
「昨日は彼女の命日で、しかも十三夜だったわ‥」
*昭和三十三年四月一日、公演中の事故で将来を嘱望されていた一人の女優が亡くなられました
改めてご冥福をお祈り申し上げます