story・・小さな物語              那覇新一

小説・散文・詩などです。
那覇新一として故東淵修師主宰、近藤摩耶氏発行の「銀河詩手帖」に投稿することもあります。

偶然

2005年02月19日 17時11分00秒 | 小説

俺はその日の午後、友人達と飲み会をするために垂水駅から大阪への快速電車に乗っていた。
電車は混んでいると言うほどではなかったけれど、二人がけの座席はどこにも先客があり、一番先頭の車両に乗った俺は、他人の横に腰掛ける気にもなれず、天気がよく、気分もすっきりとした状態だったので、運転室の後ろに立って、大きな窓から運転台越しに前方の景色を見ることにした。
そういえば、昔は電車が好きで、鉄道マニアの端くれだったことを思い出した。
子供の頃はここに、こうして立つと胸がときめいたものだった。
電車はゆっくりと加速し、春のぼんやりと霞のかかった街を走り始めた。
「閉塞よし!」
運転士が信号を指差し、大声で確認している。
しばらく走ると、横の線路を新快速電車が追いついてきた。
新快速電車は俺の乗っている快速電車を追い越しにかかったけれど、こちらの電車もそれなりにスピードが出てきたので、一気に抜き去るというのではなく、少しずつ、余分に前に進んでいく感じだ。
そのうち、新快速電車は一段高いところを走るようになるので、見えなくなってしまった。
海が見える。
霞がかかり、遠くの景色は見えない。
けれども明るく、ぼんやりとした雰囲気の海だ。
普通電車とすれ違う・・国道は相変わらず渋滞している。
快速電車は順調に速度を上げて、気持ちよく走っている。

「塩屋通過!場内進行!」
運転士の声が響く。
一段上の線路を走っていた新快速電車がまた、塩屋駅通過中に横に並ぶ。
国道のガードをくぐる。
いつのまにか新快速電車は、その電車の長い編成の後ろの方の車両が並んでいた。
ゆっくりと俺の乗っている快速電車を抜き去っていく。前のほうから貨物列車がやってきた。
甲高い警笛を鳴らしながら、過ぎていく。
新快速との間の線路を反対側へ向かう・・

貨物列車のすれ違いが終わって、新快速電車の後ろの車両が俺の乗った快速電車から見えるようになって、少しずつ遠ざかっていく・・
まさにその時だ。線路の上に女の子がビックリしたような顔で、こちらを見て立っていた。
「わーー!」
俺が叫ぶのと、電車に非常ブレーキがかかるのと、運転士が叫ぶのが同時だった。
衝撃で俺は運転室との仕切りに身体を押し付けられた。
そして、その次の瞬間、俺は、電車に前方へ跳ね飛ばされて、さらに落ちてきたところをフロントガラスに叩きつけられた少女と目があった。少女は高校の制服のようなものを着て、両手を大きく開いた状態でフロントガラスに一瞬貼り付いたかに見えた。
きれいな、大きな瞳が一瞬だけそこにいて、俺を見ていたけれど、すぐに電車の横へ飛んでいってしまった。

電車はなかなか停車しなかった。
停まってくれ・・そう願いながらも、俺は床にしゃがみこんでしまった。
大きく目を見開いた表情の少女の顔が目に焼きついてしまった。
「なんや!事故か!」
「人をはねたんか?」
他の乗客の声が聞こえる。電車はなかなか停まってくれない。
「わーーー!」運転士は、電車が減速する間、ずっと叫び続けている。

やっと電車が停車した。俺は停車した感触を確かめて、ゆっくりと立ち上がった。
運転士も立ち上がって、呆然としていたが、すぐに思い直したように電話機をとって何やら話をしているようだった。
乗客がざわついている。
「飛び込みかいな・・」
「マグロやな・・」
「えらいこっちゃ・・仕事に遅れるがな・・」
「こら・・ちょっと停まるなあ・・」
「かないませんわ・・急いでいるのに・・」
がやがやと、乗客たちの声が聞こえる。
少女は海のほうへ飛んでいったように思えた。
俺は、海のほうを見た。
松の木が頼りなく1本だけ立っていて、向こうにはぼんやりと海が広がっていた。
この電車の窓は開かない。後ろの方を見ることは出来ない。
運転士と俺は目があった。彼は俺と同じか少し若いくらいの気の弱そうな男だった。
運転士は一瞬、俺の顔をまじまじと見つめていたけれど、気を取り直したように運転室の中の戸棚を開け、何かを探し始めた。
彼はそこから何やら道具を取り出して、ちょっと戸惑うような表情を見せた後、それでも責任感からか、凛々しく外へ出て行った。
反対行きの快速電車が、すれ違う直前で停車していた。
「お客様にお知らせします。ただいま、この電車で人身事故があった模様です。しばらく停車いたします。そのままでお待ちください。なお、絶対に線路には降りられないように、お願いいたします」
車内放送が響く。
車掌も声を震わせているようだった。

