(本作は「おやじ」「あの夏を」「姫路から加古川へ」の関連作です。)
祈祷をしてもらいに行った大阪の神社から、姫路市の東方にある病院に叔母のクルマで送ってもらった私が到着したのは八月二十六日の午後のことだった。
病室に入るなり、「あんた・・・」と悔しそうに声を抑えて泣く母親が見えた。
「いまさっき、ほんのちょっと前やで・・・」
祖母が私に耳打ちする。
それでも、私には目の前にいる親父が死んだなどとは思えないでいた。
親父はといえば、ベッドの上で丸裸にされてはいたが、この病院で見せていた苦しげな表情ではなく、口を軽くあけて薄目を開いて宙を見る表情は穏やかで、いい夢でも見ていそうだ。
私はその前日、好転しない親父の病状に、祖母からの発案で大阪・堺にある神社への特別な祈祷への使いとされていた。
親父はかつて社会運動家だったけれども、折伏に来た友人に理論武装で負けて、S会の信者になっていたし、母は親父よりは信心が厚く、日ごろの活動にも積極的だった。
余談だが、親父がこの信仰で本人が望むような幸せを得られたとは私には思えない。
私はS会を全否定も全肯定もしないが、信仰と言うものは、それがあるから幸せになれるものではなく、幸せへの努力のそのバックボーンとして存在するのではなかろうか。
だのに、今思えばこのS会には神社を否定する「神天上」という考え方があるにもかかわらず、祖母・・つまりは親父の母親が発案した神社への参拝と言う・・まさに藁にもすがると言うか、あるいは困ったときの神頼みと言うか、そういう方法を私の親族たちは選んでいた。
あるいは、母が祖母の意見に反対を唱えることが出来なかったからかもしれない。
けれど、そのことで長男である私が親父の死に目に逢えないとは、その場の大人たちの誰もが思いもしなかったことなのだろう。
だからといって、私は親父の死に目に逢えなかったことを恨むものではない。
息が詰まるような病室で親族が集まり数日、緊張感あふれる時間を過ごしてきたわけだから、まだ中学生になったばかりの私には、そこから離れる用事を作ってくれたことはむしろ、肩の荷が下りたように思えたことだった。
病院から歩いて三十分はかかる国鉄の曽根駅から山陽本線の快速電車に乗り、まだ、冷房などなかった時代、クロスシートの進行方向に落ち着いて、大きな窓を全開して夏の田園や海岸沿い、都会を突っ走る電車の旅は不謹慎にも結構楽しめたのだ。
今、山陽本線に「はりま別所」と言う駅があるあの辺りである。
大阪では叔母一家が居候していた祖母の家に泊まり、そこからクルマで神社へ、そして、そのクルマですぐに姫路まで送ってもらったと言うわけだ。
当時、開通したばかりの高速道路を走っていると、田園のはるか向こう、海岸沿いに建つ重化学工業地帯が見える。
その中でひときわ多くの赤や白の煙突が並ぶ一帯を私は指差し「お父ちゃんの会社、あれやねん」と叔母や義理の叔父に教えたものだ。
その直後、親父が息を引き取ったところに私が病室に入ったものだから、叔母や義理の叔父は「悲しみを新たにした」と言うことだろうか。
親父・満男は大阪、泉大津で身体を壊した。
理想を追い求め、労働者のユートピアを本気で信じた親父の人生は、ユートピアと裏腹の悲しみに満ちたものであったことは確かだろう。
東京・本郷で生まれながら、まだ乳飲み子の頃に母親・静江と別れ、以後、祖母・・つまりは私にとっては見たことのない曾祖母に育てられ、若き母は満州に行ったまま帰らない。
その母親がこともあろうに東京から遠く離れた大阪で、彼を迎えたのは彼がもう小学校に入る前だったとか。
母親の横には見知らぬ男性がいて、その男性が母親の再婚相手で国鉄マンだった。
だが、その国鉄マン・草野は素直に鷹取工場で労働しているだけでは終わらぬ野心家で、戦前からさまざまな闇物資を仕入れてきてはあちらこちらに売りさばく商才をもっていた。
