寒い北風が吹く日、僕は大阪、京橋の京阪モールと環状線駅の間の通路を歩いていた。
この場所はビルの谷間にあたり、ことに風がきつい。
大勢の人がそれぞれの思う方向へ背を丸めて急ぎ足で通り過ぎていくが、僕もまたそのような大勢の一人なのだ。
大阪環状線の駅構内に足を踏み入れた僕は、売店で新聞を買っているらしい青年と何気なく・・本当に何気なく・・目が合った。
その瞬間、僕は声を上げそうになった。
良平・・
その青年はまさに良平だった。
僕は懐かしさのあまり、その青年に声をかけようとした。
けれども、すぐに思いとどまった。
良平は25年前のちょうど今頃の季節に、死んだのだ。
すると、あらぬことが起こった。
青年が僕に声をかけてきたのだ。
「大野君、久しぶりやん・・」
僕はたじろいだ。
そこにいる「良平」は、まさに25年前の風貌だ。
ありえないことだ。
「僕やん・・良平やで」
僕は、立ちすくんだ。
青年を見つめた。
「僕やん、良平やんか」
青年の声も風貌も喋り方もまさに25年前の良平そのままだった。
「信じられない・・」
僕は彼を見つめたまま、少し後ずさりした。
「逃げんでもええよ」
彼はやさしい表情で僕を諭す。
そして、僕の方に近づいてくる。
僕は動けなくなり、青年を見つめていた。
青年は表情もにこやかに、ゆっくりと僕に近づいてくる。
その表情こそ、まさに25年前の良平の姿だ。
京阪の高架を電車が通る音がする。
環状線の内回りと外回りの電車がすれ違う。
プラカードを持った男性が所在なげに佇んでいる。
僕は腹をくくった。
今の青年を受け止めようとだ・・
腹をくくれなかったことで良平を死に至らしめた過去を思い出したからだ。
「大野君、分かってくれたんや」
青年・・いや、もう良平と呼ぼう・・彼はほっとしたかのような表情で僕の手を握ってくれた。
「変やって・・思ったやろ・・」
彼は親しげにそう語りかけてくる。
「ああ・・だって、お前は・・」
「分かってるで・・死んだはずやって言いたいんやろ」
僕は心なしか、ほっとした。
それでも、今、目の前にいる良平が何者かは分かるはずもない。
「最初に言うておくわ・・僕は大野君がここに来ることが分かって、前世の思い絶ちがたく・・ってところやな」
彼は僕の方に手を置き、ゆっくりと喋った。
「今のお前は・・僕から見れば後世のってところか・・」
「そや!よう分かってくれたな。うれしいで」
「理屈では分かるが・・」
「理屈ちゃうねん・・もっと深い部分やねんな」
「深い部分・・」
「そや、思いの部分や」
「思いか・・分かるような分からんような・・」
良平はふっと、寂しげな表情をした。
「僕は途中で死んだやろ・・そやから、大野君にホンマの気持ちを伝えたたかったんや」
そこまで気いて僕は彼が本当に良平の後世なのか、確かめたくなった。
「なあ・・良平よ・・そやけど、お前がほんまに良平の後世か、僕には確かめる術がないのや」
「ああ・・それやったらなんでも質問してよ」
彼は屈託なく、軽い笑顔を見せながらそう言う。
「じゃ、お前が好きやった女の子は誰や」
一瞬、彼は考えるような表情を見せたがすぐに答えてくれた。
「ほんまに好きやったんは・・誰かな・・さつきちゃんか、それとも智子ちゃんか・・」
「さつきと違うんかいな」
「いやいや、あのころの僕は、女の子に恋することに憧れていたからなぁ」
この答えはなかなかのものだった。
僕はその頃の彼を見て、まさにそう感じていたからだ。
「大野君こそ、さつきちゃんと付き合っていたやんか」
「いや・・僕は、ただ文通だけや・・」
「いっぺんだけ、デートしてたよね」
「知っとるんか・・そやけど、僕はもう、舞い上がってしもて、デートにならへんかったわ」
「それも知ってるで・・」
「天国からみてたんか・・」
そう訊ねると彼は少し暗い表情になった。
「いや・・」
「ん?」
「さつきちゃん、死んでから会ったんや・・」
「え!彼女、死んだの・・」
