海が見える・・海には大きな橋がかかり、向こうには淡路島が見えている。
ここは神戸市の西郊、うすぼんやりした春・・
野田喜一は今日も黄色いバスを住宅地から駅へ、駅から大学のあるニュータウンへと路線バスを走らせている。
時折、さすがに眠くなるけれど、彼は52歳の今日まで一度も事故らしい事故を起こしたこともなく、事故に巻き込まれたこともなかった。
喜一の勤務する営業所には200人ほどのバス運転士がいるが、ほとんどのものは長い乗務生活の中で、何らかのアクシデントをいくつか経験しているから、彼のような幸運は珍しいと言えるだろう。
太陽バスの本社は、いまどき珍しい木造2階建てで、これはバス会社というものは乗客サービスに全てをかけるべきであるという社長の方針から、社屋は一番後回しにされた結果なのだった。
乗務員詰め所の掲示板にはいつも何らかのお知らせが貼ってあって、今日も1枚、新しいお知らせが増えていた。
『営業車の増車について』
「新車が入るのやなあ・・ええなあ・・会社のクルマはいつも新しくなって・・」
喜一は声を上げてその文書を読み始めた。
「おっさん・・読むんやったらやかましいさかい、声出さんと読んでか・・」
部屋の奥から誰かが叫ぶ。
「あほかいな・・きちんと声出して・・はっきりとおつむに入れとくんやないか・・」
そう言って・・喜一は声を出して読み進めていく。
「・・今年度の増車として以下の車両を営業車に加える・・2513号、2514号、3545号、4522号・・以上の内、2513号と2514号はノンステップタイプの新車、3545号はワンステップタイプの新車、4522号は他社からの譲渡車両である。配置路線は2513号、2514号は主にM線、3545号は主にT線、4522号は主にM線とするが、必ずしもこの通りではない」
「ほうーー」
さっき、奥から喜一をからかった男が、素っ頓狂な声を上げた。
「譲渡車両って・・中古車かいな・・」
「そうやろうなあ・・うちの会社で中古のバスは・・わしの知ってる限り、初めてやで・・」
「喜一はん・・運転士して、何年やったかいな?」
「わし、もう30年近いさかいなぁ・・そのわしが、中古車を見るのはホンマにはじめてや」
「ほなら・・何かい、この会社も新車が買えんくらい、厳しいなっとんかいなあ・・」
奥からその男も出てきて掲示板を見つめ始めた。
「あれやろか・・4台欲しかったけど、3台しか買う金が無うて・・1台は中古で我慢・・」
二人が顔を見合わせて、頷こうとしたとき、助役が彼らの肩を叩いた。
「あのな・・うちは関西では成績のええバス会社で通ってるんやで・・縁起でもないこと言わんといてや・・」
「ほな・・なんで・・中古なんでっか?」
「それはやな・・」助役はそこから先は答えずに、「ちょうど、さっき、納車されたさかい、見に行かへんか・・」そう言って二人を誘って建物の外に出た。
「なんや・・これ・・」
喜一は他の見慣れたバスの間に挟まっている真っ赤なバスを見て驚いた。
古いクルマではない・・最新型だろう・・やや小型だがいわゆるコミュニティバスというものよりは普通のバスに近い大きさだ。
喜一がビックリしたのは真っ赤な車体に、ブルーで鮮やかにクジラの絵が描いてあったことで、正面にはヘッドライト周りがクジラの目に見えるようにデザインされていた。
「紀州のリゾートホテルが倒産して、その送迎用のクルマやったのやけど、ま・・うちが競売で落としたと言うわけでな・・」
「競売って・・なんでっか・・あのオークションみたいなものでっか?」
「そやそや・・うちの社長が茶目っ気を出して、やってみたらと・・そういうわけやな」
「で・・このクルマ・・何に使うんでっか?」
「ま・・見てくれや・・」
助役が車の扉を開けて、中を見せてくれた。
路線バスにしては豪華なシートが並んでいる。
つり輪もついている。けれども、つり輪はハート型だ。
座席の表生地にも、クジラの愛らしい絵が印刷されていたし、天井は海の波の模様・・床は真っ青で黄色の魚のシルエットが浮き上がるようになっていた。
「このクルマ・・うちの路線で使えますのんか?」
もう一人の運転士が、不審気に助役に聞いた。
「うん・・いっそのこと、このまま塗装も変えないで、一般車に混ぜて走らせたらどうかと・・社長は言ってるンやけどな・・」
「うちの路線は・・混むときは思い切り混みますさかい、どないだっしゃろ・・」
確かに太陽バスの営業成績が良いというのはそれだけ混雑するバス路線だからと言う部分もあった。
「ラッシュ時には暇なC行きに使こて、昼間は宣伝がてら、そこらを走らせようと思っとるんやけどな」
C行きは朝から夜まで一日中30分ごとに走る路線だ。
終点のCが丘はかつては山の中腹、今はその山の山上は団地になっているが、中腹は相変わらずの田舎景色の、時代から取り残されたような路線だ。
どの便も10人以上の乗客があることはまずない、成績好調な太陽バスだからこそ維持できるような路線だった。
車内の奇妙にゆったりとした座席に腰掛けて、助役は喜一の顔を見た。
「それでな・・・喜一はん・・あんた・・このバスの担当をしてやって欲しいのや」
「担当って?」
バスに個別の運転士が担当につくなんて聞いた事がない・・田舎のタクシー会社に毛の生えたような会社ならともかく、少なくとも太陽バスは神戸のベッドタウンを走る大手バス会社だ。
