「自分がしてきたことは間違っていないはずだ」
清次はエンジンを軽く響かせる気動車の、安っぽい向かい合わせの座席に腰かけて車窓を見ていた。
花も咲き始めた北関東の長閑な田園と、遠くの山がかすむ早春の日だ
両毛線の気動車列車は、貧相な線路をそれなりに飛ばしているようで揺れが大きい
レールジョイントが響くたびに、尻に振動が来る
思えば復員してきても元が職業軍人ゆえ何のあてもなく
ただ、友人の勧めにより軍で作り上げた頑健さを生かして十年以上、消防士として体を張って生きてきた。
「俺は、本来は表彰されてもいいくらいだ」
清次はそう述懐する。
「お父さん、この列車、いつまで乗っているの?」
窓側に兄と向かい合わせに座っている娘の知恵子が屈託なく訊く。
だが、訊かれる方は辛い。
兄の方は複雑そうな表情で一瞬だけ彼を見る。
頭の良い子だ、引っ越す理由も感づいているだろうなと清次は思う。
この息子は、彼の実の息子ではなく、中国戦線へ赴く前に別れた前妻のあと、戦後復員して暫くして彼に縁あって嫁いでくれた今の妻の連れ子だ。
その妻は彼の前、通路側の座席で居眠りをしている。
前妻も、前妻との間にできた最初の息子も満州へ行ったとは聞いたがその後はとんと分からなくなってしまった。
生きていればとは思う。
今は多少のことには愚痴も言わぬ妻の強さこそが彼の救いでもある。
だが、時々、身体を崩しそうになりながらも、この乗り心地の悪い列車の粗末な座席でよく眠れるものだとちょっと感心もするし苦笑する。
キハ十七形の座席は狭く、通路側の肘掛けすら省略されている。
しかも、台車も相当粗末なようで、客車のように乗っているのが心地よいとは到底思えない、酷い乗り心地だ。
だが気動車はガシガシ揺れながらも快走している。
速度だけは確かに蒸気機関車が牽く客車よりずっと速いのだろう。
それに、排煙も少ないし、煙が大量に客室に入り込むこともない。
窓を開けて存分に景色を眺めても衣服が汚れることもない。
「あと少しだ、義男は前に修学旅行で乗っているから知っているだろうが、前橋を超えて高崎という駅までだ」
義男はちらっと彼のほうを見て軽く頷いた。
二年前に小学校の修学旅行で新潟県の鯨波へ、今回と同じ道筋で行ったはずだ。
知恵子は無邪気に訊いてくる。
「じゃあ、その高崎から小諸はすぐなんだね」
「いや、高崎で蒸気機関車の牽く列車に乗って、それから高い山を登って、暫く走ってやっと小諸だ」
「え~~、遠いね・・あと何時間くらい?」
まだ小学校三年生だがこの頃特に大人びて受け答えをするようになってきた。
「高崎まであと三十分ほどか、乗り換えて信越線の列車で三時間程かな」
「え~~、遠いね・・友達とも従妹の俊ちゃんとも遠くなってしまう」
そう言われると辛い。
「佐野から小諸へはそれほど遠くはないけれど、途中に碓氷峠という難所があるんだ」
「そんなの、知らない」
知恵子がふくれっ面をする。
「まぁ、また時々、佐野に帰ればいいよ」
眠っていたはずの妻のマツ子がたしなめる。
「しかし、この汽車、乗り心地がすごく悪いわよね」
マツ子の言葉に清次は苦笑しながら返す。
「その割にずっと眠っていたのは誰だ」
「でもね、揺れがすごいのよ、おまけに肘掛けがなくて時々通路に落ちそうになるし」
その言葉にほかの三人が笑う。
いや、周囲の乗客からも笑い声が聞こえる。
「これはキハ十七形と言って、国鉄の未来を見据えた最新車両だし、汽車じゃなくて気動車だよ」
中学生二年生になった義男が返す。
「お前は鉄道が好きだなぁ」
思わず清次が返すと「うん、僕は国鉄に入るよ」とはっきり言う。
「国鉄でも何でもいい、いい人生を送れよ」
そう思うが当時の国鉄は一流企業だ。
