お絵描き日記~イラストレーター照井正邦

職人、照井正邦の似顔絵、意匠など。画力の向上を目的に練習しています。

於竹さん(アクリル画)

2021-04-26 14:34:50 | アクリルガッシュアート


於竹さんをアクリルで描きました。

「お竹さんを描いてもらうのが夢なんです」と物語ってくださった方とお会いしたのですが、その方の似顔絵を面相で描くので精一杯でした。

「夢は…」「夢とは…」「夢という字は…」などなど色々な仮説や定義などがあるのかもしれませんが、叶わないときが一番幸いなこともあるのかもしれないと思いました。

補足:また、意地悪な人を生み出しかねない言い回しになってしまいました。嘘つきと言わせて一人にさせる意図は全くありません。
カッコの「さん」は、その方たちだけが愛着を持って使える呼称で、私に描いてほしかったのはさんづけできないものです。添付したアクリル画は、人としての「お竹」を、人間の絵として描く、所謂似顔絵と同じ方向性の作品です。

さらに補足:最初の「さん」は厳密には失礼なので、敬称略と毎回書かねばならないのかもしれませんが、さんづけして載せてしまっています。
これでも伝わないのなら、「なでその方のさんづけは失礼に当たらないのですか?」という問いがでてくるのかもしれませんが、そうであるなら、「山のような方でした」と理解していただければと思います。

もし、文章の難点に焦点をあてたいのでしたら、私は「理解しても描けない」「描けたものを理解しようとするのが、批評家」という、深くはない考えをもっていますので、「理解できない文だ」の無理解の「文」を略して批評したときに、嘲笑が起こる危険性があるで、「簡略的に書けない人だ」つまり「馬鹿だ」としたほうが適切に思えます。さらにあえて言えば、当たり前ですが、勝手に簡略化したとき文章の責任はいっさい負いません。

また冗長な口語になってしまいました。


同じ波形の拡大解釈(医療検査の雑記)

2021-04-26 06:24:59 | 雑記
幼少期、毎年恒例の心電図の検査があり、同じ波形が続いて正常になることを夢見ていた。
検査の紙は絵巻物のようにどんどんとその長さが増していくが、同じ波形にならない。
その頃から、おそらく遠い目をしていたのかもしれない。

疲れやすい体質というより、自分で言うのもなんですがよく生きていると言った感じの時の遠足の返りに、疲労から何かの発作のようになり、担任から
「そんなことになることはあり得ない」
と放置されたり。
親が教員なので、ここで死んだら、その先生は、私の件では大丈夫だろうけど、別件で困ってしまうから強引に、死なない方法を考えねばと、余計なことを考えたり。
誰も救ってもらえることがない状態で、アスファルトが柔らかくてあたたかく感じたり、日が射してきて、全体が白くなって輝きだしたときに、「誰も救ってくれないのではなく、すでに救ってもらえていたのだ」という感覚を持てるようになり、いつの日からか、苦しみも喜びに感じられるようになりました。

中学のときには、運動部に入ってジャンプシュートばかりしていました。
親は「フレスコなどの壁画も描ける体力を」ということもあったと思います。
友だちからはキャプテン翼のキャラの
「みすぎくんみたい」
と、「美化しすぎた誇張での笑いの描写」で「試合に長時間、出なくてもよい人だ」ということを伝えてくれて、救ってくれました。

私の作品等を批判して、
私に「落ち込んでもらって、あるいは恐怖を与えて描けなくさせる」
という意図が組み来れる出来事が続いているのですが、死にかけると、人ではない何かに救われた感覚になってしまうので、余計「描くしかない」となってしまいます。手首や指の握力はほとんどないですが、関節を軽くはずしてから戻すということで、見る人が穏やかになれるような線がひけています。
これから、「描けなくなる」という意味が経済的にということになると思いますが、他の仕事ができる腕力ではないので、横になりながら描き、奇跡的に体調がよければ起きて描く、足で描いたアーティストもいたわけで、まださほど大変ではない自分の現状で、「楽しく」という言葉が適切かはわかりませんが、描けています。

話は戻って心電図の波形ですが、一つとして同じ短い波がないかわりに、毎回「同じ波はない」という長い波が、『同じように』続いているのだと拡大解釈し、動いていないわけではないし、よいのではないかと、ポジティブではないですが、ハタから見ると生きていることを楽しんでいる雰囲気になっているかもしれません。