海は相変わらず、ぼんやりと輝いている。
波がゆらゆら動いている。沖の船がかすんでいる。

「あんた・・今の見たんと違うの・・」
中年の女が俺に声を掛けてきた。
答えようにも、声も出ない。やっと、無理やり頷くことが出来た。
頷いた途端、大きく目を見開いた少女の顔が頭の中一杯に広がった。
「う・・うう・・」
やっと出た声は思いもよらぬ嗚咽になった。
俺はその場で声を上げて泣き出してしまった。
運転士が電車から外へ出て行ったあと、残された乗客たちは興奮したように喋りあっている。
けれども、俺は涙と嗚咽が停まらず、またしゃがみこんで泣き続けた。
「かわいそうに・・えらいもん、見てもたなあ」誰かがそんなことを言っていた。

電車は1時間ほどして動き出した。
車内にほっとした空気が流れたけれど、俺はもう、この電車に乗り続けることが出来なくなっていた。
須磨駅で、扉が開くと同時に、俺はホームへ転がり出て行った。
ホームには電車が1時間も停まっていたわりに、待っている乗客は少なかった。
まだ、涙が出る。
ホームにいた人が怪訝な顔で、俺を見る。
電車はすぐに発車していった。
俺はホームのベンチに腰掛けて、建物の間から見える海を眺めていた。
さすがに声は出なくなってきたけれど、涙が止まらない。
遅れていた電車が次から次へと入ってくる。
新快速電車も後ろを通過していく。
携帯電話を取り出し、今日、飲む約束をしていた友人に連絡を入れた。
「今日はすごく気分が悪い・・またにしてくれ・・」それだけ言って電話を切った。
友人の心配そうな声が、頭の中を回る。
それと同時に、さっきの電車の運転士の声が回る。
少女の顔が頭の中に広がる。
俺はようやく立ち上がり、ゆっくりと、階段を上がって、改札口を抜け、砂浜の方へ向かった。

海は穏やかで、風は少し冷たいものの、春の陽射しが暖かだった。
砂浜から海に突き出たコンクリートの上で、俺は海を眺めるしか、自分がなすべきことが思い浮かばなかった。
けれども一時間もすると寒くなってきた。
随分と太陽も傾いている。
俺は、駅へ戻ろうとした。
その時、突然、冷たい風が吹いた。風が来る方向を見ると、空はかすんだまま、少しオレンジ色に変わりつつあるようだった。
俺はふと、さっきの場所に行かなければならない気がした。
さっきの少女が呼んでいる気がしたのだ。

砂浜から踏み切りを渡り、線路の山側に出た。
何かに導かれるように、俺は歩いた。
「早くしないと日が暮れてしまう・・」
日が暮れてもよさそうなものだったけれど、何故だか急いでいかなければならない気がしていた。
住宅を抜け、国道に出、西へ向かうと線路に沿うようになる。

さっき、停車した電車の窓から松の木が1本だけ立っていたことを思い出した。
俺は松の木を探してあるいた。
すると、やがて、海釣り公園の近くに松の木が数本、間隔をあけて頼りなく立っているのを見つけた。
そのあたりには何も痕跡がない。
線路を貨物列車が突っ走っていく・・それを追う様に快速電車が走っていく。
そういえば、先ほどは停車に時間がかかった・・
・・もう少し先だ!・・
俺はそう叫んで、また歩き始めた。足元を見ながら歩いた。
何かがありそうな気がした。
パトカーが2台停車していた。さっきの事故の調べをしているのだろうか?
けれども、俺が近づいていくとパトカーは発車してしまった。
俺はパトカーのいたあたりで海のほうを眺めた。
海もオレンジ色に染まりつつあった。もう少し、先へあるいてみた。
線路に入ることが、簡単に出来るような、それほど線路と道路が近い場所で、ここには高さの違いもなく、ひしゃげた金網が張ってあるだけの場所だ。
このあたりだろう・・そう思った俺の足に何かが当たった。
それを拾い上げてみた。
使いきりの、カメラだった。よくカメラ店やスーパーで売っている品物だ。
手にとって見てみた。少し土が付いているが、古いものではないようだ。
カメラの後ろに白いマジックで「みかこ」と書いてある。カメラには黄色の紙カバーがついている。
誰が落としたモノなのか分からなかったけれど、俺はそれはきっと少女が持っていたものに違いないと確信した。
それ以外にはこれといって落ちているものはなく、俺はそのカメラを持ったまま、そこからぼんやりと西へ向かって歩いた。
空全体が夕日を受けて赤くなった。けれどかすんでいるので、夕日を見ることは出来ない。
海も濃いオレンジ色に染まった。
悲しいと言うのか、苦しいと言うのか、とにかくすっきりと美しい色合いの海ではなく、少女が別れの挨拶をしているのだろうか・・それとも、いきなり見えないところへ言ってしまった彼女が戸惑っているのだろうか?俺はそう思った。
何事もなく電車が行き交い、その横でクルマが渋滞する道路の歩道を俺は、ただ、ぼんやりと歩いていった。

俺は翌日も気分がすぐれず、会社を休んだ。
昼頃まで布団に入っていたけれど、母があまりに心配するので、それがやかましく、昼過ぎに家を出た。
母には昨日のことは何も言っていなかった。
けれども俺は昨日、早くに自宅へ帰ってから、ずっと塞ぎこんでいた。
母が心配して当たり前だった。
食事も喉を通らず、いくらも食べることが出来なかった。

