story・・小さな物語              那覇新一

小説・散文・詩などです。
那覇新一として故東淵修師主宰、近藤摩耶氏発行の「銀河詩手帖」に投稿することもあります。

今だけ好き

2009年09月05日 13時59分23秒 | 小説

筆者注 : 本作品はフィクションであり、完全な創作です。
「STORY」シリーズには馴染まぬ雰囲気をもっていますが、あえてこういった作品も書いていこうと考え、掲載することにしました。

***************

その日も、僕は阪急三宮駅東口、改札前の柱の影で君を待っていた。
あふれるほどの人波、雑踏とはまさにこう言う状況を言うのであろうと、それでも時にはやや静かに、時には息が詰まるほど人間が溢れかえるような、そんな人波のリズムに身を任せていると、その中を地味な色調の服装ではあるがひときわ目を見張るかのような君の色白の表情がためらいがちに近づいてくるのが分かる。

「やあ!今の特急?」
「うん、遅れてごめんなさい」
節目がちに、でも甘えるような声でそう言う君は、やはり際立って美しい。

僕らはすぐに雑踏に紛れ込むかのように、歩き始める。
行き先は、いつも行く、高架下の居酒屋だ。

ここなら日曜の昼間からでも酒を呑むことが出来るし、第一、人目につかない。

灯台下暗し、とはよく言ったもので、神戸のように町が凝縮して存在しているかのようなところではあっても、三宮のこの裏町あたりではめったに知人に出会うことなどない。

「旦那がさ・・お前みたいなグータラは滅多にいないなんていうのよ」
生ビールを一気に飲み乾した君は、ふっとため息をついてからそういう。
「グータラなのか?」
「あたなまで、私をグータラっていうの?」
少し悪戯っぽく僕を睨み付け、煙草に火をつける。
一息、大きく吸い込んで吐き出す。
吸い込んだとき、きみの瞼は閉じ、如何にも気持ちのよいものを飲み込んでいる・・表情をする。
長い睫が柔らかな弧を描く。

君ほど、煙草が似合う女性に僕は会ったことがないかもしれない・・それほど君が煙草を吸う横顔は美しい。

僕は煙草は吸わないから、それがどれだけ心地のよいものであるかを知ってはいない。
でも、君の表情を見ていると、それだけで、この不思議な嗜好品が、それを愛する人たちにとってはなくては成らないものではないかとも思えるのだ。

「旦那の仕事が傾いてからさ・・」
君は煙草を灰皿に乗せる。
長く、白い指はあくまでも優しげだ。
「あたし、必死に支えてきたんだけどな・・」
僕は君の指先を見つめる。
「旦那さん、商売は苦境を脱したんじゃないの」
「そうなの・・苦しいところが過ぎたら・・元の木阿弥よ」

溜息をつく君のその表情がまた僕には美しく思えてならない。
だけど、僕は決して君に惚れ込んでいるわけではない。
誤解されては困るが、僕は夫のある女性を自分のものにしたいと思うこともなく、信じてもらえないかもしれないが、あくまでも気の置けない友人として君を大切に思っているのだ。

この点では僕自身が、世間の感覚からずれているのかもしれない。
いわば、人間が作った「縛り」のようなものを僕は本能的に否定しているだけなのだ。
いや、それすらも考えすぎかもしれない。

僕にとって男性であれ、女性であれ、大切な友人はどこまで行っても大切な存在だということ・・なのかもしれない。

だからと言って聖人君子のごとく、あるいは修行者のごとく、女性とは体の関係を持たないなどと言うつもりもない。
あくまでも、自然であればよいと・・それだけだ。

「それでいいんじゃないの・・夫婦だからって、理解できないところもあれば、他人でも深く理解できる部分もある・・」
僕がそう言うと、君は少し呆れたように僕を見つめた。
「たまには・・」
君はそう言ってまた煙草を銜える。
僕はビールのジョッキを持つ。
「いいこと言うじゃない・・」
「たまにはかよ・・」
「そ、たまにはね・・」
そういって君はころころと笑う。
笑顔がきれいだ。

昼間の酒はよく回る。
僕らは小一時間でそこを出た。

また雑踏の中へ歩き出す。
ゆっくりと足は自然に山の手へ向かう。

夕方になるとネオンサインがきらめき、着飾った男女で溢れるこの通りだが、昼下がりの今の時刻では、北野方面へ向かう観光客が歩くけれども、店の大半はまだ閉じている状態だ。
大通りを過ぎ、僕らは裏道に入る。

