私は1989年から1995年まで、栃木県で仕事をしていました。まだバブル経済の余韻が残っていた頃です。
栃木県の工場では、自動車部品なんかも作っていました。
そんな折、会社からホンダエコノパワーレースにエントリーするから、メンバーを集めてチームを作ろうなんて事になり、なぜか私にも声が掛かりました。あれは確か1991年の春の事です。
会社として競技会に参戦するとは言え、そこはアフター5プロジェクトなので、メンバー全員本業を片づけて、夜遅くまで試行錯誤を続けました。
7000系のアルミ合金の押し出し材を工場から貰ってきて、これらを工場で溶接し、車のスペースフレームを作りました。
フレームは、予め測定しておいた小柄で軽量なドライバーの手足の長さに合わせて設計した、完全ワンオフ物です。
私はドライバーをやりたかったのですが、当時体重が72kg有ったので、体重推定50kg弱の女性ドライバーにシートを譲りました。
エンジンは、ホンダの4ストローク50cc、となればスーパーカブのエンジンと相場が決まっています。会社の予算でセル付きのスーパーカブを買って、1mも走らずにバラしてエンジンをひっこ抜きました。バリバリの新車をバラバラにしたのは、あれが初めてでした。
競技の日が近づくと、車の仕上げで徹夜が何日も続きました。今はもうあんな無茶はできませんが。
そしてその頃の競技会場は、今は無きつくば市の日本自動車研究所のオーバルコースでした。谷田部の高速周回路と言えば、お分かりの方も多いと思います。
私たち一般人は、そんなところに普通は逆立ちしても立ち入る事ができないので、初めて行った時はルンルンでした。
私はチームの一員として、1991年から1993年まで、エコノパワーレースに参戦しましたが、チームとしての成績は余り奮わず、たしか記録は450km/Lくらいが最高だったと思います。
1992年参戦時の写真が1枚出て来ました。マシンの名前はイワシ太郎です。
あの頃は皆若かった。