俺は昨日、家に帰るまでの道で、カメラ店に立ち寄って、拾ったカメラを現像に出していた。
俺はまず、そのカメラ店に向かった。
「こちらですね」
店の主人らしい人が写真を広げて見せてくれたけれど、もとより俺の記憶にない写真だ。
「ああ・・」そう言って、受け取りカネを支払った。
ふと気がついた。
「あの・・このときのカメラ・・返してもらえませんか?」
店主はちょっと不機嫌な表情になった。
「カメラ?ああ・・使い捨ての・・あれはお返しできませんよ」
「どうして?」
「お渡しするのは中身のフィルムだけですから・・」
「いや・・特別に事情があるんだ。ある人の形見でね・・」
そう言うと、店主は困ったような表情で店の奥から箱を出してきた。
小さめの段ボール箱だ。中にはフィルムを抜かれた使いきりのカメラがたくさん入っている。
「昨日だけで、これだけあるんですよ・・どれだか分かりますか?」
俺は「みかこ」の文字が入った黄色のカメラを探した。
そのカメラはすぐに見つかった。
「これです」
「よかった!・・じゃあ、それ持っていってください」
店主は愛想よくそう言って、そのカメラだけを取り出して、あとは箱を大事そうに奥にしまった。

俺は喫茶店に入った。
コーヒーを注文して、さっきの写真を改めて見た。
何人かの女の子が写っている写真ばかりだ。最初の数枚の写真は何処で撮影したのか分からない。
昨日の少女がどの子なのか、はじめは全く、分からなかった。
人物以外の写真は、写っているかどうか分からない夜景らしい写真、そして遊園地のキャラクターと仲良く写っている写真が数枚出てきた。
カラフルな洋服を着て、思い切りのお洒落をして、屈託のない笑顔の少女達・・どの子なんだろう・・
そう思って写真をめくっていくと、高校の制服らしい写真が出てきた。
その中のひとり、髪を肩のところで切りそろえた少女の顔に目が行った。
その写真は珍しく一人で写っていて、戸惑ったような、不思議な表情をしていた。
・・君か・・そうつぶやいた時、昨日の悲しみが襲ってきた。
涙が出てきた。どうしようもない悲しみに、肩が震える。
「お待たせしました」
ウェイトレスがコーヒーカップを置いてくれる。俺は顔をそむけて、頷いた。
コーヒーに手を付ける気になれない。
写真を改めて見直すと、遊園地での写真でも、どの子かわかるようになって来た。
「みかこさんかい・・」俺は写真の少女に語りかけた。
周りの客や店の人が怪訝な顔をして俺のほうを見ていることには気がついていたけれど、どうでも良かった。
愛らしい、素直そうな女の子だ。
最後の方に、彼氏らしい男の子と写っている写真もあった。
制服姿で・・後ろは・・・線路のようだった。二人でカメラを持った手を先に伸ばして顔を近づけて撮影したものだろう・・
「これは・・最後の・・彼女の最後の・・」
俺は、それがわかると、すぐに行かなければならない気がした。
この写真を届けなければならない・・そうは思ってみても、何処へ届ければいいのだろう?
とりあえず、俺はその写真を入れた袋と中身のないカメラを持って、昨日の現場へ行ってみることにした。
もしも、わからなければ現場に供えてこよう・・そう考えた。
けれども、供えたところで、誰かがいたずらで持っていってしまえば何の意味もなくなる・・
そう思い直したけれど、現場に行けば何かが分かる気がした。

電車に乗った。
普通電車だったが、先頭の車両には乗らなかった。怖いのだ。
昨日と同じ経験をまた、してしまうような気がして・・俺は3両目の車両に乗った。
乗ってすぐに座って、目を瞑った。
昨日の景色を同じ条件で見たくなかった。

昨日は夕方だったが、今日は昼間だ。
明るい国道を現場に向かった。
「すみません!」
後ろから声をかけられた。
「貴方は、昨日の方ではないですか?」
振り向くと、俺と同じ年くらいの、いや、少し若い年頃の男がたっていた。
「昨日の?」
「はい・・昨日の、事故を目撃された・・」
「あなたは・・」
「電車の運転士です」
彼は、手に花をもっていた。
昨日、警察と会社の幹部が立ち会う現場検証でここには来たけれど、花を供えたくなったのだと言う。
「大丈夫ですか・・随分ショックを受けておられたようですが・・」
彼は俺にそんなことを聞いてきた。
「ええ・・あまり大丈夫じゃないみたいですが・・私はこう言う経験は初めてでして・・」
「私もですよ・・運転士の中のほとんどのものは、こう言う経験をしないのでしょうけれど、私は運が悪かった」
「ほとんどの方は経験されないのですか・・」
「ええ、今日は、本当に彼女に会いたくて、会って、慰めてやりたくてね・・」
「みかこさんにですか?」
「御存知だったのですか・・彼女の名前を?」
「はい、ちょっとね・・」
俺は写真を持っていることは言わなかった。

