私は息を切らせて海岸の国道を歩いていた。
ついさっきまで走っていたのだ。
クルマがひっきりなしと言うよりは、道一杯に伸びたまま動かない状態で、私は排気ガスの漂う歩道を東へと向かっていた。
遠くに淡路島がぼんやりと見える。
海辺でありながら風がなく、秋でありながら蒸し暑さが漂う。
大きなタンカーが島との間に架けられた巨大な橋の下を通過する。
海辺のマンションでの面接はひどいものだった。
高名な写真家といわれる彼は、協会から紹介されてやってきた私を、じろじろと舐め尽くすように見て、いきなりこう切り出した。
「うちの秘書は、事務だけやないさかい、判ってるやろうな」
何のことか判らず、私は彼の顔を見つめたままだった。
彼の後ろには大きな窓があり、今見ているのと同じ海が広がっていた。
「事務だけではない・・どういうことでしょうか?私は、撮影の助手として紹介いただいたのですが・・」
彼は立ち上がり、海のほうを見た・・つまり、私に背を向けたわけだ。
「助手ねえ・・」
彼はその姿勢で海に向かってそう言った。
「はい・・私はそのつもりで・・」
突然、彼が私のほうを向いた。
「そうや・・助手や・・ええ作品を作るためのな・・」
彼は私に近づき、ビックリしている私の手をとった。
「そのためには、愛が必要なんや」
彼は体を寄せてきた。
酒の匂いがした。
私は、どうしてよいか一瞬、判らなくなった。
彼は私のブラウスに手を入れて、胸を探り始めた。
・・逃げよう!・・
私は、手に持ったアルミバックで、彼を殴り飛ばした。
彼は、不意をうたれて転び、私はその隙に彼の部屋を飛び出した。
「こらぁ!」
彼が怒鳴る声が聞こえた。
気持ちが悪かった。
怖くはなかったが、腹が立った。
私は、怒りと情けなさと、もろもろの激情を抱いたまま、マンションを飛び出し、歩道に出て、ここまで走ってきていた。
もう彼は追ってこないだろう・・
そう思うと同時に、折角、協会が探してくれた仕事をふいにした哀しさも味わっていた。
なまじ、高い評価を貰っていたのがいけなかったかもしれない。
普通の女の子なら、30近くにもなると職場ではリーダー的存在になっているか、あるいは既に結婚して家庭を持っているものだろう。
私は、自分が生きてきた道を、思い返していた。
写真一筋で生きてきたし、写真では誰にも負けないつもりでいた。
重いアルミ製のカメラバックが、今日はことさらに重く感じる。
面接の時に、作品やカメラを見てもらおうと用意したものが、入っていた。
専門学校を卒業して、最初に入ったホテルの写真館では、私はすぐに先輩の男性を追い抜いて、二番手の地位を確保した。
私は気が短く、いつも苛立っていたから、先輩は私を壊れ物を触るかのように扱ってくれていたが、私にはそれが余計に気に触った。
私は駆け出しのカメラマンとしては破格の待遇を受け、撮影時のメインカメラマンもさせてもらえるようになるのに、それほどの時間はかからなかった。
しかも、撮影した写真をプロ写真家のコンテストに出したところ、そのまま入選してしまった。
私の鼻は高く、周囲には傲慢になっていたに違いない。
ところが、あるとき、スタジオにやってきた本社スタジオの専務と意見が衝突してしまった。
専務は、たまたま、そこにあった私が撮影した写真を見て、ウェディングドレスの長い裾を全部入れて撮影するべきだと私に注意をしたのだ。
それだけならまだしも、私が後ろに流すようにしているヴェールを前に持ってきて、全部画面に入れろという。
「どうしてですか?」
私は挑戦でもするかの様に、60歳近い専務に訊ねた。
「ドレスを切ると・・切るってさ、縁起がよくないでしょ・・」
「はあ?縁起ですか?」
「結婚式の写真は、縁起物だから、切らないようにしないとね・・」
私は呆れた。
ドレスよりも花嫁が主人公のはずで、花嫁を美しく生かすには長いドレスを画面から外すことも必要になってくる・・私はそう訴えた。
「君はこの業界に何年居ると言うのだ?僕はこの業界に40年も居るのだぞ!この業界の怖さを君は知らなすぎる!」
専務はそう言って怒り始めた。
私はそのとき、素直に下がるべきだったかもしれない。
けれども、私はコンテストに入選したばかりで、今思えばつけ上がっていた。
「花嫁さんが主役でしょ!花嫁さんを引き立たせるためのドレスじゃないですか!」
私の反撃を、スタジオのチーフが腕を引っ張って止めようとしてくれたけれど、私はチーフの手も振り解いたのだ。
「君は何様のつもりだ?現実にドレスが全部、写真に入っていないというクレームがあったこともあるんだ。そういうクレームが来た時、君は責任を取れるのか?」
「責任くらいとりますよ!私は私の感性でこれがいいと思ってしているのですから!」
専務は、少し気持ちを落ち着けて、噛んで含めるように話してくれた。
