story・・小さな物語              那覇新一

小説・散文・詩などです。
那覇新一として故東淵修師主宰、近藤摩耶氏発行の「銀河詩手帖」に投稿することもあります。

霧雨の列車

2024年09月12日 21時39分02秒 | 小説

北海道をレンタカーで走る
観光と言えば観光かもしれない
だが僕に特に行くあてはなく
このクルマを返すまでの一週間で何処まで行けるか
関心はそこにしかない

いろいろな日常が煩わしく
勤めていた会社を辞めた
僕はもう還暦を超えているが
食うためには仕事をするしかない

だがその仕事ももうあと数か月で年金が支給される・・
その前に辞めたのだ
何もしなかった人生
もっと何もしないということ
何がしたいかと言えば何もしないことをしたい

本能から出た叫びが僕の心を占めた時
僕は会社に辞表を出していた

この年にして家族もおらず
かつて恋愛の経験はあれど遠い昔だ

北海道に来てから雨が多い
今はまだ降ってはいないが寒く暗い空だ
クルマは空知から十勝へ向かう

気温が急に下がった故か
霧が出てきた

霧は進むほどに深くなる
カーブが連続する道も
沿道の樹々の影が見えるだけで
ただ霧の中へ向かう

狩勝峠を越えたようだ
展望台はあるがなんの眺望も開けない
やがてトンネルを超えて
道は下っていく
ヘッドライトはむなしく霧を照らす

坂を下り、やがて右側に霧の中にも目立つ大きな看板が見えた
この辺りで少しクルマを停めようと思っていたので
公園かレストランでもあるのだろうかと、その看板のところを右折した

ほんの少し走ると、クルマの左側、いきなり列車が現れた
霧の中、ぼんやりと佇むその列車は動いていないようだった

そこに黒い機関車に牽かれた青い客車があった
客車には車体の上と真ん中と裾に白い帯が巻かれている
この客車は・・昔の特急ではないか・・・
霧の山中に突如として現れた列車に僕は驚いた

僕が子供の頃、多くの少年たちが心をときめかして
東京駅、上野駅、大阪駅などへ眺めに行ったあの寝台特急の客車だ。
そしてその先頭には、黒い機関車
「これはキューロク(九六〇〇形蒸気機関車)ではないか」

貨物機だったキューロクが特急の先頭に立っている
それはこの列車が現役当時ならおかしな光景だったろうが
こうしてふっと出会えたこの不思議な列車に
僕は妙な安心感を覚えた

霧がやがて雨になる
粒の細かい雨が機関車と客車、森の中を濡らしていく

ふっと、客車の前に少年が立っているのが見えた
こんな霧雨の山中に子供がいる
少年は客車をずっと眺めているようだ
「君は、ここの人なんか?」
僕の問いに少年は客車の方を見たまま
「いや、ボク、神戸やねん」
「神戸?僕も神戸やけど・・どうやってここに来たの?ご家族は?」
「うん、学校が終わってから・・」

霧雨が降っている
青い客車がプラットホームに停車していた
この先、豪雨で運転が見合わせになったのは昨夜らしい
東京からの寝台特急が地元の駅に停まったままやでと
クラスメイトが教えてくれた

寝台特急は京都や大阪からのもあるが
カッコいいのはいくつも優等車を連結した東京からの列車だ
当時、熱烈な鉄道ファンだった僕は
授業が終わってから近くの駅へ行った

雨で運転が規制され駅の改札は閉じていた
「すみません、停まっているあの列車が見たいんです」
普段は内気な自分が良くそこまで言えたなと
いまでは思うが、そう駅員に頼み込んだ

「いいよ、どうせ暇やし、付き合ってあげる」
駅員はそう言い、僕をプラットホームに連れて行ってくれた。
地下道を通り、ホームに上がった僕の前にあったのは
濃い青に、三本の帯を締めた寝台特急の客車だった

客車の中は暖かそうで
停まったままの列車のなかで乗客たちが寛いでいた
こうなると慌てても怒っても先へなど行けない・・
運転開始まで待つしかないのが鉄道旅行
運行トラブルにあったときの唯一の対処だった

立派な客車だった
食堂車があったが灯りはついているものの乗客はおらず
ウェイトレスが椅子に掛けて暇そうにしていた
普通の寝台車ではたくさんの乗客たちが居て
僕を見つけて指さしてくる
上等の寝台車もあり、個室にいた乗客の少女と目が合った
向こうは僕を見て声を掛けてくれたようだが
特急の固定窓では声は聞こえない

僕も「どこまで行くの?」と訊いたが
向こうは耳をこちらに向けて声を聴こうとはするものの伝わらない
霧雨はやがて強い雨に変わっていく
少女は長い黒髪で、哀しそうな表情をしていた

「こんな立派な列車でなんで楽しくないんだろう」
独り言をつぶやいた僕に横にいた駅員が
「いつ列車が動くか分からないからやろうね」と答えた
いや、あの少女の哀しそうな眼はそんなことが原因ではなさそうだ
僕は少女と暫く向かい合っていた
「そろそろ戻ろうか」
駅員が僕を促した
少女に軽く手を振った
少女も少し寂し気に手を振り返してくれた

ふっと我に返った
僕は狩勝の山の中にいる
少年は客車に向かって何か話しかけていた
そのとき、僕にも見えた
あの寝台車の中にいる黒髪の少女が

目を凝らした
少年は楽しそうに車内の少女と会話をしている
固定窓だろ、声など聴こえまいに・・・
雨が強くなってきた
「おい、そこの少年、濡れるぞ、クルマの中に入れよ」
僕が声を掛けると、一瞬少年は僕を見た
次の瞬間、そこに少年はおらず
ただ青い三両の客車が佇んでいる

