「すみません、尼崎まで行ってほしいの」
小雨の降る夕方、その女は明石の街中、バス停のところで僕のタクシーに手を挙げた。
「お急ぎならこの時間でしたら電車のほうがずっと早いと思いますよ‥明石駅までお送りしましょうか」
僕がそう言うと女は「わたし、電車が苦手なんです、どうしても尼崎に行きたいので」と返す。
「分かりました、結構な料金になると思いますが・・・」
「おいくらくらいになりますか?」
「1万5千円ほどですね・・それと高速代と」
「それなら大丈夫です、2万円まででしたらお願いしてもいいですか」
僕に異存はない。
もとよりこの日は乗客が少なく、売り上げが低迷していた。
しかし、不安がないわけではない。
最後まで乗車してもらって、運賃料金をきちんと貰うことでやっと成り立つのがこの商売だ。
その女は、三十になるかならないかくらいだろうか、グレーのスーツ、白いブラウス、やや茶色かかった長い髪、ごく普通の縁ありのメガネ、白い肌、朱の口紅・・清楚というわけではないが、ある程度仕事のできる感じのような雰囲気を見せていた。
「では、参りますね・・大蔵谷から高速道路に入ります」
そういうと、ちょっと考えて女は「海が見たいので、須磨まで国道で行ってもらえますか」
「分かりました、少し時間が余分にかかりますが・・」
「いいですよ、時間的な余裕はあるので」
なんとなく危うげなものを感じたのは僕のタクシードライバーとしての本能だろうか。
だが、断る理由もないし、思い切って車を走らせる。
「ごめんなさい、遠くで・・」
女は申し訳なさそうに言う。
ルームミラーに写る女の顔からは誠実さが感じられた。
「いえいえ、こちらこそ遠方までありがとうございます」
愛想良く僕は女に返す。
ルームミラーの中でメガネをかけた美女がにこやかに微笑む。
乗ってすぐ、女は携帯電話を取り出して、誰かと話をしていた。
「うん、すまんね、今から2時間後くらいに着くんじゃけぇ・・」
「うん、電車じゃないんじゃ、電車はあの混み方が苦手で、よう乗らん・・タクシーで行くんじゃ」
「うん、待っちょって・・」
女が携帯電話を置いたので、僕は訊いてみた。
「お客さん、広島のご出身ですか?」
女は驚いた表情をルームミラーに見せて「あら、わかりますか?」という。
「お相手も広島の方なんですね、尼崎で待ち合わせですか?」
「そうなんじゃ・・」
そういったかと思うと女は口に手を当てた。
「そうなんです・・もう、何年ぶりかな・・・会えるの・・運転手さんも広島ですか?」
「いえいえ、私は神戸生まれですよ。広島に友人がいたものですから・・」
「友人って、女性ですか?」
女は悪戯っぽく、まっすぐにルームミラーを見た。
僕はそれには答えず、「それは内緒」とだけ言い、クルマを走らせる。
やがて女は改まったかのようにこういった。
「運転手さん、聞いてもらっていいですか?」
「ん?何をですか?」
「私の愚痴です…」
国道2号線は夕方の時間帯とあって混んでいた。
時折渋滞する窓の外には明石海峡大橋が見える。
*******
彼とは幼馴染なんです。
殆ど同じころに関西に出てきて、彼は大阪、私は明石で仕事をしてたんですよ。
でも、お互い、相手が関西にいるって全く知らなくて・・
それが、一昨年に地元の同窓会に出て再会、まさか近いところにいるなんてって、びっくりしたんですよ。
その時から付き合い始めたんですけど、お互い時間もお金もなくて、なかなか会えなくて。
やっと今日、今から尼崎で会えるんですよ。
嬉しくてうれしくて…
*******
可愛いお嬢さんだと、思ってしまった。
屈託なく、ちょっと恥じらいを含んで話す様子には、この人を少しでも疑った自分を恥ずかしいと思うほどだ。
普段なら明石から20分ほどの阪神高速の入り口まで渋滞気味で30分余りかかってしまった。
辺りはすでに夜の気配だ。
群青色の空の下、前を走る車のテールライトが揺れる。
クルマが神戸の都心を過ぎたころ、女の携帯に着信が入ったようだ。
「うん、え・・それちょっと・・」
「できるかなぁ…」
「わかった、じゃ・・」
電話を切り、女は窓の外を見ているようだった。
やがて、芦屋に近くなったころだ。
辺りはすっかり夜になってしまった。
「運転手さん、お願いがあるの」
女はなにやら切迫したような声を出す。
「あ・・はい」
「クルマをどこかで止めてほしいの」
「高速降りてからね・・・」
「間に合わない、いますぐ・・ほら、その先の駐車帯で」
