その女(ひと)は、見る限り、紅い色合いがこのほか好きなようだった。
紅いワンピース、紅いパンプス、紅い腕時計のベルト、深紅の口紅、セミロングの髪を紅いカチューシャで止め、そしてメガネのフレームも赤だった。
「わたしの時代が終わるの」
ふっと漏らしたその言葉に僕は背筋が寒くなるのを感じた。
美しい女性だ。
スリムな長身、豊かな胸、長く美しい脚をもつ美貌に恵まれながら、人懐っこい笑顔で何故かことのほか下町が好きらしく、お洒落な山の手よりは庶民の中に交じっている・・そんな人だ。
僕がその人と出会ったのは、もう三十年以上前の、名古屋に近い、決して都会とは言えない地方都市の、駅前にある居酒屋だった。
名古屋市内で数日の仕事をせねばならないが、どうもこの時は名古屋市内中心部で宿の確保ができず、やむなく、名鉄電車で少し乗ったこの町の、駅前の安ホテルを確保したのだった。
仕事を終えたのは遅く、空腹を抱えてこの居酒屋の扉を開けた僕の目の中に飛び込んできたのは、煙草の煙が充満する安酒場の中で、数人と楽しそうに酒を飲むその人のひときわ目立つ姿だった。
少し離れたところに僕は座り、ちょっと遠くから気になるその人を見ていた。
空腹に酒が入ったからか、普段の僕では絶対にしないようなこと・・女性に声をかけたのはその少し後だ。
トイレに立ったその人が自席に戻るときだった。
「お洋服、とてもいい雰囲気の色合いですね」
その人は何の警戒もなく、僕を笑顔で見つめてくれた。
「ありがと、ええ気色や」
見れば見るほどに美しい人なのだが、なんと名古屋弁のイントネーションで答えてくれた。
ふわりと温かな風が吹くような気がした。
そしてその人は一旦、自席に戻り、仲間に何やらちょっとだけ話をして僕のところ来てくれた。
一人客ゆえ、前の席は空いている。
その人は僕の前に座り、お店の人に「わっちの、こっちね」と、かわいい声で叫ぶ。
「ここ、座っていいですよね」
座ってしまってから僕に聞く。
「もちろん、美女が来ると嬉しいですから。でも・・」
「でも?なんでゃあも??」
「は??」
「ああ・・でもって、どうゆうことですかって‥」
僕を見つめてフフッと笑う。
整った顔立ちはテレビに出てくる女優でも、なかなかここまでも人はいないだろうと思えるほどだ。
「いや、お連れさんに失礼かなと」
「ああ、でゃーじょーぶ・・あのじんたち、ここで会ったばかりやから」
「は・・・」
「あ、ごめんなさい、あの人たちとはここでお会いしたばかりなのよ」
その人はそういったかと思うと大きく笑った。
真っ赤なカチューシャが店の照明に照らされて光る。
大きく開いた口元から見えた白い歯がきれいだ。
「すごく仲がよさそうでしたけど」
「そう?お酒とドラゴンズが好きな人に悪い人はいないわ」
「なんだか・・」
「な~に?」
「今日は何か嬉しいことがありましたか?」
「そりゃあ、ドラゴンズの圧勝じゃない、大量二十二点よ」
「あ・・そうなんですね」
「ホームラン八本、こんなの初めて!!」
「すごいですね・・」
「なんだ、あなた、テレビも見てなかったの??」
「仕事でして・関西から仕事に来ているんで」
「関西だったらタイガースでしょ!!今調子いいですよね」
「いや、ワタシは野球は全くダメでして・・」
「な~~んだ、面白くないヤツ・・」
その人は僕をちょっと蔑むように見て、そしてすぐに笑顔になった。
「まぁ、人それぞれそやから」
「はぁ」
「赤い電車は好き?」
いきなり、話のスジを変えられたので面食らった。
「赤い電車ですか?」
「ほら、そこにたくさん走っているでしょ」
そういえば・・ここに来るときに乗った電車も真っ赤だった。
真っ赤な名鉄の色合いがとても好きなの、ちょうど、わたしが生まれた年に「パノラマカー」ができたの。だから、真っ赤はわたしの色、その中でパノラマカーが一番好き・・
彼女は酒の酔いでか頬を赤く染めながら話してくれる。
赤い電車が紅い彼女の色彩と相まって、僕の視界も赤くなっていくような気がする。