「このクルマ・・癖があるらしいのや・・」
「癖でっか?」
「時々、調子が無茶苦茶良くなったり、反対に沈んでしもて全然走らへんようになったり・・」
「そんな程度の癖やったら、他のバスでもおまっせ・・そない言わはるんやったら、任せてもろてもよろしおまっさ」
助役はちょっと黙ってバスの天井を眺め回していた。
喜一も天井を見た。
もう一人の男も天井を見上げている。
「真っ赤なクジラ」
喜一がつぶやいた。
「それやな・・それでいこ・・」
「なにがでっか?」
「このクルマの名前や・・真っ赤なクジラ号・・髭面のオッサンが担当運転士や・・神戸の名物になるで・・」
[*真っ赤なクジラ号運転のお知らせ* このたび、太陽バスでは楽しくて可愛いバス「真っ赤なクジラ号」を運行することになりました。運行は毎週木曜・金曜以外の日で、運行時間帯は以下の通りです。当バス停発M駅行き11時20分、14時4分、17時34分。なお、運行の都合により他のバスで代替することもございますのでご了承ください。太陽バス株式会社M線営業所]
まもなく、主なバス停には貼り紙がされ、その頃には喜一が助役や社長をのせて試運転をして、お披露目をしていた。
はじめて喜一がこのバスに乗ったとき、何かバスから生き物の息吹のようなものが感じられ、喜一は思わず、敬礼をした。
「真っ赤なクジラ号どの!本日より常務させていただきます野田喜一でございます。よろしくお願いいたします。わたくしも無事故で頑張る所存でございます!」
そのときだ・・まだエンジンもかかっていないバスが、「ぷぷー」とクラクションを流した。
横にいた助役は飛び上がらんばかりに驚いていたが喜一は「おう!答えてくれますのんか・・たのんまっさ!」と意に介さず乗り込んでしまった。
整備士たちは別に何の変哲も無い、普通のバスだと言っていたし、音が勝手に出る仕掛けなどあるはずもなかったのだけれど・・
初めての試運転で、真っ赤なクジラ号はビックリするような加速を見せた。
「うわーーこんなに早いバスは、わし、初めてやわ」
喜一が嬉しそうに叫んだ。
するとエンジンはさらに軽やかになって、飛ぶように走った。
「どや・・このクルマ・・目えつけたワシの勘もなかなかのもんやろ・・」
嬉しそうに、子供のような表情をして社長が喜一に言った。
「そうですわな・・このクルマ・・しかし・・モノと言うよりは生き物みたいでんな」
坂を下りる道で、海が見えるとさらに喜ぶかのようにバスはエンジンの音も軽やかに乗り心地も心なしか良くなって、走っていく。
「ほんまに・・お前は生き物みたいなバスやな・・」
喜一は何度もバスに語りかけた。
沿線の道路沿いではちょうど子供たちが学校から帰る時刻だったらしく、歩道を歩く子供たちがこのバスを見てビックリして、信号待ちのときは傍でしげしげと眺めていたり、走っているバスにあわせて、競走でもするかのように走り出したりしていた。
バスはそう言うときはなぜか勝手にクラクションがなる。
それも間の抜けた「ぷぷー」という音だった。
「このクルマ・・勝手に喋りますのんや」
後ろに添乗している社長に喜一は語りかけた。
「そうやろ・・前の会社でも、気味が悪いっちゅう運転士と、楽しいクルマやっちゅう運転士がおったそうや・・気味悪がる運転士が乗務したら、てこでも動かんようになるらしい・・」
「ほな・・誰でも乗務させるっちゅう訳にはいきまへんなあ・・」
横にいた助役が心配そうに尋ねた。
「そやから・・ちゃんと担当の運転士を決めなあかんのや・・」
バスはやがて、営業中のクルマに近づいた。
営業車が客扱いで停車している横を、喜一は慎重に追い抜いた。
「ぷぷー」間の抜けたクラクションが鳴る。
真っ赤な車体に大きく描かれたブルーのクジラが、愛郷たっぷりに通過していくのを営業車の乗客が目を見張っている。
数日後、朝、C線の終点に向けて真っ赤なクジラ号は走り始めた。
朝の下り便のことで、乗客はいない。
喜一は朝の光の中をゆっくりと、アクセルを踏み込んだ。
誰も乗客のいない車内に、セットしたバス停の案内や沿線の商店の宣伝が流れる。
ふと、コンビニの横のバス停で、時間調整のために停車するとそれっきり動かなくなってしまった。
エンジンはかかっているのだが、全くギアが入らない。
「おお・・クジラ君よ・・ワシはお前のことは嫌いと違うさかい、動いてやってんか・・」
喜一はなだめるようにバスに語りかけた。
「ぷぷー」
バスは勝手にクラクションを鳴らして何か答えている。
「なんか用事があるのんやろか・・」
そう思って、喜一が道路の前方を見ると、年配の女性がバスに手を振っていた。
ドアを開けると、その女性は息を切らせて乗り込んできた。
「えらい・・待って貰ってすんません・・」女性が息を切らせて喜一に礼を言う。
喜一がギアを入れると、バスは簡単に動き始めた。
「助かりましたわ・・Cが丘の娘のところで、孫の面倒を一日頼まれてましてん・・」
女性は運転士席の近くに腰掛けて、そんな話をし始めた。
「それが・・運転士さん・・家を出たとこで忘れ物を思い出しましたんや・・孫の好きな、お結びですねん・・」
「おむすびでっか・・」
思わず喜一も話に乗ってしまった。
「そうですねん・・わてがつくるお結びは・・爆弾みたいなやつでんねん・・」
「ああ・・大きくて、ノリで真っ黒にしてある・・」