女の切迫した様子に、もしかしたら腹具合でもおかしくなったのだろうかと思った。
「でも、高速です」
「お願い!」
泣き出しそうな声だ。
僕はクルマを非常駐車帯に寄せて止めた。
こんなことは初めてだ。
「どうされたんですか・・」
女はそれには答えず、なにやらゴソゴソと衣擦れのような音がする。
「運転手さん」
「はい・・」
「こっち見て・・」
ルームランプをつけようとすると「明かりは付けないで」と懇願する。
仕方なく、明かりの消えたままの後席を見ると、女は衣服を脱いでしまっているようだ。
暗がりだが、道路の照明や通過する車のライトで女の様子が分かる。
胸をさらけ出している。
「タクシー代が払えなくなりました。身体で払わせてください」
女はそういうと運転席の方に身体を寄せてきた。
「いや、何を考えているんですか・・・」
「お願い・・」
運転席のシートに後ろから覆いかぶさるように、女が身体を寄せてくる。
僕の手を取り、無理に女の胸へ誘おうとする。
「お願い、このままラブホに連れて行ってもらってもいいから」
僕は、女の柔らかな胸に触れてしまった手指を慌てて引き戻した。
窓の外は高速で突っ走る車の流れだ。
「やめなさい!」
僕は思わず大きな声を出した。
「ドライブレコーダーに記録されていますよ」
女は驚いたかのように後ろへ下がった。
「お金がないならクレジットカードでもいいし、行った先でお友達にお金を借りて払っていただいてもいい、どうしてもだめなら身分をきちんと示すものをだして
後日請求でもいい、そんなことはやめなさい」
女は泣き出した。
「衣服を身に着けてくださいね」
僕は言葉を柔らかくして、女に言う。
心なしか、女がほっとしているようにも見える。
高速で突っ走る自動車の隙間を見て、僕はクルマを発進させた。
尼崎で高速を降り、女の指さすように走ると、小洒落たマンションがあった。
「ここで待っていてください、荷物は置いておきます」
「お待ちしていますよ」
女のブランドものらしいバックを座席において女は何度か会釈をしてクルマを降りていった。
「来るかな・・・来ないだろうな」
それは僕の確信だった。
だが、意外にも女はすぐにマンションから出てきた。
「ごめんなさい、彼は今、ちょっと先の飲み屋にいるらしいの、とりあえずこれだけはお渡ししますから」
千円札で2枚、運賃は15000円を超えていて到底足りる額ではない。
「飲み屋はどこですか?」
「すぐさきです、ちょっとだけ乗せてください」
女のいうままに500メートルほど走ると、スナックがいくつかある建物があった。
「また荷物を置いておきますね」
女はそういってクルマを降りていく。
すぐに男と一緒に戻ってきて「おいくらでしたか・・」と聞く。
ポロシャツにジーンズというやはり三十歳になるかならないかに見える男も誠実そうな感じで、幾度も頭を下げる。
この男が「彼」なのだろうか。
「あ・・店に俺の財布を忘れた」
男が頭を掻きながら呟くと、女は呆れたような表情で「お店に戻ってきますね」という。
二人して建物の中に消えた。
迂闊にも、僕はこの状況で女を信じてしまっていたのだ。
ビルの中に入った男女は出てこなかった。
10分、20分と経過し、ついに30分ほどして僕は建物の中にある店を尋ね始めた。
「若い男女のお客さん、ご存じないですか?」
どの店にもそういう客はおらず、「今日は若い人は一人もないわよ」なんて言うママさんがいたりする。
「どうしたの?乗り逃げ?」
年輩の、人の好さそうなマスターが心配してくれる。
ふっと、建物の奥に、非常口があるのに気が付いた。
「やられた」
この時、僕はやっと、気が付いたのだ。
二人はここから出ていったのに違いない。
警察を呼び、タクシー強盗事件として捜査が始まった。
僕はそのまま明け方まで、まるで強盗事件の犯人のような扱いを受けながら取り調べをされ、ドライブレコーダーのSDカードも証拠品として押収された。
クルマにはあちらこちら、指紋採取のための粉がまかれた。
「たぶん、髪もウィックでしょう、普段はメガネをしないのかも、捜査が難航するかもしれませんね」担当の刑事は申し訳なさそうに言う。
ブランドバックの中は、雑誌がいくつか入っているだけで、どうもそのブランドも偽物のようだった。
すべてが終わって、ただ脱力感と疲労感がすごい。
朝の国道を西へ戻る。
コンビニで何か飲み物をと、クルマを停車させ、助手席に置いてある自分のバックを開けた。