現場には先客がいた。
制服の少年だった。じっと立って、線路のほうを見ていた。
新快速電車が恐ろしいスピードで通過していく。
「ちょっといいですか?」
運転士君が少年に声をかけた。
少年は、はいと小さく頷いて、少し横に寄ってくれた。
少年の顔を見て、俺は写真の少年と似ていることに気がついた。
彼が横へ退いたあとに、たんぽぽの花がそこに植えるかのように置かれていた。
たんぽぽを見て、俺は少年に語りかけた。
「みかこさんの彼氏かな?」
少年は俺のほうを見たまま立ち尽くした。何かを言おうとしている。言葉が出ないようだ。
「え・・」運転士君が少年を見た。

運転士君は花束をそこの金網に立てかけて、ポケットから数珠を出して手を合わせていた。しばらくその場で何かを祈っているようだった。
俺も、彼の横で手を合わせて、心の中で空に語りかけた。
「来たよ・・この写真・・誰に届けようか・・」
少年は俺達が祈っている間、じっと突っ立っていた。
貨物列車がゆっくり通過していく。列車の音が聞こえなくなったのを引き際にしたのか、運転士君は祈りの姿勢を解いた。
「君は・・彼女とここにいたのかい?」
運転士君が少年に質問をするが、まるで尋問のように聞こえた。
「昨日、何故、彼女がここを無理に横断したかが、分からないんだよ」
少年はうつむいて、黙ったままだ。
「貨物列車の機関士が、直前に線路を横切った人影を見ているんだ」
俺はやっと運転士君が何を言っているのかが理解できた。
少女が電車に刎ねられる直前に、先に誰かが線路を渡って、彼女はその誰かを追いかけていたのだと・・
普通電車が走りすぎる。
国道を大型トラックがそれに負けないスピードで過ぎていく。

「僕が悪いんです・・!」
少年はそう言った地面にしゃがみこんでしまった。
「わかったよ・・今日、ここへ来てよかった。今から、警察で事情を話してやってくれないかな?」
運転士君が少年に今度は少し優しく諭すようにいう。
俺はさっき見た写真を出して、写っている少年と今、目の前にいる少年が同一人物か、どうか、確かめようと思ったけれど、それをすると写真が証拠として警察に取られるおそれがあった。
俺は写真のことは黙ったまま、誰かにきちんと写真を渡すことを考えるようになっていた。
「彼女の自宅は知っているかい?」
今度は俺が質問した。
少年はしゃがみこんだまま、頷いた。
「今夜は、お通夜でしょう・・たぶん・・」
運転士君が言った。
「お通夜ですか・・一緒に行きませんか?」
「私は・・ちょっと出にくいです。何か言われると嫌ですし・・」
俺は彼に少し傲慢なものを感じたけれど、仕方のない面もあるだろう・・
「私は、行ってやりますよ・・お通夜よりも、先に彼女のご両親に会ってやりたい」
「なにか・・ご両親に伝えることでも、おありですか?」
「いいえ・・ただ、彼女の視線が最後は、私に向いていましたから・・」
「お葬式は、こころ会館とのことですよ・・ですからお通夜もたぶんそこで・・」
運転士君が教えてくれた。
こころ会館なら、俺の自宅にも近い。

運転士君が何かを探して国道の車を見ている。
「何を探しておられるんですか?」
「タクシーです。警察署に行きたいので・・」
「彼とですか?」
「ええ・・あ・・来ました」
運転士君は手を上げてタクシーを止めようとした。
タクシーはまさかこんなところで人が乗ってくるわけがないと思っていたのか、少し行き過ぎてから停車した。
少年をタクシーに乗せ、運転士君があとから乗り込んでいる。
「あ・・お客さん・・」
「あ・・私ですか?」
運転士君が俺をそう言って呼んだ。
そう呼ぶしかないだろうな・・俺はそれでも彼が表情を変えていないことに少し腹が立っていた。
「どうして、少女の名前を・・みかこさんだと、知っておられるのですか?」
「たいしたことじゃありません・・ちょっとね・・偶然ですよ・・」
運転士君はその答えに満足したように、タクシードライバーに行き先を告げて、走り去っていった。
一緒にいた少年が引きつったままの表情だったのが気の毒になった。
・・あいつは、刑事にでもなった気分だろうか・・
俺は少し苛立ちを覚えたけれど、すぐに線路の横の花束とたんぽぽに改めて気がついた。
少年はどうしてたんぽぽを持って来たのだろう・・
祈るといっても、何の呪文を唱えればいいか分からない。
仕方なく改めて手を合わせて、「なんみょーほーれんげきょー」と何度か口にした。俺の母が時折やっているお題目だ。
空を見るとよく晴れている。
昨日のような霞もなく、遠くまで海が見渡せる。
「みかこさん・・今から、持っていくね」
俺は空に語りかけた。
こころ会館に行けば彼女の関係者が誰か来ているだろう・・
俺は偶然に君と最後に目があった人間だ。
俺は偶然に君と出会ってしまった。けれども、もう二度と会うことの出来ない出会いだった。

俺は海に語りかけた。
「きみは、たんぽぽが好きなのかな?」
午後の光を反射して海が輝いている。
銀色の快速電車が、ゆっくりと俺の前を通り過ぎていく。
ファン!・・電車はなぜか軽く警笛を鳴らして過ぎていった。