「そうそう・・わてら田舎もんやから、お結び言うたら爆弾ですわ・・いっぺん孫に作ってやったら、もうワテの顔見たら、ばっちゃん・・・爆弾作って・・でんがな・・それがあんた、可愛いてなあ・・」
「お孫さん・・おいくつでっか?」
「やっと4つになりましてんや・・」
「そりゃ、可愛いでんなあ・・」
バスは乗客一人だけを乗せて、細い路地のような坂を登っていく。
軽やかに回るエンジンは真っ赤なクジラ号が、快調であることを現しているようだ。
「運転士さん、このバス、えらい楽しいバスでんな・・」
女性はバスの車内を見渡しながらそう言った。
「そう言ってくれはったら、バスも喜びますわ・・今日から金曜と土曜以外は、毎日この時間に走りますさかい、よろしゅう頼んます」
「いやあ・・それやったら、孫にも見せてやらんと・・バスが好きな子ですねん」
バスは快調に坂道を登り、やがてCが丘に着いた。
女性はバス回転所のすぐ上にある小さな住宅に入っていった。
「乗せてくれはったお礼です」
そう言って女性がくれた爆弾ひとつ・・銀紙に包まれて喜一の手のひらにあった。
バスの向きを変え、発車まで、5分ほどあるからと、喜一は煙草に火をつけ、バスの外に出た。
このあたりは神戸とは思えない閑静な場所だ。
陽の光が暖かい。
「クジラのバスや!!」
上のほうから声が聞こえる。
見るとさっき、バスを降りた女性の腕に、小さな男の子が抱かれて手を振っていた。
「ぷぷー」
しまらないクラクションの音がする。
また勝手に音がでよる・・喜一は苦笑しながら、彼も子供に手を振った。
バスの中に戻ると、さっき、計器板の上に置いたお結びがない・・
「あれ・・どこへやったかな??」
喜一は運転席のあたりを探したけれど、出てきたのは銀紙だけだった。
「おい・・クジラ号・・おまえ・・おにぎり食ったんか?」
「ぷぷー」しまらないクラクションでバスが答えた。
真っ赤なクジラ号はその日一日だけでも充分、注目を集めていた。
沿線にある高校の生徒達も、学校帰りの時間にこのバスに乗り、女の子たちなど、素っ頓狂な叫び声を上げていた。
「めっちゃ・・可愛いバスやん!」
「何で、こんなのが走ってるのやろ」
「太陽バスの新サービスかな・・」
バスが喜んでいるのか、いくらたくさん乗車しても、加速も全く鈍らない。
ますます快調だ。
まだ日が暮れる前の大学前ニュータウンからM駅までの30分ほどが本日最後の運行だ。
「無事故で第1日終了まで、あともうちょっとやさかい、頑張ろうな!」
喜一が大学前ターミナルでバスに語りかける。
「ぷぷー」
嬉しそうにバスが答える。
最終運行で、乗客を乗せる。
女子大生の一群が後ろの方の座席に陣取る。
手に手にスナック菓子や、ジュースを持っていた。
「可愛いバスやなア・・」彼女達もバスを気に入ってくれたようだった。
ところがターミナルを出てしばらく走ると、女子大生達の喧嘩が始まった。
「あんた・・あたしのお菓子食べたでしょ!」
「何言ってるの!あんたこそ、私のジュース飲んだでしょ!」
喧嘩の声が大きくなり、喜一は思わず車内放送をした。
「お客様にお願いいたします。他のお客様にご迷惑になりますので、バスの中では大きな声は出さないで下さいませ・・」
けれども・・全く彼女達の声が小さくならない。
バスは大学前から山を越えて、町の中に入ってきていた。
「あ!あたしのお菓子もない!」
別の声も聞こえる。
喜一はもう一度マイクを取り出した。
「お客様にお願いいたします。バスがお菓子を食べることがございますので、車内でのご飲食はお断りさせていただきます」
「えーーバスが食べるの?」
「そういえば・・あたしもお菓子がない・・」
「私のジュースも減っているわ・・」
彼女達は今度は面白がってしまい、喧嘩は収まった。
「ぷぷー」
バスが返事をする。返事をしながら、愛嬌のあるクジラのおなかが少し膨らんだようで・・走りっぷりに元気がなくなってきた。
のんびり、ゆっくりと走る感じになった。
M駅に着いて、乗客を降ろし、車庫へ回送する為に発車しようとすると、今度は動かなくなった。
「ははーん」
なんとなく理由がわかった喜一はバスに語りかけた。
「おい・・クジラ号・・今日は車庫まで走れば終わりやさかい、もうちょっとだけ頑張ってくれるか・・車庫で燃料を入れてやるし、いくらでも昼寝ができるから・・」
すると、真っ赤なクジラ号はゆっくりと動き出し、よたよたという感じで車庫までの数分の道を走るのだった。
真っ赤なクジラ号の人気は上がり、神戸名物になってきた。
しかも、このクルマが勝手にクラクションを鳴らすことまで、どこかから話が漏れ、まさに子供たちのアイドルのようになってきた。
今日も、クジラ号は「可愛いね!」の女子高生の叫びに間の抜けた「ぷぷー」のクラクションを鳴らして走っている。
そんな真っ赤なクジラ号に幼稚園や保育所の団体申し込みが出るのはある意味、当然だった。
バスのダイヤが限定で固定されていることなどで、太陽バスとしては「真っ赤なクジラ号」の貸し切り運行を断っていたのだけれど、ついに、土曜日ならということで、地元保育園の貸切バスとして走ることになった。
土曜日は喜一は休みだ。
仕方なく、その日、別の運転士で、若くて優しそうな男に白羽の矢が立った。
「今から4522号に乗務します。運行は貸切で、青い海保育園、園児と保護者合わせて45名の乗車予定です。それじゃ・・行って参ります」