「あのね・・責任なんか、君にとれっこないんだよ・・お客のクレームには、きちんとした立場の人でなければ対処できないんだ。君がいかに感性の優れた、優秀なカメラマンでも、うちの会社を代表することは出来ないんだ。それと、僕たちの仕事は、感性も大事だけれど、決められたことを決められたように実行できることが何より大切なんだよ。感性はその基本を押さえてから、基本の上に咲かせなきゃぁ・・」
私は素直に従うべきだった。
専務の言っていることは理に叶っていたのだから・・
「ですが、この作品は・・やはりドレスは切った方が・・」
専務は諦めたような表情になった。
「作品?この写真が君の作品だというのかな?君がライティングを決めたのか?君がバックを選択したのか?君がレンズを選択して、君が絞りを決めたというのか?フィルムを選択したのは君か?ポーズを決めたのは君かも知れないけれど、このポーズの何処が君のオリジナルなんだ?これは全てここに居るチーフが、長い経験から決めて撮影しているデータをそのまま使っただけだし、ポーズも猿真似に過ぎないのだ・・」
私は、怒った。
猿真似といわれて怒った。
けれども、言い返すすべはなかった。
専務はそんな私をじっと見つめ、チーフは困ったような顔をして、私の横に突っ立っていた。
「チーフ!彼女はカメラマンとしてはちょっと、どうだろうか?暫く助手をさせて基本をもう一度、一から学び直させる必要があるのではないか?」
「は!」チーフは立ったまま、なにも言い返さなかった。
「彼女は僕が良しとするまで、シャッターを持つことは禁じる。1ヶ月して、僕が今度来た時に、彼女の学習の成果を見て、シャッターの権利を戻すか考えよう・・」
専務はそう言いながら立ち上がり、私のほうを向いた。
「あのドレスは、切らなくても、きちんと枠に全部入れて、形よく決まるんだよ・・」
私は悔しかった。
見返してやろうと思った。
けれども、一度有頂天になった人間は、どうしようもない傲慢さをもつものだと、私は自分の心で思い知った。
私はホテルのスタジオに辞表を提出し、独立した。
仕事など、あるはずがなかった。
飛び出したスタジオには頭は下げられない。
必死で営業活動をしてみたけれど、どこでもこう言われたものだ。
「写真撮影?うちは自分でするからいいよ」
ちょっと気のありそうな会社ではこう聞かれた。
「カメラマンの方ですか?何が撮影できますか?」
「ブライダルとか・・」
「商品はどうですか?チラシや広告に使うものですが・・」
商品撮影など、やったことがない。
第一、私は露出というものが理解できていないのだ。
スタジオの外に出て、私は何も写真を知らない素人に過ぎなかったことが判ったわけだ。
スタジオに出入していたプロラボの人に連絡をとり、ホテルの結婚式スナップの仕事を貰った。
それは良いが、最初の仕事の時に、そこの責任者からメモ書きで「感度はISO320に設定してください。もしくはプラス0.7から1.0の露出補正をかけても構いません。絞り解放で被写界深度の浅さを生かしたポートレートを必ず数点入れて置いてください。今日の撮影は全卓撮影がありますのでよろしくお願いいたします」と書かれた指示を受け取ったけれど、私にはISO320も、露出補正も被写界深度も全卓撮影もわからなかった。
仕方なく、その責任者に色々質問したけれど、全卓撮影まで聞く余裕がなく、ただ、露出補正とは感度ISO400のフィルムで320に落とすということ、絞り解放とはレンズの絞り数値を最小で使うということだけは教えてもらった。
けれども、自分のカメラのどれを触れば絞りというものが動くのか、感度を変えるにはどうするのか、全くわからないまま撮影に望んでしまった。
撮影は全てフルオートのプログラムAEで、あとは、なるようになれと、私は結婚式や披露宴の進行に合わせてただ、シャッターを切っていった。
その仕事をこなし、自宅へ帰ると、そのホテルの責任者から電話がかかってきた。
「なんですか!この仕事は・・全部フラッシュを使っているから、写真が全て素人の撮るようなものになっていますし、露出の不足しているカットもあります。それに、何より許せないのは全卓撮影で御願いしたのに、お客さんのポートレートが一つもないじゃありませんか!」
私は、心の疼きを感じながら、それでもやっとのことで返事を探し出した。
「ええ!そうなっていますか?すみません・・気をつけたつもりだったのですけれど・・」
「つもりではダメなんです。あなたはラボの方が紹介してくださって、しかも前は別のホテルのスタジオにおられたから、そういわれたから安心して御願いしたのですよ!」
「すみません・・責任はとりますから・・」
「責任!なんですか!それは!あなたに取れるような責任なんてないのです。それとも、新郎新婦にもう一度結婚式をしてもらう費用や、列席のお客様の交通費、衣裳代、その全てをあなたが負担するとでも言うのですか?」
「え・・責任て・・そこまでしなくてはいけないのですか・・」
「あなた、今、責任を取るって言われましたよね!じゃあ、他にどんな責任のとり方があるのですか?」