良平は申し訳なさそうに頷いた。
「あれから4年ほどしてからかな・・自分で列車に飛び込んだ・・」
「ほんまか・・」
彼は黙って頷いた。
僕らは連れ立って京阪電車の高架下にある喫茶店に入った。
ウェイトレスが来ると、かれは僕を悪戯っぽく見つめて「レーコー」と言う。
ウェイトレスは怪訝な表情を見せる。
「アイスコーヒー、二つ」
僕はそう言いなおした。
アイスコーヒーにしたって、この冬の真っ只中に飲むのはおかしかろうと思ったが、なんだか良平の悪戯に乗りたくなったのだ。
「最近は、大阪でもレーコーは通じひんねん・・」
彼はそう言って苦笑する。
「そら、25年前なら通じたやろうけど」
僕たちは声を合わせて笑った。
なにか、打ち解けていく気がする。
「それで、さつきちゃんのこと・・」
「ああ、両親に勧められた結婚が彼女の本意じゃなくて、何もかも楽しくなくてと言うことやった」
「それだけで?」
「そう、それだけで、立派に理由になるやろ・・僕かって・・」
「ああ・・良平の真実か・・知りたいな・・」
「うん・・」
ウェイトレスがアイスコーヒーを運んでくる。
二人分をそれぞれの前に置き「ごゆっくりどうぞ」とお決まりの台詞を投げていく。
「僕はな・・」
「うん・・」
「女の子より、男の子に惚れる性質(たち)やった・・」
「どういうことや・・」
「だから、中村君に・・彼に冷たくされたことが引き金かな・・」
「中村に・・」
「そうや・・彼に冷たくされたことが人生で最大の悲しみやったんや」
僕はすごく不思議な気がした。
「僕よりも、さつきちゃんよりもか・・」
「そうやな・・大野君やさつきちゃんは大事な友達や・・中村君は一生を賭けても良いくらいの人やったな」
「僕には分からん・・」
「そやろな、僕にも分からんかったんやもん・・」
彼は美味そうにストローでコーヒーを飲む。
その姿はまさに25年前の良平そのものだ。
けれど、二人の間にある灰皿はきれいなままだ。
「タバコは吸わへんの?」
「ああ、今世では、タバコは吸ってへん・・前世では中学1年の時にはすでに吸っていたからな」
「ふうん・・」
「大野君はずっと吸わへんまんまか?」
「ああ・・喘息の持病もあるしな」
「吸わんほうがええ・・長生きできるよ」
「長生きか・・したほうがええのんか?」
「そらそうや!今の人生をできるだけ長く楽しむことやな」
僕はそうかと、頷きながらストローでコーヒーを吸う。
口中にコーヒーの味と香りが広がる。
「そう言えば・・良平と、よく・・こうしてコーヒー飲んだな・・」
「ああ・・」
「僕はコーヒーよりは酒が好きやけどな」
「昔からそうやったな・・酒飲んで、酔った勢いで僕のトラックを運転して・・」
「そんなこともあったな・・無免許でな・・」
「もう少しで駐車中の車にぶつかるところやった」
「ああ、あのとき、良平がサイドブレーキを引いてくれなかったら・・どうなっていたか」
「今の仕事はしてないやろ」
良平はそう言って笑った。
大笑いするのではなく、彼らしいにやりとした笑いだ。
「僕の仕事まで知ってるのん?」
「タクシーに乗ってるのやろ・・」
「そや!よう知ってるな!」
僕らはしばらく他愛のない昔話をしていた。
それが、片方は今世の、もう片方は前世の話だと言うのだから奇妙ではある。
話が一段落した頃、僕はさっき、気になっていたことを聞いた。
「僕は、良平が死ぬことになった要因は、失業やと思っていた」
良平はうつむいてグラスの中をストローで混ぜながら、つぶやくように言った。
「何もかも、上手く行かなくなったんや・・中村君に冷たくされてから・・」
「そやけど、あの前の晩、僕と二人で橘社長のところへ行って・・就職お願いできたやないか」
「自信がなかったんや・・販売の仕事やろ・・僕はずっと車の運転をしてたからな・・」
良平はあの日の数週間前に、ルート営業の仕事中、大幅な速度違反で警察に捕まり、車の運転が出来なくなっていた。