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テールライト

2005年02月07日 15時01分00秒 | 小説
僕はイライラしていた。
やっと買った中古のスプリンタークーペを真っ赤に塗装し、太いタイヤをはめ込んで、仕事が終わると意味もなくエンジンをふかして突っ走っていた。
カセットデッキをつけ、スピーカーを増やし、気に入っていたバラードを大音量でかけていつも突っ走っていた。
ここは昭和58年の播州・加古川の町外れだった。

昨日、年下の友人、中村が同じような仲間がたむろする喫茶店に現れて、僕と村下の前にマッチ箱を投げてよこした。
村下は火のついていない煙草をくわえていたから「サンキュー」と言いつつ、そのマッチを取って火をつけ、改めてマッチ箱を見ていた。
村下の顔色が変わった。
「なんや・・」
僕は気になって村下の持っているマッチ箱を覗き込んだ。
・・ホテルテキサス・・
「おう・・中村・・このマッチは?」
村下の横に腰掛けた中村は「行ってきましてん」
そう答えてにやりと笑った。
「おうおう・・ええなあ・・」
そう言ったまま、村下は黙り込んでしまった。
僕は何のことか分からず・・「行ってきたって・・?」
「あほやなあ・・彼女とええことしてきたんやんけ・・」そう言って村下は煙草の煙をプウっと思い切り吐き出した。
「よかったでっせ・・」
中村がさらにそう言う。
「ふうん・・」僕はまだ何が何やら分からずに、相槌を打っていた。
中村が来る前、僕と村下の話題はトヨタがいいか、ニッサンか・・お互いのクルマをまるでその二つのメーカーの代表であるかのように会話をしていたのだ。
けれども・・どちらも中古車だった。
村下はニッサン・ローレルのクーペタイプで、大きくて堂々とした車だったし、僕のは当時としては小型スポーツの一つだったけれどもいずれも4年落ちの古いクルマだ。
「ほんまに良かったですわ・・」
「なにが?」僕の質問に、中村はビックリするようなことをいった。
「チチでんがな・・オナゴはよろしいで・・」
僕がビックリして、中村をまじまじと見ていると村下が「そらそうや・・!あれはええもんやからなあ・・」
いきなりそう言って相槌を打った。

僕たちはクルマを走らせ、ほとんど意味のない会話をし、時として「女欲しい」と叫ぶことはあっても、そこから出ることのない遊びが長く続いていたのだった。
僕と村下は同い年で二十歳、中村は二つ年下で18だった。
・・先を越された・・それは屈辱だった。
中村はクルマもトヨタクレスタの最上級車種の1年落ちを免許を取得してすぐに無茶なローンを組んで購入し、それで遊びまわっていた。

今日はその中村が彼女を連れてくるという。
いつもの喫茶店ではなく、居酒屋で会うことにした。
僕は居酒屋への道をぶっ飛ばしていた。
エンジンを思い切り回転させて、いきなりローギヤに放り込む・・クラッチペダルを離すその前にクルマの後輪は勢い良く回転し、派手な音を立ててスリップする。
信号がまだ青になる直前、クルマは一気に飛び出した。
2車線しかない道路を思い切り限りなく加速する。
2速3速そして5速・・加速はすさまじく、一気に時速100キロにもなる。
次の信号が見える。赤だ・・ここは小さな道路との交差点・・僕は思い切りクラクションを鳴らし、減速することなく一気にそこも通過する。
狭い道だ。景色が流れるというよりも飛んで行く。自転車が走っている横をさっと通過し、前のクルマを堂々と反対車線に出てごぼう抜きをする。
既に時速120キロ・・さすがに怖くなって、ゆっくりと速度を落とした。
恐怖感がイライラを収めていた。

居酒屋に着くと、中村はもう来ていた。
「ああ・・山田さん!」
中村はなぜか僕や村下には敬語を使う。年上を一応、立ててくれているのだ。
彼の横には胸の大きな可愛い女性が座っていた。
「はじめまして・・智子です」
女性はそう言って軽く微笑んだ。僕は彼女の胸を想像しながら「ああ・・よろしく」できるだけ気さくに明るく答えたやった。
暫くして、村下が入ってきた。
「おう!」
尊大ぶって入ってきた次の瞬間に彼は「あ・・はじめまして」おどけてわざと笑いを誘う。
笑うと智子はさらに可愛い。
八重歯がちらりと見える。
村下は僕のほうを見て「おまえなあ!もっとましな運転しろよ!」
そう叫んだ。
「見てたんかいな・・」
「見とったわい・・おまえ、あれは120キロくらい出とったやろ!」
「そうか・・そないには出とらんとおもうが・・」
「うそつけ!まるで暴走族やぞ・・」
そう言いながら笑った。
僕は少し鼻が高かった。智子が尊敬の眼差しで見ている気がしたのだ。