「あ・・だから・・私が謝って・・」
「謝るのはうちのホテルの担当営業マンです。そのときに必ずこういわれますよ・・素人に仕事を任せたホテルの責任ってね!」
「あの・・私にも謝らせてください・・」
「お客様にとっては一生に一度の結婚式です。あなたは、それをぶち壊したわけです。営業マンが一生懸命に営業し、美容室が心を込めて美容着付けをし、宴会場ではスタッフが一生懸命にお客様にサービスをし、裏ではコックさんたちが汗をかきながら調理をしておられます。あなたは、その全ての方々の努力をぶち壊したわけです。もっとも、あなたをテストも得ずに使った私の責任はあなたよりも遥かに重いです」
「すぐに、お詫びに伺います・・」
「もう、結構です。今日の仕事はなかったことにしてください。お疲れ様でした!」
そう言って電話は一方的に切られた。
その婚礼の後始末を、あの責任者やあのホテルの営業マンがどのようにしたのか、私には判らない。
私は写真というものを甘く見ていたことを思い知った。
私が写真が撮れる気になっていた、そのバックには私が居たスタジオのチーフの技術があって、私はその上で偉そうにしていたに過ぎないのだ。
私は自分へ腹を立てた。
一度、徹底して基礎を学びなおそうと思った。
そこで、私は写真技術に関する本を読み漁り、自分のカメラを使って徹底的にテストを繰り返した。
友人や親戚の婚礼で撮影もさせてもらった。
私はカメラマンとしての道をきちんと進むために、自分にとっての師匠になるべき人物を探していて、そこで、自分が勤めていたスタジオの、あのチーフにお願いをしてみた。
結果的に私は、そのスタジオに頭を下げたのだ。
チーフは「他の写真家はよく知らない」といいながらも、自分も加盟する写真師の協会を教えてくれたのだ。
暫く海岸沿いを歩いていた私には、時間の感覚がなくなってしまっていたようだった。
気がつけば、あの男のマンションから随分はなれた、海峡大橋の近くの公園傍まで来ていた。
海はぼんやりと光をはねかえし、景色だけ見れば春先のような雰囲気だ。
「私は何をしに、こんなに自宅から遠いところまでやってきたのだろう・・」
そう思うと、苛立ちと哀しさがまた湧き上がってくる。
私は、公園の入り口近くに、ぽつんと立っている松の木を見つけた。
その松の木は、枝や葉が遥か上のほうにしかなく、細長い幹でひょろりと立っているように思えた。
その近くには他に松の木はなく、そこから少し離れた大橋の真下あたりから松林が始っているようだった。
私は、松の木を見上げていた。
なんともいえぬ親近感が湧いた。
海岸でひとりぼっちで頼りなげに立つ松の木は、写真業界でひとりぼっちとなり、それでも立っていこうとする自分の姿に重なって見えたのかもしれない。
私は、その妙な親近感を、もっと感じたかった。
周りを見渡すと、人は居ない。
国道にはクルマが並んでいるけれど、そのクルマたちはこちらを見ることはないだろう・・
私は松の木に触れてみた。
ゴワゴワの幹の表面は、心なしか暖かく感じた。
「お前は、いつからここに立っているの?」
松の木に語りかけてみた。
「もっと近くへ!」
誰かの声がした。
私はあたりを見回したけれど、誰も居ない。
「もっと近くへ!」
声は、上の方から聞こえた。
私は、木の上のほうを見た。
風にかすかに揺れる枝があるだけだ。
・・もしかしたら・・
私は、松の木が私に喋っているような気がした。
私は、松の木に身体をつけてみた。
抱きかかえるようにしようと思ったけれど、華奢に見えた幹は案外太くて、私が蝉のようにしがみつく格好となった。
暖かい・・松の木の肌は意外に暖かだった。
「教えてあげる・・あなたの事・・」
囁くような、声が聞こえた。
それは女でも男でもない中性的な優しさに満ちた甘い余韻を持っていた。
「私のこと・・」
そう聞き返す私の前に、いきなり広く豊かな砂浜と、青い海が広がった。
海には船はなく、砂浜には戯れる少女達がいた。
少女達は時代劇のような着物を着ていた。
いや、私がその少女のひとりになっていた。
私は、他の3人の少女達と砂浜で踊っていた。
海の香りが心地よい。
風が心地よい。
私は踊っていた。
手を繋ぎ、手を離し、くるりと回り、手を叩き、手を繋ぎ飛び上がりしゃがみこむ。
「子供らよ 子供らよ
花おりに ゆかん
花おりに 小米の花折りに」
「一本折りては 腰にさし 二本折りては 腰にさし
三本目に日がくれて 兄の紺屋に 泊ろうか」
指で数を出しながら少女達は歌う。
何処から声が出るのか、いつ覚えたのか私も歌っている。
「あすのさかなは なになに
どろ亀の吸物 へびの焼物
一口食うては ああうまし 二口食うては ああうまし
三口目に屁へこいて 大黒さまに聞こえて」
向かいの少女の表情が変わった。
笑いを堪えているのだ。
「大黒さまのいうには 一に俵ふまえて 二ににっこり笑うて
三に酒つくって 四に世の中よいように」
あはははは!