錯覚が幻覚か・・
山の中に突如として現れた青い客車を見て
大昔の自分が映し出されたのだろうか
それにしても、あの少女は東京からの寝台特急で何処へ行ったのだろうか

秋の終わり、北海道の山の中で
クルマのシートを倒して僕は目を瞑った

「わたし、あなたと、もうすぐ会えるよ」
黒髪の少女が嬉しそうに微笑んでいる
そんな夢を見た

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

野良娘

2024年04月19日 21時20分16秒 | 小説

その日、僕は仕事のタクシーで自宅マンションの近くまで来たので、休憩にするかと、そのままマンション駐車場にクルマを乗り入れた。
僕が自家用車用に借りているは駐車枠は、自分のクルマは会社にあるのでそこに営業車を停められるという訳だ。

自宅マンションの近くが大きな都市公園だ。
こうして表現すると、僕自身がかなり儲けの良い仕事をしているように思われるだろうが、マンションを購入したとき、僕は大阪でホテルの仕事をしていて、当時は確かにマンション購入資金のローンを返済してもやって行けるだけの収入はあった。

だが勤めていたホテルが倒産し、その後の僕自身の不甲斐なさから妻は娘を連れて出ていってしまった。
マンションのローン返済は待ってくれるわけもなく、やむなく近くのタクシー会社で働き始め、ようやく何とか落ち着いてきたのが最近という訳だ。
だが、タクシー会社の毎月の給料でローン返済をすると手元には半分少ししか残らない。

タクシーの仕事は「一当務」というやり方で、朝会社に出勤したら大体20時間後の翌未明に退社するというものだ。
仕事中に二度の食事をとる必要があるが、以上の理由で僕には外食する資金があまりなく、こうして自宅に帰って安いインスタント食品で済ますことが多々ある。

早々に食事を済ませ営業車に戻る。
駐車場を出て公園の脇を通ると手が上がった。
僕のタクシーに向かって手を挙げたのは公園の入り口で座り込んでいた女だ。

僕は本能的にクルマを停めた。
よっこらしょと立ち上がってくる女を見た途端、僕はクルマを停めたことを後悔した。
汚れた服装、擦れた髪の毛を無造作に後ろでまとめ、黒ずんだ表情で、けれど少し笑顔を見せ乍ら女は近づいてくる。
しかたなくドアを開ける。
「あのう、近いのですが往復お願いできますか」
女は意外に若い声でそう言う。
「いいですよ、どちらですか?」
「その先のスーパーまでなんです」
「待ち時間もメーターは回りますから料金は上がりますが」
「もちろん、分かっています。何なら先にお金を置いておきます」
服装や顔面、髪の汚れとは裏腹のはっきりした物言い、言葉尻もしっかりしていた。
「いえいえ、お代はすべて完了してからで結構ですよ」
彼女の気勢に威圧されたか、僕はそう返してしまっていた。

女が乗ってすぐに猛烈な匂いがしてきた。
糞尿の匂いだ。
まさか、粗相したのではとバックミラーで女性の様子を見たが普通に座っているだけだ。
匂いは強烈だ。
どんどん酷くなっている。
幸い目的地までは数分の距離でそこで女が降りて買い物をすることになっている。
ドアを開け、女がいったん降りる。
女の座っていたあたり、間違いなく猛烈な匂いが漂っている。
窓を開けて風を通すと匂いは収まってきた。
座席を確認しても特に液体の染み出た感じはない。

開けた窓から風を入れていると数分で女が戻ってきた。
手には買い物袋を一杯にしてぶら下げている。
「待たせてごめんなさい」
女は笑顔でそういうが、顔はやはり浅黒く、クルマに乗り込んだとたんにまた匂いが強烈に漂ってくる。
だが目がきれいでまっすぐに僕を見ている。

窓を開けたまま走り、都市公園のところに着いた。
「ここで宜しいのですか?」
「もう少し先なんです」
クルマを都市公園に沿って走らせる。
公園の少し先、古びたアパートが目に入った。
「ここです、ありがとう」
女はそう言い、千円札を二枚差し出す。
運賃メーターは1600円を差していた。
「お釣りは良いです」
「いえいえ、そういうわけには・・」
僕は固辞して半ば強引に女に釣りを握らせた。
「いろいろ大変そうですから」
要らぬことを言ってしまったか・・と思った。
「お優しいのですね、ありがとう」
女は軽く頭を下げクルマから離れてアパートの中へ入っていった。

それからしばらくはして道路の広いところでクルマを停め、ドアも全部開け放して車内に消臭剤を撒いた。
そのまましばらく風を通し、座席をもう一度チェックしてゆっくりクルマを走らせる。
「あのお客、何か月も風呂に入ってなく、着ているものの洗濯も出来てないという事なのか」
自然に独り言が出てくる。
クルマの匂いは取れたかもしれないが、僕の鼻腔にまだあの匂いが残っている気がする。

********

数日後、その日は公休で、日ごろの運動不足を少しは解消しようと都市公園に出てしばらく歩き回った。
平日の午後、公園にいる人は少ない。
しばらく歩くと、公園のベンチに座っている人を見つけた。
あの女だ。