そのまま、たらふくそこで飲んで食べた。
店の外に出たときは酔いが回って、足元もおぼつかなくなっていた。
「大丈夫う?」
智子の甘ったるい声は誰に向けられているのだろう・・
僕は「風にあたろうや・・」そう提案した。
「ええなあ・・」「いやあ・・こんだけ酔っ払うと・・ええやないですかぁ・・」
二人も賛成し、「ええ!だいじょうぶなん?」智子もそう言ったものの、結構乗り気なようだ。
「ほなら・・六甲でも行くか・・」
そう言ってそのまま、村下を先頭に中村が2番、僕が3番で、列を作りクルマを走らせる。
酔っているからか、村下も中村も荒い。
秋の終わり、窓を開け、風を入れ、加古川から第二神明道路を神戸へ向けて突っ走る。
お互いの連絡をとる手段はない。
何かあればハサードランプの点滅で知らせることになっていた。

飲酒運転が危険なのは飲んだ直後ではない。
むしろ、呑んで暫くしてからのほうが判断力が鈍るため、まともな運転が出来なくなることがある。
僕は暫く走ってそれを実感した。
前を行く中村のクルマのテールランプが左右に揺れる。
道路のラインも判然としない・・それでも村下は、高速道路を時速100キロ以上の高速でぐいぐい引っ張っていく・・
僕はあくびをわざと繰り返した。
冷たい空気を出来るだけ腹に入れなければならない・・六甲へ行こうと提案したことを後悔した。
明石市内をしばらく走っていると、いきなり中村のクルマが左のウィンカーを出した。僕も左のウィンカーを出し、そのままそこのインターから高速道路を降りた。

「あかん!」
3台のクルマを並んで停車させて、村下がクルマから降りるなりそう言った。
「呑みすぎや!前が見えへん!」
「ちゃんと、運転してはりましたやン」
中村が村下にいう。
「そうそう・・全然普通やったやン・・」智子もそう言う。
「いや!このままでは六甲までは無理や!どっかで休憩しよう・・」
僕は助かったと思った。
村下がここで高速を降りてくれなければ、僕が事故を起こしたのかもしれない。
「とりあえず・・ここは通過するクルマも多いから、ファミレスにでも行こうや・・」
僕の提案に、揃ってファミリーレストランに入ることになった。
まだコンビニも、たくさんない時代だ。
夜といえばゲーム喫茶かファミリーレストランだった。

僕たちは明け方にようやく、その場から折り返してそれぞれの自宅に帰った。
「午前様なん?」
母が僕を問い詰めた。
一晩中、起きていたようだった。
すまないと思った。けれども出てきた言葉は全然別の言葉だった。
「うるさい!ほっとけや!」
2階に上がる階段で、僕は母の視線を感じた。
部屋に入ると、布団が敷いてあった。職場へ向かうまでの、ほんのひと時の眠りを、僕は貪った。

数日後、仲間がたむろする喫茶店で僕はコーヒーを飲んでいた。
先日来のイライラもようやく納まり、ゆったりとした気分で、新聞に目を通していた。
「あ!山田さん!」
中村が店に入ってきた。
僕は軽く頷いて彼を自分の居るボックスに迎え入れた。
中村の後ろから智子が入ってきた。
「クルマを変えようと思うんですわ・・」
中村がそう切り出した。
「君のクルマは・・僕のよりずっと新しいやんか・・なんで?」
「今やったら・・高く引き取ってくれるんですわ。それで、この際、クラウンに乗り換えようと思うんです」
「クラウン!」
僕は驚いた。
中村は、小売店に勤めている。
僕よりも給料が多いのだろうか?そう思ったけれど、それは口に出さなかった。
「こいつも賛成してくれるしね!」
智子が横でニコニコしている。
「だって・・クラウンって・・カッコいいでしょ」
僕は頷くだけで見ていた。
「クラウンの2,8ロイヤルサルーンですねん」
「今やったらクレスタの下取りが100万出るんですわ・・それでクラウンが頑張ってもらって、350万ほどやから、新車が今くらいの払いで買えるんです」
「へ!シンシャ!ちょっとやりすぎと違うのん・・」
「同じ乗るんやったら、気持ちがええ方がよろしいがな・・」
「そやけど・・今のローンも終わってないねんで・・」
さすがに僕は彼を止める気になってきた。
「ローンなんか・・銀行がなんぼでも貸してくれまっさ!」
いや・・それはちがう・・そう言いたかった。けれども僕には声が出ない。
「山田さんも、いつまでも中古に乗っとらんと、レビンかセリカの新車でも買いはったらええですのんや」
「いや・・僕はええわ・・」
バブルの絶頂期だ。
今から思えば馬鹿みたいな話が実際にあった。
けれども僕は、月々のガソリンスタンドからの請求すらしんどい状況で、中古とはいえ、クルマのローンもまだ残っていた。
僕には借金の上に借金を重ねる勇気はなかった。
その時、村下が店に入ってきた。
「おうおう!」
元気良く入ってきた村下は、中村の新車購入の話を聞いて、「ええのんちゃうのん・・新車はええで」それだけ言って、話題を変えてしまった。

中村はしばらく、とりとめのない話をしたあと智子と先に出て行った。
「おい山田よ・・中村・・あいつ・・大丈夫か」
喫茶店のマスターが話を聞いていたらしく、僕にそう言った。
「知らん・・好きにさせたれや・・」
村下がそう答えて「中村はあほか」と、小さくつぶやいた。