戦争が激しくなるころ、国鉄マンであった義理の父親は独立し、道頓堀に商店を開く。
それは八百屋で、頼まれれば野菜や食料以外のものも仕入れて販売した。
私の親父、満男は自分の母親と義理の父親が経営する店の二階に、他の家族と寝起きする毎日だった。
他の家族とは、満男の母、静江が再婚した満男の義理の父、草野の連れ子で、いずれも女の子だった。
だが、その暮らしは満男にとって楽しいものではなく、草野による今で言えば虐待までも日常だったようだ。
戦争が終わり、世の中が落ち着き、草野の商売も軌道に乗ると、満男は草野に願い出て神戸の理容専門学校へと進む形で家を出る。
当時の草野には経済的な余裕は充分にあったから、厄介者が家を出てくれることこそ幸いとばかりに満男の願いを聞き入れた。
理容師になり、新開地の店で腕を振るうようになった満男は、そこで私の母のルミ子と出会い、やがて同棲を始める。
労働者の町、新開地でさまざまな人との友情を深くするにつけ、社会運動に傾倒していきながら、当時左翼やくざの異名を持つ組織とも関わりを持つようになる。
結局、この組織とのかかわりが、満男が全てを失敗し最後の賭けに大阪・泉大津で親族が経営する会社に入社しながらもさらにそこで親族に裏切られ、失意のもとでも再出発として加古川市にいたるその遠因ともなるものであり、満男はその組織のさる親方に深い感謝の念を抱いていたようだ。
子供は多かった。
避妊というものをせず、出来た子は必ず産むという信念というか、ある意味では計画性のなさに、結局は自分で自分を苦しめながら私を筆頭に六人の兄弟姉妹が出来てしまう有様だったし、これは生きて生まれた子だけの数字で、実際には流産二回、死産二回の合わせて十人の子供を自分の妻に身ごもらせた。
労働者の革命は必ず為る・・はずだったのに、革命からどんどん世の中は遠のき、自分の経済も自己責任とはいえ一向に良くならない。
憂さを酒で晴らすのがいつしかアルコール依存症となり、肝臓、十二指腸はとうに破壊され、血を吐きながらも酒を飲み続けた。
如何に恩義のある親方の勧めで入った会社とはいえ、数ヶ月でまともに出勤すら出来なくなる状況に、本人としても情けなかったろうとは思う。
親父が亡くなって、親族でいろいろ難しそうな話をしている団になると、私はその場にいたたまれなく、病室を抜け出した。
病院の脇から夏の盛りで濃い緑に輝く田圃の向こうに走っている山陽本線と、開業したばかりの山陽新幹線を眺めて時間をつぶす。
白い車体がたくさん連なり派手にスパークを上げる新幹線、オレンジと緑に塗られた快速電車の長い編成、黒い電気機関車がこれまた黒い貨車をたくさん連ねてガチャガチャと走り行く様子・・
子供の頃から電車が大好きだった私だったが、これだけ満足に電車が眺められる場所と言うのは経験になかった。
時を忘れ、電車を眺めていた私を叔母が呼びに来たのはもう夕刻に近かった。
加古川・別府の社宅は、かつてここが海岸だった頃の名残としてその頃はまだたくさんあった松林の一角だ。
社宅とはいっても鉄筋コンクリートの立派なものではなく、木造の平屋を二軒、背中合わせにくっつけたもので広い庭があった。
この会社には鉄筋の社宅もあったが、我が家が子沢山なために会社側の配慮で古いが広い木造の社宅を宛がってくれたものだった。
台所や風呂はまさに戦後そのもので、風呂は当時とて珍しい五右衛門風呂、オガライトというオガクズを集めて固めたマキを燃料として使った。
その社宅に私が着いたのは夜だった。
家には五人の弟妹と共に、母方の祖母と叔母が来ていた。
この叔母は母の妹で私とは四才しか離れておらず、その頃はまだ女子高生だった。
弟妹たちは泣き腫らした顔をしていた。
だが、私には涙は出ない。