検挙された翌日から、早速仕事に困っていた彼は、あの日の前日、僕のところに電話をかけてきて、僕は買ったばかりの中古車で彼を迎えに行き、一緒に知り合いの橘社長に会いに行ったのだ。
橘社長は地元の名士で、すぐにあちらこちら当たってくれ、自分の系列の自動車部品販売業の店の店長から良平の就職の快諾を取ってくれた。
僕は、その日の遅く、彼を自宅まで送ったけれど、彼の表情は冴えなかった。
彼が車を降りるとき、彼の足に僕の車のサイドモールが引っかかり、外れた。
ステンレス製の曲線を描く長いそのモールを、彼は振りかざし、「なんちゅうクルマに乗ってるんや」と笑った。
翌日の朝、彼は約束した自動車販売業の店には行かず、自宅の納屋で灯油を被り、自ら火をつけた。
「仕事のことだけやったら・・そないに悩まへん・・やっぱり中村君や」
「男に惚れるってことが分からん・・」
「惚れるって、相手が異性の場合だけやない・・男の場合でもありうるな・・」
「なるほど・・」
「中村君が冷たくなってからスピード違反で免許は無くすわ・・いろいろ上手く行かんかったんや」
「なるほど・・」
僕は相槌を打つしかなかった。
「しかし、死ななくても・・」
僕は改めて問いかけた。
「あの頃の僕にはそれしかなかった・・」
「辛かったんやな」
「そらな・・しんどかったで・・」
そう言う彼の表情は屈託なく、苦しい過去を思い出しているような雰囲気は感じられない。
あくまでも淡々としているのだ。
所詮は前世の記憶、今の彼に直接の関係はないと言うことか・・
「熱くなかったか?」
「なにが?」
「灯油に火をつけたとき・・」
「熱かったように思うなぁ・・すごく苦しかった。体中が痛かったし、ものすごく喉が渇いた」
「悪かったな・・」
「なんで?」
「良平の心の苦しみを理解できなくて・・あの夜、僕がもっと良平の話を聞いてやれたら・・」
「いやいや、違うねん!」
「ん?」
「僕はな・・大野君がいまだに僕のことで責任を感じているみたいやったから・・会いにきたんや」
良平が笑みをたたえてそう語る姿が僕の目の中でぼやけていく。
そう、僕はあれから苦しみ続けてきた。
それは妻があり、子供がいる今の僕の心の奥で大きなしこりになって残っていたのだ。
頬を涙が零れ落ちる。
「大野君、大野君には感謝してる・・僕のことを邪魔に扱わなかった唯一の友達やもん・・」
僕はもう、彼を正視できない。
「ひとつだけ・・良いことあるねん・・」
僕の涙が少し収まってくるのを待ってたかのように彼がそう切り出した。
「良いこと?」
「うん・・」
「どんな?」
「あのね・・さつきちゃん・・今、僕の奥さんやねん・・」
「え?」
「5年遅れて生まれてきてくれて、だから5歳年下の、奥さんやねん」
彼の表情はあくまでも優しげで、落ちついていた。
「会いたいな・・」
僕がそうつぶやくと彼ははっきり言った。
「会えないよ・・彼女にはそこまでの思いは無いんや・・」
「そうか・・」
「僕だって、今の時間が終わったら、もう、大野君のことは忘れてしまうよ・・思いが消えるんやもん・・」
「思いが消える?」
「大野君が僕のことで責任を感じていて、それが本当に申し訳ないっていう思いや・・」
「そうか・・」
「大野君・・」
「うん?」
「僕のこと、忘れないでいてくれてありがとう・・」
「これからも忘れないよ」
「ありがとう・・でも、もう責任は感じなくて良いよ・・」
「うん、そうする・・」
「お互い、幸せな今世を生きようよ!」
「うん・・」
僕らは連れ立って店を出た。
僕は環状線の駅へ、彼は京阪電車の駅へそれぞれに向かう。
手を振った。
かれもまた、手を振ってくれた。
そして、僕は環状線の駅の方へ向かった。
数歩進んだとき、やはり彼に何か言いたくなった。
あわてて彼を追いかけた。
その人物に「良平!」と声をかけた。
振り向いた25年前の良平そっくりの、その青年は驚いたような表情で僕を見つめ、そして、無視するかのように足早に去って行ってしまった。