ま、先方は覚えていないだろうとその前を通った。
「あ、この間の運転手さん!」
女が立ち上がった。
「あ・・これはこれは」
着ているものは先日と同じで薄汚れているし、何よりあの悪臭が漂う。
「あの時はありがとうございました!」
そう言って頭を下げる。
頭の上からも匂いが漂う気がする。
「いえいえ」
適当にあしらって、その場を離れようとしたはずだが自分でも不思議な動きにでた。
女の目がまっすぐできれいだったからかもしれない。
「あの・・お風呂に入られた方がいいですよ」
また余計なことを言ってしまった。
「お風呂ですか?」
「ええ、すごい匂いがしているの、ご自分で分かりませんか?」
「匂いですか?だからでしょうか、わたしの周りから人がいなくなるの」
「でしょうね・・あと着ておられるものの洗濯ですね」
かなりきつく言ってしまった。
女はしばらく自分の躰を見回していた。
「お風呂ないんです、あのアパート・・それに洗濯するにもこの服しかないし」
「お一人なのですか?」
「はい・・身寄りもないし、市がくれるお金だけで生活しています」
「風呂屋にくらい行けるでしょう」
僕がそう言い切ると女は哀しそうな表情になった。
どんな事情があるか知らないが、だったらと僕は口走ってしまった。
「うちに来ませんか、僕一人だし、風呂あるし、別れた相方が来ていた古い服がまだおいてあるし」
女は不思議なものを見るように僕を見た。
矢張り綺麗な目だ。
「気を使われなくて結構ですよ、今こうして出会って、そしてあなたが僕のクルマに一度でも乗って下さったから、少しさっぱりしてもらいたくて」
女は泣いているようだった。
僕は女の手を引いた。
驚いて僕を見る女。

そのまま、僕は女をマンションに連れて入った。
途中、近隣の住民に見られないかだけ気を配り、ここも幸い平日の午後、歩いている人はおらずホッとする。
だがずっと匂いもついてくる・・あたりまえだ。
女は片足が具自由なようで、ずっと足を引きずりながらついてくる。

自室に招き入れた。
自分の部屋の中に、あの強烈な匂いが漂う。

「取り敢えず全部脱いでシャワーを浴びてください、代わりの服を出しておきます」と女に告げて風呂場でシャワーの電源を入れる。
女が黙って服を脱いで風呂場に入っていった。
僕はゴミ袋を出してきて女の着ていたものすべてをそこに放り投げた。
匂いが自分いも張り付くように思える。
部屋の窓を全開し、エアコンをフルに動かし、消臭剤を撒く。

風呂場の脱衣所に出て言った妻が置いていった古い部屋着などをだした。
けれど下着類が見当たらない。
なんとかなるだろうと、あとは台所の椅子に座りこんで酒を煽る。
なかなか風呂場から女が出てこない。

気になって声を掛ける。
「大丈夫ですか?」
女は摺りガラス越しに「匂いが取れない」という。
そして泣き出す。
「明けていいですか」
返事が来る前にドアを開け、女の方を見ないようにバスタブの栓をした。
そこへ湯を張る。
「お湯が入ったら自動で止まります、そしたらバスタブに浸かってください」
「シャワー浴びたら急に自分の身体が臭いのが気になって、こすってもこすっても匂いが取れないんです」
ふっと僕は女の方を見た。
痩せぎすの肋骨が浮き出た、女の裸体がそこにあった。
「ちょっと待ってね」
僕はそう言い、自分は下着一枚になって風呂場に入りなおす。
シャンプーをそのまま女の背中に吹き付け、タオルでこする。
面白いほど垢が落ちていく。
「前は自分でやってね」
といい、シャンプーとタオルを渡す。
女は泣きながら体をこする。
「こすり過ぎると肌に傷がつくよ」
「でも匂いが取れない」
「顔を洗って鼻の中や口の中もシャワーして・・」

結局、抱き合うようにして僕は女の体を洗った。
女の頭にもシャンプーを大量にぶっかけて何度もこすっては流すを繰り返す。
フケや垢や縮こまった髪の毛がたくさん出てくる。
やがて、最初は指が通らなかった髪の中をすっと指が通るようになった。
その間、女はずっと泣いている。

湯が溜まった。
「湯に暫く浸かっていてください」
僕はそう言うと、下着を着たまま、自分の身体にシャワーをかけた。
シャンプーの香りにさすがに悪臭も退散したのではないかと思ったが、今度は自分が臭く思えてくる。

濡れた下着を洗濯機に放り込んで僕は台所で酒を食らう。
暫くして女が出てきた。
別れた妻の古い部屋着を着ている。
「下着は後で買ってきますから」
そう言って台所に招く。
「ビール呑みますか?」
女は頷く。
ビールを飲んで少し気が楽になったのか、女の目から涙が消えていた。
「何か月ぶりのお風呂だったんですか?」
「半年以上・・・」
清潔になった女は、なかなかの美人ではないか。
「どうしてそのようなことに・・あ、嫌ならお話しされなくてもいいですよ」

しばし女は缶ビールを持ったまま宙を見ていた。
「わたし、無戸籍児なんです・・」
僕は返事ができず女の目を見る。
矢張り綺麗な目だ。

「母が昨年亡くなって、身寄りもないしどうすることも出来ず」
「それまで住んでいた家はどうされました?」
「家賃滞納で追い出されました」
「お母さんの貯金とかなかったのですか?」
「あるはずなんですが、銀行も郵便局もシャットアウトで」

結局、ネットカフェで生活していたがそれも資金が尽きて居られなくなり、ホームレスとなって彷徨っていたところを、知人に見つけられ、行政と掛け合って最低限の生活ができる環境にはおいてくれたのだという。

だが、無戸籍児だと勤めに出ることもできず、ごく最初は身体を売っていたと。
それも段々嫌になり、結局、自室にこもり、必要な時だけ食料の買い出しに出る生活になったとのこと。

アパートには風呂はなく、銭湯も近隣では数キロ先まで行かねばならず、結局、行政が暮れるわずかな金は、食料とそれを買い出しに出る時のタクシー代で消えるという。
それも食料の金額よりタクシー代の方がはるかに高額だ。