若い運転士、北良治は、勇んでで点呼を済ませ、バスに乗り込んだ。
心配して社長が彼についてきた。
「大丈夫やろうか・・このクルマ・・」
「大丈夫ですよ・・一度、試運転で乗務しましたし・・」
「ワシも一緒に乗り込むさかい・・」
「大丈夫ですのに・・」
良治が不機嫌そうに言うのを押さえながら、それでも社長は真っ赤なクジラ号の中に入って、運転席の後ろに立った。
「社長・・まるで僕が新入り運転士みたいですやン・・」
良治の抗議に、社長は少しはなれた座席に腰掛けた。
バスは何事もなかったかのように、普通に動き始めた。
若干加速がゆっくりはしていたけれど、気になるほどではなく、普通のバスの感じだ。
社長はほっとした。
やがて、海の見える丘の上にある「青い海保育園」についた。
園児と、母親や父親が嬉々として乗り込んでくる。
「真っ赤なクジラだ!」「ほんとに真っ赤なクジラだ!」
「立派なシートだね!」「きれいな天井!」子供たちが歓声を上げて乗車してくる。
社長は座席を園児に譲って、運転席脇で立っていた。
「発車します・・本日は太陽バス、真っ赤なクジラ号をご利用いただきありがとうございます」
良治が放送を流す。
「このバスは皆様とご一緒に離宮公園まで参ります・・座席が少々少なくなっていますので、なるべく譲り合ってご利用ください」
バスは何事もなく走っている。
「ねえ・・ママ・・このバス喋るんだよ」
「ええ・・そんなことはないわ。バスが喋るはずはないわよ」
「ほんとだってバ・・運転士さん・・そうだよね!」
園児たちの言葉に良治は「バスは喋らないと思うけど・・今日はみんなのために喋ってくれるかもね」といった。
そのとき・・「ぷぷー」とバスが返事をした。
「ほら!喋ったよ」園児たちが喜ぶのに気を良くしてか、真っ赤なクジラ号は「パンパン」いつもと違う音を出した。
良治は苦笑しながら、運転を続けている。
やがて、街中を進み、小さな団地の入り口でバスが停車した。
「あれ・・」
良治が不思議そうに首を振る。
「どないしたんや」社長が不審気に尋ねる。
「なんで・・こんなところに来とるんでしょ・・」
「は?」
「わたし・・高速道路の入り口を目指していたのですけれど・・」
「道を間違えたんかいな・・しゃなあない、高速を通らんでもいけるやろ」
二人はヒソヒソと会話を続ける。
「はあ・・あれ?」
「どないしたんや・・」
「動きません・・エンジンもかかって、ギアも入っているのに・・」
「アクセルを踏んでもアカンのか」
「アクセルが踏めません・・」
ちょうどそのとき、窓の向こうで手を振っている男がいた。
喜一だ。
「なんで・・ここに居られるんです?離宮公園やったら、高速に乗ればすぐですのに・・」
喜一はバスの外から運転席の良治に声をかけた。
「喜一はん・・あんたこそ、何でここに居るんや?」
社長が喜一の顔を見て尋ねた。
「なに言うてますのんや・・この団地・・わしの家がおますのやで・・」
そのとき「ぷぷー」真っ赤なクジラ号が情けない音を出した。
「またクジラ号が喋ったよ・・」園児たちが叫ぶ。
「でも・・どうして停車しているのかしら?」親が不審がる声も聞こえる。
喜一は理解したようだった。
「社長・・運転・・させてもらいますわ・・機嫌を損ねてるみたいでんな・・」
良治は意地でも自分が運転するのだと、アクセルを力一杯踏みつけようとした。アクセルは硬くはないのだが、彼の足が思うように動かない。
しかも、運転席横のドアが勝手に開いた。
「おお!真っ赤なクジラ号!何をそないに機嫌を損ねとるんや・・」
喜一が乗り込んでくるとエンジンの音が少し大きくなったようだ。
良治は何かに操られるかのように、席を立ち、社長と並んで立った。
喜一はごく自然に運転席に座った。
ドアが勝手に閉まる。
ギアを入れ、アクセルを踏み込んだ。
真っ赤なクジラ号は何事もなく、走り始めた。
「すまんな・・クジラ号よ・・ワシは今日は休みやったんや・・ワシがちゃんとお前のことを、良治はんに言うてやらんさかい、機嫌を損ねたんやなぁ・・悪いのは良治はんと違うで・・ワシやさかいな・・勘弁してや・・」
「ぷぷー」間の抜けた返事が返ってきた。
「おお・・そうかいな・・勘弁してくれるか・・おおきになあ・・」
社長と良治は決まりが悪そうに立っていた。
「そうや・・」
つぶやくと社長は良治のかぶっている制帽を喜一の頭に載せた。
「運転士さん・・いつもの髭の運転士さんになったね」
子供の声がする。
「そうだよね・・髭の運転士さんだけが真っ赤なクジラ号と喋れるんだよね」
子供たちの会話は、どうやら子供たちの間で噂として流れている話らしい・・
「ぷぷー」
間の抜けたクラクションは真っ赤なクジラ号のご機嫌のしるし・・
「このクルマ・・会話が必要なんですね・・」
良治が感心したように、喜一の運転ぶりを見ている。
「このクルマの、前の会社の人たちの間でもそう言う評判やったそうや・・クルマとではなく、友達と会話するようにせなアカン言うて・・」
「社長・・僕にもそう言って教えてくれたら、よかったですのに・・」
「まあ・・ワシもまさかとは思っとったさかい・・」
二人は顔を見合わせた。
喜一は何事か喋りながら、真っ赤なクジラ号を走らせている。
園児たちやその保護者はすっかりバスになじんで、和やかな雰囲気だ。
「ぷぷー」