とうとう、その少女は堪えきれなくなったようだ。
「あかんやん・・はまちゃん・・いっつもここで笑うねんから・・」
別の少女がそう言って、けれども彼女も笑い出した。
私も何故か笑っている。
「だってえ・・さとちゃん、三口目に屁こいだら大黒さんが聞いてはんねんでぇ・・おもろいやんかあ・・」
はまちゃんがおどけて笑いながら応じている。
「まつちゃん、そやけど、へびの焼き物って・・食えるんかなあ?」
更に別の少女が私に向かって不思議そうな顔をする。
私はまつちゃんと言うらしい。
「ぎんちゃん、へびもそやけど、泥亀やで・・」
私は思っても居ないことを喋っている。
その少女はぎんちゃんというらしい。
みんなと笑う。
「変な歌やなぁ・・」誰かがそう言い、「ホンマに変やわぁ・・」皆が応じる。
「もいっぺんやるでえ・・」
さとちゃんがそう言いだし、また皆で手を繋ぐ。
「大黒さまののうには 一に俵ふまえて 二ににっこり笑うて
三に酒つくって 四に世の中よいように」
手を離し、お辞儀をし、手を叩き、また手を繋ぐ。
「五ついつもの如くに 六つ無病息災に
七つなにごとないように 八つ屋敷をひろめて」
踊りと歌が続いていく。
「九つ小倉を建てそめて 十でとんと納まった」
私は心の中に何かが広がっていく気がした。
自分の見たことのない景色・・見たことのない少女達・・
砂浜で輪を作りながら少女達が歌い踊り続けている。
けれども、それは紛れもなく私自身、私の姿・・
海岸の形は変われど、海の景色、海の向こうに見える島も、確かに私の知っている景色・・
はっとした。
私は木に抱きついていた。
木の暖かさが私を慰めてくれていた。
「ありがとう・・」
松の木に礼を言ったけれど、松の木は喋ってはくれなかった。
そう、確かに、私はあのあたりで踊っていた。
あの駐車場のあたりで・・
私は踊っていて、それはとても楽しく、穏やかな時間だった。
それはいつ頃なのだろう・・
戦前か・・それとももっと前か・・
あの着物はまるで時代劇のよう・・もしかしたら、明治より以前だったかも知れない。
私は木から離れた。
今日、ここに来ることは、私と木の約束事だったのかもしれない。
汚い世間、情けない自分・・疲れを引きずって生きてきた私。
前世かそれ以前か・・
優しい暖かさで心の中が満たされている。
「また、やり直してみよう・・」
ふと、そう思った。
くじけるかもしれない。
また失敗をするかもしれない・・
でも、私が私であるために、頑張ってみよう・・そう思った。
そうだ・・写真・・
私は、アルミバックの中からカメラを取り出し、松の木に向けた。
ひょろひょろとした松の木は、今にも折れそうでいて、でも、ずっとここに立っていた。
あの時からずっとここに立っていた。
シャッターを押した。
カシャン・・気持ちの良い音がする。
ふう・・溜息をついて、海を眺める。
少し波が出てきたようだ。
「あのう・・この木を写しておられましたよね?」
私と同年代の女性が私の近くで立っていた。
「はい・・」
「あなたも、ここで踊っておられた方ではありませんか?」
はいと、答える私の目に涙が溢れてきた。
その女性も、感慨深げに、私の方へ向かってきた。
「久しぶり・・はまちゃん」
私から、不思議な挨拶が出てきたけれど、その女性は「うん」と頷きながら、私の手をとった。
「まつちゃん、みんな・・ぎんちゃんも、さとちゃんも、もう集まっているから・・そこのマンションなんや・・」
「うん・・行く!はよう、みんなと会いたいなあ・・」
私は、その女性と連れ立って、道路を越えたマンションに向かっていった。
ついさっきまで走っていたのだ。
クルマがひっきりなしと言うよりは、道一杯に伸びたまま動かない状態で、私は排気ガスの漂う歩道を東へと向かっていた。
遠くに淡路島がぼんやりと見える。
海辺でありながら風がなく、秋でありながら蒸し暑さが漂う。
大きなタンカーが島との間に架けられた巨大な橋の下を通過する。
海辺のマンションでの面接はひどいものだった。
高名な写真家といわれる彼は、協会から紹介されてやってきた私を、じろじろと舐め尽くすように見て、いきなりこう切り出した。
「うちの秘書は、事務だけやないさかい、判ってるやろうな」
何のことか判らず、私は彼の顔を見つめたままだった。
彼の後ろには大きな窓があり、今見ているのと同じ海が広がっていた。
「事務だけではない・・どういうことでしょうか?私は、撮影の助手として紹介いただいたのですが・・」
彼は立ち上がり、海のほうを見た・・つまり、私に背を向けたわけだ。
「助手ねえ・・」
