story・・小さな物語              那覇新一

小説・散文・詩などです。
那覇新一として故東淵修師主宰、近藤摩耶氏発行の「銀河詩手帖」に投稿することもあります。

阪神御影

2007年04月01日 18時53分28秒 | 小説

阪神電車の梅田行き「直通特急」が須磨区からの長い地下を抜け、ようやく地上に踊り出るや、高架上を快走するのだけれども、その電車の北側の車窓一杯に六甲、摩耶連山が広がる。
電車は小駅を高速で通過するが、神戸を走る電車の中で、最も神戸らしい良さに溢れた区間がこの阪神電車の神戸よりの高架区間であると僕は思っている。

その高架上を快走してきた直通特急が、最初に停車する駅が「御影」駅だ。
カーブの途中にあるこの駅は、およそ特急停車駅には似つかわしくない狭いホームと、低い上屋、カーブが急なため電車との間に大きな隙間ができたり、あるいは、上りホームのもうひとつ山側に大昔に使われていたであろう小さなホームと信号所のような建物・・そういった、ちょっと他の駅では見られないものに溢れている特徴的な駅でもある。

この駅を北に出て、いつもバスの停車している広場を右に入る。
ちょっとしたスーパーマーケットの裏手の、五階建ての建物・・君は今でもそこにいる。
最初、このアパートを見せてもらったとき、あまりの日当たりの悪さに「出来るだけ早く日当たりの良いマンションを見つけろよ」と、僕は君に言ったと思う。
けれども、それから二十年ちかく・・今も君はここに住んで、あの山の上の堂々とした病院に看護師として通いつづけている。
そう、阪神御影駅から真正面・・高台に聳えるあの病院だ。

君が広島からようやく帰ってきて、ここに住居を定めたとき、僕は能天気にも君に会いに行ってしまった。
君が何故、広島へ向かったのかは僕には分からない。
君にはきっと何か大きな意味があったのだろうが、親友も捨て、仕事も捨て、この町を出ていった君の気持ちが未だに僕には理解できていない。
けれども、君自身が納得して自ら選んだはずの変化で、その変化の先の君に電話をした僕は我が耳を疑った。
君は電話の向こうで泣いていた。
神戸に帰りたいと泣いていた。

元々は広島の人だ。
広島に住むのは不自然ではないように見える。
けれども、君の広島は、僕らの脳裏にある大都会の広島市ではない。
芸備線の奥、松江へ向かう木次線が分岐する駅から、山以外に何があるのだろうかと思わせるその深い山々を分け入った先の、のどかな牧場が君の故郷だと言う。
そこは確かに広島県ではあるけれど広島市ではない。
神戸からそこへ行く時間や距離と、広島市の中心部からそこへ行く時間と距離と・・どれほどの差があるというのだろう。
君は故郷になら友人もいるだろうし、親族もあるだろう。
けれど、神戸の町で十年近く住んで得た友人や同僚と言ったような人のつながりは、広島市にあるはずもないことは、僕のような貧弱な想像力しか持たない人間でも容易に理解できるのだ。
だから、君が広島市の町のど真ん中で、一人、孤独に耐えかねて泣いていたのは、必然的なことだったかもしれない。

けれど、僕はまた、大きな思い違いをしていた。
君は僕を、愛する神戸からの使者としては迎えてくれたけれど、それは決して僕を君の恋人として認めたわけではないということ・・その単純なことが舞い上がった若き日の僕では理解ができなかったのだ。
僕は違う方向へ信じてしまった。
君もまた、僕をたった一人の恋人として愛してくれているだろうという方向へ・・

御影の、まだ真新しかった君のアパートを僕が訪ねたのは、君が神戸に戻ってまだ幾ばくも時間が経っていない・・そんな頃で、ちょうど君の誕生日近くだった。
そこへ訪ねていった僕が見たものは、ドアを開けた玄関先にきちんと並べられている二足の靴。
君のものらしい小さなスニーカーと、明らかに男物の茶色い革靴。
寛いでいたらしい君は、僕の顔を見て混乱した表情になっていた。

広島に君がいた頃も、よくこうして突然訪ねていって君を驚かせたものだったし、その驚きながらも呆れた表情の君を見るのが僕は大好きだった。
たったそれだけだ。
たったそれだけの表情が見たくて君の部屋のベルを押し、君が開けた玄関を僕は見てしまった。