ご機嫌よく、真っ赤なクジラ号は公園の駐車場に入っていった。
ここは神戸市の西郊、うすぼんやりした春・・
野田喜一は今日も黄色いバスを住宅地から駅へ、駅から大学のあるニュータウンへと路線バスを走らせている。
時折、さすがに眠くなるけれど、彼は52歳の今日まで一度も事故らしい事故を起こしたこともなく、事故に巻き込まれたこともなかった。
喜一の勤務する営業所には200人ほどのバス運転士がいるが、ほとんどのものは長い乗務生活の中で、何らかのアクシデントをいくつか経験しているから、彼のような幸運は珍しいと言えるだろう。
太陽バスの本社は、いまどき珍しい木造2階建てで、これはバス会社というものは乗客サービスに全てをかけるべきであるという社長の方針から、社屋は一番後回しにされた結果なのだった。
乗務員詰め所の掲示板にはいつも何らかのお知らせが貼ってあって、今日も1枚、新しいお知らせが増えていた。
『営業車の増車について』
「新車が入るのやなあ・・ええなあ・・会社のクルマはいつも新しくなって・・」
喜一は声を上げてその文書を読み始めた。
「おっさん・・読むんやったらやかましいさかい、声出さんと読んでか・・」
部屋の奥から誰かが叫ぶ。
「あほかいな・・きちんと声出して・・はっきりとおつむに入れとくんやないか・・」
そう言って・・喜一は声を出して読み進めていく。
「・・今年度の増車として以下の車両を営業車に加える・・2513号、2514号、3545号、4522号・・以上の内、2513号と2514号はノンステップタイプの新車、3545号はワンステップタイプの新車、4522号は他社からの譲渡車両である。配置路線は2513号、2514号は主にM線、3545号は主にT線、4522号は主にM線とするが、必ずしもこの通りではない」
「ほうーー」
さっき、奥から喜一をからかった男が、素っ頓狂な声を上げた。
「譲渡車両って・・中古車かいな・・」
「そうやろうなあ・・うちの会社で中古のバスは・・わしの知ってる限り、初めてやで・・」
「喜一はん・・運転士して、何年やったかいな?」
「わし、もう30年近いさかいなぁ・・そのわしが、中古車を見るのはホンマにはじめてや」
「ほなら・・何かい、この会社も新車が買えんくらい、厳しいなっとんかいなあ・・」
奥からその男も出てきて掲示板を見つめ始めた。
「あれやろか・・4台欲しかったけど、3台しか買う金が無うて・・1台は中古で我慢・・」
二人が顔を見合わせて、頷こうとしたとき、助役が彼らの肩を叩いた。
「あのな・・うちは関西では成績のええバス会社で通ってるんやで・・縁起でもないこと言わんといてや・・」
「ほな・・なんで・・中古なんでっか?」
「それはやな・・」助役はそこから先は答えずに、「ちょうど、さっき、納車されたさかい、見に行かへんか・・」そう言って二人を誘って建物の外に出た。
「なんや・・これ・・」
喜一は他の見慣れたバスの間に挟まっている真っ赤なバスを見て驚いた。
古いクルマではない・・最新型だろう・・やや小型だがいわゆるコミュニティバスというものよりは普通のバスに近い大きさだ。
喜一がビックリしたのは真っ赤な車体に、ブルーで鮮やかにクジラの絵が描いてあったことで、正面にはヘッドライト周りがクジラの目に見えるようにデザインされていた。
「紀州のリゾートホテルが倒産して、その送迎用のクルマやったのやけど、ま・・うちが競売で落としたと言うわけでな・・」
「競売って・・なんでっか・・あのオークションみたいなものでっか?」
「そやそや・・うちの社長が茶目っ気を出して、やってみたらと・・そういうわけやな」
「で・・このクルマ・・何に使うんでっか?」
「ま・・見てくれや・・」
助役が車の扉を開けて、中を見せてくれた。
路線バスにしては豪華なシートが並んでいる。
つり輪もついている。けれども、つり輪はハート型だ。
座席の表生地にも、クジラの愛らしい絵が印刷されていたし、天井は海の波の模様・・床は真っ青で黄色の魚のシルエットが浮き上がるようになっていた。
「このクルマ・・うちの路線で使えますのんか?」
もう一人の運転士が、不審気に助役に聞いた。
「うん・・いっそのこと、このまま塗装も変えないで、一般車に混ぜて走らせたらどうかと・・社長は言ってるンやけどな・・」
「うちの路線は・・混むときは思い切り混みますさかい、どないだっしゃろ・・」
確かに太陽バスの営業成績が良いというのはそれだけ混雑するバス路線だからと言う部分もあった。
「ラッシュ時には暇なC行きに使こて、昼間は宣伝がてら、そこらを走らせようと思っとるんやけどな」
C行きは朝から夜まで一日中30分ごとに走る路線だ。
終点のCが丘はかつては山の中腹、今はその山の山上は団地になっているが、中腹は相変わらずの田舎景色の、時代から取り残されたような路線だ。
どの便も10人以上の乗客があることはまずない、成績好調な太陽バスだからこそ維持できるような路線だった。
車内の奇妙にゆったりとした座席に腰掛けて、助役は喜一の顔を見た。
「それでな・・・喜一はん・・あんた・・このバスの担当をしてやって欲しいのや」
「担当って?」
バスに個別の運転士が担当につくなんて聞いた事がない・・田舎のタクシー会社に毛の生えたような会社ならともかく、少なくとも太陽バスは神戸のベッドタウンを走る大手バス会社だ。
「このクルマ・・癖があるらしいのや・・」