僕が自宅に帰って、自分の部屋で音楽を聴いていると、中村の母親が訪ねてきたと母が言ってきた。
僕に会いたいという。
答える前に中村の母は僕の部屋に入り込んできていた。
「お願いです・・山田さん・・息子に、もう少し、家にお金を入れるように伝えてください・・」
中村の家も僕の家も母子家庭だ。
僕も自分をどら息子だと思ってはいるけれど、毎月の給料の半分は母に手渡していた。
「中村君、お金を入れないんですか?」
「そうですねん・・今月は車を買いなおすから、家には入れへんって・・言いますねん」
「そら、えらいことですやん・・」
中村にはまだ小さな弟妹がある。
彼が家に金を入れなければ、母親のパートだけでは到底生活できないことくらいは僕にでもわかる。
「山田さん・・クルマって、そないに買い替えなあきまへんのんか?」
「いや・・僕なんか古いクルマに乗ってるし・・」
「そうですやん・・クルマみたいなもん、ええのんに乗ってもご飯食べられしまへん」
「今のクルマも十分ええクルマやけどな」
「そうですやろ・・私ら、乗せてもらったこともおまへんのや」
中村の母は涙を流して僕に訴えかける。
「健ちゃん、中村君にちゃんと話をしたりや・・」
僕の母もそばに来てそう言った。
僕には自信に溢れた中村を説得する自信はなかった。
「わかりました。お母さん、何とか言うては見ますけど、あいつ頑固やさかい・・」
やっとそれだけ言って、僕はその話を終えた。
中村の母は何度も頭を下げて出て行った。

しばらくすると中村から電話がかかった。
「山田さん・・今からドライブしますんやけど、付き合いまへんか?今日でクレスタも終わりやし・・」
オーケイ!と電話を切ってすぐに、彼がやってきた。
「今日は智子さんは?」
「会社の用事があるらしいんで・・」
僕は彼のクルマの助手席に乗り、中村はクルマを走らせた。
「やっぱり、あきまへんわ・・」
「なにが?」
「クルマですわ・・このクルマも可愛がってやったんですけど、やっぱり安もんですわ・・」
「安もんには思えへんけどなあ・・」
僕は僕のクルマとは比べ物にならない丁寧なつくりの車内を見てそう言った。
外の音もほとんど聞こえない。
軽くエンジンの音がするくらいだ。
「ちゃいまっせ・・クラウンロイヤルサルーンはよろしいで・・」
「そら、そうやろうけど・・僕のクルマよりはよっぽど上等やけどな・・このクルマ・・」
「山田さんのはスポーツタイプですがな・・僕のはサルーンですから・・やっぱりサルーンはクラウンですわ・・」
「ふうん・・それで、そのクラウン・・買うのん?」
「明日、納車ですねん・・これでやっと、誰にも馬鹿にされんと走れますわ・・」
「誰も馬鹿にはしてないと思うけど・・」
「いやあ・・やっぱり、クラウンとクレスタは違いますわ・・」
中村はそういいながら、クルマを高速道路につながるバイパスへ乗り入れさせた。
アクセルを踏み込む。
クルマは滑らかに加速する。オートマチックだ。僕のクルマのようなクラッチはこのクルマにはない。
「家にはお金を入れてるんか?」
僕はさっきの中村の母親の顔を思い浮かべながら訊いた。
「うちのおかん(母)がなんか言いに行きましたか?」
「ああ・・家にはきちんと、お金を入れてやらんと・・」
「なに言うてますねん・・お金はこれまで十分入れてきましたわ・・もうよろしいやろ・・僕は高校も行かんと働きましてんで、もう勘弁や・・」
中村は吐き捨てるように行った。
「そやけど・・家族にも生活があるやろし・・」
僕の言葉への答えはなかった。
クルマは夜のバイパスを疾走する。雨が降ってきた。光がにじんでいる。
前の車のテールランプがにじみながら、かすかに左右に揺れている。

それからしばらくして、中村の家族は居なくなった。
僕の母によると親戚を頼って、大阪へ行ったという。
中村は家族の居なくなった市営住宅を一人で使い、納車されたクラウンを大事に乗る毎日だった。
僕は心なしか、クルマに乗ることが楽しくは、なくなっていた。
月々のローン3万円少々も、これがあれば何が食べられるだろうかとか、中村の家族何日分の食費になるだろうかと考えるようになっていた。

