線路の上の丘を老婆が歩く。
齢の頃はもう九十歳近いだろうか・・
その年頃にしては彼女はしっかりとした足取りで、海を見下ろす丘の線路よりさらに一段高いところにある道路をゆっくりと進む。
道路のもう片側には裕福そうな住宅が建ち並んでいる。
播磨灘が広がる。
漁船や釣り客のための釣り船が淡路との間の海峡に幾槽も船体を朝日に照らし出されて白く光る。
ここは神戸市と明石市の境界付近。
今はまだ神戸市垂水区ではあるが、彼女がもう数分も歩を進めるとそこは明石市である。
天気は良く、初夏の風が彼女の頬をなでる。
ふと、彼女は足を止めた。
崖下の鉄道線路を列車がいく音が聞こえる。
彼女は振り向いた。
明石海峡にかかる巨大な橋が逆行の光の中で端座している。
「良輔さん・・・」
彼女は振り向いた方向に向かい、かつての良人の名を呼んでみる。
それは意識して呼ぶのではなく、時折、日に何度かの癖のようなものだった。
なぜか、感極まって「あなた!」と小さな声で叫んでみる。
「ヤスエ・・」
懐かしい声で、そう呼ばれた気がした。
「あら・・久しぶりに返事してくれたわね・・」
彼女は海に向かってそう言った。
老婆の表情は、まるで女学生のように明るくなった。
「あなたが逝ってから何年になるかな・・」
海に向かって語りかける。
崖下をまた列車が通過し、彼女の脇を乗用車がのんびり走り去る。
「二十年になるよ・・」
「二十年ですって・・早いものね・・」
「早いよな・・」
良人は貫き通した東京弁で答えてくれる。
「みんな元気か?」
「靖夫なら・・この間、死んだじゃない・・そっちで会ってないかしら?」
「靖夫には毎日会っているよ・・孫たちだよ・・和子と玲子は・・」
先日、彼女より先に逝った息子の姿を彼女は思い起こす。
まだ六十五歳だった。
写真が好きで、いつもカメラを持ち歩いていた一人息子である。
梅の花を撮影したと言って、美しい写真を見せてくれた。
その翌日、脳内出血で倒れた。
「靖夫のことなんか、思い出させないでよ・・悲しくなるじゃない」
「すまんな・・靖男にはこっちでいくらでも会えるから」
「会えるかどうか、私には分からないわ・・」
「会えるよ・・」
良人の気の弱そうな語り口がおかしかった。
くすりと・・彼女は笑った。
「あなたらしいわね・・その言い方・・」
「そうか・・俺らしいか・・」
「いつも何かを恐がって・・私を恐がっていたわね・・」
「恐くはないよ・・君が好きだったからさ」
海からの風は少し強くなった気がする。
「それで・・」
良人の声が続く。
「和子と玲子は・・」
「元気よ・・和子は四十四、玲子は四十一になったわ・・」
「二人とも、いいおばちゃんになったな」
「おばちゃんか・・もう、そう言う年頃かな・・でもね・・いまどきの・・あの年頃の女はきれいよ・・」
「そうか!きれいか!」
「あなたも、不安なら自分で会いに行けばいいじゃない・・幽霊なんだし・・」
彼女は視線を西の方向、順光に海が青く広がる播磨灘の方へ向けた。
「幽霊はひどいよ・・」
「じゃ、なんなのよ」
彼女はそう言って今度は大きく笑った。
「神様みたいなもんだよ」
「神様か・・幽霊と似たようなものね・・」
「ひどいな・・」
「そう?」
そういったかと思うと、彼女は大きく笑った。
良人も笑っているような気がする。
「俺がこっちへ来て間もない頃・・」
「うん?」
「和子と玲子のところへ伺ったんだよ」
「そう言えば・・二人ともそんなこと言ってたような気がするわ」
「すごく恐がられてさ・・」
「あらあら・・そういえば・・そうだったね」
「それ以来、行ってないんだよ」
良人が亡くなってすぐ、孫娘二人はまだ結婚前で、和子が東京の会社の寮、玲子が京都の大学の寮にいた・・そのとき・・良人が二人のそれぞれの枕元に同時に現れたと・・それこそ、大騒ぎになったことを思い出した。
「わたし、おじいちゃんに悪いことしたかな!」
