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蚕影神社拝殿脇にある休憩舎(たぶん)に掲げられている
彩色絵の奉納絵馬
多分に金色姫伝説の「からびつ」を空けて蚕を見て驚く権太夫夫婦
を描いたものと思われる。
この写真をトリミングして部分拡大すると、老夫婦の表情が
見事に描かれている事に驚く。
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右の爺様の表情
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左の婆様の表情
実にいす生き生きと描かれていて、伝説の絵巻物を見ているような
錯覚を覚える。
この額を奉納したのは、長野県の小県郡(ちいさがたぐん)神川村の人らしい。
ちなみに小県郡神川村で調べてみると、明治22年に大屋村、国分村、
岩下村、蒼久保村の4村が合併して出来た村だと出ている。
この他にも、彩色絵が本殿等にも有ったが、長年風雪にさらされて
何を描いたのか判らないのが多数有った。
誠に残念と言うほか無い。
2月中旬、燧ヶ池を尋ねた帰り、蚕影山(こかげさん)にも登って、蚕影神社
を訪れた時の写真である。
結エディットが出版している「郷土の先達とゆく筑波山」によれば、205段の
石段を登ると出ているように、付近の自然石を用いて作ったという形も
バラバラの石段を登っていく。
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最初の石段
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2番目の石段
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鳥居の向こうに3番目の石段が見える。
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3番目の石段を見上げると、やっと拝殿が見えてくる
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拝殿の正面
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屋根を見上げると「蚕」の文字が飾ってある。
天の虫と書いて「蚕」という文字が出来ているのに納得。
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拝殿の脇に有る休憩舎とおぼしき建物、この中に彩色の絵馬が
飾られている。
この神社の回りは、養蚕に関係する団体や個人の奉納額で
埋め尽くされていると言っても 過言ではない。
流石に養蚕発祥の地と言われる由縁である。
神社の石段の登り口に、蚕影神社の沿革を説明する看板が
立っている。
その中に、「金色姫(こんじきひめ)」の由来が書かれている。
それについては、先ほど紹介した本にも書かれているが
「相模原の歴史シリーズ」というサイトに、番外編として
蚕影神社の紹介が出ていたので、そちらを紹介する
相模原の歴史シリーズ
この中で面白いのは、3番目の和気広虫の伝説だ。
コカゲサンの名前の起こりが最もらしいのが良いですね。
ところで、私が訪れた時、神社の回りの巨木が、軒並み切り倒され
無惨な姿をさらしていた。
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あまりにも酷いので、つくば環境フォーラムの代表を務める
田中さんに聞いてみたところ、地震で壊れた建物などを撤去
するため、車道を造っているらしいとの事だった。
それでは仕方が無いと思いつつも、残念な気持ちも有った。
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拝殿の裏に立つ本殿
よく見ると床がボロボロだった。
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金色姫伝説には、インドから中が空洞な桑の丸木舟で
筑波山麓の豊浦に流れ着いたという事が書かれている。
現在の筑波山麓からは想像も出来ない話で有るが、その昔
筑波山麓まで海が入り込んで、入り江を作っていたという。
これは、筑波書林が出版している「筑波山」という本に
出ている。
著者は朝日新聞の科学部長などを歴任した木村 繁さんで
それによれば小田、北条、沼田と海岸が続き最奥は椎尾の
あたりまで入り江が入り込んでいたという。
その証拠として、筑波山麓の各地に貝塚が残っているという。
北条や豊里町田倉、真壁の椎尾、八郷町柿岡などに貝塚が
あると書かれている。
しかも、その貝塚から、タイやスズキなどの魚の骨、シカ
イノシシ、イヌなどの骨、黒く焼けたサザエ、木を燃やした
灰、極めつけは、石で作ったオノ、オモリ、矢じり等も
出てきたという。
つまり、実際にはあり得ないけれども、理屈ではインドから
海を超えて筑波山麓に流れ着く事は可能だったのだ。
伝説とは言え、実に面白いではないか。
尚、「郷土の先達とゆく筑波山」には、次のことも書かれている
近くの「」という集落には、「豊浦」という地名があり
そこに「権太夫」を祭った権太夫宮がある。
またの向かい側の立野に、舟が着いた「舟の宮」が有る
と書かれている。