「右足はどうしたのですか?」
「これ、悪い男の人に追いかけられて必死に逃げた時に崖から落ちたんです」

そう言って女はスウェットの上から足をさする。
そして急に頬を紅潮させ、僕に向かって言う。
「今日は本当にありがとうございました。お礼をしなければならないのですが、私には何もないのです。せめてこの身体でお礼をするべきなのでしょうけれど・・」
一生懸命にそういう女に僕はちょっと本能が疼く。
「いいですよ、そんなつもりでお招きしたのではありませんし」
「いえ、必ずお礼をさせてください・・でも、少しだけ待ってください」
「そこまで気を遣わずとも・・」
「さっき身体を洗わせてもらって、なんて汚い身体なんだと・・」
女はそう言いながら首筋のところに手を当てながら言う。
「疥癬ですね、あちらこちらにできていましたが、これを治してから」
「生活はできるのですか?」
「はい、なんとか」
「清潔にできますか?」
「はい、気持ちを入れ替えます」
だが、行政が呉れるカネなんてたかが知れている。
「知り合ったのも何かのご縁でしょう」
僕はそう言って立ち上がり、タンスの中に入れていた自分の財布から幾ばくかの札を出して手渡した。
「こんなにお世話になったのに、これを戴く訳にはいきません」
女は拒絶した。
だが僕は無理に持たせてやった。
「着ておられた洋服はすべて捨てます。お送りするときにコンビニで下着類は買いましょう、でもそれ以外の衣服も必要ですし、銭湯にも行かねばならぬでしょう、疥癬を治す薬も必要でしょうし、そのためのひと月分の資金です」
女は泣き崩れた。

実は僕は、本当はここでこの女を抱いてしまいたかった。
下着を付けずスウェットだけで座る女はそれだけで十分な色気はあった。
さっきの公園での腐臭を放っていた同じ人物とは思えない

だがここは待つことにした。
いや、抱けなくてもいい、このままこの女が逃げてどこかへ行ってしまってもいい・・
もともと自分自身の気まぐれでしたことだ。

その日、僕は日が暮れてから女をアパートの近くまで自分のクルマで送っていった。
一週間が過ぎ、二週間が過ぎ、ひと月が過ぎても女から連絡はなかった。
もう、どこかへ消えていったんだろう・・・
そう思うことにした。
淡々と仕事をこなし、誰も話す相手のないマンションの一室で明け番や公休を過ごした。

ある日、あのことから二か月がたったころ、明け方に仕事から帰ってマンションに入ろうとすると声を掛けられた。
「あの・・わたしです・・あの時はありがとうございました」
振り向くと、質素だが清潔な身なりをしたあの女がマンションの玄関脇で待っていてくれたのだ。
「ああ・・もしかしてお昼間からここで?」
「はい、ぜひ、お礼がしたくて」
「ああ・・それはそれは・・」
僕は彼女を迎え、オートロックの玄関を開けてエレベータに乗り自室へ向かった。
僕の部屋に入って向き合うと女は深々と頭を下げた。
「改めて、お礼申し上げます、ありがとうございました」
「まぁ、儀礼は良いですから、お茶でも飲みましょう・・」
僕は湯を沸かし、台所の椅子に二人向き合って座る。
「疥癬は良くなったの?」
「はい」
そう返事して女は首筋を見せた。
綺麗なキメの細かい肌が輝いているように見える。
「それはよかった・・」

この人に一緒に住んでもらいたい・・・
一瞬、そんな気持ちが湧いてくるのを僕は抑えられない。
お茶もそこそこに僕は彼女を寝室へ案内した。

ふっと彼女を見た。
やはり綺麗な目だ。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ドクターイエロー

2024年03月28日 21時58分32秒 | 小説

 

その日も僕は新幹線の橋梁が見える川の土手にいた
ここは新幹線の列車を編成丸ごと見える稀有な場所
そして十日に一度程度
東京と博多を二日かけて往復する黄色い新幹線
ドクターイエローの走る日だ

ドクターイエローとは列車の愛称であり
「新幹線電気軌道試験車」という固い名前が本名だが
列車全体が黄色に塗られ青い帯が入っている
その列車が「ドクターイエロー」もしくは「黄色先生」と呼ばれている

もっとも、乗客の乗れない列車ダイヤが
市販の時刻表などに掲載されるはずもなく
正規の時刻表サイトでも検索などできない
だが、蛇の道は蛇・・鉄道ファンならではの情報ルートがあり
僕もそのルートで時刻や運転日を知っていた
不確定だがネット上にはその情報を出してくれる鉄道ファンのサイトもある

平日であり、鉄道ファンの姿はほかにはない
僕は川土手の草むらに腰かけて春の長閑な空気を吸う
河原に黄色い花がたくさん咲いている
その花の向こうを新幹線の列車が行く

空は薄く濁っていて快晴とは言えないまでも晴れている
雲雀が高いところで鳴き、川ではボラが飛び跳ねる
「ボラが跳ねるってことは、明日は雨ですねぇ」
女性の声がした
春のような明るい色合いのワンピースを着た、長い髪の女性だ
「ああ・そうなんですか」
そんなこと考えたこともなかった
「ふふっ」
女性が微かな笑い声を漏らす
「鉄道ファンの方でしたら興味は線路のほうにおありでしょうし」
女性はここでカメラ構えている僕を見て鉄道ファンだと判断したようだ
「はい、恥ずかしながら」
またボラが跳ねる
白鷺が低空飛行をして魚を狙っているが
飛んでいるボラでは大きすぎるのではなかろうか
「ところで・・」
「はい」
「今日は、黄色い新幹線、ドクターイエローの走る日なのでしょうか」
「ええ、そうですよ」
「わたしにも撮れますか」
そう言って女性は僕にコンパクトデジタルカメラを見せる
「このカメラでは、静止画は慣れないと難しいと思いますが動画なら」
「動画・・ああなるほど」
「僕が今ですよと合図します」
「はい」
「そうしたらカメラの動画スイッチを押してくだされば」
そい言いながら僕は女性の持っているカメラの動画ボタンを指さした
「え、合図をくださるのですか?」
「はい、僕はこちらでファインダーを覗いていますが、声くらいは」
「ありがとうございます」