「癖でっか?」
「時々、調子が無茶苦茶良くなったり、反対に沈んでしもて全然走らへんようになったり・・」
「そんな程度の癖やったら、他のバスでもおまっせ・・そない言わはるんやったら、任せてもろてもよろしおまっさ」
助役はちょっと黙ってバスの天井を眺め回していた。
喜一も天井を見た。
もう一人の男も天井を見上げている。
「真っ赤なクジラ」
喜一がつぶやいた。
「それやな・・それでいこ・・」
「なにがでっか?」
「このクルマの名前や・・真っ赤なクジラ号・・髭面のオッサンが担当運転士や・・神戸の名物になるで・・」
[*真っ赤なクジラ号運転のお知らせ* このたび、太陽バスでは楽しくて可愛いバス「真っ赤なクジラ号」を運行することになりました。運行は毎週木曜・金曜以外の日で、運行時間帯は以下の通りです。当バス停発M駅行き11時20分、14時4分、17時34分。なお、運行の都合により他のバスで代替することもございますのでご了承ください。太陽バス株式会社M線営業所]
まもなく、主なバス停には貼り紙がされ、その頃には喜一が助役や社長をのせて試運転をして、お披露目をしていた。
はじめて喜一がこのバスに乗ったとき、何かバスから生き物の息吹のようなものが感じられ、喜一は思わず、敬礼をした。
「真っ赤なクジラ号どの!本日より常務させていただきます野田喜一でございます。よろしくお願いいたします。わたくしも無事故で頑張る所存でございます!」
そのときだ・・まだエンジンもかかっていないバスが、「ぷぷー」とクラクションを流した。
横にいた助役は飛び上がらんばかりに驚いていたが喜一は「おう!答えてくれますのんか・・たのんまっさ!」と意に介さず乗り込んでしまった。
整備士たちは別に何の変哲も無い、普通のバスだと言っていたし、音が勝手に出る仕掛けなどあるはずもなかったのだけれど・・
初めての試運転で、真っ赤なクジラ号はビックリするような加速を見せた。
「うわーーこんなに早いバスは、わし、初めてやわ」
喜一が嬉しそうに叫んだ。
するとエンジンはさらに軽やかになって、飛ぶように走った。
「どや・・このクルマ・・目えつけたワシの勘もなかなかのもんやろ・・」
嬉しそうに、子供のような表情をして社長が喜一に言った。
「そうですわな・・このクルマ・・しかし・・モノと言うよりは生き物みたいでんな」
坂を下りる道で、海が見えるとさらに喜ぶかのようにバスはエンジンの音も軽やかに乗り心地も心なしか良くなって、走っていく。
「ほんまに・・お前は生き物みたいなバスやな・・」
喜一は何度もバスに語りかけた。
沿線の道路沿いではちょうど子供たちが学校から帰る時刻だったらしく、歩道を歩く子供たちがこのバスを見てビックリして、信号待ちのときは傍でしげしげと眺めていたり、走っているバスにあわせて、競走でもするかのように走り出したりしていた。
バスはそう言うときはなぜか勝手にクラクションがなる。
それも間の抜けた「ぷぷー」という音だった。
「このクルマ・・勝手に喋りますのんや」
後ろに添乗している社長に喜一は語りかけた。
「そうやろ・・前の会社でも、気味が悪いっちゅう運転士と、楽しいクルマやっちゅう運転士がおったそうや・・気味悪がる運転士が乗務したら、てこでも動かんようになるらしい・・」
「ほな・・誰でも乗務させるっちゅう訳にはいきまへんなあ・・」
横にいた助役が心配そうに尋ねた。
「そやから・・ちゃんと担当の運転士を決めなあかんのや・・」
バスはやがて、営業中のクルマに近づいた。
営業車が客扱いで停車している横を、喜一は慎重に追い抜いた。
「ぷぷー」間の抜けたクラクションが鳴る。
真っ赤な車体に大きく描かれたブルーのクジラが、愛郷たっぷりに通過していくのを営業車の乗客が目を見張っている。
数日後、朝、C線の終点に向けて真っ赤なクジラ号は走り始めた。
朝の下り便のことで、乗客はいない。
喜一は朝の光の中をゆっくりと、アクセルを踏み込んだ。
誰も乗客のいない車内に、セットしたバス停の案内や沿線の商店の宣伝が流れる。
ふと、コンビニの横のバス停で、時間調整のために停車するとそれっきり動かなくなってしまった。
エンジンはかかっているのだが、全くギアが入らない。
「おお・・クジラ君よ・・ワシはお前のことは嫌いと違うさかい、動いてやってんか・・」
喜一はなだめるようにバスに語りかけた。
「ぷぷー」
バスは勝手にクラクションを鳴らして何か答えている。
「なんか用事があるのんやろか・・」
そう思って、喜一が道路の前方を見ると、年配の女性がバスに手を振っていた。
ドアを開けると、その女性は息を切らせて乗り込んできた。
「えらい・・待って貰ってすんません・・」女性が息を切らせて喜一に礼を言う。
喜一がギアを入れると、バスは簡単に動き始めた。
「助かりましたわ・・Cが丘の娘のところで、孫の面倒を一日頼まれてましてん・・」
女性は運転士席の近くに腰掛けて、そんな話をし始めた。
「それが・・運転士さん・・家を出たとこで忘れ物を思い出しましたんや・・孫の好きな、お結びですねん・・」
「おむすびでっか・・」
思わず喜一も話に乗ってしまった。
「そうですねん・・わてがつくるお結びは・・爆弾みたいなやつでんねん・・」
「ああ・・大きくて、ノリで真っ黒にしてある・・」