翌年、春、中村からの電話は、僕を驚かせた。
朝、まだ夜が明ける前、甲高い音で鳴き続ける電話を、僕は朦朧とした意識で取り上げた。
「山田さぁん・・えらいこっちゃぁ・・事故ですねん」
「事故?・・どこで?」
「バイパスの出口ですねん・・今、警察に見てもろてますねん・・」
「何処の出口や?」
「加古川インターですねん・・」
すぐに行く・・僕はそう言って電話を切って、自分のクルマを走らせた。
加古川インターには何もなかった。もしかして・・そう思い、インターチェンジを迂回して、側道から反対側の出口へ回ってみた。
パトカーや救急車のものらしいパトランプがたくさん点滅し、4~5台のトラックや乗用車が停車していた。
側道から見ると停車しているだけに見えたけれども、インターの出口へ回るとそれらの車はすべて重なり合い、押しつぶしあった格好になっていた。
警察官や救急隊員が忙しく立ち働く中、呆然と立ち尽くしている中村を見つけた。
「おう!中村!大丈夫か!」
中村は案外しっかりした顔つきで、それでも腰が浮いたように僕のほうを見た。
「あきまへんのや・・あれですわ・・」
見ると、大型トラックの下に、彼の自慢のクラウン・・その白い車体が見えていた。
「よう助かったな・・」
「僕は、クルマから降りてましてん・・ここで脇にクルマ寄せて、友達、待ってましてん・・」
ここで・・?
ここはバイパスの出口だ。クルマが停車できるような場所ではない。
「なんで・・こんな場所で停まったんや・・?」
「友達が遅れたんですわ・・一緒に神戸へいってましてん・・」
「誰か怪我した人はあるのん?」
「ああ・・追突したトラックの運転士が、足をはさまれたみたいですわ・・」
あたりにはクルマの燃料やオイルが流れ出して、油の強い匂いが漂っている。
ガラスがそこら中に散らばっていた。
中村がクルマを止めて、後ろから来るはずの友人を待つ間、彼はクルマの外に出ていたという。
ここで待っていたのは、バイパス本線を友人がそのまま走行してきても見つけられるようにとの配慮からだったという。
トラックはここでバイパスを降りて、県道へ向かう予定だった。
まさか左に寄ったそのすぐ先で停車しているクルマがあることなぞ、考えもしなかっただろう・・
「もう少しや!」
人々の叫び声、トラックの運転台に閉じ込められた運転士の救出をしているところだった。
運転士は痛みからか表情をゆがめて、時折、窓の外を見ていた。
夜が明け始めていた。
あたりが少しずつ明るくなってきた。
「この車の運転手は?」
警察官が、トラックの下になった中村のクルマを指差している。
「僕です・・」中村が叫んだ。
「ちょっと来てもらおうか・・」
そのまま、彼は警察の車に乗せられていってしまった。
僕はしばらく、その現場を見ていた。
トラックの運転士が救出され、担架に載せられて、すぐに救急車に積み込まれた。
レッカー車がやってきて、トラックをゆっくりと動かし、中村のクルマが出てくる。
哀れにも中村のクルマは屋根がなくなっていた。
ここに彼が乗ったままだったら・・そのまま死んでいただろう・・そう考えると彼にも運があったというべきか・・それともその反対か・・?
僕はこれ以上、ここに居ても仕方がないので、自分のクルマに戻ることにした。バイパス出口と側道が合流するところに小さなタバコ屋があって、そこに公衆電話があった。
中村は先刻、ここから電話をかけて来たに違いない。
僕もその公衆電話を手にとって智子に電話を入れた。
幸い、すぐに智子本人が出てくれた。
「中村・・・えらいこっちゃで・・」
「え?信ちゃんが?」
僕は事故のいきさつを話して、電話を切った。電話なぞしないほうが良かったのではと思ったけれど、してしまった以上、後の祭りだ。
智子は泣き声はださなかったけれども、ショックを受けたようだった。

警察へ連れていかれた中村は、その日のうちに戻ってきたけれど、中村が失踪したのはそれからまもなくだった。
彼は友人のクルマを借りて、そのまま、借りたクルマごと失踪してしまった。
僕にも、村下にも、智子にも行き先を告げずに、消えてしまった。
一度だけ、智子がその後嫁いだ先の家に、現れたそうだ。
智子が玄関に出ると「元気か?」と訊いたと言う。
「元気よ・・・信ちゃん、元気なの?」
「いや・・あまり元気とちゃうねん・・幸せか?」
智子は彼の方になだれかかりそうになる気持ちをぐっと押さえて、こう言ったそうだ。
「めっちゃ・・シアワセやねん」
そうかと、彼は頷いて、そのまま消えてしまった。

一度、彼の名前がそのまま新聞に出ていたことがある。
自動車泥棒が逮捕されたという記事だった。けれども、その記事も年齢が違っていて、彼かどうかを確かめる術はなかった。

僕はその後、仕事を神戸の都心に変えてから、クルマを手放した。
クルマを手放すと、何の不自由もなく、むしろ、車に使っていたお金が少し、余るようになった。
そのお金で僕は一人暮らしをはじめ、やがて、結婚した。

僕は中村が高級車を買うといったその時に、何故、止めてやれなかったのか・・その思いをずっと抱いて生きている。
中村の家族も何処へ消えてしまったか全く分からない。
世の中は確かにバブルの絶頂期であったけれども、返す当てのないカネを平気で、18歳19歳頃の若者に貸し付けていた銀行系のローン会社は、既に潰れてしまって今はなく、一瞬でも夢を見、それによって人生を狂わせた若者の青春は帰ってこない。
今日も、僕が歩く道を、若者達が高価なサルーンや四輪駆動車に乗って過ぎていく。
願わくば、彼らには、中村のような不運が待っていないことを・・そう願いながら走り去るそれらのクルマのテールライトを眺めるのだ。




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