柔らかな風が吹く
黄色い花が揺れる
「綺麗な花ですね」
僕がそう言うと女性は少し悲しげに言う
「このお花、外来種で、見つけたら根こそぎ抜いて捨てなければならないのです」
「え、そうなんですか」
「はい、花に罪はないのに」
「ですよね、きれいなのに」

スマホで時刻を確認する
あと数分だ
「もうまもなくですよ」
僕は女性にそう促した
女性はカメラを構える
まず、反対方向の普通の新幹線列車が来た
その列車があっという間に見えなくなってすぐ
遠くに黄色い屋根が見えた
「来ましたよ、ボタンを押してください」
女性にそう言うと僕はファインダーに集中した

デジタル一眼レフカメラのファインダーに
黄色い流線形が飛び込んでくる
高速連続撮影、秒間十コマ、シャッターを押し続ける
ファインダーの中で列車は動き流れていく
僕は黄色い列車を追い続ける
時間にして数秒
長くも短くも感じる一瞬と言えば言葉に齟齬があろうか

列車が行ってしまってから女性の方を見た
「撮れましたか?」
女性は僕にカメラのモニターを見せた
画面の中ほど、随分小さく、それでも黄色い帯が
はっきりと流れていくのが分かる
「こんなものでしょうか」
「はじめてにしては大成功ではないでしょうか」
そう言って僕は自分のカメラのモニターをその女性に見せた
「すごい、綺麗に撮れてますね」
「僕はこの道、随分長いですから」
そう言うと女性は頬を上気させ無心に僕を見た
「この写真、送ってもらうわけにはいきませんか?」
「いいですよ、メルアドか、SNSのアカウントがあれば」
「あります・・」
女性はそう言って自分のスマホからSNSのページを見せた
「では、そこにアクセスしましょう」
僕は女性のアカウントを検索して探し出し
挨拶だけのダイレクトメッセージを送る
「あとで写真を仕上げてお送りしますよ」
「ありがとうございます」
女性は頭を下げる
僕は少し不思議に持っていたことを訊いた
「ドクターイエローがお好きなわけではないのでしょう」
ふっと間をおいて女性は黄色い花の方を見て答える
「娘が大好きでして・・今入院しているので」
「なるほど、お幾つくらいの娘さんなのですか?」
「六歳・・この春から小学校に行くはずだったのですけど」
「それは哀しいですね」
「なんとかここを乗り切ってほしい・・・母一人子一人ですから」
「倖せの黄色い新幹線ですから、見た人には何か幸福があるそうです」
「だったらいいですね・・人間にもドクターであってほしい」
鳶が空を飛ぶ
風は一瞬強く吹く
「母一人子一人ですか・・」
「はい」
「こんなこと、お伺いしたら失礼かもしれませんが」
「ああ、わたしは為らぬ恋をして、外国の人の子をもうけたのです」
「要らぬことを訊きました、失礼しました」
「いえいえ、わたしの方から喋ったので」
ふっと、緩い色合いの空を見上げる女性の横顔が美しい
・・こんな人が自分の相手だったらいいのに・・
未だ、結婚もできず老いの入り口に立った僕は
女性の横顔をしみじみと見る
「何かついていますか?」
不思議そうに僕を見る女性の後ろを白い新幹線が通り過ぎる
空はぼんやりと晴れている
黄色い外来種の花が揺れる

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

過去からの恋

2024年01月18日 21時26分36秒 | 小説

いつも乗る電車の中で時折出会う女性がいた。
肩までの黒髪、服装は基本的にフォーマルで、事務職か何かだろうか。
彼女は僕が通勤で使う郊外の駅のまだ前から乗っているらしかった。

その朝も件の女性を見かけた。
いつも乗る快速急行の前から3両目で、彼女はドアのところで壁にもたれ、手にはスマホを持っているものの、見るとはなしにドア窓の外を眺めている。
そう言えばほかの乗客のように一心にスマホを見ているわけではなく、時折目を落としたり、操作していたりするがすぐにまた視線は窓の向こうだ。
僕が降りるのは都心の駅だが、彼女はいつもまだ乗り続けていて、その駅で両側のドアが開いて大勢の乗客が錯綜する中、空いた座席に座るでもなく同じ所に立っている。
僕はここしばらくは、彼女がそのまま乗っていく列車を、ホームで見送るのが日課になっていた。

惚れているのかもしれない。
いや、惚れているのだろう、名前も素性も知らぬ女性に・・

彼女が乗った赤い列車が、発車して行ってすぐに別の方向への特急列車が入ってくる。
この駅では長く余韻に浸ることなどはできない。

夕方、職場の友人に誘われて自宅とは反対方向の繁華街でかなり呑んだ。
ずいぶん遅くなって、その駅から都心駅を経由して、いつも乗り降りする駅へ直通する準急に乗ろうとした。
駅のホームで乗車列に並んでいたが、ふっと、隣の列を見ると間違いない、今朝も見かけたあの女性がそこに立っていた。
どうやら僕と同じ電車に乗るようだ。

気持ちが高まり心臓の鼓動が聴こえる。
けれど、僕は彼女に声をかけるなんて大胆なことは出来っこない・・・
そう、この優柔不断さが三十をいくつも過ぎていながらいまだに彼女の一人もいない現状を招いている。
彼女に声をかけたい。
だが声を掛けてそれが上手くいかなかったら・・明日から通勤電車の時刻もしくは車両を変えねばならない・・そんなことまで考えてしまう。
「俺もたわけだよな、つまらんことばっか先に考えて動けんなんて」
乗りこんだ銀色の電車で、自嘲しながらも、やや離れた席に座っている彼女を見る。
走り出した電車で彼女の視線と僕の視線が一瞬交じり合った。
「あかん、気づかれた」
なにがダメなのか、僕は一瞬、俯いてしまった。
だがこの日はたらふく呑んでいる。
その状況にあっても時間差で深くなる酔いは思わぬことをしてしまう。