「そうそう・・わてら田舎もんやから、お結び言うたら爆弾ですわ・・いっぺん孫に作ってやったら、もうワテの顔見たら、ばっちゃん・・・爆弾作って・・でんがな・・それがあんた、可愛いてなあ・・」
「お孫さん・・おいくつでっか?」
「やっと4つになりましてんや・・」
「そりゃ、可愛いでんなあ・・」
バスは乗客一人だけを乗せて、細い路地のような坂を登っていく。
軽やかに回るエンジンは真っ赤なクジラ号が、快調であることを現しているようだ。
「運転士さん、このバス、えらい楽しいバスでんな・・」
女性はバスの車内を見渡しながらそう言った。
「そう言ってくれはったら、バスも喜びますわ・・今日から金曜と土曜以外は、毎日この時間に走りますさかい、よろしゅう頼んます」
「いやあ・・それやったら、孫にも見せてやらんと・・バスが好きな子ですねん」
バスは快調に坂道を登り、やがてCが丘に着いた。
女性はバス回転所のすぐ上にある小さな住宅に入っていった。
「乗せてくれはったお礼です」
そう言って女性がくれた爆弾ひとつ・・銀紙に包まれて喜一の手のひらにあった。
バスの向きを変え、発車まで、5分ほどあるからと、喜一は煙草に火をつけ、バスの外に出た。
このあたりは神戸とは思えない閑静な場所だ。
陽の光が暖かい。
「クジラのバスや!!」
上のほうから声が聞こえる。
見るとさっき、バスを降りた女性の腕に、小さな男の子が抱かれて手を振っていた。
「ぷぷー」
しまらないクラクションの音がする。
また勝手に音がでよる・・喜一は苦笑しながら、彼も子供に手を振った。
バスの中に戻ると、さっき、計器板の上に置いたお結びがない・・
「あれ・・どこへやったかな??」
喜一は運転席のあたりを探したけれど、出てきたのは銀紙だけだった。
「おい・・クジラ号・・おまえ・・おにぎり食ったんか?」
「ぷぷー」しまらないクラクションでバスが答えた。
真っ赤なクジラ号はその日一日だけでも充分、注目を集めていた。
沿線にある高校の生徒達も、学校帰りの時間にこのバスに乗り、女の子たちなど、素っ頓狂な叫び声を上げていた。
「めっちゃ・・可愛いバスやん!」
「何で、こんなのが走ってるのやろ」
「太陽バスの新サービスかな・・」
バスが喜んでいるのか、いくらたくさん乗車しても、加速も全く鈍らない。
ますます快調だ。
まだ日が暮れる前の大学前ニュータウンからM駅までの30分ほどが本日最後の運行だ。
「無事故で第1日終了まで、あともうちょっとやさかい、頑張ろうな!」
喜一が大学前ターミナルでバスに語りかける。
「ぷぷー」
嬉しそうにバスが答える。
最終運行で、乗客を乗せる。
女子大生の一群が後ろの方の座席に陣取る。
手に手にスナック菓子や、ジュースを持っていた。
「可愛いバスやなア・・」彼女達もバスを気に入ってくれたようだった。
ところがターミナルを出てしばらく走ると、女子大生達の喧嘩が始まった。
「あんた・・あたしのお菓子食べたでしょ!」
「何言ってるの!あんたこそ、私のジュース飲んだでしょ!」
喧嘩の声が大きくなり、喜一は思わず車内放送をした。
「お客様にお願いいたします。他のお客様にご迷惑になりますので、バスの中では大きな声は出さないで下さいませ・・」
けれども・・全く彼女達の声が小さくならない。
バスは大学前から山を越えて、町の中に入ってきていた。
「あ!あたしのお菓子もない!」
別の声も聞こえる。
喜一はもう一度マイクを取り出した。
「お客様にお願いいたします。バスがお菓子を食べることがございますので、車内でのご飲食はお断りさせていただきます」
「えーーバスが食べるの?」
「そういえば・・あたしもお菓子がない・・」
「私のジュースも減っているわ・・」
彼女達は今度は面白がってしまい、喧嘩は収まった。
「ぷぷー」
バスが返事をする。返事をしながら、愛嬌のあるクジラのおなかが少し膨らんだようで・・走りっぷりに元気がなくなってきた。
のんびり、ゆっくりと走る感じになった。
M駅に着いて、乗客を降ろし、車庫へ回送する為に発車しようとすると、今度は動かなくなった。
「ははーん」
なんとなく理由がわかった喜一はバスに語りかけた。
「おい・・クジラ号・・今日は車庫まで走れば終わりやさかい、もうちょっとだけ頑張ってくれるか・・車庫で燃料を入れてやるし、いくらでも昼寝ができるから・・」
すると、真っ赤なクジラ号はゆっくりと動き出し、よたよたという感じで車庫までの数分の道を走るのだった。
真っ赤なクジラ号の人気は上がり、神戸名物になってきた。
しかも、このクルマが勝手にクラクションを鳴らすことまで、どこかから話が漏れ、まさに子供たちのアイドルのようになってきた。
今日も、クジラ号は「可愛いね!」の女子高生の叫びに間の抜けた「ぷぷー」のクラクションを鳴らして走っている。
そんな真っ赤なクジラ号に幼稚園や保育所の団体申し込みが出るのはある意味、当然だった。
バスのダイヤが限定で固定されていることなどで、太陽バスとしては「真っ赤なクジラ号」の貸し切り運行を断っていたのだけれど、ついに、土曜日ならということで、地元保育園の貸切バスとして走ることになった。
土曜日は喜一は休みだ。
仕方なく、その日、別の運転士で、若くて優しそうな男に白羽の矢が立った。
「今から4522号に乗務します。運行は貸切で、青い海保育園、園児と保護者合わせて45名の乗車予定です。それじゃ・・行って参ります」