彼女の紅いワンピースから露出している白い肌が赤みを帯びてくる。
だが、ドラゴンズのチームカラーは真っ赤ではなく、青ではなかったか‥
ふっとそういう疑問が沸き上がったけれど、ずっとしゃべりつ続ける彼女を見ていてそのことは言い出せなかった。
酔いが回り、そろそろ宿へ帰らねば明日の仕事に差し支える。
店を出ると彼女もついてきた。
「どこに泊まっているの?」
「そこのビジネスホテル・・」
「部屋が空いていたらわたしも泊まろうかな」
えっ・・僕は後ろからついてくる彼女を見つめた。
「あら、嫌なの?」
「嫌ではないけど、あなたも家に帰らないと・・」
「どうせ一人暮らし、どのようにもでもなるのよ」
達観しているかのようにつぶやく彼女のほうから、女の香りのようなものが飛んでくる気がする。
もしかして僕は今から未だ知ることがなかった「女」を知ることができるのだろうか。
歩いている二人の横の線路を名鉄の電車が突っ走る。
夜の闇でも真っ赤な電車は紅い。
踏切が鳴り、また電車が突っ走ってくる。
「パノラマカー!」
彼女が嬉しそうに叫ぶ。
大きな展望窓から室内灯の明かりをまき散らし、轟音とともに電車が走っていく。
「女性で電車が好きって、珍しいですよね」
「電車が好きなのじゃないの、パノラマカーが好きなの」
また踏切が鳴り、反対方向への電車が通る。
「またパノラマカーだ・・」僕の驚いた声に彼女はこう教えてくれる。
「たくさん走っているわよ、わが世の春、十分に一回くらい走ってる・・」
******
粗末なビジネスホテルの、足元灯だけが鈍く光る部屋。
大きく身体をのけぞらせ、彼女は喘ぐ。
僕はその喘ぎの大きさに戸惑いながら、女とはこういうものかと、自分の非力を思い知りながら、それでも精いっぱい攻めていく。
喘ぐ声の大きさに、隣室の人に聞こえやしないかとか・・明日の朝、仕事に間に合うように起きられるかとか、そんなことばかり頭の中に浮かび上がっては消えていく。
わずかの明かりに照らされた彼女の身体は、ほの赤く染まり、息遣いは一定のリズムを持ち、攻めているであろうはずの僕を逆に攻め落としにかかるようだ。
汗と体液の甘い香りが部屋に充満し、暗い部屋の中が僕たち二人の巨大な宇宙に思えてくる。
「はぁ、はぁ、はぁ、」
一定のリズムの声が僕をさらに掻き立たせるが、「もっと、もっと・・」の切ない願いにも似た叫びはますます自分の非力さを思い知らされる。
そして自分のすべてを出し切ってしまった僕は、彼女と抱き合ったまま、眠りに落ちたようだ。
気が付けばカーテンの隙間から朝の光が漏れている。
「あ・・起きねば・・」
僕は立ち上がりカーテンを少し広げた。
自分が下着もつけていない裸身なのが昨夜の出来事を思い起こさせる。
夏至過ぎの夜明けの光が差し込んでくる。
眠っているかと思った彼女が目を瞑ったまま「まだ大丈夫、今は夏至の後だから夜明けが早いの、まだ五時過ぎよ」と呟く。
彼女は肩のところまで布団をかぶり、気持ちよさそうに目を瞑って寛いでいるようだ。
「おはようございます」
「あら、よそよそしいのね・・おはよ」
片手で布団を胸のあたりに持ったまま、彼女はゆっくりと起き上がり、髪をもう片方の手で軽く整える。
朝の柔らかい光の中で、布団を胸のあたりの持った彼女は美しい。
「見せてほしい」
僕の口から自分でも意外な言葉が出た。
「なにを?」
「むね・・」
「恥ずかしい」
「昨夜は暗くてよく見えなかった・・」
彼女は頬を少し赤らめ、そっと布団を抑えている手を放す。
白い、形の良い胸のふくらみ。
思わず僕はそれを撫でる・・「あ・・」
僕たちはまた、二人の肌を合わせた。
白い乳房が僕の手によって柔らかくひしゃげ、彼女の息が荒くなる…
*****
七時すぎになってようやく僕らは起きだし、服装を整える。
「仕事はどこまで行くの?」
彼女が昨夜からのことを吹っ切るかのような素っ気なさで尋ねてきた。
「うん、名古屋の南のほう、名鉄でここから三十分ほど」