封筒が入っていた。
「なんだろう・・身に覚えがないが・・・」
そう思い、封筒を開けると写真が数枚出てきた。
見事なプロポーションの女性のヌード写真だ。
ただし、写真はすべて首から下だけで、顔は画面の外のようだ。
「詫びのつもりかな・・」
そう思ったとたん、笑いがこみ上げてきた。
「やるやんか・・あの子・・・」
それにしても・・あの時、誘いに乗って身体で払ってもらってもよかったのかもと・・一瞬思った・・きれいな胸をしていたと未練らしきものも自分の頭の中に出るが、そうなったらそれで、あの男が強面の美人局に変身するのかもしれんと、打ち消した。
街は朝のラッシュが始まっていて、今から会社に帰ってそこからまた報告か・・・
帰宅は何時になるんだろうと、そんなことだけを考えた。
猛暑だった八月が終わり、神戸では今朝の気温が22度台となった。
殆ど二か月ぶりのことだ。
一昼夜勤務を終え、都会ゆえに晴れても見える星の数えるほどしかない明け方の道を歩きながら、僕は九月の予定を頭の中で確認していた。
まず、自分が主催する大きな呑み会がある。
台風が来ているが、その前々日に当地を通過する様子で、よほどの被害がない限り問題はないだろう。
知り合いのカメラマンの個展もある。
参加できるかどうかはともかくとして趣味としている鉄道会社やバス事業者のイベントもある。
そういえば居住している団地の建て替えに伴う説明会があったはずだ・・・
会社から自宅までは徒歩で三十分ちょうどだ。
途中、飲料の自販機が見え、ちょっとホッとしたくなって立ち止まった。
幸い、好きな飲み物がある。
缶を開けるとトマトの香りが漂う。
くいっと喉を鳴らして、ほど良い冷たさの少し抑え気味のトマトジュースを味わう。
そうだ・・
まだ開けない暗い空を見上げて、弱々しくやっと光りを放つ星を探しながら思いだした。
今月、あの人の赤ちゃんが生まれる・・・
いつもお世話になっている、さるチームリーダーである女性だ。
頑張り屋さんで、明るくて、だれからも好かれる素敵な人。
どんな困難もきちんと乗り越えていける人。
恋愛という感情ではないと思う。
信頼というのだろうか、共感というのだろうか、不思議な出会いがあってもう何年になるだろう。
その女性がわざわざ苦労する道を選んだ。
本当はもっと楽で、穏やかな生き方もあるはずなのに・・そのことが彼女らしいというか、でも非常に心配もしている自分がある。
美しい人で、何度も快く僕の被写体にもなってくれた人だ。
彼女のおかげで僕は今でもかつての職業だったポートレートカメラマンであることを思い出せるのかもしれない。
彼女は自分でほとんど決めてから「報告がある」と言われて二人で会った時、それが「報告」であり「相談」ではないこと、そして僕もまた、その「報告」を肯定した一人であることがつい数か月前のことなのに懐かしく思い返される。
本当はずいぶん苦しんだと思うその結論を出してから、彼女は一人になり(もうすぐ生まれてくる子があるから二人にはなるのだけれど)たぶん、周りにはずいぶん能天気に見せかけて必死に生きているんだろう。
一人で赤ちゃんを産んで、そしてそのあとも自分で自身や赤子を守るしかない選択・・それを誰かに頼るわけでもなく自分で切り開いていく。
女性は強いと思う。
本来、母は強いものだということを改めて思う。
先々月にお会いした時、彼女のお腹はもうずいぶん大きくなっていた。
「食べすぎやねん~~ほとんど自分のぶんかも」
そういって屈託なく笑う彼女の、まもなく誕生する命。
見たいなぁ、会いたいなぁと思う。
新しい命に。
それが彼女という女性の子であるそれだけで、たぶん僕には可愛くて仕方がないだろうと思う。
九月かぁ・・
歌の世界では寂しさの漂う月でもあるが、猛烈な夏に辟易している僕には、なにか優しい風が吹いてきそうな気がするのだ。
え・・?
「もしかしてお前はあの人に惚れているのか」
意地悪な星が問いかける。
「そうかもしれんが、そんなことは・・どうでもいいこと」
「惚れっぽいお前だからな、わからんぞ」
「ちょうどいい距離感があってこそ成り立つ想いもあるんだよ」
星にそう教えてやり、でも「会いたいなぁ」と呟く。
お腹の大きな貴女にも会いたいし、赤ちゃんを抱っこしている貴女にも・・
飲み干した缶を空き缶入れに入れ、僕は「あと15分」と、歩き始めた。
それにしても涼しい風だ。
どこからか元気の良い赤ちゃんの声が聞こえる気がする。