「Nが横だとZ。Z世代の姿勢が心配」
このような無意識的複合体を意識化たらしめて言語化することを「傷つける」と言うのかもしれません。
私の文字言語ではない絵を、言語化して批評して頂くのはもちろん自由であり光栄なのですが、私を傷つけるためだけに、私の絵を用いて批評すると、その意図は全くないのですが、まわりの方々が大笑いし、それが私に対してだったらよいのかもしれませんが、批評した本人への嘲笑になってしまっている場合もあるやもしれません。
そんな特異な景色を想像してしまうのは、作品を「私の子供」と比喩する方を知っているためだと思います。
描いているときは、絵が私自身であるか、私の子供であるか、ただの作品であるのかが大事なのではなく、描きたいことや描かねばならないことがあるからです。
この根本的な問題点の原因は、特定の集団に属する場合において、共通の価値観を共有して批評をしているはずが、そうならない希有なことがあり得るためだと思われます。
憶測で進むので「あり得ない」で切って頂いてかまわないのですが、(いつも入り口で「ただの駄洒落だ」で出られるようにしています)その例外を発生させないために、言語的価値観の定義、具体的には「よい似顔絵とは?」のようなものを予め決めていることがあるとするなら、それがまた成立しないで、笑いになってしまうことが想像できます。
「全く評価されないようにした」ということが、「いいね」などのSNS評価ボタンから分かりますが、私が習ったのではなく、学んできた美術史と似ている人々が「ボタンを押さないことにしてはいるが、評価せざるを得ない」ということがあるのだと理解できます。
そういう人々は、私を「バカだねー」笑うと思いますが、「バカにしている」のではなく、苦笑かもしれません。それは賢くないのではなく、賢明ではないという意味かもしれません。
特定のデザインでは「冗長を悪」とする見解が、考えることなしに行われていて、もの作りをする意図が無いもののために、考える必要がないように指導されています。
この冗長な口語文を、そろそろ現実的ではなく、仮定のない現実として戻すことにします、
「お馬鹿」な文章でごめんなさい。