吉兆(きっきょう)とは、西宮戎神社や今宮戎神社などのえびす神社で行われる十日戎(とおかえびす)で、神社から授与される福笹につける小宝(子宝)のことで、福笹は吉兆笹と呼ばれています。


吉兆は、銭叺、銭袋、末広、小判、丁銀、烏帽子、臼、小槌、米俵、鯛などの縁起物を束ねたもので、「野の幸」、「山の幸」、「海の幸」を象徴しています。


笹は、孟宗竹の枝で、いわゆる群がって生えている笹ではありません。
竹は古代から、文学、美術、芸能、民具など日本人の生活とは密接な関係を
保ってきました。
中でも竹のもつ清浄さ、根強さ、節により苦難に耐え忍ぶ姿、
冬も青々とした葉を付け、更に竹林の生命の無限性、旺盛な繁殖力など、
そこに強い生命力と神秘性を感じとり、神霊が宿るとさえ信じていました。
こうした日本人の竹に対する感性が、色々な神事に笹が用いられることになり、
竹取物語のかぐや姫が、竹から生まれるのも同様の信仰から基づいたものです。
十日戎の笹も例外ではありません。
常に青々とした葉をつけているところに、「いのち」を生み出し続け、
「いのち」を常に甦らせている神秘性、その姿は、
神道の信仰そのもので、神々のご神徳によって、
日々「いのち」が甦り、生成発展している姿を象徴しています。

そして十日戎を象徴するのが、神社から授与される小宝です。
小宝は別に「吉兆」(きっきょう)と呼ばれ、
銭叺(ぜにかます)・銭袋・末広・小判・丁銀・烏帽子・臼・小槌・米俵・鯛等の縁起物を束ねたもので、
「野の幸」・「山の幸」・「海の幸」を象徴したものです。
別の言葉として「山苞」「海苞」「家苞」とも呼ばれています。
苞というのは、外からは内部が見えない簡単な容器のことで、
もともと山や海や家からの「贈り物」を入れるうつわのことでした。
「山苞」は山の神の聖なる贈り物、「海苞」は海の神の聖なる贈り物、
「家苞」は里の神の聖なる贈り物となるわけです。
これを「市」でそれぞれ交換します。
それぞれを「替える」わけです。これが「買う」という言葉になります。
この「野の幸」・「山の幸」・「海の幸」を象徴した吉兆は、
その中にこもる「御神徳」をいただく信仰を受け伝えたものです。
この吉兆を笹につけて参拝者は家路につきます。
江戸期に作られた歌謡にも次のようにその状景が歌われています。

「十日戎のうりものは、はぜ袋に取鉢、銭かます、小判に金箱、立烏帽子、米箱、小槌、たばね熨斗、笹をかたげて千鳥足」


吉兆は、銭叺、銭袋、末広、小判、丁銀、烏帽子、臼、小槌、米俵、鯛などの縁起物を束ねたもので、「野の幸」、「山の幸」、「海の幸」を象徴しています。


笹は、孟宗竹の枝で、いわゆる群がって生えている笹ではありません。
竹は古代から、文学、美術、芸能、民具など日本人の生活とは密接な関係を
保ってきました。
中でも竹のもつ清浄さ、根強さ、節により苦難に耐え忍ぶ姿、
冬も青々とした葉を付け、更に竹林の生命の無限性、旺盛な繁殖力など、
そこに強い生命力と神秘性を感じとり、神霊が宿るとさえ信じていました。
こうした日本人の竹に対する感性が、色々な神事に笹が用いられることになり、
竹取物語のかぐや姫が、竹から生まれるのも同様の信仰から基づいたものです。
十日戎の笹も例外ではありません。
常に青々とした葉をつけているところに、「いのち」を生み出し続け、
「いのち」を常に甦らせている神秘性、その姿は、
神道の信仰そのもので、神々のご神徳によって、
日々「いのち」が甦り、生成発展している姿を象徴しています。

そして十日戎を象徴するのが、神社から授与される小宝です。
小宝は別に「吉兆」(きっきょう)と呼ばれ、
銭叺(ぜにかます)・銭袋・末広・小判・丁銀・烏帽子・臼・小槌・米俵・鯛等の縁起物を束ねたもので、
「野の幸」・「山の幸」・「海の幸」を象徴したものです。
別の言葉として「山苞」「海苞」「家苞」とも呼ばれています。
苞というのは、外からは内部が見えない簡単な容器のことで、
もともと山や海や家からの「贈り物」を入れるうつわのことでした。
「山苞」は山の神の聖なる贈り物、「海苞」は海の神の聖なる贈り物、
「家苞」は里の神の聖なる贈り物となるわけです。
これを「市」でそれぞれ交換します。
それぞれを「替える」わけです。これが「買う」という言葉になります。
この「野の幸」・「山の幸」・「海の幸」を象徴した吉兆は、
その中にこもる「御神徳」をいただく信仰を受け伝えたものです。
この吉兆を笹につけて参拝者は家路につきます。
江戸期に作られた歌謡にも次のようにその状景が歌われています。

「十日戎のうりものは、はぜ袋に取鉢、銭かます、小判に金箱、立烏帽子、米箱、小槌、たばね熨斗、笹をかたげて千鳥足」