こういうときの悲しみ方が分からなかったのかもしれない。
暗くなる大きな古いその社宅で、五右衛門風呂を沸かし、おにぎりを食って親父の遺体が到着するのを待つ。
やがて、親父が運び込まれてきた。
当時、ほとんどがそうであったように、親父の葬儀はこの自宅で行われることになった。
翌朝、その日の通夜、翌日の葬儀の段取りを決め、近所の主婦たちが応援に来て炊き出しをしてくれる・・忙しいことになったけれど、中学生の私には何も為すことがない。
近所の溜池の亀や鮒を眺めて過ごすしかないが、それも何か用事があれば「どこにいるの」とばかりに母や叔母が探しに来る。
そしてその用事といえば「誰某が来たから挨拶しなさい」とか「早く食事をしてしまいなさい」とかいった類の他愛のないものだった。
この日も食事は塩の効いていないゴマまぶしの巨大なおにぎりだけで、この頃は炊き出しと言えばこういうものだったのかもしれない。
おかずに少しだけ何かの煮つけと、ぶった切った沢庵をを貰ったような気がする。
通夜と葬儀の受付は女子高生だった母方の叔母に決まった。
町内会からトレニア机を借りてきて、部屋だけではなく庭にも折りたたみ椅子を用意して準備が整う。
当時、通夜は今のように大勢で囲むものではなく、親族や町内のごく親しい人だけの内輪の儀式と言う印象が強かったけれど、葬式は違った。
狭い社宅内の通路は人や車であふれ、慣れぬ母方の叔母では誰かから教授してもらった受付の作法ではうまく行かない。
葬儀の少し前、大勢の男性がぞろぞろやってきた。
葬儀だから当然だが黒尽くめの、それに如何にも強面風の集団だった。
母が飛んでいく。
なにやら話をしている。
「姐さん、ここは我々に任せていただけませんか」
そんな太い声が聞こえる。
姐さんが母のことだとはすぐに分かった。
やがて、受付をしていた女子高制服の叔母が泣きながら入ってきた。
訊くと「怖い男の人たちがたくさん来た」とのこと。
表を見ると母が強面風の男性と話をしていて、男性がしきりに頭を下げている。
母はと言えば「ほな、よろしゅう、頼みましたさかい」といいながら、これまた深々と頭を下げている。
やがて、社宅の周囲は強面風で埋め尽くされた。
私が転校してきてまだ間もないのに、地元中学の同級生の集団も見えるが、強面風の集団にちょっと訝しんでいる様子だ。
やがて、薄墨の法衣をまとった僧侶がやってきて、読経が始まる。
夏の真っ青な空、蝉の鳴き声、松林を抜ける風・・
読経の唱和、線香の香り、すすり泣く人たち・・
焼香が始まると庭に設けられた焼香台あたりで憚りなく泣き叫ぶ太い声も聞こえる。
「兄さん、兄さんに先に逝かれてしもたら、わし、どないしたらええのんや!」
兄さんとは親父のことだろうか・・ぼんやり考えながら私の時間は過ぎていく。
悲しくはなかった。
涙は出ない。
だが、不安はすごいものがあった。
親父がたとえ病気だとしても生きていると言うことと、親父が存在しないということの違いは漠然とながらも私には理解できていた。
昨夜の親族の話し合いでは、私たち兄弟姉妹を分けて親族で面倒を見ることも話し合われた。
親族の一人は母に向かって「あんたもまだ若い、もう一回、人生をやりなおせるやろ」と言う。
当時三十六歳の母は唇を結んだまま、何も言わなかった。
たとえば・・会津の親戚宅へ預けてもらったら・・・電車に長い時間乗車できる・・・
そんなことを、私は本気で考えていた。
でも、それはある意味、自分が乖離状態にあるからそう思えるわけであり、弟妹と離れるのは嫌だったというのが私の本音だろう。
我が家は加古川市には縁者がなく、社宅はいずれ出て行かねばならない。
これから先、何がどう転んでいくか、その想像だに出来なかった十二歳の夏、昭和四十八年の加古川でのふっとした思い出である。