泣きながらそう訴える玲子の姿が、ふっと、面白い漫才でも見ているかのように蘇る。
「行って上げなさいよ。今なら素直に受け止めてくれるかもね」
「本当か?」
「行ってみないと分からないけどね」
彼女はまたくすりと笑った。
ヤスエはゆっくりと再び歩き始めた。
彼女の視線の先には播磨灘と、明石の町の風景が広がっている。
けれど、今の彼女には、その明石の町は、黒い屋根瓦がひかり、白い砂浜が続いていた・・もう何十年も前の明石の風景に見えている。
「もう、この町に五十年以上も住んでしまったわ」
「東京より明石の方が永くなってしまったな」
「私はすっかり、明石のばあさんよ・・」
「俺は明石の爺さんになりきれなかった」
「あら・・なりきっていたような気がするけど」
「いやいや・・ずっと東京に帰りたくてね・・」
「あら・・そうだったの・・すっかり明石の生活を楽しんでいたように見えたけど」
「心の底ではずっと帰りたかったんだ」
そう言えばと思う・・
決して地元の言葉を使わなかった良人の、頑なな部分を思い出した。
「じゃ、今なら電車に乗らなくても東京へ帰られるでしょう・・」
「うん・・時々、様子を見に行っているよ・・でも、故郷へ行っても・・誰も知人がいないんだよ」
「東京を出て五十年だものね・・」
新婚から20年ほど住んでいた東京、世田谷の太子堂のあたりの町の様子が目に浮かぶ。
良人の故郷はその町の近くだったが、彼女の東京はそこだった。
「明石への転勤が嫌だって・・そう言えば言ってたわね・・」
「嫌だったね・・東京から出るの・・俺も嫌だったけれど、靖夫がもっと嫌がっていたよな・・」
「まだ中学生だったわね・・」
「友達と離れたくないってさ・・あいつ、大きな体で泣いたよな・・」
「一人で東京に残るってね・・」
良人が会社から転勤を命じられたときのことを思い出した。
明石に支店を作ると言う・・
その責任者になれと・・いわば栄転ではあったが良人はしばらく思い悩んでいたようだった。
息子は泣いて反対した。
泣いて反対した明石の町で、生涯を終えた良人と息子・・
良人は東京への思いを捨て切れなかったようだが息子はどうだったのだろう・・
「ねえ・・靖夫は明石に住んだことをどう思っているの?」
「うん・・俺もそれが気になったから聞いてみたんだ」
「そう、そしたら?」
「うん・・明石は景色も良くて人も良くてすごく楽しかったってさ・・」
「あら、そうだったの・・良かった・・」
そっけなくそう答えながら、彼女は涙が出てくるのを感じていた。
本当に良かった・・
彼女にはそれが気がかりだったのだ。
靖夫は東京へ帰りたかったのではないか・・
この町で生涯を終えた息子の思いは、彼女が一番知りたかったことなのかもしれない。
播磨灘に浮かぶ漁船や釣り船は止まっているかのように見える。
「わたしは・・」
良人は黙って聞いてくれているように思う。
「わたしは・・あなたと一緒になれてすごく良かったと思っている・・でも・・」
「でも?」
「もう少し、もう少し、一緒に暮らしたかったな・・」
涙が頬を伝う。
「あなたが逝ってから・・寂しかったよ・・」
「苦労かけたな・・」
「本当よ・・突然、逝ってしまうんだもの・・」
「悪かった・・でも、俺も生きたかったんだ」
「もうちょっと・・頑張ってくれたら・・」
「頑張りたかったんだ・・でも・・病気がさ・・」
いつしか、彼女は丘の公園に来ていた。
少し海から離れるだけで風が穏やかになる。
公園の木製ベンチに腰掛ける。
「いいよ・・あなたが悪いんじゃないもの・・」
「本当に済まなかったな・・」
「謝らなくてもいいわ・・わたしのほうこそ、ごめんなさい」
公園には人の気配はなく、猫が二匹、じゃれあっている。
「こっちにきたら、寂しい思いをさせないよ」
良人の言葉に彼女は少し笑った。
「まだまだよ・・まだまだ、わたしはこっちで遊んでから・・」
足元に寄ってきた猫の頭をなでながら、老婆はしばらく独り言を続ける。