彼はその姿勢で海に向かってそう言った。
「はい・・私はそのつもりで・・」
突然、彼が私のほうを向いた。
「そうや・・助手や・・ええ作品を作るためのな・・」
彼は私に近づき、ビックリしている私の手をとった。
「そのためには、愛が必要なんや」
彼は体を寄せてきた。
酒の匂いがした。
私は、どうしてよいか一瞬、判らなくなった。
彼は私のブラウスに手を入れて、胸を探り始めた。
・・逃げよう!・・
私は、手に持ったアルミバックで、彼を殴り飛ばした。
彼は、不意をうたれて転び、私はその隙に彼の部屋を飛び出した。
「こらぁ!」
彼が怒鳴る声が聞こえた。
気持ちが悪かった。
怖くはなかったが、腹が立った。
私は、怒りと情けなさと、もろもろの激情を抱いたまま、マンションを飛び出し、歩道に出て、ここまで走ってきていた。
もう彼は追ってこないだろう・・
そう思うと同時に、折角、協会が探してくれた仕事をふいにした哀しさも味わっていた。
なまじ、高い評価を貰っていたのがいけなかったかもしれない。
普通の女の子なら、30近くにもなると職場ではリーダー的存在になっているか、あるいは既に結婚して家庭を持っているものだろう。
私は、自分が生きてきた道を、思い返していた。
写真一筋で生きてきたし、写真では誰にも負けないつもりでいた。
重いアルミ製のカメラバックが、今日はことさらに重く感じる。
面接の時に、作品やカメラを見てもらおうと用意したものが、入っていた。
専門学校を卒業して、最初に入ったホテルの写真館では、私はすぐに先輩の男性を追い抜いて、二番手の地位を確保した。
私は気が短く、いつも苛立っていたから、先輩は私を壊れ物を触るかのように扱ってくれていたが、私にはそれが余計に気に触った。
私は駆け出しのカメラマンとしては破格の待遇を受け、撮影時のメインカメラマンもさせてもらえるようになるのに、それほどの時間はかからなかった。
しかも、撮影した写真をプロ写真家のコンテストに出したところ、そのまま入選してしまった。
私の鼻は高く、周囲には傲慢になっていたに違いない。
ところが、あるとき、スタジオにやってきた本社スタジオの専務と意見が衝突してしまった。
専務は、たまたま、そこにあった私が撮影した写真を見て、ウェディングドレスの長い裾を全部入れて撮影するべきだと私に注意をしたのだ。
それだけならまだしも、私が後ろに流すようにしているヴェールを前に持ってきて、全部画面に入れろという。
「どうしてですか?」
私は挑戦でもするかの様に、60歳近い専務に訊ねた。
「ドレスを切ると・・切るってさ、縁起がよくないでしょ・・」
「はあ?縁起ですか?」
「結婚式の写真は、縁起物だから、切らないようにしないとね・・」
私は呆れた。
ドレスよりも花嫁が主人公のはずで、花嫁を美しく生かすには長いドレスを画面から外すことも必要になってくる・・私はそう訴えた。
「君はこの業界に何年居ると言うのだ?僕はこの業界に40年も居るのだぞ!この業界の怖さを君は知らなすぎる!」
専務はそう言って怒り始めた。
私はそのとき、素直に下がるべきだったかもしれない。
けれども、私はコンテストに入選したばかりで、今思えばつけ上がっていた。
「花嫁さんが主役でしょ!花嫁さんを引き立たせるためのドレスじゃないですか!」
私の反撃を、スタジオのチーフが腕を引っ張って止めようとしてくれたけれど、私はチーフの手も振り解いたのだ。
「君は何様のつもりだ?現実にドレスが全部、写真に入っていないというクレームがあったこともあるんだ。そういうクレームが来た時、君は責任を取れるのか?」
「責任くらいとりますよ!私は私の感性でこれがいいと思ってしているのですから!」
専務は、少し気持ちを落ち着けて、噛んで含めるように話してくれた。
「あのね・・責任なんか、君にとれっこないんだよ・・お客のクレームには、きちんとした立場の人でなければ対処できないんだ。君がいかに感性の優れた、優秀なカメラマンでも、うちの会社を代表することは出来ないんだ。それと、僕たちの仕事は、感性も大事だけれど、決められたことを決められたように実行できることが何より大切なんだよ。感性はその基本を押さえてから、基本の上に咲かせなきゃぁ・・」
私は素直に従うべきだった。
専務の言っていることは理に叶っていたのだから・・
「ですが、この作品は・・やはりドレスは切った方が・・」
専務は諦めたような表情になった。