若い運転士、北良治は、勇んでで点呼を済ませ、バスに乗り込んだ。
心配して社長が彼についてきた。
「大丈夫やろうか・・このクルマ・・」
「大丈夫ですよ・・一度、試運転で乗務しましたし・・」
「ワシも一緒に乗り込むさかい・・」
「大丈夫ですのに・・」
良治が不機嫌そうに言うのを押さえながら、それでも社長は真っ赤なクジラ号の中に入って、運転席の後ろに立った。
「社長・・まるで僕が新入り運転士みたいですやン・・」
良治の抗議に、社長は少しはなれた座席に腰掛けた。
バスは何事もなかったかのように、普通に動き始めた。
若干加速がゆっくりはしていたけれど、気になるほどではなく、普通のバスの感じだ。
社長はほっとした。
やがて、海の見える丘の上にある「青い海保育園」についた。
園児と、母親や父親が嬉々として乗り込んでくる。
「真っ赤なクジラだ!」「ほんとに真っ赤なクジラだ!」
「立派なシートだね!」「きれいな天井!」子供たちが歓声を上げて乗車してくる。
社長は座席を園児に譲って、運転席脇で立っていた。
「発車します・・本日は太陽バス、真っ赤なクジラ号をご利用いただきありがとうございます」
良治が放送を流す。
「このバスは皆様とご一緒に離宮公園まで参ります・・座席が少々少なくなっていますので、なるべく譲り合ってご利用ください」
バスは何事もなく走っている。
「ねえ・・ママ・・このバス喋るんだよ」
「ええ・・そんなことはないわ。バスが喋るはずはないわよ」
「ほんとだってバ・・運転士さん・・そうだよね!」
園児たちの言葉に良治は「バスは喋らないと思うけど・・今日はみんなのために喋ってくれるかもね」といった。
そのとき・・「ぷぷー」とバスが返事をした。
「ほら!喋ったよ」園児たちが喜ぶのに気を良くしてか、真っ赤なクジラ号は「パンパン」いつもと違う音を出した。
良治は苦笑しながら、運転を続けている。
やがて、街中を進み、小さな団地の入り口でバスが停車した。
「あれ・・」
良治が不思議そうに首を振る。
「どないしたんや」社長が不審気に尋ねる。
「なんで・・こんなところに来とるんでしょ・・」
「は?」
「わたし・・高速道路の入り口を目指していたのですけれど・・」
「道を間違えたんかいな・・しゃなあない、高速を通らんでもいけるやろ」
二人はヒソヒソと会話を続ける。
「はあ・・あれ?」
「どないしたんや・・」
「動きません・・エンジンもかかって、ギアも入っているのに・・」
「アクセルを踏んでもアカンのか」
「アクセルが踏めません・・」
ちょうどそのとき、窓の向こうで手を振っている男がいた。
喜一だ。
「なんで・・ここに居られるんです?離宮公園やったら、高速に乗ればすぐですのに・・」
喜一はバスの外から運転席の良治に声をかけた。
「喜一はん・・あんたこそ、何でここに居るんや?」
社長が喜一の顔を見て尋ねた。
「なに言うてますのんや・・この団地・・わしの家がおますのやで・・」
そのとき「ぷぷー」真っ赤なクジラ号が情けない音を出した。
「またクジラ号が喋ったよ・・」園児たちが叫ぶ。
「でも・・どうして停車しているのかしら?」親が不審がる声も聞こえる。
喜一は理解したようだった。
「社長・・運転・・させてもらいますわ・・機嫌を損ねてるみたいでんな・・」
良治は意地でも自分が運転するのだと、アクセルを力一杯踏みつけようとした。アクセルは硬くはないのだが、彼の足が思うように動かない。
しかも、運転席横のドアが勝手に開いた。
「おお!真っ赤なクジラ号!何をそないに機嫌を損ねとるんや・・」
喜一が乗り込んでくるとエンジンの音が少し大きくなったようだ。
良治は何かに操られるかのように、席を立ち、社長と並んで立った。
喜一はごく自然に運転席に座った。
ドアが勝手に閉まる。
ギアを入れ、アクセルを踏み込んだ。
真っ赤なクジラ号は何事もなく、走り始めた。
「すまんな・・クジラ号よ・・ワシは今日は休みやったんや・・ワシがちゃんとお前のことを、良治はんに言うてやらんさかい、機嫌を損ねたんやなぁ・・悪いのは良治はんと違うで・・ワシやさかいな・・勘弁してや・・」
「ぷぷー」間の抜けた返事が返ってきた。
「おお・・そうかいな・・勘弁してくれるか・・おおきになあ・・」
社長と良治は決まりが悪そうに立っていた。
「そうや・・」
つぶやくと社長は良治のかぶっている制帽を喜一の頭に載せた。
「運転士さん・・いつもの髭の運転士さんになったね」
子供の声がする。
「そうだよね・・髭の運転士さんだけが真っ赤なクジラ号と喋れるんだよね」
子供たちの会話は、どうやら子供たちの間で噂として流れている話らしい・・
「ぷぷー」
間の抜けたクラクションは真っ赤なクジラ号のご機嫌のしるし・・
「このクルマ・・会話が必要なんですね・・」
良治が感心したように、喜一の運転ぶりを見ている。
「このクルマの、前の会社の人たちの間でもそう言う評判やったそうや・・クルマとではなく、友達と会話するようにせなアカン言うて・・」
「社長・・僕にもそう言って教えてくれたら、よかったですのに・・」
「まあ・・ワシもまさかとは思っとったさかい・・」
二人は顔を見合わせた。
喜一は何事か喋りながら、真っ赤なクジラ号を走らせている。
園児たちやその保護者はすっかりバスになじんで、和やかな雰囲気だ。
「ぷぷー」
ご機嫌よく、真っ赤なクジラ号は公園の駐車場に入っていった。