「わたしも仕事場は名古屋市内だから・・一緒に行く?」
「うん」
二人して小さな駅に入り朝の通勤の人たちが電車を待つ集団に加わる。
警笛というのではない、音楽の旋律のような音がした。
真っ赤なパノラマカーが目の前を轟音とともに通過していく。
そしてすぐに反対方向へのパノラマカーも通過する。
「かっこいいでしょ」
彼女が嬉しそうに言う。
「真っ赤ってすごく名古屋的だわ」
愛おしいものを追うように彼女の瞳は去っていった電車の方向を見つめている。
そしてしばらくすると、また音楽のような警笛を鳴らし、パノラマカーがやってきた。
今度の電車は真っ赤ではあるが白い帯を巻いていた。
通過する紅い車体の真ん中に描かれた白い帯が僕の目を引く。
「あれ、最近、特急専用になったパノラマ、あの白い帯もいいよね」
「特急って専用車両なの?」
「最近ね・・だから、わたしも白いベルトを買いたいなって思うのよ」
なるほど、いま彼女が着ている真っ赤なワンピースに白いアクセントはいいだろうし、プロポーションの良い彼女の腰のあたりを引き締めてやれば、それだけで今の倍くらいの魅力ができるだろうな、などと考えていた。
数分後にやってきた準急電車は色こそ赤だったが、パノラマカーとは比べるべくもない古い電車だった。
冷房もなく、窓を開け放している。
古い電車のモーターの音が車内に入り込む。
満員の乗客はみな汗をかく。
「パノラマカーとえらい違いだね」
僕が思わず口にすると彼女は諦めたように溜息をつきながら言う。
「名鉄は特急が中心だから通勤電車は後回しなんだわ」
「しかし、いくら何でも大手だろうに・・」
僕もため息をつきながら、ぐるぐる首を振る天井の扇風機を眺めた。
「あら、扇風機があるだけ、この電車はマシやわ」
「はぁ・・・」
暑い古い電車は途中で真っ赤なパノラマカーに抜かれ、それからいくつかの駅を通過して名古屋の地下に入っていった。
地下に入ると古い電車の騒音は窓を開け放していることでさらに増幅され、話などできなくなってしまう。
彼女とはその夜にも、あの店で会う約束をして僕は一日の仕事をする。
今度の名古屋での仕事はいわば、これからお付き合いができるかどうかという初めての取引先で、緊張しながらの作業であるはずだが、彼女と出会ったことで僕の心に少し余裕が生まれていた。
「これから長いお付き合いになるね」
一日の作業を終えて、担当のエライサンに挨拶に行くとそういわれた。
これから名古屋に来ることが増える・・そう思うと僕は嬉しく、そしてそれは彼女に会いに来られるという単純な思いだった。
そしてその夜も、彼女はあの店にやってきた。
「今日も勝った!」
「大洋なんて竜の餌よ!」
すでに数人の居合わせた客の中で出来上がっているらしい彼女は、僕の顔を見るなり大げさに手を振ってそう叫び、笑った。
「彼氏かいな?」
彼女と野球談議に夢中になっていたらしい年配の男性がそう揶揄う。
「うん、ゆうべ、彼氏になったの」
「あんたはホンマに、よーやるわ」
「今度は逃がしたらアカンでな」
「男前やのう」
仲間らしい人たちが一度にいろんなことを言って笑う。
僕もその人たちの輪に加えさせられたが、残念ながら僕は野球はほとんどわからない。
中日ドラゴンズの選手といえば田尾と宇野くらいしか知らず、それもただ、テレビニュースによく出てくるからというだけだった。
わからないといえば、彼女が夢中になっている名鉄のパノラマカーも僕にはほとんど興味がなかった。
ただ、こちらのほうは少し野球よりは親近感が湧き始めていた。
店を出て自分のホテルへ向かう道中、彼女もついてきた。
「今夜も泊まるの?」
彼女は首を振った。
「いくらビジネスホテルでも毎夜はエライ・・高うつく」
「じゃ、自宅に帰るんだ…」
一瞬間をおいて、彼女が僕を見つめた。
「ここにいつまでおるん?」
「たぶん、明日の仕事が終わったら大阪へ帰る」
「ね、それまで、うちへ来ん?」