「作品?この写真が君の作品だというのかな?君がライティングを決めたのか?君がバックを選択したのか?君がレンズを選択して、君が絞りを決めたというのか?フィルムを選択したのは君か?ポーズを決めたのは君かも知れないけれど、このポーズの何処が君のオリジナルなんだ?これは全てここに居るチーフが、長い経験から決めて撮影しているデータをそのまま使っただけだし、ポーズも猿真似に過ぎないのだ・・」
私は、怒った。
猿真似といわれて怒った。
けれども、言い返すすべはなかった。
専務はそんな私をじっと見つめ、チーフは困ったような顔をして、私の横に突っ立っていた。
「チーフ!彼女はカメラマンとしてはちょっと、どうだろうか?暫く助手をさせて基本をもう一度、一から学び直させる必要があるのではないか?」
「は!」チーフは立ったまま、なにも言い返さなかった。
「彼女は僕が良しとするまで、シャッターを持つことは禁じる。1ヶ月して、僕が今度来た時に、彼女の学習の成果を見て、シャッターの権利を戻すか考えよう・・」
専務はそう言いながら立ち上がり、私のほうを向いた。
「あのドレスは、切らなくても、きちんと枠に全部入れて、形よく決まるんだよ・・」
私は悔しかった。
見返してやろうと思った。
けれども、一度有頂天になった人間は、どうしようもない傲慢さをもつものだと、私は自分の心で思い知った。
私はホテルのスタジオに辞表を提出し、独立した。
仕事など、あるはずがなかった。
飛び出したスタジオには頭は下げられない。
必死で営業活動をしてみたけれど、どこでもこう言われたものだ。
「写真撮影?うちは自分でするからいいよ」
ちょっと気のありそうな会社ではこう聞かれた。
「カメラマンの方ですか?何が撮影できますか?」
「ブライダルとか・・」
「商品はどうですか?チラシや広告に使うものですが・・」
商品撮影など、やったことがない。
第一、私は露出というものが理解できていないのだ。
スタジオの外に出て、私は何も写真を知らない素人に過ぎなかったことが判ったわけだ。
スタジオに出入していたプロラボの人に連絡をとり、ホテルの結婚式スナップの仕事を貰った。
それは良いが、最初の仕事の時に、そこの責任者からメモ書きで「感度はISO320に設定してください。もしくはプラス0.7から1.0の露出補正をかけても構いません。絞り解放で被写界深度の浅さを生かしたポートレートを必ず数点入れて置いてください。今日の撮影は全卓撮影がありますのでよろしくお願いいたします」と書かれた指示を受け取ったけれど、私にはISO320も、露出補正も被写界深度も全卓撮影もわからなかった。
仕方なく、その責任者に色々質問したけれど、全卓撮影まで聞く余裕がなく、ただ、露出補正とは感度ISO400のフィルムで320に落とすということ、絞り解放とはレンズの絞り数値を最小で使うということだけは教えてもらった。
けれども、自分のカメラのどれを触れば絞りというものが動くのか、感度を変えるにはどうするのか、全くわからないまま撮影に望んでしまった。
撮影は全てフルオートのプログラムAEで、あとは、なるようになれと、私は結婚式や披露宴の進行に合わせてただ、シャッターを切っていった。
その仕事をこなし、自宅へ帰ると、そのホテルの責任者から電話がかかってきた。
「なんですか!この仕事は・・全部フラッシュを使っているから、写真が全て素人の撮るようなものになっていますし、露出の不足しているカットもあります。それに、何より許せないのは全卓撮影で御願いしたのに、お客さんのポートレートが一つもないじゃありませんか!」
私は、心の疼きを感じながら、それでもやっとのことで返事を探し出した。
「ええ!そうなっていますか?すみません・・気をつけたつもりだったのですけれど・・」
「つもりではダメなんです。あなたはラボの方が紹介してくださって、しかも前は別のホテルのスタジオにおられたから、そういわれたから安心して御願いしたのですよ!」
「すみません・・責任はとりますから・・」
「責任!なんですか!それは!あなたに取れるような責任なんてないのです。それとも、新郎新婦にもう一度結婚式をしてもらう費用や、列席のお客様の交通費、衣裳代、その全てをあなたが負担するとでも言うのですか?」
「え・・責任て・・そこまでしなくてはいけないのですか・・」
「あなた、今、責任を取るって言われましたよね!じゃあ、他にどんな責任のとり方があるのですか?」
「あ・・だから・・私が謝って・・」
「謝るのはうちのホテルの担当営業マンです。そのときに必ずこういわれますよ・・素人に仕事を任せたホテルの責任ってね!」
「あの・・私にも謝らせてください・・」