君が神戸に戻ってきてまだ数週間・・
僅かな間に、もう、自分の世界をしっかり持った君がそこにいた。
ドアのところで立ち尽くす僕は今だ大人になりきれず、玄関の先で僕を睨み付ける君は、すっかり大人の女性だったのだろうか。

気配を察知して出てきたのは不細工な中年男だった。
今でこそ、僕も中年男の仲間入りをしてはいても、その頃はまだどこから見ても青年と言える世代だった僕には、その中年男の存在が意外の中の意外としてしか認識できなかった。
「あなたが、神戸の友人だった方ですか?」
男性は丁寧にそんなことを問うてくる。
君は混乱した表情を更に混乱させ、僕を外に押し出そうとする。
その君を男性はいかにも大人らしく、そっと押さえながら、僕に何かを語りかけようとする。
「そこの居酒屋でお酒でもいかがですか?」
今の僕が彼と同じ立場なら、きっと同じ対処をしようとしただろう。
男性は僕よりも背が低く、人柄だけがよさそうな顔つきをしていた。

「なんで、俺があんたと兄弟の杯を交わさなあかんのや!」
僕の口から出た言葉は、自分でもとんでもないと思うような罵倒の言葉だった。
「まあ、まあ・・」
男性はそれでも、僕を宥めようとはしてくれている。

阪神電車御影駅の北、駅前広場から一歩中に入った小道で、僕は君に別れを宣言した。
小雨が降り始め、君は俯き黙ったまま僕の言葉を聞いていた。

今の僕だから分かると言ってしまえばそれまでだが、君にとっては本当は特定の誰か一人だけを自分の相手にすることは我慢がならなかったはずだ。
君が、いつでもたくさんの人の愛を欲しがっていたということは、自分の周りを孤独にしたくなかっただけなのかもしれない。
それには君と言う人間の生まれ育ちが大きく関係しているのかもしれない。

僕は、怒りが収まってからその男性にこう言った。
「あなたが、彼女を愛しているのなら一刻も早く、彼女を幸せにしてやってください」
男性は少し間を置いてから頷いた。
その時だ。
「いやだ!」
君が叫んだ。
「終わってしまう!何もかも終わってしまう!」
君が髪を振り、叫びつづける。
「いやだ!いやだ!やだぁ!やだ!」
気が触れたように君は叫びつづける。
「終わっちゃうよ!何もかも終わっちゃうよ!」

今の僕なら君の想いを受け止める度量は持ち合わせていると、僕は自信を持ってそう言える。
けれども、僕はまだ若すぎた。
僕だけのものではない君を、僕は受け入れることが出来なかった。
結婚なんて、考えなくても良かったではないか。
なにも恋人と言う言葉に縛られなくても良かったではないか。
君が自分の周りに置きたい、その中の一人になって、君が声をかけてくれればそれを望外の喜びとして嬉々として出かけていく生活で良かったのではないか。

けれども、僕にも人生観はあった。
家庭を作り、家庭を営み、自分が守るべき人たちとともに暮らしていきたいと言う、その願いを捨てることは出来なかった。
だから、僕は君に振られたように思ってはいるのだけれど、君は僕とは逆に、僕が君から離れていってしまったように感じているのではないだろうか。
僕は確かに離れたのだ。
君と言う女性から自ら離れたのだ。
そして、そこからもう、二十年近くの時間が経過している。
だのに、こうして阪神電車が御影駅を通るときにふと、思い出してしまう。

電車が高架線上を快走し、六甲・摩耶連山の豊かな山並みが窓一杯に広がっても、ふと、君を思い出してしまう。
あるいは、電車が御影駅に停車し、乗降する乗客の中に、君の小柄な姿がないか探してしまうこともある。
つまり、僕は未だに君と言う女性から離れることが出来ていないのだ。
笑ってくれ。
僕のこの状況を、もしも、僕と君を両方知る友人から君が聞いたなら、ぜひ、笑ってほしい。

情けない男だと、つまらない男だと、そう思って欲しい。

御影駅を発車した梅田行きの直通特急は、急カーブに車輪を軋ませながらゆっくりと加速する。
あの頃には停車しなかった二つ先の魚崎駅にも停車するために、あの頃の阪神電車のような高加速運転は今はしないのだ。
ゆっくりと高架線を走る電車の車窓に、たくさんのビルのその中で、忘れがたい、けれども、その形は至って平凡なマンション風のビルが見える。
君が健康であるように。
君がどうかずっと生きてくれるように。
僕は情けなくもそう願ってしまう・・それがまた僕と言う人間なのだ。

コメント (4)
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