「でも、会社の経費で泊っているから・・ホテルに泊まらないと問題がありそうで」
「そっかぁ・・」
「そうだ、今夜、もう一泊、あのホテルで泊まろうよ、宿代は僕が持つから・・明日の夜は君のところへ泊る、そして明後日は休みだからどこかへ行こう」
「ええの?」
「うん、そうしてくれたら嬉しい・・」
結局、僕らはその通りに、その夜も昨夜よりもっと激しく抱き合った。
翌日は仕事をすべて予定通りに終え、満足な達成感をもってあの居酒屋へ行き、その日もドラゴンズが勝ったようで大騒ぎしている彼女の仲間たちとの中に無理やり入れられ、そしてその賑やかな食事は済むと、約束通り彼女のアパートに入れてもらった。
小洒落たハイツの二階、いかにも女性らしい可愛い部屋の机の上に赤いパノラマカーの模型、壁には野球選手何人かのポスターが貼られていて、それが誰なのか僕にはわからない。
******
彼女に言われるままに、さんざんに彼女を舐め尽くした。
柔らかな白い肌は、豆電球の下で赤く染まる。
荒い息を繰り返し、もっと、もっとと僕に要求してくる。
必死に置いてけぼりにされぬように、立ち向かう僕はやはり自分の力の限界を知る。
身体中から自分の精気というものを放出してしまった僕は力尽きて彼女の横にて動かぬ体を横たえるしかない。
「ねぇ、上手になったね」
呼吸の荒さがまだ残り、それでも満たされたような表情の彼女が僕の顔を覗き込む。
「そうなんか・・」
上手かどうかは僕にはわからず、それでもこの三日間のうちでは最大の力を出し切ったはずだ。
「もうちょっとだけ・・」
僕は女性がこんなにも性欲を持て余していることを初めて知った。
そして、それはいわば男にとっては強烈な試練であることも。
*****
「あの・・」
僕は思い始めていたことを彼女に聞く気になった。
「なぁに・・」
僕の胸のところで頭をうずめている彼女は小さな声で返事をする。
「僕と結婚してください」
しばらく沈黙が続いた。
そして出た言葉だ。
「ごめんなさい、無理なの、特定の人だけのものになるの・・」
あれから三十年近く、僕は彼女のことを忘れたことは一日たりともないと断言できる。
だが、僕はやはり世間一般の男の常識の中で生きていた。
彼女からは少しずつ疎遠になり、名古屋の仕事が、ある程度から先の進展がなくなってからは、名古屋へ行くことも減った。
二年ほどして、やはり彼女のあの風貌が忘れえず、名古屋へ出かけたけれども、その時の彼女は僕とお茶を飲んだだけで、まともに話には乗ってこなかった。
そして走り始めたパノラマスーパーなる、赤よりもクリームの色彩の多い電車を彼女と駅で見た時、彼女は言った。
「わたしの時代が終わるの」
そのあとに普通電車にパノラマカーが使われてやってきた。
やがて僕は会社の上司の勧めで、取引先の専務のお嬢さんと結婚した。
妻になった女性は彼女にも負けないほど美しく、僕は妻を十分に愛しているのだが、それでも時によっては妻を飛び越えて彼女が僕の頭の中に現れるときもある。
やがて、僕は娘を得た。
いまなら、彼女の気持ちがわかる。
僕は彼女の何人かいるであろう男友達の一人になって、彼女が気まぐれで誘ってくれれば、喜んで出かけていく・・
そんな関係が僕と彼女には幸福だったのではということを‥
僕には彼女の情報をどうしても得ることができず、会うことは夢か幻かと思っていたものだ。
二十一世紀になってしばらくして、名鉄からあの「パノラマカー」が引退したことを新聞で知った。
それこそ全国から鉄道ファンが押し寄せたらしい。
そのころまだ、僕は彼女の面影をあの真っ赤な列車に求めていた。
パノラマカーの引退は僕と彼女の縁が切れたことを僕に突き付けられたような気がしたものだ。
だが、いつの間にか、彼女との連絡が取れない状態になっていた。
連絡が取れなくても、彼女が僕の最初の女性だったことは間違いのない事実であり、僕にとって最初にまともに惚れた相手であることも消えることがなく、それゆえ、僕の脳裏から彼女の面影が消えることもなかったが、自分の娘は成長していった。