やがて都心駅でたくさんの乗客が乗ってきて、立ち客で彼女の姿も見えなくなる。
いくつかの停車駅を過ぎ、僕の下車駅が近づいてきた。
その頃になると車内は立ち客がちらほらという状況で、また彼女の姿もよく見えるようになった。
彼女はスマホを手に持ちながら視線は座っている座席の向かいの窓辺りに向いているようだ。
僕は自分の下車駅に電車が停車しても席を立たなかった。
意外だったのは彼女がその時、僕の方を見ていたことだ。
もしかして気づかれとるのか・・

準急電車はその駅から各駅停車になる。
そうして五つ目くらいの駅で彼女は席を立った。
僕は、すぐに出ると怪しまれると思い、彼女がドアを出てしばらく、十秒ほどして「ドアを閉めます」の案内があってから車両を出た。
彼女の後姿が見えている。
改札を抜け、彼女は駅を右に出ていく。
大きな葬祭関係の建物の脇を通り、小さな橋を渡る。
僕は20メートルほど離れて後を付けている。
まるで、ストーカーやねえかと自嘲しながら。
そのときだ、バイクの爆音がした。

バイクは二台通りかかり、こともあろうに彼女の横で停止した。
「おう、ねえちゃんよ、ちょっと遊ばへんか」
太い声が聞こえる。
「ちょっとくらい、かまへんやろが」
彼女は身体を避けるようにしてそこを通ろうとした。
男の一人がバイクを彼女の前に持ってくる。
「逃げんなや」
立ちすくむ彼女。

僕はその瞬間、何も考えずに走っていた。
「おいおまえら!」
男たちは僕の方を見た。
「僕の彼女に何をしとるのだ」
男の一人が笑う。
「お前の彼女?ほう、ホンマかいな」
「そうだ、まぎれものう、この人は僕の彼女だがね!」
男たちは彼女を見た。
「おい、こいつがお前の彼氏なんか」
彼女は即座に大きな声で答えた。
「そうです、彼氏です」
そう言って僕の方を向き直った。
「遅かったじゃない!」
思わず僕も「ごめんな、仕事で遅なって」と返す。
そうして精いっぱいの力で彼らを睨みつけた。

「頼りなさそうな彼氏やけど、ま、他を当たらなしゃあないのう」
ひとりがそう言い、男たちはバイクの爆音を上げて去っていった。

静かになった小さな橋のところで僕はへたり込んでしまった。
脂汗が吹いて出る。
「ありがとうございました」
彼女が声を掛けてくれる。
「いや、彼女だなんて失礼しました」
「いえいえ、嬉しかったですよ・・」
「でも、連中、恨んどらんでしょうか」
「多分大丈夫、あの人たち、関西弁だったしバイクも地元のナンバーじゃなかったし」
「だったらいいのですけど」
小さな川を並んで渡る。
「いつも同じ電車に乗っておられる方ですね」
彼女がふっと問いかけてくる。
「はい、いつもちょっと離れて・・」
「時折、見てますよね・・わたしに気があるのかなと」
「あ・・気づいておられたのですか」
「そりゃあ、毎日会う人で、ちらちらこちらを見ている人・・」
「ストーカーみたいで・・ごめんなさい」
「今日、助けてもらったからもういいですよ、明日からはお話出来る人ができたってことで」
彼女のアパートは川を渡ったすぐのところだった。

******

僕は荒涼とした大地にいる。
目の前は昨日まで自分がいた城だ。
部隊が城を出て追っていった敵には散々に打ち負かされ、同朋の多くが討ち死にし、その中を僕は一人、命からがら逃げ帰ってきたところだ。
はやく帰って戦などせず、田畑を耕そう・・とそればかり考えながら。
そして城が敵の手にわたっていることを知った。
敵には別動隊があって、城を裏手から攻めたのだろう。
城の中にはまだ、自分たちの妻子眷属がいるはずだ。

やがて女の悲鳴が上がる。
中に突撃して自分の妻を助けたい。
だが、城地から姿を見られただけでも向こうの矢の餌食になることは見えていた。
「やだぁ、やだぁ、」
女たちの集団が敵兵に囲まれ、縄で縛られて連れられて行く。
僕は思わず立ち上がった。
自分の妻の姿もあった。
「あんたぁ!」
刀を振り上げて敵に向かう・・勇気は出ずただ茫然と眺めてしまう。
敵兵は立ち尽くす僕にはただ嘲笑をくれただけで、矢を射ることもない。
「雑魚はいらねぇ・・どこかへ行きな!」
呆然と見送り、やがて僕はその場を去った。
もはや今世では妻に逢えぬかもしれぬ・・悲しみが大きかった。

******

なんだ、今朝の夢は・・
僕は自分の部屋で朝日を浴びながら妙にはっきりした夢を噛み締める。
別にテレビドラマで戦国時代ものを見たわけでもないし・・・

そう思いながら支度していつもの電車に乗るべく家を出る。
今日からは彼女と話しながら電車に乗れる・・
改札を入り、今日は銀色の電車が来た快速急行の3両目に乗る。
彼女はドアのところで立っていて、僕を見て微笑んでくれる。
「おはようございます、昨夜はありがとうございました!」
「あ、おはようございます・・」
「ね、四百年ぶりに助けてもらえたのって、嬉しい・・」
「四百年?」
「ゆうべ、夢を見ませんでしたか?」
「あ・・」