「だが、国鉄に入りたいなら勉強も一生懸命にしないとな」
彼の言葉に義男は少し顔を赤らめて頷いた。
車窓に赤城山が見えている。
「でもさぁ、義男、最新式だか何だか知らないけどさ、乗り心地は汽車のほうがずっといいよ」
マツ子の言葉にまた彼ら家族と周囲の乗客が笑う。
高崎で乗り換えた普通列車の長野経由直江津行きはやや混んでいた。
座席は少し空いていたが、四人がまとまって座れるところはなく、妻に子供たちと清次はやや離れて座った。
この状況は却って彼をホッとさせた。
暫くは、引っ越しについての話をせずに済むわけで、願わくはこのまま、小諸まで行ってくれたらと彼は思う。
「信越線下り、直江津行き発車します」
大きな駅独特の長い発車ベル、そして蒸気機関車特有の発車の汽笛が鳴り、列車は軽いショックとともに走り出す。
やがて不思議な形の妙義山が見える。
列車は横川までさほど乗客の入れ替えもなく進む。
上り勾配とあって蒸気機関車の煙は容赦なく少し開けた窓から入ってくる。
横川で列車の窓を大きく開け、彼は駅弁売りから巻き寿司の弁当を四つ買った。
「お昼が遅くなったな」と、ほかの三人が座っている席に向かって渡してやる。
子供たちは旅の雰囲気に喜んだが、ここからのいわば超鈍行を思えば、その間のやるせなさを少しでも自分も家族も逃がしたいと思っていた。
機関車が付け替えられ、やがて列車は登り坂へと向かっていく。
歯車が噛み合う工場の騒音のような音が列車の前頭から聞こえてくる。
速度は遅く、まるで自転車で走っているかのようだ。
機関車の車輪の間に歯車を付けて、線路の間に敷かれた歯のついたレールと噛み合わせて坂を登るアプト式という方法で、つまりそれだけ勾配がきついという事だ。
列車は少し花も見える春の山を登る。
トンネルが次々に現れるが、ここで客車を牽くのは専用のアプト式電気機関車ゆえ、少し開けている窓を閉める必要はない。
だが、登るにつれて明らかに列車内の室温が下がっていくのが分かる。
開いていた窓は全て閉められた。
遅いと思うが、この坂がなくならない限り致し方のないことなのだろう。
この碓氷峠こそが、信州を、小諸を余計に遠く感じさせているのかもしれない。
ふっと、家族たちのいるボックスを見ると、子供たちは興味深そうに車窓を眺めているらしい。
列車はゆっくりと、ゆっくりと坂を登っていく。
*******
なぜに自分が佐野を追われねばならないか。
いや、佐野に居る気であれば居続けることはできたのではないか。
事件というほどのことではない、ただ、ある時の火災で助けた女に惚れられた。
困る、俺には妻もあると拒んだのだが、女は執拗に迫ってきた。
あまりに懇願するので一度だけ、関係を持った
すると女はそのことを周囲に言いふらし始めた
妻はそのことを知って最初は怒ったが、事情をはっきり説明すると案外、あっさり引き下がってくれた。
だが、女は俺に無理やり犯されたと嘯くようになっていた。
そのうち、女が警察に話したようで、家に警官が来た。
消防士であるゆえ、地元の警察官のほとんどは親しい間柄だ。
それゆえ事情を聴かれただけで警察はそれ以上のことは言ってこなかった。
だが・・田舎町のことだ。
嫌な噂はすぐに広まる。
家の前で囁く声が聴こえるようになってくる。
この町で消防士という公共的な仕事をするのは限界だと俺は悟った。
いや、俺自身が精神的に追い詰められて結局はまだ小中学生である子供たちまで巻き込んでこうして逃避行のような引越しをする羽目になったのだ。
悪いのは俺だ。
あの女ではない。
いくら懇願されても手を出さねば良かっただけのことなのだ。
列車の窓、トンネルの暗闇に自分の顔が映る。
なんと情けない男なのだ、俺はと・・思う。
