暗闇検校の埼玉県の城館跡

このブログは、主に、私が1980年代に探訪した中近世城館跡について、当時の写真を交えながらお話しするブログです。

高負彦根神社とポンポン山(吉見町)

2020-02-24 12:13:51 | 神社仏閣・その他
本日は、高負彦根神社とポンポン山(玉鉾山)について書きたいと思います。

訪問日は2020.01.19です。

高負彦根神社(たかおひこねじんじゃ)は、和銅3年(710)に創建、延喜式内社と、

古い社格の高い神社です。吉見町には、式内社が三社もあり、高負彦根神社・伊波比神社・横見神社と

三社もあります。これは古代吉見の地域的特異性を表すものと言えるでしょう。

高負彦根神社はこのように社格の高い神社なのですが、時季外れに行くと寂しいです。

戦後昭和30年代半ばころまでは周辺の小学校の遠足の対象として選ばれるなど繁盛していたそうですが。









境内脇には獅子封じ塚というものがあります。





これは古墳ではないのかなと思いますが・・・。

高負彦根神社の背後には玉鉾山、通称「ポンポン山」です。というよりも、この岩丘の上に、高負彦根神社を

祀ったと考えるのが正しいと思います。玉鉾山自体が神降ろしの磐座だったのではないでしょうか。







岩山にはよくあることですが、滑りやすいので注意しましょう。









下を見下ろします。



遠望にも優れています。









庚申塔がありました。






古代この地域は、河川水運が発展していたといわれています。高負彦根神社はこの水運に大きく関係していた

と言われています。玉鉾山は水を司る神の宿る地としての象徴的意味合いも大きかったでしょう。

村岡河原古戦場(熊谷市)

2020-02-23 13:54:28 | 古戦場
本日は、村岡河原古戦場について書きたいと思います。

村岡河原古戦場は熊谷市の荒川大橋上流(西側)の北岸、野球グラウンドがある地域です。





熊谷市の荒川南岸には村岡五郎平良文の領地があったといわれています。

現在、茶臼塚と呼ばれる古墳跡が残っており、その近くの高雲寺にかけて

村岡館跡があったといわれています。高雲寺の西側にごく小さい古墳と思われる塚が

あることから村岡館も、熊谷によく見られる古墳を利用した館跡だったとことが推測されます。

目立った遺構はありませんが、古墳を手掛かりに当時の姿を把握していくのは方法論としては

無駄ではないと思われます。

さて、この平良文が箕田郷(現、鴻巣市)に源充と合戦を行ったのが村岡河原だといわれています。

今昔物語「箕田源氏の源充と平良文合戦語第三」として有名ですが、これはどちらかというと

家来同士の口喧嘩から発生した私闘に近いもので、結局、弓比べをして和解しています。

2度目の合戦は、永享12年(1440)、結城方の一色伊代守と上杉性順・長尾景仲らの「五本榎の合戦」で、

それを裏書きするように、現在でも自生するエノキが非常に多く、タマムシ採りに行ったことがあります(笑)。

3度目の合戦は天文22年(1553)、北条氏方の千葉利胤と上杉謙信との合戦です。

平良文と源充との私闘はともかく、鎌倉公方(のちの古河公方)勢と関東管領勢の激突、

北条氏と関東侵攻を企てる上杉謙信との激突がここで行われていたのは、鎌倉に向かうためには

この村岡河原で渡河することが重要だったためでしょう。ここは中世世界にとって地政学的に重要な土地だったのです。

村岡河原直近の堤内にある南小学校まえには、村岡河原古戦場についての由来を書いた立札があります。


※ 「堤内」とは、河川堤防によって守られる地域、すなわち市街地、「堤外」とは河川側を示します。
  治水政策において、水害から守られる人間を基準に作られた言葉です。





堀の内(瀬山氏館跡:旧川本町)

2020-02-21 21:47:01 | 城館跡探訪
本日は、川本町の堀の内(瀬山氏館跡)について書きたいと思います。

調査日は2020.02.07です。

堀の内(瀬山氏館跡)は川本町、秩父鉄道の南側、川原明戸に近い瀬山地区にあり、

秩父線の新しい駅明戸駅が最寄り駅です。

瀬山氏は地名を姓に採った在地の土豪で、私市党の瀬山氏とは関係が無いようです。

恐らくもともとは荒川氾濫原の講縁開拓に入植した一族が出発点だったのでしょう。

北条氏治下では瀬山、長在家、上原地区が瀬山氏の所領であったようです。

この瀬山氏から、大坂冬の陣に出陣した瀬山将監行政を輩出したようです(『埼玉縣大里郡郷土誌』武川村の項)。

瀬山に隣接した明戸は、農業に向かない土地を意味する悪土を語源とするといわれ、

瀬山氏の辛苦がしのばれます。恐らく水害も多かったのでしょう。

堀の内(瀬山氏館跡)は現在の明戸八幡神社を中心とする地域だとされているようです。














土塁と思われるものが残っています。









空堀跡でしょうか。



しかし、これが館跡であるとすれば、やや小さいような気がします。

かつては堀が残っていたといわれます。

同行者がいたのですが、自分はどうも同行者に遠慮をしてしまうところがあって、

十分な調査ができたとはいいがたいものになってしまいました。

チャンスを得て、再び行きたいと思います。

北条堤(熊谷市)