電車は郊外を突っ走る。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

SKY171便にて

2023年11月27日 16時45分50秒 | 小説

神戸空港で少し焦ってチェックインをした
自宅近くからの路線バスが早朝からの工事渋滞に巻き込まれ
かなり切羽詰まった時刻になっているからだ

目的地は北海道の帯広だ
搭乗予定のSKY171便ならJR特急との接続もよく
お昼過ぎには現地についているはずだ

ポートライナーを降りると幸いにして空港は空いていた
オフシーズンの平日ゆえだろうか
QRコードをチェックイン機にかざすだけのチェックインを済ませ
作業用の道具が入った荷物を預け入れ
搭乗前検査を済ませると
どうやら搭乗までは僅かながらの余裕が残る時刻だった
心地よい搭乗受付案内の電子音、四音程が響く

待合室の自販機で温かい缶コーヒーを買い
駐機場に向いたカウンターでやっとホッとする時間を持つ
全面ガラスの向こう
先に出発する目の前の羽田行きが動き出すが
僕が乗るはずのスカイマーク機の千歳行きがいない
その時だった
女性の大きな声がした
「わかってるやん、そやから今から行くとこやん」
僕はびっくりして声の方を向いた

スマホを持ち、金に着色した髪の毛の少女が怒鳴っている
年のころは高校生くらいだろうか
やがて電話を切ったかと思うと少女は僕の座っているカウンターの
並びに腰かけて俯いている

泣いているのだろうか
この待合室にいるということは、僕と同じ千歳行きの便に乗るのだろう
身体が小刻みに震えている

航空機というものは基本的に女性が案内の主役であり
男性が乗客の面前に立つことは少ない
この点では鉄道に比すと随分ソフトな世界だといつも感心することだ

乗るべき飛行機が目の前にいない状況ながら
やがて優しい声で優先搭乗の案内があり
その対象の人たちが搭乗ゲートを入っていくと
次は窓側の席の人という事で僕もその列に並んで美女が監視するゲートを入り
ボーディングブリッジへ行くものと思っていたが
何とそのまま階段を下りさせられ空港の地平に出た
乗るべき飛行機はそこから100メートルほど歩いたところに駐機していて
タラップによる搭乗となった

すると乗客の何人かは地平から見上げる飛行機の珍しさゆえか
スマホで写真を撮り始める
その時だ、微かにだが怒鳴っている声が聞こえた
「おぉい、くみこ、むこうでちゃんとやれよ」
ジェットエンジンのアイドリングと風にかき消されそうになりながらも
その声ははっきり聞こえた
そちらを振り向くと、展望デッキの一番端っこから
男が叫んでいた

僕の少し後ろを歩いていた少女が立ちすくんでいる
さきほどカウンターで泣いていたらしいあの少女だ
思わず僕は足を止めてしまったが
やがてここでも案内についている美女係員に促されてタラップを昇る

飛行機という乗り物は案内はソフトだが
係員に従わなかった時の怖さは鉄道の比ではない

機内に入り、自分の座席に向かう
窓側で翼の少し前、良い席だ
荷物は預け入れにしているので手ぶらで席に着き
シートベルトを締める
かつては怖くて飛行機が大嫌いだったのだが
忙しい世間の中で
僕も自然と飛行機に飼いならされてしまった感じだ
小さな窓から空港職員たちが出発へ向けての準備を終えつつあるのを見る

隣の座席に人が座ってきた
航空機の座席は窮屈で
こればかりは新幹線のほうが一歩も二歩も上だよなとは思う
ふわっとした感触から座ってきたのが女性だとわかった
ちらっと見ると、先ほどから気になっているあの金髪の少女ではないか

どうやらシートベルトを探しているようだ
「お尻の下ですよ」と僕は小さな声で教える
「あ・・」
少女は軽く会釈をし、体を少し浮かせてベルトを取り出して締めた

乗客が全員座ると
CAさん(キャビンアテンダント)による万が一の際の身の守り方などが案内される
いつ聴いても同じ内容で
だから常時利用する客には省いてもよさそうな案内だが
未だにこれを省略したという話は聞いたことがないし
座席モニターのある機体などでは映像として見せてはくれるものの
いつも丁寧に案内されるのは同じだ
例えば新幹線に乗るたびにこういう案内をしたらどうなるだろう
いや、荷物の預入や搭乗検査などを新幹線が採用したらどうなるのだろう

そう言った意味ではやはり航空機というのは特殊な乗り物であるという感覚が
今も僅かばかり残っているという事なのだろうか
やがて空港職員が手を振るのを見ながら飛行機は後退する
そして向きを整え、滑走路へゆっくり向かっていく
巨大な図体が滑走路へ向かうまでのゆっくりとした走り
これこそが旅への前奏曲か
いや、前奏曲というなら空港に立ち入った時から
ここまでのすべてがそうなのだろう

「当機はまもなく離陸を開始したします、座席ベルトをお確かめください」
優しくも、ややきつい口調の案内が入る
ジェットエンジンの音が大きくなりそして一気にダッシュする
やがて、ふいっと空港から別れを告げるかのように
SKY171便は空中へ踊り出ていく
神戸の街が窓いっぱいに広がる
ふっと、右の肩に何かが当たった
見ると隣の席の少女が必死に窓の外を視ようとしていて
彼女の腕が当たったらしい

僕は身体を少し座席にくっつけるようにして彼女が外を見やすいようにした
まだ離陸中で座席のリクライニングはできない

明石海峡から加古川付近で飛行機は大きく進路を変え、北に向かう
そして福知山付近で北東に進路をとるようだ
この頃になってベルト着用サインが消えた

後ろの座席の人に「少しだけ座席を倒してよいですか?」と伺う
幸い、快諾を得てリクライニングシートを少し倒す
「これで、外が見えやすくなったでしょう」
隣の席の少女に声をかけると小さな声で「はい」とだけ返事が来た