いつしか、自分の娘もよい人を見つけて結婚し、その少し後に妻が思いもせぬ病で先に逝った
僕はまた一人になったが、会社では定年を超えて嘱託として使ってもらえ、食うのには困らない。
今年、ひょんなことから名古屋へ行く仕事ができた。
懐かしいあの町のどこかに彼女がいるかもしれないとは思ったが、彼女に会えるとは夢にも思えない。
だが、昼までの仕事を終えてから、やはり自分の意志の向くままにあの名鉄駅に降りた僕は、町のあまりの変わりように言葉を失った。
あの、居酒屋もビジネスホテルも、そして彼女のいたハイツも、どこにも面影を見出すことができなかった。
そして名鉄の線路を走るのは赤い色に塗られたごく普通の通勤電車や、いや、もはや色合いすら赤ではなくなった銀色の車両、そして特急ですらクリーム色の面積が幅を利かせる車両ばかりになっていたことも僕の心の中のイメージを覆すには十分だった。
僕は疲れた。
駅近くの暇そうなコンビニに入って飲み物を求めた。
店は閑散としていて、店員は手持ち無沙汰に見えた。
レジでの支払いの時に店員に聞いてみた。
「そこの名鉄電車の、パノラマカーっていうのは、もう、どこでも見ることができないのでしょうか」
店員はちょっと考えてから意外なことを言った。
「競馬場の奥のほうに、電車が置かれていて、中を見ることもできますよ」
そう聞くと、もうそこに行かねばならなくなる。
その足で名鉄電車に乗り、競馬場を訪れた。
駅から歩いて十五分はかかっただろうか。
競馬場ではその日はレースはなく、場外馬券だけが発売されていた。
レースのある日のような喧騒は今はないのだろう、それでも、警備員が囲む道を僕はゆっくり歩く。
窓口のかわいいお嬢さんに教えられたとおり、さらに広大な競馬場を奥に進むと、まさにその電車があった。
三両編成に組まれた電車は、家族連れのための公園の、芝生の向こうに鎮座している。
芝生広場では幾組かの家族がそこで休日を楽しんでいた。
子供たちが電車の周りを走り回り、真っ赤な電車が屈託なくそれを見ているように見える。
車内を見ると座席もきちんと残してあって、あの頃のパノラマカーそのものだ。
座席に座ると、彼女と出会ったあの頃を思い出さずにはいられない。
「会えたなぁ‥やっぱり久々の紅いパノラマはいいな・・」何気なく独り言が出る。
「だけど、僕が会いたいのは君を大好きだった彼女なんや」パノラマカーに語り掛けるが、電車は何も言わない。
「彼女に会いたいなぁ」
すでに、線路は名鉄と繋がっておはおらず、この電車はいわばパノラマの生き残りの仙人のような存在だ。
三~四歳の数人の子供たちが僕の座っている座席の周りを駆け巡る。
「こら、ほかの方にご迷惑でしょ・・」
女性が子供たちを叱る声がする。
懐かしい声だ、
忘れるはずなんてない声だ。
聴いた途端、涙があふれる。
驚いて振り返った。
座席の間の通路で中年の女性が僕のほうを見て「ごめんなさい、煩かったでしょ」という。
赤いジャケットにクリームのブラウス、紅いスカート、そして赤いカチューシャ、紅いメガネフレーム。
ああ、まさしく・・
女性の着ているものはワンピースでこそないが、間違いがない。
僕は涙を抑えられない。
女性は僕を見てちょっと驚いて、そして深々とお辞儀をした。
「今日、パノラマカーに誘われてここに来ました。お変わりありませんか」
お変わりはあるよ‥それもたくさん・・
そう言おうとしている僕は、声が詰まって出てこない。
「会いたかった」やっと、絞り出すようにそう言った。
少しふっくらとして、それでもあの頃の色香を残す彼女は、ゆっくりと僕の手を取った。
「わたしの孫たちです」そういうと彼女もまた涙を拭おうともせず、僕を見つめる。
「僕は昨年、妻を亡くしました」彼女にそう言うと彼女も言った。
「わたしも・・」
僕たちは競馬場の遊園地に置かれている、真っ赤なパノラマカーの中でお互いを見つめあったまま、動けなくなっていた。