「君のところの商売だけどさ」
「なに?」
「もう、すっかり大丈夫なんだろ?」
並んで歩きながら僕は君に問うた。
君は少し間を置いて、小さな角を曲がってから答える。
「そう、なんとかね・・でも、今の情勢じゃ・・いつまたどうなるか・・」
「分からないって・・」
「そうなの・・」
「君は店に顔を出しているの?」
「前はよく出していたけど、旦那はあたしが店に行くのは好きじゃないみたいでね・・」
「じゃ、今は旦那さん一人?」
「うううん・・社員で雇った女の子と二人でいるわ」
「じゃ、君は今は店に行ってないってこと?」
「気になるのだけどね・・あたしが行くと旦那、いらいらするのよ」

夫婦って、そう言う部分もあるかもしれないな・・
僕はそう思った。
そう思う僕も自分で店を経営し、ずいぶんしんどい思いをしている。
僕の妻はあまりのしんどさからか、僕を見捨てて逃げてしまった。

「なんとなく、旦那さんの気持ちも、君の気持ちも分かる気がする」
「そう・・ありがとう・・旦那も、悪いやつじゃないんだけどね」

そりゃそうだろう。
君のような人に惚れられた旦那さんだ。
悪い人間であるはずはない。
だから君は、僕の妻が僕を捨てたようには君の旦那を捨てられないだろう。

僕らは裏町の静かな通りにある一軒のラブホテルに入って行った。

***********

「好きだと言って・・」
「言っていいのかい?」
「うん・・」
「好きだよ・・」
「あたしも・・今だけ好き・・」
「今だけかい」
「うん、今だけ好き・・」

バスローブをめくり、僕はゆっくりと君の胸に触れていく。
唇を君の肌に沿わせていく。
白い肌、豊かな胸、今にも折れてしまいそうな華奢な腰・・そして、その腰の、脇あたりにある大きな手術痕・・
君のすべてへの愛情の証として僕はゆっくり、唇を進めていく。

かるい呻き声を上げながら、それでも君は言い続ける。
「今だけ好き・・今だけ好き・・」
僕は、聞こえないふりをして君の体を強く抱きしめる。

いくら何をどう分析しようが、屁理屈をこねようが、僕は君を本気で好きだし、けれどその言葉は出してはいけない・・
今、このひと時だけを望外の幸せとして僕は享受しなければならない。

まるで、美しい性描写の映画を見ているかのような、不可思議な時間、僕らは二人だけの世界をさ迷い歩いている。
時間を惜しめ、今を惜しめ・・
まるで、それが神の声であるかのごとくに聞こえてくる。

良いこと、悪い事・・
そんなことはもう、僕にはどうでも良くて、ただ、今、目の前にある君を大切にしたい・・
君との出会いを感謝したい・・
君の人生を祈りたい・・
君の寂しさを消してやりたい。
君の苦しさを潰してやりたい。

僕の思考は時折激しく動き出し、時折停止する。

「今だけ好き・・」
何十回目かのその言葉に僕はやっとのことで・・「俺はずっとだよ」といった。

君は一瞬、動きを止めて・・やがて、声を上げて泣き出した。
「今だけ好き・・」君の涙の、その理由は僕には分かる。
だけど、その涙を抑えようとして、なにかを言ったところで、言葉はむなしく、結局は君を傷つけるだけになってしまうのも僕には分かる。

僕は君を強く抱きしめ、さらに愛撫するしかない。

「すこし待って・・」
君が堪えきれないようにそう言う。
その言葉に、僕はさらに君を抱きしめ、そして君の背中をさする。

しばらく泣き続けた君は、やがて泣きつかれたかのように眠ってしまった。
僕はそのままの格好でしばらくはじっと君を抱きしめ続ける。

眠っている君を見るのも僕にとっては非常に幸福なことなのだ。

*************

「今日はありがとう・・」
「いや、こちらこそ・・」
「迷惑かけたわね・・この次はお返しするから」
「お返しなんかいらないよ・・また会おうよ」
「うん!また連絡する・・」

君はそう言って改札口の向こうへ消えた。
ホームへの階段を上がる前に振り向き、大きく手を振り、きれいな笑顔を見せてくれた。
僕は、遠慮がちに手を振りかえした。
「ありがとうは・・こちらが言わなきゃな・・」
雑踏の中で、そう独り言が出た。

コメント
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