2020-02-19 12:20:13 | 川・用水路
本日は、北条氏によってつくられた北条堤の痕跡をたどってみたいと思います。

こちらは本ブログの過去の関連記事です。「熊谷氏館跡と崖線上の神社仏閣(熊谷市)」
https://blog.goo.ne.jp/kurayamikengyou/e/10acbd6e4e7f344f21a7b9472d606e16

天正2年(1574)に北条氏邦の築いた堤防だといわれています。

北条堤は石原氏陣屋の記事で触れた松巌寺付近から出発します。

明治期に作られた迅速測図というものがあります。

歴史的農業環境閲覧システム(迅速測図閲覧システム)
https://habs.dc.affrc.go.jp/

その迅速図には、松巌寺付近の本石地区から北条堤が伸びていることがわかりますが、

現在は、市街化も進んでいるため、町の谷間にうずもれて分かりにくいと思います。

まず、松巌寺からスタートしましょう。





松巌寺付近に北条堤の遺構らしきものは見当たらないと言ってよいと思います。

ここから、17号国道沿いに出て東に向かいます。

松巌寺前の横断歩道を渡ってしまう方がいいです。大体徒歩で30秒ほど東に歩くと

デリバリーのビザ屋さんがあり、その10mくらい先に、斜めに入る路地があります。



上の写真が北条堤の遺構になります。



この路地を直進していくと、徐々に北条堤の遺構らしくなってきます。



不動産屋さんのところまで来ると、東側は急な坂になっています。

この辺り、河川が湾曲して削り取った崖があります。この湾曲した崖が「曲谷」(くまがい)→「熊谷」の

地名のもとになったという説があります。その崖の端を固めたのが北条堤だったのだと思われます。



さらに直進すると、熊谷大空襲の被害者慰霊地蔵があります。

この先は高架があり素直に直進できません。

そこで、一度、効果をくぐり石上寺裏に回り込みます。




高架をくぐると、路地に下の写真のような不動尊があります。

この祠は縁日になると地元の人が小さなお祭りをします。





この祠の背後が石上寺で、小さな坂道が北条堤です。



高さは大体、1~2m程度に見えます。







稲荷社がありますが、その背後の坂道はかなり急な坂で、ここに至って、堤防らしさを感じます。



後ろを振り替えって見ました。



坂道下からも撮影してみます。




路地を出ると、このような場所に出ます。



北条堤上が荒川の旧堤防(現在の秩父線敷設土手)に接続しています。

接続部には八坂神社があります。





八坂神社背後の北条堤最終部分です。




昨年の台風の豪雨の際、熊谷市民は案外楽観していた方が多かったようです。

理由は、現在の桜土手で知られる新堤防のほかに、旧堤防があったからです。

こうした歴史的治水遺産を市街化開発の中でどう残していくか、重要な課題と言えます。

北条堤は現在も生きている歴史遺産なのです。

石原氏陣屋跡(熊谷市)

2020-02-18 16:41:40 | 城館跡探訪
前記事に続き、本記事では石原氏関連の石原氏陣屋について書きたいと思います。

調査日は2020年01月14日です。

石原氏陣屋は、石原氏館跡よりかなり離れた本石地区の市街地にあります。

17号国道沿い北側、八木橋デパート近くです。



正直、目立つ遺構らしきものはありません。



石原氏陣屋跡は荒川氾濫原に面した微高地にあるのですが、市街化が進んでいるので

注意深く地形を読み取る努力が必要です。

下2枚の写真は松巌寺山門前の路地を撮影したものですが、境内地がやや高いことがわかりますが、

かといって、堀跡なのかなあ・・・・というとどうなんでしょうか。仮に堀跡だと推定しても

近い距離にある熊谷氏館跡の熊谷寺ほどの雰囲気はありません。





むしろ、注目するべきは松巌寺西側にある、ひときわ幅の広い道路です。



ここは、陣屋に付随する馬場があったのではないかと直感的に思いました。

この道路に面したお寺の施設脇にはわずかですが石仏が残されていました。



松巌寺は墓地のないお寺で、墓地は熊谷市郊外の大原墓地という大型霊園にまとめられていますので、

山門以外はかなりお寺らしくない雰囲気です。

にも、かかわらずここは地域史的には結構重要な場所で、後北条氏による荒川治水遺構である

北条堤の起点になっているのです。

そこで、次回の記事では北条堤について書きたいと思います。