*******
いくつものトンネルが過ぎ、だんだん山が開けてくる。
碓氷峠を超えたようで、最後のトンネルを過ぎると列車は急に軽くなったように走り、すぐに軽井沢に着いた。
「お父さん、空いたよ」
知恵子が彼のところへ呼びに来た。
三人がいたボックスで、一人座っていた無関係の先客が軽井沢で降りたらしい。
「ああ、そっちに行くよ」
清次は軽く答え、娘の後を追って席を移動する。
「お弁当、美味しかったわ」
妻のマツ子が言う。
「いや、あそこは本当は幕の内が旨いのだが、売り切れでな」
「ほんと、漬物を巻き寿司にしてもなあ」
義男が呟く。
「旨くなかったのだな」
清次がそういうと家族は笑った。
列車を牽くのはまた蒸気機関車だ。
だが、ここからは長いトンネルもなく、きつい坂もなく列車は淡々と走る。
別荘地を通り過ぎると軽く噴煙を上げている浅間山が見えた。
佐野あたりではもう春の花が咲き始めていたが、ここの山野はまだ冬の装いだ。
だが雪はない。
「お父さん、小諸って雪がたくさん降るんだよね」
義男が訊いてくる。
「いや、小諸は晴天の多い街で、気温は北海道並みに低いが雪はめったに積もらないんだ」
「え?そうなの・・信州だからすごく雪が降るのかと思ってたよ」
「信州でも小諸はちょっとほかの街とは違うんだ、晴れる日が多くて雪が積もるのは年に数日しかないというぞ」
「へえ・・・じゃあ小諸もいいかな」
「空気も澄んでいるし、浅間山が噴火でもしたらちょっと怖いくらいでいいところだよ」
その小諸で彼は傘屋を営むことになっていた。
傘の仕事は佐野の知人に教えてもらった。
晴天の多い街で傘屋が儲かるのか・・そういう疑問はあったが、小諸の街に傘屋はなく、うってつけの商売だと思ったのだ。
すでに、駅から少し歩いた町中に店は確保している。
家も古家を購入していた。
準備万端怠りはないはずだ。
そう、俺はこの町で傘屋として生きていくしかない・・
清次はそう自分に言い聞かせた。
列車はやがて小諸に着いた。
「意外と大きな駅ね」
マツ子が辺りを見回して呟く。
「人口も多いし、大きな城跡もあるし、小海線もここから出ているし」
清次が返す。
それぞれが大きな荷物を持った家族は長いホームを歩いて改札口へ向かう。
構内の大きさの割に駅舎そのものは質素だ。
駅前に出て彼らは立ち止まる。
ひんやりした空気が一家を包む。
正面に双子山のような浅間山が見えている。
「あれが浅間山?」
知恵子が訊く。
「ああ、そうだ・・可愛く見えるが、すごい力を秘めた活火山だ」
そう、俺も小さな傘屋の主人に収まるが、それだけでは決して終わらないぞと、彼は自分に言い聞かせる。
小諸の街に溶け込むのだ、小諸の人たちの中に入っていくんだと誓う。
そうだ、あの碓氷峠、あそこをなんとかしないと、この町は発展しない、なんとかこの町を発展させるために、なにかをしよう。
だが、まずは自重だ。
小諸にも佐野での悪い噂を知っている人もあるかもしれない。
だからまずは熱心に商売をして町の人に認められないと・・
浅間山を見ながら自分に言い聞かせていく。
「お父さん、行こうよ、ちょっと寒いよ」
知恵子が寒さに我慢できないというように、口を尖らせる。
「ああ、行こうか、駅から歩いてもすぐだよ」
家族は、ゆっくりと北国街道を東に向かう。
「寒いところだね」
空っ風に慣れているはずのマツ子が呟く。
「雪があまり積もらないならそれでいいよ」
義男が大人びた言い方をする。
「ここで、頑張ろうな」
清次は古めかしく落ち着いた街を歩きながら誰に言うともなくつぶやいた。
知恵子は寒そうに一番後ろをついてくる。
浅間山、剣が峰の上の方にだけ、微かに雪が残っているのが見える。
昭和三十二年の春先である。