「街人-machibito-」6(アクリル画、158×227mm)
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「街人-machibito-」シリーズです。
ユトリロのような縦長の風景画を描きたかったのですが、風景や海景を描いたことがあまりないので、無謀だと判断し、景色を感じる人物画を描く案が浮かびました。
マグリットのようなシュルレアリスムにも見えるかもしれませんが、無意識ではなく、あるいは無意識を意識下して描いています。
議題が決まっている会議や、少人数の話し合い、似顔絵を描くときの目鼻口の位置の似せ方など、何かしらの輪郭の内側を集中してみるだけになりがちな世界に危機感をもっています。
私自身も、額の外を想像するのが難しく、等しい問題を抱えていることを自覚していますが、作品のなかで全体を、大雑把でもよいので見てもらいたいという欲求があります。
そのものの見方は、主軸になるものが何も描いていないように映るかもしれませんが、見る人の見たいものが見える、仕掛けのある装置でもあり、人間的な絵でもありたいと考えて描いています。
若かりし頃、石膏デッサンを続けているとき、自分の限界に気付いたときがありました。
そのとき、石膏像そのものを描くだけではなく、それを取り巻く光の重要性に気付きました。それは、人工光であったり、窓からの日差しであったり、日だまりであったり、白く反射する台であったりしたのです。
光というと語弊を生みますし、光のない絵もあり得るので「空間」と言っています。
浪人を繰り返すうちに、想定デッサンではないときの嫌がられる要所が見えてきてしまって、要領よく描くわけではないですが、自然主義のような素朴な素描になっていきました。
けれど、自然主義を突き進んでは、ある意味俗世俗的な絵が描けなくなる心配を持ち、完成させることができなくなっていったのです。
そのような心持ちのときに「完成を終着点とするのではなく、柱をあえて一本抜く建物」の話に出会い、また絵が描けるようになりました。
一般の方の似顔絵を描かせて頂くことになり、各々の柱を想像するのは下品でありますし、そう思ってほしい洋装やアクセサリーをしているのであれば、騙されて描くのも大事なのではないかと考えています。
ところが、似顔絵でもそうですが、余白、ホワイトスペースをあけていると、インターネット上で、ロゴスや柱を勝手に描かれてしまうことがあり、絵が政治的なポスターに改変されてしまうことがが増えてきてしまっていることに気付かされました。
気付いたときには「本意ではないので悲しいです」と伝えるので精一杯です。
それで、デザインではないものを描くしかなくなり、幼少期に断念した描けるはずのない絵画を再び目指さねばならなくなりました。
それで、全力で絵に取り組むうちに
「アートができなかったので、似顔絵を描いています」
という結末になるはずだったものが、
「デザインは全く出来ないけれど、最低限の絵画は描けた」
という想定外なことになりました。
痛みもありますが、毎回最後かもしれない絵を楽しんで描いています。