この日は素晴らしいお天気で景色も抜群だ
だが、成層圏まで行ってしまうと結局は殆ど空しか見えないことになる
それでも件の少女は窓の外を見つめている

CAさんがエプロンを身に着けてサービスに移る
まずチョコレートが配られ、少女は不思議そうにそれを受け取る
僕も受け取ったあと、すぐにそのまま少女に渡した
「あげるよ、僕は甘いものは食べないから」
少女は初めて少し、はにかんだ

やがて飲み物のサービスがある
僕はコーヒーを、少女は戸惑いながらアップルジュースをうけとっていた
最近では鉄道の特急列車から車内販売のサービスすら存在しなくなっている
わずか、チョコ一枚、飲み物一杯のサービスでしかないが
これだけでもないよりは随分ましだろうし
有料であれば別の飲み物やグッズなども売ってくれる

鉄道を利用しようとする旅客が減っているのは
なにも所要時間の問題だけではあるまいと思うのだ
航空機はチェックインに時間を要し
神戸からだと東京まででは多分、総合的には新幹線のほうが速いし気楽だ
それでも本日の羽田行きも満席だという

本来は景色の良かった新幹線も防音壁に囲まれ
景色が見えづらくなった車内では販売員すらいない
自販機もなく飲み物は買えず旅の楽しみは駅の売店だけというのでは
旅の目的が仕事であれ遊びであれ
乗客から遠ざけられるのは致し方のないように思う

秋田上空辺りからジェットエンジンの音が抑えられ
飛行機はグライダーのように滑空していく
この時の静かで平和なひと時が好きだ

少女は時折、座席から腰を浮かしながら窓の外を見ている
「北海道の何処へ行くのですか?」
僕は何気なく少女に聴いた
そしてすぐに神戸空港でのあの雰囲気を思い出し
訊かねば良かったかと思い始めたが
「苫小牧という街です」
意外にも少女はきちんと返してくれた
「苫小牧かぁ、何度か行ったことはあるけれどある意味では北海道らしくない、いい街ですよ」
「北海道らしくないって?」
「工場の多い街で、それから雪があまり積もらない・・」
「寒くはないですか?」
「そりゃあ神戸に比べれば寒いでしょうけれど、北海道の中では温暖な方でしょうね」
「わたしでもその街で住めますか?」
「うん、むしろ雪の多い札幌辺りより住みやすいのでは」
少女はしばらく自分の中でその答えを咀嚼しているようだった
「オジサンはどちらに行かれるのですか?」
不意に少女から質問が飛んできた
「うん、僕は仕事で帯広に行く途中なんです」
「帯広・・」
「千歳から石勝線で狩勝峠を越えた先、大きな町だが寒い」
「じゃ、わりに空港の近くですか?」
「いや、南千歳駅から特急で二時間ちょっとってところでしょう」
「二時間、北海道って広いのですね」
「いやいや帯広くらいじゃまだまだ、石勝線をその先の根室線に向かうと、釧路まで4時間以上、根室までは乗り換えて合計7時間ですね」
「7時間・・・」
「神戸から鉄道で・・それも新幹線じゃない鉄道で東京へ行くようなもんです」
「じゃ、苫小牧も遠いのですか?」
「いや苫小牧は空港のわりに近く、着陸態勢に入った時にうまくいけば眼下に見えますよ」
そう話していると、すぐに飛行機は着陸態勢に入った
ベルトを締め、座席を元に戻す
左の機窓に海岸線が見える 
「あの海岸線、だいたい室蘭近くですよ、もうすぐ苫小牧が見えるはずです」
少女は僕の肩越しに腰を浮かせて窓を見ている
遠くに樽前山と風不死岳の原始的な姿が見える
「ほら、浜辺から食い込むような港が見えるでしょう、あそこが苫小牧です」
そう言ったかと思うと飛行機は苫小牧沖を通り過ぎ、日高山脈の方へ迂回
そうして山脈上で向きを大きく変え、原野上を高度を下げていく
ぐんぐん高度を下げ、渋滞している道路上を見下ろし
さらに高度を下げたと思ったらドスンと着地した
一気にブレーキが効き、やがて滑走路から誘導路へ移っていく

「皆様、当機はただ今千歳空港に着陸いたしました」
CAさんの案内放送があり、飛行機はゆっくりと駐機場へ移っていく
少女が明るい表情で僕を見た
「なんだか、すごく不安だったのがオジサンのおかげで楽しめました」
「そうですか・・それはこちらとしても嬉しいことです」
「いえ、ありがとうございました」
最初に出会ったときのあの荒れた雰囲気はなく
ごく普通の高校生くらいの年頃のお嬢さんに見えるようになった

ボーディングブリッジを通り、案内されるがままに歩き
階段を降り、回転レーンで荷物を受け取る
出口に向かうと件の少女がついてきた
「JRに向かうのですか?」
「それが、よく分からないのです・・・迎えが来ているはず・・」
監視員がいる到着ロビーへの扉を出ると「くみこ・・」女性の声がした

少女は頬を赤らめ一瞬、立ち止まる
「よく来てくれたね」
気になって僕はその様子を見ている
少女は立ちすくんだまま動かない
僕と幾ばくも変わらぬ年齢の、穏やかな服装をしたその女性は少女に向かい合う
「くみこ・・」
女性がもう一度少女の名を呼ぶ
少女は動かない
すると女性が少女に歩み寄り、抱きしめた
何も言わなかった少女が女性に抱きしめられたとたん
大声をあげて泣き出した
「お母さん!」
絞り出すかのように少女が叫ぶ
少女を抱きしめる母親も泣いているようだ

抱きしめあう二人と、それを立ち尽くしてみている僕の間を
大勢の旅客が歩いていく
巨大な空港の上気した空気が僕らを包む

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする