岩手の歴史1
参考ページ➡静御前終焉の地より 北行記
源義経が生涯愛した静御前。
母は白拍子の創始者、磯禅尼(磯禅師)
である。
母は後白河法皇の寵愛を受けていたようで、静御前の父親が実は後白河法皇という説もあながち嘘とも言い切れまい。
参考資料➡静御前早池峰絶唱 著者横道廣吉
皇族の血を受け継いだと思われる静を、後白河法皇は、同じく皇族の血をひく源義経に、自ら紹介するのである。
日本の天皇家とは純血を重んじているわけでして、当然と言えば当然。義経と静の幸せを心から願っていたに違いない後白河法皇であったろうに、悲しいかな、その後の若い二人の運命や、いまだ語り継がれる程の悲恋の道。
それでも、生涯に一度でも、本気で愛せる人と、一時でも一緒に居られたことは、実は奇跡的なことであり、貴重なことであり、至福の時を経験するものであったろう。生きるとは体験することだろうから、きっとすごく生きた!という実感を義経も静も得たに違いない。
静御前の墓が、岩手県宮古市鈴久名にある。ここは、静が息を引き取った場所である。
終焉の地というわけだ。
お正月のお参りのときの青獅子のお迎え
だが、火葬し、お骨はまた別のところに移動されたようである。きっとそれは磯磯禅尼の生まれ故郷にあるはず。
そして、もう一つ、加えなくてはならない。静が自分を死んだことにした。のである。死んだことにして、宮古市鈴久名に身をひそめたどり着いたのだ。
なので、静のお墓が2か所あるいは3か所あってもおかしくはない。
亡くなった場所 宮古市鈴久名 (鈴ヶ神社)
亡くなったことを偽装した場所 宮城県 美女が池 または 香川県か?
お骨を収めた場所 香川県さぬき市 長尾寺
続く。
参考ページ➡静御前終焉の地より 北行記
源義経が生涯愛した静御前。
母は白拍子の創始者、磯禅尼(磯禅師)
である。
母は後白河法皇の寵愛を受けていたようで、静御前の父親が実は後白河法皇という説もあながち嘘とも言い切れまい。
参考資料➡静御前早池峰絶唱 著者横道廣吉
皇族の血を受け継いだと思われる静を、後白河法皇は、同じく皇族の血をひく源義経に、自ら紹介するのである。
日本の天皇家とは純血を重んじているわけでして、当然と言えば当然。義経と静の幸せを心から願っていたに違いない後白河法皇であったろうに、悲しいかな、その後の若い二人の運命や、いまだ語り継がれる程の悲恋の道。
それでも、生涯に一度でも、本気で愛せる人と、一時でも一緒に居られたことは、実は奇跡的なことであり、貴重なことであり、至福の時を経験するものであったろう。生きるとは体験することだろうから、きっとすごく生きた!という実感を義経も静も得たに違いない。
静御前の墓が、岩手県宮古市鈴久名にある。ここは、静が息を引き取った場所である。
終焉の地というわけだ。
お正月のお参りのときの青獅子のお迎え
だが、火葬し、お骨はまた別のところに移動されたようである。きっとそれは磯磯禅尼の生まれ故郷にあるはず。
そして、もう一つ、加えなくてはならない。静が自分を死んだことにした。のである。死んだことにして、宮古市鈴久名に身をひそめたどり着いたのだ。
なので、静のお墓が2か所あるいは3か所あってもおかしくはない。
亡くなった場所 宮古市鈴久名 (鈴ヶ神社)
亡くなったことを偽装した場所 宮城県 美女が池 または 香川県か?
お骨を収めた場所 香川県さぬき市 長尾寺
続く。