「お客様にとっては一生に一度の結婚式です。あなたは、それをぶち壊したわけです。営業マンが一生懸命に営業し、美容室が心を込めて美容着付けをし、宴会場ではスタッフが一生懸命にお客様にサービスをし、裏ではコックさんたちが汗をかきながら調理をしておられます。あなたは、その全ての方々の努力をぶち壊したわけです。もっとも、あなたをテストも得ずに使った私の責任はあなたよりも遥かに重いです」
「すぐに、お詫びに伺います・・」
「もう、結構です。今日の仕事はなかったことにしてください。お疲れ様でした!」
そう言って電話は一方的に切られた。
その婚礼の後始末を、あの責任者やあのホテルの営業マンがどのようにしたのか、私には判らない。
私は写真というものを甘く見ていたことを思い知った。
私が写真が撮れる気になっていた、そのバックには私が居たスタジオのチーフの技術があって、私はその上で偉そうにしていたに過ぎないのだ。
私は自分へ腹を立てた。
一度、徹底して基礎を学びなおそうと思った。
そこで、私は写真技術に関する本を読み漁り、自分のカメラを使って徹底的にテストを繰り返した。
友人や親戚の婚礼で撮影もさせてもらった。
私はカメラマンとしての道をきちんと進むために、自分にとっての師匠になるべき人物を探していて、そこで、自分が勤めていたスタジオの、あのチーフにお願いをしてみた。
結果的に私は、そのスタジオに頭を下げたのだ。
チーフは「他の写真家はよく知らない」といいながらも、自分も加盟する写真師の協会を教えてくれたのだ。
暫く海岸沿いを歩いていた私には、時間の感覚がなくなってしまっていたようだった。
気がつけば、あの男のマンションから随分はなれた、海峡大橋の近くの公園傍まで来ていた。
海はぼんやりと光をはねかえし、景色だけ見れば春先のような雰囲気だ。
「私は何をしに、こんなに自宅から遠いところまでやってきたのだろう・・」
そう思うと、苛立ちと哀しさがまた湧き上がってくる。
私は、公園の入り口近くに、ぽつんと立っている松の木を見つけた。
その松の木は、枝や葉が遥か上のほうにしかなく、細長い幹でひょろりと立っているように思えた。
その近くには他に松の木はなく、そこから少し離れた大橋の真下あたりから松林が始っているようだった。
私は、松の木を見上げていた。
なんともいえぬ親近感が湧いた。
海岸でひとりぼっちで頼りなげに立つ松の木は、写真業界でひとりぼっちとなり、それでも立っていこうとする自分の姿に重なって見えたのかもしれない。
私は、その妙な親近感を、もっと感じたかった。
周りを見渡すと、人は居ない。
国道にはクルマが並んでいるけれど、そのクルマたちはこちらを見ることはないだろう・・
私は松の木に触れてみた。
ゴワゴワの幹の表面は、心なしか暖かく感じた。
「お前は、いつからここに立っているの?」
松の木に語りかけてみた。
「もっと近くへ!」
誰かの声がした。
私はあたりを見回したけれど、誰も居ない。
「もっと近くへ!」
声は、上の方から聞こえた。
私は、木の上のほうを見た。
風にかすかに揺れる枝があるだけだ。
・・もしかしたら・・
私は、松の木が私に喋っているような気がした。
私は、松の木に身体をつけてみた。
抱きかかえるようにしようと思ったけれど、華奢に見えた幹は案外太くて、私が蝉のようにしがみつく格好となった。
暖かい・・松の木の肌は意外に暖かだった。
「教えてあげる・・あなたの事・・」
囁くような、声が聞こえた。
それは女でも男でもない中性的な優しさに満ちた甘い余韻を持っていた。
「私のこと・・」
そう聞き返す私の前に、いきなり広く豊かな砂浜と、青い海が広がった。
海には船はなく、砂浜には戯れる少女達がいた。
少女達は時代劇のような着物を着ていた。
いや、私がその少女のひとりになっていた。
私は、他の3人の少女達と砂浜で踊っていた。
海の香りが心地よい。
風が心地よい。
私は踊っていた。
手を繋ぎ、手を離し、くるりと回り、手を叩き、手を繋ぎ飛び上がりしゃがみこむ。
「子供らよ 子供らよ
花おりに ゆかん
花おりに 小米の花折りに」
「一本折りては 腰にさし 二本折りては 腰にさし
三本目に日がくれて 兄の紺屋に 泊ろうか」
指で数を出しながら少女達は歌う。
何処から声が出るのか、いつ覚えたのか私も歌っている。
「あすのさかなは なになに
どろ亀の吸物 へびの焼物
一口食うては ああうまし 二口食うては ああうまし
三口目に屁へこいて 大黒さまに聞こえて」
向かいの少女の表情が変わった。
笑いを堪えているのだ。
「大黒さまのいうには 一に俵ふまえて 二ににっこり笑うて
三に酒つくって 四に世の中よいように」
あはははは!
とうとう、その少女は堪えきれなくなったようだ。
「あかんやん・・はまちゃん・・いっつもここで笑うねんから・・」
別の少女がそう言って、けれども彼女も笑い出した。
私も何故か笑っている。
「だってえ・・さとちゃん、三口目に屁こいだら大黒さんが聞いてはんねんでぇ・・おもろいやんかあ・・」
はまちゃんがおどけて笑いながら応じている。
「まつちゃん、そやけど、へびの焼き物って・・食えるんかなあ?」
更に別の少女が私に向かって不思議そうな顔をする。
私はまつちゃんと言うらしい。
「ぎんちゃん、へびもそやけど、泥亀やで・・」
私は思っても居ないことを喋っている。
その少女はぎんちゃんというらしい。
みんなと笑う。
「変な歌やなぁ・・」誰かがそう言い、「ホンマに変やわぁ・・」皆が応じる。
「もいっぺんやるでえ・・」
さとちゃんがそう言いだし、また皆で手を繋ぐ。
「大黒さまののうには 一に俵ふまえて 二ににっこり笑うて
三に酒つくって 四に世の中よいように」
手を離し、お辞儀をし、手を叩き、また手を繋ぐ。
「五ついつもの如くに 六つ無病息災に
七つなにごとないように 八つ屋敷をひろめて」
踊りと歌が続いていく。
「九つ小倉を建てそめて 十でとんと納まった」
私は心の中に何かが広がっていく気がした。
自分の見たことのない景色・・見たことのない少女達・・
砂浜で輪を作りながら少女達が歌い踊り続けている。
けれども、それは紛れもなく私自身、私の姿・・
海岸の形は変われど、海の景色、海の向こうに見える島も、確かに私の知っている景色・・
はっとした。
私は木に抱きついていた。
木の暖かさが私を慰めてくれていた。
「ありがとう・・」
松の木に礼を言ったけれど、松の木は喋ってはくれなかった。
そう、確かに、私はあのあたりで踊っていた。
あの駐車場のあたりで・・
私は踊っていて、それはとても楽しく、穏やかな時間だった。
それはいつ頃なのだろう・・
戦前か・・それとももっと前か・・
あの着物はまるで時代劇のよう・・もしかしたら、明治より以前だったかも知れない。
私は木から離れた。
今日、ここに来ることは、私と木の約束事だったのかもしれない。
汚い世間、情けない自分・・疲れを引きずって生きてきた私。
前世かそれ以前か・・
優しい暖かさで心の中が満たされている。
「また、やり直してみよう・・」
ふと、そう思った。
くじけるかもしれない。
また失敗をするかもしれない・・
でも、私が私であるために、頑張ってみよう・・そう思った。
そうだ・・写真・・
私は、アルミバックの中からカメラを取り出し、松の木に向けた。
ひょろひょろとした松の木は、今にも折れそうでいて、でも、ずっとここに立っていた。
あの時からずっとここに立っていた。
シャッターを押した。
カシャン・・気持ちの良い音がする。
ふう・・溜息をついて、海を眺める。
少し波が出てきたようだ。
「あのう・・この木を写しておられましたよね?」
私と同年代の女性が私の近くで立っていた。
「はい・・」
「あなたも、ここで踊っておられた方ではありませんか?」
はいと、答える私の目に涙が溢れてきた。
その女性も、感慨深げに、私の方へ向かってきた。
「久しぶり・・はまちゃん」
私から、不思議な挨拶が出てきたけれど、その女性は「うん」と頷きながら、私の手をとった。
「まつちゃん、みんな・・ぎんちゃんも、さとちゃんも、もう集まっているから・・そこのマンションなんや・・」
「うん・・行く!はよう、みんなと会いたいなあ・・」
私は、その女性と連れ立って、道路を越えたマンションに向かっていった。